神の計画


神の計画 ―福音とは何か―                    

プログラム 1~4p
はじめに  5p
序     6~28p
♦日本の歴史観など様々な歴史観と、聖書の歴史観 6p
 ・様々な歴史観と日本の歴史観           
   ・聖書の歴史観。聖書には、スタートとゴール、始まりと完成がある
   ・スタートである「エデンの園」は、神の国であり楽園であった
   ・始祖であるアダムとエバは、その「エデンの園」で、神ではなくサタ   
    ンに従った
   ・それ以降の人類の歴史は、サタンと同じように「神のように」なりた
    い者たちによって導かれてきた。日本でも天皇を「現人神」と呼んだ
   ・聖書によれば、現代は「鉄」と「陶土」が入り混じった時代。「鉄」は
    全体主義、「陶土」は民主主義の国か?どちらも不完全
   ・聖書の律法にこそ、その解決がある。神主主義?
   ・しかし、人類の歴史は人の支配で終わるのではなく、「千年王国」「新   
    天新地」へと神の御介入により完成に向かう
   ※新型コロナウイルスによるパンデミックは、終末のしるしか?
   ・永遠なる神の国は、新天新地において完成する(宇宙の消滅は可能)
  ♦人の内にあるもう一つの「神の国」、玉木愛子さんの例 14p
  ♦神がこんなにも関わろうとされる、人間とは何者なのか? 15p
・様々な人間観と聖書の人間観。すなわち人は「神にかたどって」創造
    された
◆私が重要だと考える人の特徴 17p
 ①自由なる存在 17p
     ・聖書が示す自由と奴隷について
     ・神が与え、人が守ることによって幸いを得る法律、すなわち「律
      法」を守りたいのに守ることのできないイスラエル人の心の状態  
      が「罪の奴隷」
     ・しかし「罪の奴隷」であっても、心の奥底に「正しさを求める思     
      い」という自由がある
     ・そして、キリストはすべての人を「罪の奴隷」から解放し、自由
      を与えられた。それは、自分の意志によって選択する自由のこと
     ・選択とは、「霊の望」「肉の望」のどちらかを選ぶことである
・「自由意志」による選択の目的・・成人になること
     ※成長するために必要な神との関係・・「神の家族」 21p
     ・人は、この御方を感謝と喜びゆえにひれ伏し、この御方に喜  
      びと意志を持って従うことを表明するためにひれ伏す
     ・しかし、神は人に家族のような関係を求められる
     ・事実、神は人を、「養子」とし、未来の「花嫁」として家族に加え 
      られた
    ②愛の存在 24p
     ・問題は、「人は他を愛することができるか?」
     ・人は愛を受けることによって、与えることができる存在である
     ・「与える愛」は、本能の愛だけでは育たない、無条件の愛が必要。
      狼少女の例
     ・人は「無条件の愛」を受け入れる物理的要素を持っている、つま
      り人は変わり続けることができる。ポルトマンの「生理的早産説」

1、罪のない祝福された時代(創世記1:26~3:5) 28p
 ♦「神の国」の始まりと、ただ一つの規則  28p

2、罪性と不信仰が拡大してゆく時代(創世記3:7~11:9)29~37p
 ♦人は意志による選択によって、神側ではなくサタン側についてしまった29p
 ♦その結果、サタンの性質である「罪性」による支配とその正体。すなわ
  ち罪とは、「完全否定」。それに対し愛は「完全肯定」のことである 29p
 ♦きっかけとなった「善悪の知識の木」の実を食べたことによる3重の死30p
 ・「善悪を知る者」とは、一人一人が違った善悪の基準を持つ者となること
 ・「国」という大きな集団の共通ルールでも、「戦争」と言う過ちを犯す
 ・3重の死「社会的な死」「肉体的な死」「霊的な死」
 ♦「罪性」の具体的現れ。「怒り」と人類初の殺人 33p
  ※「罪性」の影響は、大人より子どもの方が強く受ける?
※人類の始祖についての疑問
 ♦「ノアの洪水」以降の更なる、罪性と不信仰の拡大 36p

3、約束の時代(創世記11:27~出エジプト19:2) 37~43p 
♦イスラエル民族の始祖「アブラハム」「イサク」「ヤコブ」の選びと一方
  的な約束 37p
 ・祝福の源アブラハム
 ・平和の信仰者イサク
・神にしがみついて離れない人ヤコブ、祝福されてイスラエルとなる
 ♦430年のエジプト滞在と約束の地カナンに向けての脱出 41p

4、律法と預言者の時代(出エジプト19:3~イエス・キリストの十字架・
復活) 43~49p
 ♦神と人類の代表として選ばれたイスラエル民族との契約、すなわち律法43p
 ・律法すなわち契約の内容、祝福あるいは呪い
 ・律法の契約は終了。しかし、他の契約(約束)は継続
  ◆イスラエル国の歴史 46p
  ※戦争について、「棕櫚の街から 千代崎秀雄著」より引用 
 ・カナンの地占領と英雄による統治
 ・王国の始まりと滅亡
 ♦律法違反により「死と災い」を招いた選民イスラエル 48p

5、赦しと恵みの時代(使徒言行録2:1~黙示録3:22)50~80p
 ♦人類の代表イスラエルの2つの功績。すなわち「律法」を守り切ることので 
  きない証明と、違反による「罪」は血によって贖うことができる証明 50p
 ♦罪を贖う者、イエス様の十字架による身代わりの死 52p
 ♦罪なき人、神の御子イエス・キリストの誕生とその生涯 53p
 ♦イエス・キリストの十字架による、2重の意味での律法完成と復活による
  保証 55p
 ♦選民イスラエルだけでなく、全人類を祝福する神の御旨とその根拠 58p
 ・異邦人にも及ぶ神の祝福の事実
 ・すべての人は神の御前に罪人であり、十字架の贖いはすべての人のためで  
  あった
 ・全人類を祝福する神の御旨とその2つの約束の言葉
♦信じることでもたらされる神の祝福 62p
 ♦神の祝福、すなわち、罪の性質からの解放と永遠の命 62p
 ・信じる事に対する2つの疑問
 ♦しかし、自由意志による選択において、再び個々人レベルで支配される可能
  性あり  65p
 ♦「従順」こそが、再び罪に支配されない方法である 67p
 ♦「従順」とは、聖霊様の導きに従おうと決心する意志のこと 68p
※選択の対象である「肉の望み」は、コントロールすべき欲望
 ♦「良心」は、「神にかたどって」創造された、かたどりの一部・霊的性質70p
 ♦良心の「弱さ」の問題と、キリストの流された血による解決 71p
  ※神は「三位一体(さんみいったい)」なる御方であると信ずる
 ♦人は「良心」に従いたいという欲求を持っている。一例マズローの「欲求5
  段階説」の6段階目による証明 73p
 ♦「善いサマリア人」のたとえ話は、「良心」に従うことの勧めでもある75p
 結論・・イエス様こそ、良心に従いたいと願っているすべての人の道であり、 
 同伴者・案内人である
♦信じる者は聖霊の働きによって成長し、イエスが様が生きたように生きるこ
  とができる。これこそ「恵みの時代」なのである 78p

6、正義の時代(黙示録4章~20:10患難時代、再臨、キリストの統治)
   80~89p
 ♦預言であり予言である、この世の終わりに起こり得る主な出来事 80p
  ※「ヨハネの黙示録」は「警告」ではない。私の勘違いした一例文 
 ♦ 7年間の「患難時代」に起こり得ることと「サタン・反キリスト・偽預言  
  者」の協力体制   83p
 ♦患難時代の目的は、選民イスラエルの救い、全世界への福音の伝達、そして 
  サタンと同じ心を持つ人たちへの「神の裁き」 86p
 ♦キリストの再臨と、キリストに統治された世界・・千年王国 88p

7、罪のない完成された、神の国(黙示録20:11~21:21最後の裁き    
  と新天新地) 89~92p
 ♦サタン + 彼らと同じ心を持つ人たちへの永遠の裁き 89p
※(神に)敵対するもの・(人を)訴えるものであるサタンの正体。
 ♦永遠の裁きⅡ  91p
 ♦神と人が共に住む、死も悲しみもない永遠の世界 91p 






    神のご計画   聖書は新共同訳を使用 
 ―福音とは何か― 日本伝道隊 相生めぐみキリスト教会牧仕 前田寿浩    
 すべての人を対象に「福音」について考えてみました。キリスト信者に対しては、問題提起。そうでない方々には「良き知らせ」として受け取ってもらえれば幸いです。
 はじめに・・私は、1985年にイエス様を信じて洗礼を受け、1992年に4年間の神学校を卒業し、牧師となりましたが、2000年に退職しました。2009年に「セルコーチング」の集会に参加し、そこで「教会の7つの本質」という伝統でもなく、教会や牧師中心でもなく、ある種の方法論でもない。いわば聖書そのものに基づく価値観に触れ、もう一度聖書から学び始めました。2011年に牧仕(牧師)に復帰させてもらってからも、「教会の7つの本質」という視点から「福音とは何か」と考え続けてきたように思います。もとより私は、キリスト教の歴史も、神学や教団教派の違いも知らない者ですが、聖書には「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と書いてあります。そこで、「すべての人」を対象に、聖書と私の体験と現代の知恵を用いて(インターネットは便利なものですね)、「福音とは何か」を第一義的には自分のためにまとめてみました。その結果、聖書は解りやすく、神の御旨に従うのは簡単であることがわかりました。なぜなら、聖書は時代や場所を超え、老若男女すべての人を対象とした本なので、そもそも難解であるはずがなく、始まりと完成があるので分かりやすいのです。また、ある聖書の箇所が理解しにくくても、別な聖書の箇所でフォローすることができます。つまり聖書は聖書によって補い合い、解釈できるようになっているのです。さらに、イエス様を信じると罪赦され、永遠の命が与えられて天国への希望が持てるだけでなく、イエス様のように人を愛し、神様の御旨に従うことができるようになるのです。また、たとえ信じていなくても(知らなくても)、良心に従うことによって祝福されるのです。
 なぜなら、良心こそ神の御旨のあらわれであり、イエス様は、人が人間らしく生きて行くための良心に従う道を開かれ、その道を歩もうとするすべての人の案内人・同伴者となってくださるからです。もちろん、このレポートが必ずしも「正しい」と言っているのではなく、これは神が提示してくださった「福音」というものに対する私のとらえ方・考え方にすぎません。ではこのレポートを書いた目的は何か?それは考えてほしいからです。いうなれば問題提起です。今の時代インターネットやテレビジョンの普及などにより、ものすごい情報量です。情報が多すぎて何が正しく、何が間違っているか判断できません。だからこそ「聖書」という普遍の情報から、自分の頭で考えてほしいのです。実際私のようなものですら何度も壁にぶつかり、考え、祈り、また考えました。このレポートを書くだけで何年もかかり、もし「コロナ禍」がなければ書き終えていなかったかもしれません。改めて、神様が人間に与えられた最高のプレゼントは「考える」ことではないかと思いました。今の時代、ともに「考える」ことができたら幸いです。  2021年12月15日

序・・
◆日本の歴史観など様々な歴史観と、聖書の歴史観
 ・様々な歴史観と日本の歴史観
 私たち人類はどのように誕生し、どのような歴史を辿り、これから何処へ向かって行こうとしているのか・・これらを知ることは知識の探求のみならず、この世界に生かされている私たちにも非常に重要な事です。例えば、主体が有徳の君主から、貴族に、更に民衆に、そして君主へと変化が繰り返される政体循環史観。現代は、人間社会のある最終形態?に向けての発展・進歩の過程とみなす直線的な進歩史観。また、人の本質は変わらないので、過去にあったことは後の時代にも繰り返される(歴史は繰り返す)、と唱えたと言われている古代ローマの歴史家クルティウス・ルフスの歴史観。さらに、歴史は人間の精神性(理性)によって発展していくと考えたヘーゲルの歴史哲学や、そうではなく物質性(経済・生産関係)を中心に発展していくと唱えたマルクスの唯物史観があります。その他にも、螺旋を描きながら発展していくという考え方や反対に衰退し滅びていくと言う考え方もあるようです。
 ちなみに今の日本の歴史観は「自虐史観」「自由主義史観」ともいわれていますが、それは第二次世界大戦の敗戦後であって、以前は違いました。日本は幕末の開国や明治以降の世界とのかかわりの中で、「大日本帝国」という名称が使用され始め、ついに1889年に制定された「大日本帝国憲法 第1章天皇」では、万世一系かつ神聖不可侵の天皇が統治することと明記していますので、本来の歴史観は《君主主権―皇国史観》となると思います(現在は、日本国憲法前文および第一条において、君主主権でなく国民主権を定め代表民主制をとっています。)。事実日本は、大和朝廷以来一度も交替は行われておらず(と言われています)、125代2700年にわたって続いており、世界唯一の単一王朝国家とも呼ばれています。この「君主主権」は「君主」という天皇・皇族、貴族などの特別な階級を作り、彼ら「貴人」を守るための侍・武士階級が必要であり、さらにそれらを支えるための一般階級が必要になってきます。それが江戸時代に鎖国をした結果、貿易や流通などの経済を無視し、特に生産者から一方的に搾取する「士農工商」という階級制度になったのではないかと思います。これら階級制度で求められるのは、与えられた役割を守り、継続していくことなので、日本人は物事や善悪を自分で判断せず、伝統や流れからはみ出さない恥の文化(菊と刀 日本文化の型 ルース・ベネディクト著 長谷川松治訳 その著書の中で、欧米人は内面的な罪意識を重視をする文化に対し日本人は外面的な人の思惑や自分の体面を重視する恥の文化であると紹介しました)が、形成されていったのかも知れません。また一般に言われる「自己主張が苦手で集団に合わせる傾向がある」という日本人の特徴の一つも長い君主主権・階級制度の結果かも知れません。その一例として、今回のコロナ禍でもマスク着用の理由が、自分を守るためでも他の人を感染させないためでもなく「みんなが着けているから(同調)」がダントツであったとの調査結果が出ています(同志社心理学部 中谷内一也教授 「フロンティアズ・イン・サイコロジー」2020・8・4発表)確かに私たち日本人には、普通であることを尊び目立つことを避ける傾向があります。「出る杭は打たれる」と言うことわざもあるように、とかく才覚のある者や、出過ぎた振る舞いをする者は妬まれ妨げられ、非難や制裁の対象になり、悲しいことに出過ぎた杭?は抜かれるのです。反対に言葉は悪いですが、障がいなどで普通?に入らない人も、その人の個性として見るのではなく、はみ出し者として排除しようとする閉鎖的な社会が、確かに今の日本にも存在しているのです。
 
 ・聖書の歴史観・聖書にはスタートとゴール、始まりと完成がある
 少し話しが逸れてしまいましたが、歴史観には様々なものがあり、その理論は複雑で私にはよく分かりませんでした。それに比べて聖書の歴史観ははっきりしており、ある面単純だと思います。つまり、分かりやすいのです。聖書には始まりがあり終わりがあり、スタートがありゴールがあります。アダムから始まった人類の歴史は滅びではなく、完成というゴールへと進んでいきます。これは人類に与えられた素晴らしい知らせ・・福音です。
 
・スタートである「エデンの園」は、神の国であり楽園であった
 聖書によると人類のスタートは「エデンの園」です。エデンとは「喜び、楽しみ、歓喜」という意味のヘブライ語が使われており、最初の人アダム(人と言う意味)のために神様が用意された場所です。そこには「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木」(創世記2:9)やアダムが名前をつけたあらゆる動物や鳥がいました(創世記2:19・20)。その頃は今よりスムーズなコミュニケーション・・もしかしたら蛇とエバのように、会話に近いことができたのかも知れません。また、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」(創世記2:15)と書いてあるようにアダムが園を管理していました。しかし、それらすべてのものを創造し支配していたのは神様なのです。ですから別の聖書の箇所ではエデンの園のことを「主の園」(創世記13:10,イザヤ51:3)、「神の園エデン」(エゼキエル31:9)とも呼んでいるのです。ではエデンの園は神の領域・天上にあったのでしょうか。あるいは象徴・神話の類なのでしょうか?そうではないと思います。場所はパレスチナより東の方ともチグリス川やユーフラテス川の源とも言われ明確に定めることはできませんが確かにこの地にあり、天になくとも神様がおられ、神の「足音」(創世記3:10)が聞こえる小さな神の王国だったのです。直接「王国」を表現するヘブライ語はないようですが、「国」を表わす「マルフー」がそれに該当し、ギリシャ語では「バシレイア」、共に「支配・統治」の概念に近い言葉です。つまり「エデンの園」は、神の側から言えば御心の行われる「神の国」であり、人の側から言えば楽園(パラダイス)であり、見える世界と見えない世界が共存する素晴らしい世界・・これも福音です。  

・始祖であるアダムとエバは、その「エデンの園」で、神ではなくサタンに従った
しかし、それが分断される事が起こりました。誘惑されたとはいえ、人は自分の意志で神の命令に背き、自分が神のようになろうとしたのです(創世記2:17、3:4~7、22)。つまり人は、神の王国にいながら神の王権を否定して、自分が王に・・一言でいえば意図的ではなく、あくまでも結果的に・・だと信じたいのですがクーデターを起こし、エデンの園から追い出されたのです。天使長ルシファーが堕天使となり、サタンと呼ばれるようになった罪と同じ罪です。否、むしろサタンが人類の王(聖書では「この世の神」(Ⅱコリント4:4)すなわち「サタンの国」を築くことによって、神への新たな反逆を企てたのかもしれません。そしてその企てはある程度成功しました。まことにまことに残念なことです。人類はサタンの奴隷になったのですから・・。ですから究極のよき知らせは、人類がもう一度神の奴隷?になることなのです。このことについては「奴隷」という言葉も含めておいおいに説明していきたいと思います。

・それ以降の人類の歴史は、サタンと同じように「神のように」なりたい者たちによって導かれてきた。日本でも天皇を「現人神」と呼んだ。
 さて、これも残念なことですが、人の「神のように」なりたいという願いは習慣・性質?として人類に受け継がれてしまったようです(当然かもしれません。人とサタンはその一点で繋がっているのですから)。そしてその後の人類の歴史は、神の御座に座ろうとする人々によって導かれたといっても過言ではないと思います。「彼の王国」(創世記10:10)と記してあるニムロドがそうであろうし、カインやその子孫レメク(創世記4:17~26)ティルスの君主(エゼキエル28:2)もそのような類の人ではないかと思います。辺境の離島、日本でも1946年(昭和21年)1月1日に官報により発布されたいわゆる「人間宣言」以前までは、天皇を「現人神(現御神)」と呼んでいたのです。人の歴史は、神のように力によって人々を支配したい者たち(真の神は愛による支配)が王となり祭司となって「帝国」を作り上げていったのです。聖書には、バビロン帝国に拉致された南王国ユダ(イスラエル)の少年ダニエルに見せた人類の歴史に関する幻が記されています。「王様、あなたは一つの像を御覧になりました。それは巨大で、異常に輝き、あなたの前に立ち、見るも恐ろしいものでした。それは頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土でできていました。見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕きました。鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ、跡形もなくなりました。その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。」(ダニエル2:31~35)と書いてあります。
 
 ・聖書によれば、現代は「鉄」と「陶土」が入り混じった時代。「鉄」は、全体主義。「陶土」は民主主義の国か?
 聖書の伝統的解釈によれば、純金の頭はバビロン帝国、銀の胸と腕がメド・ペルシァ帝国、青銅の腹と腿はギリシャ帝国、鉄のすねはローマ帝国です。足の「鉄」は帝国の流れを引き継いだ全体主義の国々、「陶土」は近年台頭してきた、今の日本も含めた民主主義(敗戦前は全体主義?)の国々かも知れません。もちろん「鉄」「陶土」というのは武力だけではなく、政治などの国の支配力の質を表していると思うのですが・・。さて「帝国」とは皇帝を中心とした寡頭政治であり権威主義です。彼らは権力も経済力ももっているのでそれらを保護、繁栄・拡大させることに力を注ぎます。それが特別優れた皇帝(君主)であればよいのですが、現実的にはそのような君主が続くのは難しく、権威だけが強まると個人や弱者を従属させる全体主義になります。そしてその主義の「~であるべき」という規範は権威をもったごく一部の者たちによって定められ、それを全体の意思として押しつけ、
国民個々の意思や自由が押しつぶされる悲惨さは今も続いています。それに対して民主主義は国民主権の中で自由を重んじます。しかし、それが国民主権ゆえに多数派の意見のみを重視したり、従わせるべき規範がないので価値観が多様化しすぎ、拮抗しているときは無論のこと多数派と少数派でも争い、善悪は別にしても今の時代は特に少数派の意見が多数派より重んじられることもあるようです。つまり平等ではないのです。神戸新聞の1面にも(2020年9月23日)「パートナーシップ制導入拡大 同姓カップルら認定1000組超」という見出しがでていました。法的効力はありませんが、同性のカップルらを婚姻に相当する関係と公的に認め、自治体独自の証明書を発行する制度です。支援団体の調査によると18日時点で2府県57市区町、今年中に10市増え、総人口の3割超(計約4025万人)が住む自治体がこの制度を導入することになるそうです。「管義偉首相は同性婚の容認には慎重な姿勢だが、団体は『拡大は民意の表れ。同性婚法制化を後押ししていきたい』としている。」とのコメントが記してありました。少数派の価値観が認められ家族が多様化していく一例です。また、民主主義は集団や他の人の権威や権利・自由を否定する間違った個人主義(利己主義)や個や経済の自由を主張しすぎるリバタリアニズム(自由至上主義)に陥りやすくなります。正直に言えば、政治体制でより良い社会を築くのには、限界があると思います。
 
 ・聖書の律法にこそ、その解決がある。神主主義?
 ではいったいどうすればよいのでしょうか?もちろん専門家ではない私にわかるはずもありませんが、「聖書」は英語で「バイブル」と言い、「本あるいは、本の中の本」という意味です。最近では「生き方の参考、人生の指針、規範」という意味にも使うそうですが、その用法はあながち間違っていないと思います。なぜなら、バイブルは「パピルス」というエジプト・ナイル川に沿岸に生える植物であり、その内皮から作られる一種の紙のことです。これは2mぐらいの高さにまっすぐ生える植物で、定規の役割を果たしたとも言います。すなわちこの植物を当てることによって、それがまっすぐか曲がっているかを判断したのです。聖書は私たち人の考え方や生き方が、まっすぐなのか曲がっているのかを判断する規範・基準なのです。ちなみにパピルスの内皮を「ビブロス」と言い、それはパピルスを輸入したフェニキア人港町の名前です。それが元になってビブリア(ギリシャ語)・・本という語ができバイブルの語源となったようです。それはさておき聖書は、大きく旧約聖書・新約聖書の2つに分かれ、この「約」というのは神様と人間の「約束・契約」のことです。その中にイスラエルの民と契約した「律法」というのが記され、この律法を守ることによって「命と幸い」(申命記30:15)が与えられると約束されています。もちろん特定の民族に与えられたものなので、他国の法律にそのまま使えるものではありませんが、イエス様は「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなただたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7:12)と言われました。俗に言う黄金律です。また、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37~40)と言われました。さらに「行って、あなたも同じようにしなさいと。」(ルカ10:37)と善いサマリア人の例えを語られました。これが創造主なる御方が、被造物である人間に与えられた律法の本質であり、また、「神は御自分にかたどって」(創世記1:27)造られたという霊的であり、自然界の生き物という肉的でもある人間に求められたあるべき姿・・善の原則なのです。マイケル・サンデルというハーバード大学教授は著書「これから『正義』の話をしよう 訳者=鬼澤忍 早川書房発行 2010年6月30日35版発行」のなかで、アリストテレスは政治の目的は善良で公正な市民を育てることであり、著者自身も共通善という個人や一部の集団にとっての善ではなく、社会全体にとっての公共的な善を示し求めることだと主張しています。私はこの共通善こそ、神が与えられた律法の目的であり、「なんぢは善にして善をおこないひまふ」(詩篇119:68文語訳)神御自身が、人類に対してなしてくださったことだと思います。私としては一部の支配者、民の代表者、あるいは何らかのかたちで民全体が参加する政治体制も大切ですが、神が示し見せてくださった共通善を求めて、一人一人が生き方を変えるほうがより平和で、豊かな社会を築いていけるのではないかと思います。

・しかし、人類の歴史は人の支配で終わるのではなく、「千年王国」「新天新地」へと
神の御介入により、完成へと向かう
さて、話を戻しますが、そうなると一部が鉄で一部が陶土の足は、先ほども書いたように現代にあたるのでしょうか。確かに今は全体主義と民主主義の国が入り交じった世界なのです。そして人手によらない一つの石とはキリストの再臨のことを指します。多くの国でお祝いされているクリスマスは、イエス・キリストの「初臨」とも言い、それから2千年以上経ちましたが、聖書は人間の歴史の延長線上にゴールがあると言っていません。人ではなく百%神の御業であるイエス・キリストの「再臨」によって「千年王国」「新天新地」というゴールへと続くのです。もしかしたら「千年王国」とは「エデンの園」が回復した姿なのかもしれません。以下はその預言です。
「狼は小羊と共に宿り/ 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/ 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/ その子らは共に伏し/ 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/ 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/ 大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11:6~9)
「そこには、もはや若死にする者も/ 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。彼らは家を建てて住み/ ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/ 彼らが植えたものを/ 他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり/ わたしに選ばれた者らは/ 彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく/ 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に/主に祝福された者の一族となる。彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え/ まだ語りかけている間に、聞き届ける。狼と小羊は共に草をはみ/ 獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/ わたしの聖なる山のどこにおいても/ 害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。」(イザヤ65:20~25)
「千年王国」は、再臨のキリストによって「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(創世記1:26)との御言葉が成就し、被造物と人間の関係が回復した真に平和な世界ではないでしょうか。本来この祝福の御言葉は、人によってエデンの園で成されるべきものでした。しかし、人はエデンの園から追放され・・それでも神から託された人類の役割は残ったのです。

 ※新型コロナウイルスによるパンデミックは、終末のしるしか?
 もしかしたら、最近の新型コロナウイルスによるパンデミックも被造物との関係?が悪くなった結果かも知れません。「被造物との関係」と言うと少し奇異に聞こえるかも知れませんが、聖書には人を中心とした3種類の関係、すなわち神と人、人と人、人と自然(人以外のすべての被造物)が記されています。特に重要な「神と人」との関係については後で触れるとしても、自然の関係においては一方的な支配や搾取ではなく、神から委託された自然を正しく管理し、生かしていくことが御旨であると思います。さてイエス様は世界の終わりの予兆として、3つの関係の壊れた状態を預言されました。以下は人と自然の関係です。「そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」(ルカ21:10・11)と。実際に疫病というものの一端を体験して「この状態がいつまで続くのだろうか」という先の見えない不安感やいつ自分が感染するかわからない、また知らず人に移すかも知れない等という不安感が病気というより災害に近いという感覚を持ちましたが、もちろんこの新型コロナウイルスの蔓延が終末の徴だと
言っているわけではありません。事実過去にはもっと恐ろしいウイルスが流行しました。天然痘は、古代エジプト王のラムセス5世のミイラからも発見され、最初の記録はヒッタイトとエジプト戦争の頃にあるそうです。また、インカ帝国の滅亡は、スペイン人の征服ではなく、この天然痘による大流行が原因であるとも言われています。麻疹(はしか)はBC3千年前に中近東地域で記録され、ペスト(黒死病)?によってギリシアのアテナイはBC5世紀に没落し、AD6世紀には東ローマ帝国の征服事業を阻みました。、アレクサンダー大王は32歳でマラリヤに倒れ、ローマ帝国の崩壊の一原因は天然痘、赤痢、マラリヤ、腸チフスなどの疫病だと言われています。ヨーロッパでは、ペスト、コレラ、結核が大流行し、近年では第一次世界大戦中にスペインインフルエンザ(スペイン風邪)が流行り、世界中でなんと4~5千万人もの命が奪われ、日本でも42%以上の人が感染、45万人が亡くなったといわれています。これらのウイルスに比べたら、新型コロナウイルス自体はそれほど恐ろしいものではないかも知れません。事実8割の方が特別な治療をしなくても治り、症状も風邪とほとんど変わらないと言われていますが、2割の方が重症化、重篤化し、また、人から人に移ることによってウイルスが変化し、毒性や感染力が高くなる変異株もあるので油断はできませんが、いたずらに恐怖で縛られる必要はないと思います。ただ、この疫病ほど注目され、世界の在り方を変えたウイルスは今までにないと思いますので、これを機に今一度人類の役割を自覚し、慢心を悔い改め、良い管理者になれるように人類としても個人としても、神様に導きを求めていかなければならない必要を感じました。これは疫病に対する消極的な面です。積極的な面では、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイ24:13・14)と書いてあります。愛が冷えるので、愛に生きようとするクリスチャンは憎まれ、迫害されます。その中でもイエス様は、肉の命よりも大切な命を守ってくださるのです。さらに「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われましたし、聖書にも「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ4:18)と書いてあります。そして、疫病も迫害も、神様の御ゆるしの中で行われているので、このような苦難をとおしてでも神様の御業である福音が、御計画によって全世界に宣べ伝えられるのです。今回のコロナ禍においても、相生市のある兵庫県を含めた4都道府県に4月25日から第3回目の緊急事態宣言が出され、5月23日には10都道府県になり6月20日まで再々延長されました。コロナ禍の法的処置を決して不法とは言いませんが現実はそれに近いものがあり、集まったり会食することも制限され、閉じ込められている気がします。2千年前のエルサレムで起こった迫害では散らされました。しかし、「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリヤの地方に散って言った。・・さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」(使徒8:1~4)と書いてあるように、迫害によって福音が広がっていったのです。先日団体の教師会で、オンラインによるメッセージを聞きました。中国の方でしたが、2019年は迫害、2020年疫病によるロックダウン。その当時立てていた宣教計画が全部無駄になったそうです。しかし、オンラインによる祈祷から始まり、オフラインと併用した学びや宣教で福音が地域や領域に拡大しているそうです。私たちの小さな教会でもボイスレコーダーで録音し、CDに焼いて、来ていない教会員に届けたり、YouTubeに録画したものを載せようとしています(デジタルが苦手なので苦戦中です)。メッセージを大勢で共有しながら、セルや家の教会などの小グループで実践する・・世界宣教が現実味を帯びて来たように思います。 
 
 ・永遠なる神の国は、新天新地において完成する(宇宙の消滅は可能)
 さて、今一度千年王国に話を戻しますが、「千年王国」は「エデンの園」がこの地上にあったように今の地球にあります。しかし人類の最終ゴールである「新天新地」はそうでは
ありません。以下は新天新地の預言です。
 「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」(黙示録21:1)この聖書の言葉を字句どおり解釈すると、今の宇宙や地球が消滅し、新しい宇宙と地球が誕生することになります。他の箇所にも「すべてものは、衣のように古び廃れる。あなたが外套のように巻くと、これらのものは、衣のように変わってしまう。」(ヘブライ1:11・12) さらに、「しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、・・その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(Ⅱペトロ3:7、12・13)と書いてあります。可能なのでしょうか?「神にできないことは何一つない。」(ルカ1:37)と書いてあるのでもちろん可能なのでしょうが、少なくともこの宇宙を消滅させ
ることは理論上可能だそうです。例えば・・神様がこのような方法を使われるというわけではありませんが、物質(粒子)と反物質(反粒子)を衝突させれば、対消滅という現象が起こり、全ての物はエネルギーを放出して爆発するのではなく、文字通り静かに消えてしまいます。しかも、反物質を作るのはそんなに難しくなく雷などの自然現象によっても生成され、今は実用化を目指して研究が進められているそうです。科学が進歩することはある面恐ろしいことですが、聖書の預言がまた一歩、現実に近くなったのかも知れません。
 それはそれとして「新天新地」は、エデンの園で始まった神の国が、見えない世界と見える世界が完全に一つになり、永遠に続くゴールなのです(「千年王国」はその名が示す通り、期間限定であり永遠ではありません)。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3・4)と書いてある通りです。ゴールは「完結」ですから、「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙示録22:18・19)・・とも書いてあります。この警告は「ヨハネの黙示録」に関することですが、広い意味では聖書全体を指します。エバは蛇に誘惑されたとはいえ、神様の言葉に「触れてもいけない」と付け加え、「死んではいけないから」(創世記3:3)と「必ず」という言葉を取り去りました。私たちはもう2度と始祖たちの過ちを繰り返してはならないのです。御言葉の解釈や
背景の説明などは実践するために必要ですが、御言葉以上になっても以下になってもいけないと思います。「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」(黙示録22:21)が最後の聖書の御言葉です。すべての人がイエス様(神様)の成してくださった「その恵み」を受け取ることこそが聖書の目的です。時代や文化や宗教を超えたすべて人が対象ですから「恵み」は複雑なはずがなく、年代にも制限がないので子どもやお年寄りにも受け取れる単純なもののはずです。これからその「恵み」について聖書から学んでみたいと思いますが、その前に神の国についてもう少し考えてみたいと思います。
 
◆人の内にあるもう一つの「神の国」、玉木愛子さんの例
 なぜなら、ここにもう一つの神の国があるからです。神の国というと現在の「イスラエル国」を思い浮かべるかもしれません。確かにイスラエルは神の選びの民であり、古い契約も新しい契約も結んだ唯一の国ですし、契約という点では聖書はまさに契約・約束の書であり、神はイスラエルと直接契約を結ばれたのです。また、イスラエル人の始祖アブラハム(アラブ人の始祖でもある)は「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。」(創世記17:7)と書いてあるように契約を結ばれその関係は永遠に続き、契約を守ったときも破ったときも神様の御存在と尊い御性質を表わす証人ならぬ証国となるのです。そしてその契約の延長線上に、神様が救い主「イエス(名前で神は救いであると言う意味)・キリスト(職名で油注がれた者・・救世主という意味)」をお送り下さいました。そのイエス様が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と宣言して下さり、さらに「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:15)と言われたのです。この時から行いによって契約を守るのではなく、イスラエルとは別に信じ受け入れることによって人の内に始まる神の国・御国(みくに)ができたのです。
 俳人であり執筆家である玉木愛子さん(1887~1969年)もその一人ではないでしょうか。彼女は大阪の裕福な材木問屋に生まれ、幼い頃から舞踊、琴、三味線を習います。しかし、4歳の時、愛子さんを可愛がってくれた工員からハンセン病をうつされてしまったのです。症状が出て女学校の時に自宅寮養生活に入り、その後熊本の回春病院、岡山県の長島愛生園に転園します。34歳でクリスチャンになりますが、病気が進行し右足を切断、視力も失っていきます。ハンセン病はらい菌による慢性の感染症です。直接命にかかわることはありませんが、感染によって神経が侵され、体そのものが朽ちていくような病気です。今では良い薬がありもう恐ろしい病気とは言えませんが、当時はその病状ゆえに忌み嫌われ、社会的にも差別され、法的にも隔離されてきました。まったく、理不尽としか言いようがありません。病気に侵されさえしなければ、才色兼備で希望に満ちた素晴らしい将来が待っていた玉木愛子さんには、生きていること自体がいかほど辛く苦しかったことでしょうか。それでも、喜びと希望は失われなかったと言われています。ここに玉木愛子さんが残した一首があります。
「毛虫匍へり蝶と化る日を夢見つ」
 自句自解・・「私はある日夢を見ていました。私の前には醜い毛虫と美しい蝶々がとんでおります。私は子供の時から鼠の子を見ても、金ブンブンが肩に止まってもおびえたものでした。毛虫にいたっては、全身に泡が生ずる程嫌いな虫でした。その毛虫が私にささやきました。「お前は目のある頃私を非常に嫌った、その嫌う私の姿がお前なのだ。私だって好きで人に嫌われる毛虫になったのではない。今は葉桜の陰でウヨウヨしながら、たまに足を踏み外して道行く人のうなじに止まる事もあるが、私が今暫く嫌われる使命を果たしていると繭が出来、蛹という名に変わると、次ぎには人も喜び自分も甘い露を吸い、香りの高い花から花へと移り変わって、楽しい美しい蝶と化る日が巡って来るのだ。嬉しいではないか、今暫くの辛抱だ」毛虫の声はここで切れた。」(玉木愛子著 わがいのち わがうた 絶望から感謝へ 新地書房1986年11月20日第一版発行)・・私たちは神様から離れた存在として生まれてきます。しかし神様は私を見捨てられず、時至って御介入され、私たちを永遠へと伴ってくださるのです。私はまさにここに、内なる「神の国」があると思いました。
まとめると人類の歴史は人だけの歴史ではなく、神様が人と共に始められ、人類が離れた後も見捨てられず、時至って直接御介入され、人類だけでなく管理すべき被造物をも完成(永遠)へと導かれるのです。そしてそれは人類という集合体だけではなく、「わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎ」ない(ヤコブ4:14)私たち一個人にもこの地上で「義認(罪が赦され、神の御前に義と認められること)、新生(神の子として新しく生まれ変わること)」と言う恵み(受ける資格のない者が受ける祝福)を通して永遠(完成)へと人類に対してと同じ熱情?をもって導かれるのです。さてこれから「福音(喜ばしい、よい知らせ)」・・人類の歴史を通して神様が、すべての人に受け取ってほしいと願っている「主イエスの恵み」(黙示録22:21)について述べていきたいと思いますが、その前に神様がこんなにも心に留められる人とはどの様な存在なのか?人間観という大仰なことではなく、私が大切だと思う2つの性質と神様が求めておられる関係について考えてみたいと思います。もしかしたら前述した歴史観は人間観とも関わりがあるのかもしれません。

◆神がこんなにも関わろうとされる、人間とは何者なのか?
・様々な人間観と聖書の人間観。すなわち人は「神にかたどって」創造された
さて、人は弱いけど尊い存在として「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。」(パンセ)との言葉を残したブレーズ・パスカル(1623~1662)や自分を含め世界の全ての存在が虚偽だとしても、そのように意識している自分自身は存在している「我思う、ゆえに我あり」と言ったルネ・デカルト(1596~1650)。その他にも
「人間は理性的動物なり。」(セネカ『ルキリウスへの書簡』)、
「人間とは、道具を使う動物である。」(カーライル『衣裳哲学』)、
「人間とは、われわれが食物と称するものを供給すると、思想と称せられるものを生産する機械である。」(インガソル『神々』)、
「人間とは、自分の運命を支配する自由な者のことである。」(マルクス『経済と哲学』)、「人間はすべて善でもあり、悪でもある。極端はほとんどなく、すべて中途半端だ。」(ポ         
―プ『人間論』)、
「人間とは『世の中』自身であるとともにまた世の中における『人』である。」(和辻哲朗『人間の学としての倫理学』)、
「人間は神がつくったということは僕は信じられない。神がつくったものとしては人間は無情すぎ、不完全すぎる。しかし自然が生んだとしたら、あまりに傑作すぎるように思うのだ。」(武者小路実篤『人生論』)、
「人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである。」(サルトル『実存主義はヒューマニズムである』)、
「人間は誕生の瞬間から支配するか、もしくは支配されるか運命づけられる。」(アリストテレス『政治学』)
「個人とは、全人類の究極である。」(ウナムノ『人生の悲壮感』)
「すべての定義が失敗するほど、人間は幅広く、多岐多様なものである。」(シェラー『宇宙における人間の地位』)・・以上です。
つまり人間は、自分たちのことを完全に定義することができないというのが結論でしょ
うか。そうなると私たちは、やはり主体ではなく依存存在、創造主に対する被造物となるのかもしれません。それはともかくとして、聖書では「神は御自身にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記1:27)と書いてあります。「かたどって」の意味には様々な解釈がありますが、神様は人の外面ではなく内面(知性・・頭脳の働き、・感情・・心の動き、・意志・・内面の力、決断する力。これらの心の働きは他の動物より優れていますが、人間の独自性は理性、創造性、道徳性や霊性等にあると思います)を御自身に似たものとして造られたのです。ですから、創造の最後
に人を造られ、それぞれに秩序・役割を与えられたときに「見よ、それは極めて良かった。」(創世記1:31)と言われたのです。ですから人類の代表として選ばれたイスラエルの民に、神様は「わたしの目にあなたは価高く、貴く/ わたしはあなたを愛し・・彼らは、皆わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/ 形づくり、完成した者。」(イザヤ43:4、7)と言って下さるのです・・私事ですが、イエス様の栄光を表してほしいという願いを込めて、息子に「栄一」という名を付けました。・・聖書によれば、人は被造物の頂点に立つ王であり、神様と交流でき、神の栄光を現すことのできる価値ある特別な存在なのです。
 
◆私が重要だと考える人の特徴
 ①自由なる存在
 ・聖書が示す自由と奴隷について
 その中で特に私が重要だと考える人の特徴は、「自由」です。「自由なんて当たり前だろう。俺は自分のことは自分で決めてるよ。」という人も多いと思いますが、「自由意志と決定論」が科学と哲学の世界で議論され続け、まだ結論が出ていないのです。説としては、他からの強制、支配、拘束などを受けないで、自らの意志で自由に言行の選択が出来る能力があるという説(自由肯定主義)。そのような意志は幻想で、人の言行は受け継いだ本能、気質とその後の環境や経験によって形成された性格によって決定される・・すなわち意志ではなく、遺伝と脳によって機械的に決定されるという決定論。そしてその両方が成立するという両立論の大きく3説があるようです。
議論は議論として、聖書には「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)と書いてあります。この「自由」は「奴隷」に対する「自由人」のことです。奴隷には選択の余地がありませんが(奴隷制度を肯定しているのではありません)、自由人には自分で考えて決定し、それに基づいて言行し、その結果に責任を持つという権利・義務が保障されているのです。この時代には、悲しい事ですが「奴隷」と呼ばれる人々がいました・・あってはならないことですが、確かにこの時代には他人に対して生殺与奪の権利を持つ者がいたのです。しかし、聖書は奴隷である彼らに向かっても「自由がある」と言っているのです。ですから、この箇所で触れているのは、社会制度などの外面ではなく人の内面です。つまり「奴隷」というのは直接的には、律法に縛られ自由がないという心の状態のことです。

・神が与え、人が守ることによって幸いを得る法律、すなわち「律法」を守りたいのに守ることのできない、イスラエル人の心の状態が「罪の奴隷」
本来「法」とは何々してはいけない、何々しなければならないという人の理性を共有化し可視化したルールのことですから、それで守られていると感じる人もいれば、縛られていると感じる人もいるのは当然のことですが、法がなければ個人、大抵は権力者が自分の意思を法と偽って(無法状態)他人を縛ることになります。ですから法とは本来人に自由を与えるものなのに、それが奴隷状態になるのは律法を与えられたイスラエル人に問題があると考えるのが当然ですが、そもそも律法とは神の教えであり、神との関係の維持や戒め・・一言でいえば人が「幸いを得る」(申命記10:12・13)ために、創造主である神が与えたイスラエル人の取扱説明書のようなものです。しかし、律法にはもう一つ目的ありました。それは「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。」(ローマ7:7)と書いてあるように、イスラエル人の罪を明らかにするためであり、そしてその罪こそが、善いものである律法を守れない本当の理由なのです。聖書には「罪の奴隷」(ヨハネ8:34、ローマ6:20)という言葉もあるように、それは単に律法違反の罪というだけの意味ではありません。そもそも「奴隷」とは人間としての名誉、権利、自由が認められず、他人の所有物とされている人のことですし、すべては所有者の責任なのです。もっとも聖書には、一口に「奴隷」と言っても、自由の奴隷あるいは愛の僕という概念があります。「もし、その奴隷が、『わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません』と明言する場合は・・」(出エジプト21:5)という箇所が根拠です。彼らは主人を愛し、自分の意志で100%仕えることを選んで主人の所有物になり、主人もまた自分の意志で受け入れ、所有物として100%彼を守る義務を負うのです。つまり、レポート8pの「神の奴隷」とは神様を主人として、自由の奴隷あるいは愛の僕というこのような生き方を選んだ人のことで、後で出てくるイエス様の母マリアもそのような生き方を選んだ一人です。日本には「奴隷制度」がないので理解しにくいかもしれませんが、しいて言えば1898~1947年まで明治憲法の民法下において制定された家制度などはそれに近いものがありました。「家」は戸主(こしゅ)と家族から構成され、戸主である家長に「家」の統率権限を与えた制度です。もちろん「家」という概念は上流階級においてずいぶん以前からありましたが、江戸時代の儒教の浸透とともに武士階級に定着しました。それが明治時代以降、天皇の統率権の末端の組織として位置づけされたのです。それで本来、役割の違いはあっても助け合う場であった「家」において階級が出来たのです。まず家長である戸主に、財産も決定権も、従わない家族を除籍する権限さえ与えられました。次の地位は次期戸主である長男です。続いて長男の予備である次男三男となり、その下に娘たちが続きます。最下層が嫁で彼女の実質的立場は、奴隷です。家事はもちろんのこと、すべての雑用の義務が課せられるのです。特に農業や漁業など家業のある家に嫁いだ嫁の悲惨さは筆舌に尽くし難いものがあったそうです。現在も妻が夫のことを「主人」と呼ぶのはその名残かもしれません。2020年6月にも、浮気が発覚し、「この度は、主人の無自覚な行動により多くの方々を不快な気持ちにさせてしまい…」と謝罪コメントした30代芸能人妻の夫の呼び方が話題になっていました。また、武士の別名である「侍」という漢字は、従うを意味する侍ふ(さぶらふ)に由来し、もともとは武芸とは関係なく、貴人や身分の高い人のそばに付き従い、仕える人たちのことで、「神の奴隷」という感覚に近いものがあったと思います。
 
 ・しかし「罪の奴隷」であっても、奥底に「正しさを求める思い」という自由がある
 さて「罪の奴隷」というのは、聖書の言葉によれば「種々の情欲と快楽のとりこ」(テトス3:3)になっている精神の状態であり、サタンに支配されているので、選択の余地がないという「決定論」と似ているかもしれません。つまり、「罪の奴隷」とは、神に反逆し滅びゆくものとなったサタンに支配され、奴隷となっている状態のことです。サタンと同じ罪を犯したからです。もう一度はっきり言いますが、サタンの奴隷・・これが私たち人類の姿なのです。しかし、奴隷といえども人間でなくなったわけではなく、体は支配されていても心まで支配されていないように、サタンに支配されていて選択する自由はなくても、正しさを思うだけの自由はあるのです。そしてここで言う自由とは心の奥底に埋もれながらも紛れもなく存在する、言わば神が与えらえた本質的な自由のことで、支配、強制、束縛、欲望、快楽などの外部に対して解放や満たしなどの変化や結果をもたらす手段としての選択の自由のことではありません。少し難しい言い方になっていますが、「本質的自由」とは外部からの影響の全くない、自分の内部だけで完結する自由のことです。内部だけで完結するので、その自由は手段ではなく目的であらねばなりません。目的そのものなので、少し乱暴な言い方になりますが、選択・実行において外部の影響下にある結果はまったく価値がなく、単純に正しさを求める「思い」こそ絶対的価値のあるものなのです。「正しさを求める思い」・・もしかしたら「良心」と呼ばれるものかもしれませんが,この「思い」こそ罪の奴隷状態の中でも持ち続けている選択できる自由なのです。

 ・そして、キリストはすべての人を「罪の奴隷」から解放し、自由を与えられた。それは、自分の意志によって選択する自由のこと。
 そして、神様は心の奥底に正しき思いを持ちながらもサタンに支配され、そのことに自覚と痛みを覚えてるそのような人に個々に接触してくださったのではないでしょうか。それが聖書の中では「エノク」(創世記5:21)であり、ノア(創世記6:8)であり、神の選びの民となったイスラエルの始祖アブラム(アブラハム創世記12:1)かも知れません。預言者イザヤも「するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」(イザヤ6:7)と体験したことを記しています。イエス様も中風の人に罪の赦しを宣言されました。「屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。『神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』イエスは、彼らの 考えを知って、お答えになった。『何を心の中で考えているのか。【あなたの罪は赦された】と言うのと、【起きて歩け】と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』」(ルカ5:19~24)と言われたのです。罪を赦すとは、創造主なる神が、被造物である人類に、また個々の内に与えられた規則に違反して罪を犯した時、罰や課された責務などから免除してそれらの束縛から自由にし、また罪を神に対する負債とした場合、それを帳消しにすることです。神様は、そのようにして個々において自由を与えてくださっていたのです。しかし、時至ってしかも「罪を赦す権威」を用いずに罪なき人イエス・キリストとして、罪の奴隷となっている私たち人類の身代わりとなって罪の罰を受けてくださり、すべての人を罪の支配から解放し自由を与えてくださったのです。もちろんそれは何をしても許されるという自由ではなく、自分の意志で自分の言行を選ぶことができる、選択の自由のことです。
 
 ・選択とは、「霊の望」「肉の望」のどちらかを選ぶことである
 では私たち人間は、与えられたこの自由意志によって何を選択しますか?その選択肢はけっして多くありません。否、2つだけです。聖書では「霊の望、肉の望」(ガラテヤ5:17)と記しています。霊の望みは愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。それに反し肉の望みは姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴などなど。善VS悪とも呼ぶべき、人の内側にある相反する2つの性質です。時々アニメなどで心の象徴として天使と悪魔、どちらの声に耳を傾けるか迷っている自分?と3者が出てきますが、人の心の状態を表すのにあながち間違っていないと思います。ただ注意しなければならないのは、「罪の奴隷」であった時には、ある面何をしても責任は主人であるサタンにあって自分にはありませんが、解放された今は責任は自分にあるのであり、「霊の望」を選べば神の祝福がありますが、「肉の望」を選べば罪となりその責任は自分が取らなければなりません。「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(ガラテヤ6:7・8)と書いてあるとおりです。確かに人はキリスト・イエスによって罪の性質、あるいはサタンという主人から解放されましたが、この「肉の望」を通して、もう一度人の(人類ではありません)主人になろうとしているのかもしれません。「だから、しっかりしなさい。奴隷にの軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)と言われたのです。
 結論です。「この自由を得させるために」の「自由」とは、自分の内にある2つの性質を自分の意志で自由に選択できる自由=自由意志のことであり、キリストなる御方が自由を与え、創造主であってもあえて侵されない保証された自由なのです。

・「自由意志」による選択の目的・・成人になること
ではなぜこの「自由意志」による選択がそんなに大切なのでしょうか?それはこの「自由意志」による決定によって初めて人は、他のせいではなく自分の言行に責任を持つことができるからです。あらゆることを「他責」にしていては、赤子のように依存状態になり精神的成長は望めなくなります。そのような状態を打破するために自由意志によって選択し、その結果に責任を持つことによって自立に向けての第一歩となるのです。もっとも自己責任の意識が強すぎると、「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(ガラテヤ6:7)と聖書の1文だけを取り出し、「因果応報の法則・・善因善果、悪因悪果」的な解釈をして、自分を責め(加害者意識)あるいは当然の結果だと傲慢になり、次第に孤立状態になっていく可能性があります。そうではなく6:2節に「互いに重荷を担いなさい。」と書いてあるように、「自責」と「他責」を分け、一つのチームとして互いの責任を負いあう・・例えばオーケストラやプロのサッカーチームのように、ただボールを追いかけるのではなく自分のポジションの責任を果たしながら、チームとして勝利を目指す「相互責任」が成長した心の姿なのです。チームとして相互責任を果たすためには、自分との関係において自立するだけではなく、他者との関係において自分をコントロールする自律が必要になってきます。つまり、心は「自由意志における選択」によって依存から自立、さらに他者とのチームワークを可能にする自律(コントロール)に成長していくからです。私たち人は体だけでなく心も、赤子から子ども、大人へと成長していく必要があると思います。聖書にも「それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」(コロサイ1:28新改訳)と書いてあります。

※成長するために必要な神との関係・・「神の家族」
では、心が成長するのは関係、特に人とのどのような関係が必要なのでしょうか?私は、神様が人と人に対して望んでおられる関係もそうですが、まず神様と人との関係について考えてみたいと思います。なぜなら私は、神様との関係が基本となって人と人の正しい関係が成り立つと考えているからです。
始めに言っておきますが、それは決して欲や保身のために無条件でひれ伏すような、主従関係ではないと思います。むしろこのような関係は「もしひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタイ4:9)と言ったサタンが望んでいることではないでしょうか?確かにサタンは人を欲望や権力によって強制的に従えさせることを望んでいると思います。それはまた、この世の力でもあります。例えば「陛下」は皇帝や国王など君主に対する最高尊称の一つで、日本では天皇陛下・皇后陛下等と用いられています。そしてこの「陛」とは宮殿の階段のことで、階段の下にいる近侍を通さないと尊敬の対象に呼び掛けることすら出来ないことを表わし、文字通り「御方」という存在の前にひれ伏すことを求めたのです。ここに「ひれ伏さない」と言う選択肢はありません。   

・人は、この御方を感謝と喜びゆえにひれ伏し、また、この御方に喜びと意志を持って従うことを表明するためにひれ伏すのです
では聖書にはそのような表現がないかと言えば「アブラムはひれ伏した。(創世記17:3)、立っていた民が「ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。」(ネヘミヤ8:6)、「わたしたちを造られた方/ 主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。」(詩編95:6)、「四つの生き物は『アーメン』と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。」(黙示録5:14)など、創世記から黙示録まで記されています。では同じようにひれ伏しているのに何が違うのでしょうか?一つは対象です。彼らは、善悪ではなく権力・金(物)・欲望(快楽)などを得るために拝みますが、「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1)と聖書の一番初めに書いてあるように、私たちは創造主なる御方を拝むのです。天地万物を造られ、私たち人間を造られた方に感謝と喜びを捧げるために、私たちは拝むのです。 
もう一つは動機です。礼拝とはひれ伏して拝むだけでなく、仕えることでもあります。この世は、権力によって人を支配し服従を強いますが、神様は、権威によって自分の意志で喜んで従う者を求めておられるのです。権力は立場などの対するいわば外からの力で、権威は過去の実績などの内からの力です。四つの生き物(最高位の天使でケルビム)と長老たちがひれ伏して礼拝する前に、「神」と言う立場だからではなくその理由が書いてあります。すなわち「天使たちは大声でこう言った。『屠られた小羊は、/ 力、富、知恵、威力、/ 誉れ、栄光、そして賛美を/ 受けるにふさわしい方です。」(黙示録5:12)と、「屠られた小羊」については後で説明しますが、神であり人であるイエス・キリストのことです。私たちはこの御方が、創造主であることと、私たちの助けるために多大な、言葉では表せないほどの大きな犠牲を払ってくださったゆえにひれ伏すのです。

・しかし、神は人に家族のような関係を求められる
では神様も以上のような、「ひれ伏され、ひれ伏す」という主縦の関係を求めておられるのでしょうか?そうではないと思います。神様が人に求めておられる関係とは、お互いを敬い、愛し合う家族のような横でありながら、明確な親・子という秩序のある関係であり、ひれ伏すという形ではなく、従いたいという心を求めておられると思います。なぜなら自由意志によって従うという行為は敬愛の情がなくては成立せず、そして人間社会の中で最も敬愛を必要とするのは家族の関係だと思い、この家族こそ人間社会の基盤となると私は思っているからです。事実、神様は私たち人に「アッバ、父よ」(ガラテヤ4:6)と呼ぶことをお許しになったのです。「アッバ父」とはアラム語で「父ちゃん」と言う意味になるそうです。
 さて「家族」とは、夫婦を始め、血縁関係者などを中心に構成された共同体で、社会の基本となる単位のことです。聖書にも次のように書いてあります。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。・・夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。・・いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。・・子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。・・父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(エフェソ5:21~6:4) このような家族的な愛の関係は、キリストに従おうとしている私たちにも求められています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34) また、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです」(フィリピ2:3~5)、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(コロサイ3:12・13)・・と書いてあるとおりです。さらに「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」(使徒言行録4:32~35)という初代教会の共同生活の中にもその片鱗が見られると思います。以上のように聖書は私たちに「家族的」な関係を求めているのだと思います。
 
 ・それは神と、本当の家族になること
 では、神様は神を中心とした「家族的」な関係を求めておられるのでしょうか?確かにイエス様は「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母
である。」(マタイ12:50)と言われ、また「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えられた。」(ヨハネ1:12)、更に「御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」(ロマ8:29)、「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソ1:5)、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」(Ⅰヨハネ3:1)・・御言葉どおり受け取ると、私たち人は神の家族、神様の子どもになれるのです。そうなると神の家族の構成は、一位格である神様が父(両親)で、二位格である、御子なる神様が長男で、信じ御心を行う人々が神の子とされ弟・妹になるのでしょうか。そうなると素晴らしいことに全ての人が神様の直接の子であって、子の子である孫はいないということです。
 ところで三位格であられる御霊様はどこに位置づけられるのでしょうか?もう一つ疑問が残ります。「神の家族」は「神の家族的」ではなく、本当の家族なのでしょうか?考えなければならないのは、神と人では存在レベルが違いすぎるこという点です。「家族的」なら、以前ペットとして飼っていた犬も、「前田シモン」で家族のように保健所に登録されていま
した。確かに家族のように大切にしていたし、かわいがっていたと思います。事情があって家内の実家で預かってもらっていた時には、悲しみと共に罪悪感さえ覚えていました。それでも法的には家族ではありません。人と犬では血縁のような物理的つながりがないからです。まして神様と人間では、人と犬以上の差、実際に「恐れるな、虫けらのようなヤコブよ」(イザヤ41:14)と言われるぐらいの差、それどころか「わたしはある」(出エジプト3:14)という自存存在なる御方と依存存在の人、「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13)言われる永遠なる御方と「『わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。』こうして、人の一生は120年となった。」(創世記6:3)と、命に限りある人間・・月並みな例えでは「月とすっぽん」、実際はそれ以上の差があると思います。しかし、聖書には「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり・・」(エフェソ2:18・19)と書いてあるのです。特に「神の家族」とは字句どおりの意味なのでしょうか。もしそうであるなら、私たち人と神様とどのようなつながりがあるのでしょうか?
 
 ・事実、神は人を「養子」とし、未来の「花嫁」として家族に加えられた
 聖書の別な箇所には「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)と書いてあります。「水と霊」とは「聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」(テトス3:5)とも書いてあるように汚れを洗い落とす象徴としての「水」と「霊」とは聖霊様のことで、この御方によっていずれは朽ちる肉の命とは別に、永遠の命ともいうべき滅びることのない霊の命が与えられるのです。そして「一つ霊に結ばれて」とは、イスラエル人とその他の外国人である両者が(聖書はイスラエル国を中心に書かれているので、すべての人のことです)、  聖霊様が与えてくださった同じ霊の命によって、物理的に?聖なる神につながるもの‥すなわち、まことに恐れ多いことですが、霊の命によって生まれた私たち人間は、霊である神様とあたかも同じ種族?のように見なされるのです。「同じ種族」であれば血縁がなくても養子として家族の一員になることが可能になります。実際に「特別養子縁組制度」を用いて他人を、家族に迎え入れている人もいるのです。確かに私たちは被造物に過ぎませんが、聖霊様が与えてくださる霊の命によってあたかもキリストと同じ神の子として・・もちろん養子としてですが、神の家族の一員として迎え入れてくださるのです。まさに血より濃い、霊的ではなく、文字通りの霊のつながりです。ですから「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、」(ヘブライ2:11)と言われたのです。
それだけではありません。この御方は、虫けらのような存在にすぎない私を「御子の姿に似たものに・・」(ローマ8:29)成長させてくださり、さらに私たちを一つの群れ・教会(ギリシア語でエクレシア)として、頭なるキリストの御心を聴いて行う体として成長させてくださるのです(エフェソ1:22・23、2:21,コロサイ2:19)。そして終わりの時にキリストの「花嫁」(黙示録19:5~8,21:2)として、改めて神の家族に迎え入れてくださるのです。つまり私たち人間は、常識ではとても考えられないことですが、養子と花嫁という2重の意味で神の家族となるのです。

②愛の存在
 ・問題は「人は他を愛することができるか?」
 さて、「自由」と共に私が重要だと考えるもう一つの人間の特性は「愛の存在である」ということです。先程から述べている「自由」にしても、「神の家族」という関係にしても「愛」が重要な位置を占めていると思います。以下は神様の愛の一例です。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることのなく慈しみを注ぐ。」(エレミヤ31:3)「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)と書いてあります。神様は私たち人を、愛してくださいました。また、「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」(ヤコブ4:5・6)とも書いてあります。もし創造主から与えられたのが「自由」だけであれば、始祖の選択の結果である「死」によって(創世記2:17 参照)、人類の歴史は始まったとたんに終わっていたかもしれません。しかし、神様は私たちを「わたしの目にあなたは価高く、貴く/ わたしはあなたを愛し」(イザヤ43:4)と言ってくださり、更にイエス様を通して子どもとしても愛して下っているのです。ですからどんな失敗や間違いをしても、決して見捨てられることはありません。問題は私たち人が「愛することができるのか?」です。
 
 ・人は愛を受けることによって、与えることができる存在である
 もちろん私たちは愛することもできます。「あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と書いてあるとおり、私たちは神様も人間同士でも愛することが出来るでしょう。しかし、その前提として「わたしがあなたがたを愛したように」と書いてあるのです。他の人はわかりませんが、私が神様のように人を愛するなんて絶対に無理です。それは神様御自身が保証してくださいました。私がイエス様を信じて間もない頃ですが、恩師である牧師に連れられて他の青年たちと一緒に韓国に行きました。そしてそこである問題を起こして自責の念に駆られ牧師に祈ってもらっていたとき、神様から「愛だよ。お前には愛がないんだよ」と言われたのです。ショックでした。東京に出てくる前は「精神薄弱者更生施設(当時の名称)」で働いており、時々ですが「親切」「優しい」と言われました。ですから自分に愛が豊かにあるとは思っていませんが、愛がないなどと思ったことがありませんでした。それが選りに選って創造主なる御方から立派に?保証されたのです。振り返ってみれば、確かに私には神様のような愛は一欠片もないように思います。もしかしたら私の愛は純粋なものではなく欲望であったり、執着であったり、依存だったのかもしれません。しかし、神様は私が何か善い行いをしたからではなく、私の存在そのものを愛しておられました。そのことを知ったとき、いまだかつて味わったことのない平安と、これこそが求めていた愛だと分かりました。「求めていた」と言うことは、かつて私がそのような愛を経験した、あるいはそのような愛を受け入れるスペースがあることになります。では、それはどの様な愛でしょうか?神様の愛に一番近いのは親の、特に母親の一体感ともいうべき我が子に対する愛・・私はまだ母親になった経験がないのでイメージするしかありませんが、文字通り十月十日自分の胎内で育てた子どもに対する愛。ただ大声で泣き、寝て、乳を飲み排泄するだけの何の役にも立たない赤子。しかし、なんの見返りを求めず、ただその子の必要を満たし、あらゆる危険から守り、ひたすらお世話をしようとする母の姿。その内にある思いこそ「無償の愛」「無条件の愛」だと言われています。母の愛なら私も経験者です。聖書では、このような愛のことをとくに「アガペー(ギリシャ語)=神の愛」と記しています。心理学博士、臨床心理士である古宮氏によると「自分のことをただありのままに受け入れ、理解し、大切にしてくれる愛情のことです。」となります。そして古宮氏によればこの愛のよって子どもが成長し、大人であってもこの愛を受けることによって変わること(成長)が出来るそうです(参照「はじめての傾聴術」古宮昇著ナツメ社50~53p56・57p)。・・その意味では人は、死ぬ瞬間まで変わることができ、やり直すことが可能なのです。そうなると人間は、「愛を受けることによって(愛されることによって)愛を与える存在」であると言えると思います。確かに聖書にも「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して・・ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)と、まず神様の愛を受けることが大切だと書いてあります。それでは人と言う存在は、アガペーの愛を受けることなくして与えることができないのでしょうか?

 ・「与える愛」は、本能の愛だけでは育たない、無条件の愛が必要。狼少女の例
 確かに近年、「愛着障害」という母親などから子が受けるべき無条件の愛が不足することによって(母親だけの責任ではないと思います)、自分に自信がなく、いつも見捨てられるのではないかとの不安にさいなまれ(基本的信頼感の欠如・・アメリカの発達心理学者 エリク・ホーンブルガ・エリクソン1902~1994年が提唱した概念)、対人関係において人との距離がつかめないなどの障がいが増えてきているそうです。そもそも「愛着」とは、主に乳幼児期の子どもと母親をはじめとする養育者との間で築かれる心理的な結びつきのことで、人が内に愛を形づくる始まりであり、情緒や行動、社会性などが成長するための土台になるとも言われています。以前「オオカミ少女」とよばれた子どもたちがいました(信憑性について議論があります)。1920年10月17日、インドのジャングルで子オオカミと共に2人の少女が保護?され、子どもたちを守ろうとした母オオカミは、かわいそうに矢で射抜かれてしまいました。その後、シング牧師によってミドナプール孤児院で、他の孤児と共に育てられ、カマラ、アマラと名付けられました。年少のアマラは次の年に亡くなってしまいましたが、カマラは1929年まで生き、シング夫人の指示に従い親愛の情を示したり、2本足で立ち言葉も少し話せるようになりますが、いわゆる人間らしさは見いだせなかったそうです(参照「野生児の記録1 狼に育てられた子」J.A.L.シング著 中野善達・清水知子訳 福村出版)。・・少女たちはオオカミと比べて成長が遅く、狩りも下手だったでしょう。それでも母オオカミは養い育て、いろんな危険から守るのです。これも一種の愛情でしょうが(新聞には、養育者の虐待や放置、遺棄などの記事が後を絶ちません。母オオカミにも劣る人間とは何者なのでしょうか)、このような心の結びつきや絆のない本能的?な愛では、人間性は育たないのでしょうか。やはり人は、アガペーの愛を受けることによって、アガペーの愛を与える存在なるのではないかと思います。

・人は「無条件の愛」を受け入れる物理的要素を持っている。つまり人は変わり続けることができる。ボルトマンの「生理的早産説」
さてこの2人の少女のことを思うと、とても不思議な気がします。彼女らはオオカミに育てられることによって、いわゆる人間離れしたオオカミのような能力や感覚があったそうですが、反対に人がオオカミを育ててもせいぜい人になれるだけで、オオカミ離れをして人間のようにはなりません。それはペットを飼っている多くの人が体験していることではないかと思います。実に不思議です。
スイスの生物学者アドルフ・ポルトマン(1897~1982)は、このような人間の特性について「生理的早産説」を唱えました。人の誕生時の状態は、他の哺乳動物と比べると1年早く生まれてくるので「生理的早産」と呼び、乳児期を「子宮外胎児」と位置づけたのです。つまり、他の哺乳類は母胎内でほぼ完成して生まれてくるので、強くはあっても質的変化は望めません。しかし人は母胎内から未熟な状態で生まれてくるので、一年近く歩くことができないほど弱くても・・この弱さ=柔らかさが周りの環境を吸収し、完成に向けて強くたくましく質的変化をしていくのです。確かに人間は他の動物に比べて弱く未熟な存在かもしれません。しかし、未熟ゆえにどのような者にもなれる可能性があり「地に満ちて地を従わせよ。」(創世記1:28)と神様が言われたとおり、どのような環境の中でも生きて行くことができ、新たな環境を作り出すことも可能なのです。その未熟さ(弱さ)がまた「本能の愛=エロース(ギリシャ語)聖書では使われていません」にはない、アガペーの愛を受け入れ、それを人(自分も含む)に与えていく・・すなわち「愛されることによって愛する」質的変化をもたらす可能性を生むのではないでしょうか。
 さて、これから私が述べようとしているのは、聖書全般から人類であり個人である人間の救いの計画=福音です。ただ知っていてほしいのは、それが喜ばしい「健やかな成長の計画」ではなく、人類の選択による「死」(創世記1:17)から、神の一方的な愛による「救いの計画」(創世記3:15)であると言うことです。この救いを実行に移さなければならなくなった神様の嘆き・・非常に人間的な言い方で大変失礼だと思いますが、放蕩息子のような、頑固で自分勝手な子を持った親の悲しみや苦しみが此処にあると思います。私たちは道から外れた子どもを、できるものなら力ずくでも戻したいと考えますが、その力がありません。神様はもちろんそのお力を持っておられますが、人の自由を損なうような強制的な関わりを持たれないようにしておられると思います。そして歴史を変えるほどの深い関わりを持たれるときは、神としてではなく人として人と関わって下さいました。人を変えるのではなく、御自身が変わることによって初めて直接的に人と関わって下さったのです。聖書はそのことが愛であると言っています。そして最終的には人類の王として、救いを完成して下さるのです・・自存存在であり創造主なる御方が依存存在であり被造物に過ぎない私たち人間の王になって下さる。これこそが福音であり、「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」(黙示録22:21)の言葉が続くのです。それでは聖書を通して、福音の内容を見ていきましょう。

1、罪のない祝福された時代(創世記1:26~3:5)
◆「神の国」の始まりと、ただ一つの規則
「神は愛だからです」(Ⅰヨハネ4:8) 神は存在そのものが愛ゆえに愛する対象を求められました。そしてその対象が人類であり、始祖アダムとエバなのです。神様は御自身と交流ができるように、「我々に似せて、人を造」り(創世記1:26)、「命の息を吹き入れられた」(創世記2:7)のです。創造の最後に人を作られた神様は「お造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1:31)と喜ばれ、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創世記1:28)と祝福されたのです。更に神は、赤子にゆりかごやベビールームを用意するように、始祖たちに特別に囲まれた場所・・エデンの園を与えられました。そこには植物や動物を含めた麗しい自然との調和があり、男女の助け合う素晴らしい愛の関係があり、神様がそこにおられました。なんと麗しく、調和のとれた美しい世界でしょうか。ここがまさに「神の国」、「神の国」の始まりです。
 この世界で、神様は彼らに1つの規則を与えられました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」(創世記2:16・17) それには守るに易く、破れば命に関わる厳しい罰則が科せられていました。1本の木以外のすべての実を食べることが許され、満ち足りていた彼らには破る必要がありませんし、理性で判断すると神様への裏切りと、罰則の重さから破ってはならないものでした。では、通常破るはずのない規則が定められた目的は何でしょうか?もちろん神様にお聞きしないと分からないことですが、私は親や保護者が自分の言葉で幼子に善悪を教えるように(善悪を判断させるのではなく)、神様の言葉を善、それに反することを悪として、自分の意志で神様の言葉に従うことを求められたのではないかと思います。強いられてではなく自分の自由意志で規則を守ることにより、人は自立への第一歩を踏み出すのではないでしょうか。もしそうであるならば、人類はこのエデンの園で幼児期を過ごし、行動範囲が広がるにつれ、そこを出て「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創世記1:28)との祝福されたとおり、被造物を管理する能力と責任を負い、神と人、人と人、人と自然と良い関係を保ちながら全世界へと拡がり、全世界が神の国化していったのではないかとおもいます。そのような人類の「健やかな成長の計画」?が進んでいったらどんなに良かったか・・。そこには父なる神様の悲しみも、イエス様の十字架の犠牲も必要ありません。しかし、神様が与えられた「自由」にはもう一つの面がありました。そこに蛇が「誘惑するもの」として、声を掛けてきたのです。
 
2、罪性と不信仰が拡大してゆく時代(創世記3:7~11:9)
 ◆人は意志による選択によって、神側ではなくサタン側についてしまった
 誘惑に会うこと自体は罪ではありません。イエス様も誘惑に会われました(マタイ4:1~11)。しかし、「女が見ると」(6)と書いてあるように、彼女は心を動かされてしまったのです。聖書にある「肉の欲、目の欲、生活のおごり」(Ⅰヨハネ2:16)のようなものだったのかもしれません。エバは悲しいことに神様の言葉より(彼女は正しく捉えていませんでした)、自分の欲の声に耳を傾けてしまったのです。その結果、禁則の木の実を食べるという間違いを犯してしまい、更に彼女はアダムにもその実を食べることを求めました。エバは自分の自由意志によって、神に従うより、自分の欲に従う事を選んだわけですが、エバが意識していたかどうかわかりませんが一緒にいたアダムに木の実を渡すことによって、結果的に自分(エバ)を選ぶか、神様を選ぶかを迫ってしまったのです(ここでもう助け合う愛の関係が崩れていました)。そして彼は自分の、ある面恐ろしい自由意志によってエバを選びました。その結果彼らは「神の顔を避けて」(創世記3:8)隠れるようになったのです。しかし神様は「どこにいるのか。」(創世記3:9)と御声をかけてくださいました。神様は誤った方向に行こうとする彼らを、正しい方向に戻そうとされたのかもしれません。しかし、彼らは自分の罪を認めて悔い改め(もう一度神の側に立つこと)たのではなく、心を頑なにして悪いのは自分ではなく「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」、であり、「蛇がだましたので、」(創世記3:12・13)と、いわゆる人類初の責任転嫁をしたのです。神様はどんなにか悲しい思いをされたことでしょう。人は伸ばされた神様の御手を払いのけ、神様に背を向けることによって自分の立ち位置、すなわち神様への反逆を決定的にしてしまったのです。始祖アダムとエバにはそこまでの意識はなかったと思いますが、彼らは神の側を離れ堕天使であるサタンと同じ側に立ったのです。善き意志・愛性が神様の御性質とすれば・・神様の御性格をたかが一被造物に過ぎない人間の、しかも限定された言葉で表現するのはなはだ失礼なことだと思いますが、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらたたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリント13:4~7)と書かれているように愛はすべてを肯定し、すべてを生かそうとするその一点においてのみ、神様の御性質の一部だと思うのですが・・、もしそうだとすると、悪しき意志・罪性がサタンの性質になります。そしてその影響がもう表れ始めたのです。麗しい関係を保っていた(創世記2:21~25)彼らのなんという変わりようでしょうか。それでも神様は動物の命を犠牲にして、裸の恥を覆うために彼らに皮衣を着せられました。これが世界最初の犠牲であり、神様はそれを御自分の御手で、反逆しサタンの側についた人のために行われたのです。

◆その結果、サタンの性質である「罪性」による支配と、その正体。すなわち罪とは、「完全否定」。それに対し愛は「完全肯定」のことである
では「悪しき意志」あるいは「罪性」とはいったいなんなのでしょうか?彼女が誘惑するものに耳を傾けた結果、自分の欲望の声に耳を傾けるようになり(創世記3:6)、自分の欲望中心・・自己中心に生きていくという生き方を選びます(アダムも同じです。自己中心が、自分は悪くない。悪いのは女であり、それを与えられた神様だと暗に言う「責任転嫁」を生んだのです)。さらに神への反抗と憎しみゆえに神様が愛された自分自身を憎み、自己破壊へ誘う・・この自己破壊はその性質上、自己の破壊だけに収まらず、自爆テロや無差別テロのように他の人を巻き込んで最大限に破壊の効果を上げようとするのです。それだけではありません。神様は聖(レビ11:44、Ⅰサム6:20)であり、義(詩篇50:6、ヘブル1:9)であり、善(詩篇119:68、Ⅲヨハネ11)であり、真実(申命記32:4、ロマ3:3)なる御方です。ところが人はその幼稚じみた反抗のゆえに「聖」や「義」、「善」や「真実」を嫌い「汚れ」や「不正」、「悪」や「偽」を好むのです。まとめると欲に引かれる自己中心だけでなく、神が愛された自分を破壊しようとする自己破壊、さらに神が創られたすべての善きものを嫌い、否、憎み、悪しきものを愛する性質・・罪の性質・悪しき意志。これがキリスト教用語で言う「原罪」です。それを一言で言い換えれば否定です。他人を否定し、自分を否定し、すべての善きものを否定する。完全否定こそ原罪の正体なのです。否定は何も生まず、あるのは破壊と死だけです。そしてこの性質こそサタンの性質であり、サタンの側についた人類はこの性質に次第に支配されてゆき、サタンの奴隷となったのです。このようにサタンに従う生き方を選んでしまった彼らをエデンの園に置いておくことはできません。神様は彼らを追い出されました(創世記3:23)。
 
 ◆きっかけとなった「善悪の知識の木」の実を食べたことによる3重の死
 ・「善悪を知る者」とは、一人一人が違った善悪の基準を持つ者となること
 では「食べると必ず死んでしまう」(創世記2:17)と言われた罰則はどうなったのでしょうか?その通りに実行されました。もちろん神様が危険な物を園の中に置かれるはずがないので、「善悪の知識の木」(創世記2:17)の実は一般的にいう「毒」ではなく、むしろ「知識」・・口語訳聖書では「善悪を『知る木』」と書いてあるように、その成分が人間の脳のある部分に良い影響を与えるものではなかったかと思われます。ではなぜ食べてはいけなかったのでしょうか。これも想像するしかありませんが、この「知識」は後には有用になっても、生まれたばかり人類にとってまだ使いこなすことのできないものではなかったかと思われます。確かに人はこの実を食べる事によって「目は開け、自分たちが裸であることを知り」(創世記3:7)、神は「人は我々の1人のように、善悪を知る者となった」(創世記3:22)と言われました。しかし知るだけで、「善」を行う力も、「悪」を止めることも出来なかったらどうなるのでしょうか。それこそパウロのように「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか」と(ローマ7:19~24)叫ばずにはおれなくなります。しかもこの「善悪を知る」知識は自分の内から出てくるのです。言わば一人一人が違った善悪の物差しを持っており、一人一人が「自分は正しい」と主張するのです。
 
 ・「国」という大きな集団の共通ルールでも、「戦争」と言う過ちを犯す
 もちろん個人ではなくより大きな集団になることにより、共通のルールができそれに従うことによって混乱も少なくなるでしょうが、歴史をひも解く時、国あるいは超大国と呼ばれる一番大きな集団であっても過ちは犯すのです。国が過ちを犯すとき、この過ちを正当化するために法が作られ、法の力であり番人である軍隊や警察の活動が活発になり、これを継続させるために個の考えを認めない全体教育が強います。少し前に日本でもこのようなことが行なわれていました。1889年に公布された大日本帝国憲法(1947年の日本国憲法施行まで一度も改正されていません)第20条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」・・国民皆兵の義務により、子どもにも軍事面での全体教育が広く行なわれるようになり、特に日中戦争(1937年)からはその傾向が強くなりました。国民学校(1941~47年 国民学校令により戦争教育を目的として新しく作られた学校で、初等科6年・高等科2年体制だった)は、子どもたちを「少国民」と呼び、兵隊になって御国(おくに)のために戦い、りっぱに死ぬことを目的とした鍛錬の場であったと言われています。以下は少国民の教育のために作られた歌です。

勝ち抜く僕等少国民 1945年    作詞 上村数馬 作曲 橋本国彦 
勝ち抜く僕等少国民  天皇陛下の御為に  死ねと教えた父母の
赤い血潮を受け継いで  心に決死の白襷  掛けて勇んで突撃だ

必勝祈願の朝詣  八幡様の神前で  木刀振って真剣に
敵を百千斬り斃す  力をつけて見せますと  今朝も祈りを込めて来た

僕等の身体に込めてある  弾は肉弾大和魂  不沈を誇る敵艦も
一発必中体当たり  見事轟沈させて見る  飛行機位は何のその

今日増産の帰り道  皆で摘んだ花束を  英霊室に供へたら
次は君等だ分かったか  しっかりやれよ頼んだと  胸に響いた神の声

後に続くよ僕達が  君は海軍予科練に  僕は陸軍若鷲に
やがて大空飛び越えて  敵の本土の空高く  日の丸の旗立てるのだ

これはもう平和でなく争いであり、友好関係でなく敵対関係です。もしこのような状態で「命の木」からも取って食べ「永遠に生きる者」(創世記3:22)となったら、まさに生きることは「苦しみ」以外のなにものでもなくなるのではないかと思います。
 
 ・3重の死「社会的な死」「肉体的な死」「霊的な死」
 少し話がずれてしまいましたが、確かに人類は死んだのです。人が自分の意志で規則を破ってサタンの側についたとき、自然との麗しい調和が崩れて敵対するものとなり(創世記3:17・18)、助け合う人間同士の愛の関係が崩れてアダムがエバに、エバが蛇に責任をなすりつけ、互いを支配しようとする関係になり(創世記3:16)、その結果、貧困、差別、争いが絶えなくなりました。これが「社会的な死」です。そして、人類は「命の木」(創世記3:24)が象徴するように、「永遠に生きる者」(創世記3:22)ではなく、寿命が尽きるまでの僅かの間?この地上で生きているだけの、「そして死んだ」(創世記5:5)と記されているように、たとえ現在の10倍以上生きていたとしても、死に向かって生きる死にゆく者になっていまいました。これが「肉体的な死」なのです。
 《この「長寿」についていくつかの説があるようですが、私は「ノアの洪水」前の環境が大きく変わったことに起因していると思っています。創世記1章7節に「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けられた。」という記述があり、「この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開けれた。」(創世記6:11)と書いてあります。そうなると大空の下の水は地下水脈で泉のように湧きあがり、大空の上の水は水蒸気層のように空を覆うものにとなると思います。そうであるとすれば地球全体が今のビニールハウスかガラス室みたいなもので、紫外線などの有害物質が防がれ、気温も一定に保たれ、それゆえ嵐も起こらず、また、地を痛めるような激しい雨も降らない。現在の地球よりかなり良い環境であったと想像できます。そのような良い環境ではトマトやナスでも木のように育ち、数か月ではなく数年育ち続けることができるので、他の木々はそびえ立ち、爬虫類は巨大になり、人間を含めた哺乳類も驚くほど長生きしたのではないかと想像できます。》
 そして神との関係が断たれました。敵対するものとなったからです。(創世記3:8~24)特にこの事を「霊的な死」といいますが、聖書に「主なる神は、土(アダマ)に塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)と書いてあります。ヘブル語では「息」は「霊(聖なる神の霊)」(ネシャーマー)とも訳されており、聖書によると人は神から与えられた命である神の霊によって「生きる者」となったことになります。ここが他の生き物と違うところです。しかし、人は神との関係が断たれ、人を最も人らしくさせていた本質的生命ともいうべきものを失ったのです。このことが人にとって最も大きな死かも知れません。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから。」(創世記6:3)と書いてあるとおりです。即ち人は規則を破った結果、神様の言われたとおり社会的な死・肉体的な死・霊的な死の3重の死を受けたのです。 
 
 ◆「罪性」の具体的現れ。「怒り」と人類初の殺人
 しかし、神様はアダムとエバを見捨てられたのではありません。彼らは多くのものを失いましたが、「神にかたどって・・神のかたち」(創世記1:27)、あるいは「命の息」(創世記2:6)を不完全なかたちではあるが内に残されました。不完全とは、人は肉体(物質的部分)と心・魂(知性・感情・意志などの部分)と霊(神のかたち・・聖、義、善、真実などの神の御性質の反映・・や、命の息・・人間独自の本質的生命であり、聖霊様を宿す場)で構成されていますが、この「霊」の部分が神様との断絶によって、その機能を十分に・・否ほとんど発揮できなくなりました。しかし、神様はキリストにあって、今一度再創造の御業を成してくださるのです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)と書いてあるとおりです。
 さて、アダムとエバはエデンの園を離れ、自分たちの地で自分たちだけで生活を始めました。もちろんそこに神様の御臨在はありませんが、彼らは自分たちのしたことを後悔し、もう一度神様のおられるエデンの園に帰ることを望んでいたのではないかと思われます。だから最初の子「カイン」を産んだ時、「わたしは主によって男子を得た」(創世記4:1)
と言ったのです(弟アベルとは、息=霊・命の意味で、神様との関係を創造の初めからやり直したかったのかもしれません。創世記2:7参照)。そのような思いが息子たちに伝わり、主への「献げ物」(創世記4:3)という行為になったのです。神様はこのような両親の思いと両親から教えられた神の知識に従って生きるように望まれたのだと思います。しかし、神様が弟アベルの献げ物にだけ目を留められたのでカインは激しく怒り、神様から怒り続けると罪を犯すことになる「主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。』」(創世記4:6・7)と指摘されてもその怒りを抑えることができませんでした・・否、支配しようと思えばできたのにしたくなかったのです。確かに怒りを支配する、つまりコントロールすることは容易なことではないかもしれません。私も怒りをコントロールできずに爆発させることが時々・・恥ずかしいことですが多々あります。この世には私同様「怒り」に悩まされている人が多くいるようで、それをコントロールするための「アンガーマネジメント」という講習会がよく開かれているそうです。あくまでもコントロールであって、「怒り」そのものを否定しているのではなく、この講習会においては「怒り」は第二次感情に分類され、不安、苦しい、寂しいなどの第一次感情を伝える手段になるそうです。また、オーストリア出身のユダヤ人、精神科医、心理学者であるアルフレッド・アドラー(1870~1937)も、感情を「感覚的感情」「気分」「情動」の3つに分類し、「情動」である喜怒哀楽を中心にした、短く激しい感情をコントロール可能としました。特に私たちにとって実害?の大きい「怒り」については、怒りとは二次感情であり、大きく分けて「権利擁護、支配、主導権争い、正義感の発揮」の4つの目的達成のために使う手段になると主張しています。どちらにしても、「怒り」は、手段だからこそコントロールすることも可能になり、「怒りグセ」をつけないためにも脳の「前頭葉」を働かせる習慣をつけることが大切です。
 しかし、カインは神様の言葉に従わず、怒り続けることを選択した結果・・結局は妬みだったのでしょうか?理不尽にも弟アベルを殺してこの土地から追放されてしまいました(創世記4:8~12)。そしてその子孫が文明を築きましたが、それらは欲望と死に満ちたもの・・この世の力は「金力(物力)、権力、暴力、欲望(快楽)」だと言われています・・になりました(創世記4:19~24)。カインとその子孫は「怒り」ではなく、「人」を支配しようとしましたが、もしかしたらそれが「王」と呼ばれる者たちの特性かもしれん。それはともかくとして、その後アダムとエバから生まれた3番目の息子、セトとその子は神様を求め始め(創世記4:26 参照)、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5:24)とエノクのように生者のまま天に移された例もありますが、やはり罪の支配に打ち勝つことができず、罪性とその結果である行いは拡大し続けたのです。
 
 ※「罪性」は大人より子どもに現れやすい?
 さて、聖書に一つの記述があります。それは「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ」(創世記5:1)と書いてあるのに対し、「アダムは・・自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた」(創世記5:3)と書いてあります。その違いは「罪の性質」に支配されているか、否かではないでしょうか。人類の始祖アダムが「罪の性質」に支配されて以来、それが遺伝のようにしてすべての子孫に伝わったのです。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)とも書いてあるのです。ですから神様の御目から見るとき、実際に今、罪を犯していようがいまいが、生まれたての赤子であろうが、すでに罪の性質に支配されている罪人であり、この性質の管理下
に置かれているかぎり罪を犯してしまうのです。聖書に「わたしは咎のうちに産み落とされ/ 母がわたしを身ごもったときも/ わたしは罪のうちにあったのです。」(詩篇51:7)と書いてあり、また「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」(ローマ3:23)と書いてあるとおりです。これは私の個人的なただの感想ですが、罪の性質は大人より子ども・・特に幼い子どもたちに強く反映しているように思います。「子どもは天使のようにかわいい」と言い、間違いなくその通りです。聖書にも「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天国で一番偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ18:2~5)と書いてあります。イエス様は、子どもの謙遜さと素直さを認められたのです。しかし、アリを夢中になって踏みつぶしたり、バッタの頭や脚を楽しんでもいだり・・思慮分別がなく、無邪気ゆえに無垢な残酷性を持つのも子どもなのです。「子どもたちが屠殺ごっこをした話」(グリム童話)、「スレドニ・ヴァシゥター」「贖罪」(サキ傑作選 ハルキ文庫)等の童話や短篇集の中にもそのような子どもたちの姿が出てきます。人の罪とイエス様の愛を説き続けた作家三浦綾子(1922~99)も、「新約聖書入門 1984年11月20日初版 2010年2月25日34刷発行 光文社文庫」に次のような文章を載せています。
 「もう七、八年も前のことだが、次のような事件があった。まだ三、四歳の幼い子が、いけにおぼれている友だちを見つけて、急いで親に知らせた。駆け付けた親によって、おぼれた子は助けられ、一命をとりとめることができた。新聞はこれを取り上げ、助けた子供は大きな玩具などを買ってもらって喜んだ。その子は誰に会っても、「えらいえらい」とほめられた。が、しばらく経つと、幼な子の生活はもとの平凡な生活にかえった。その子は再びほめられたくなった。そしてある日、近所の小さな子を池に突き落とし、再び急を大人に告げた。しかしこの時、突き落とされた子供は、哀れにも死んでしまった。 この事件を知った時、私は非常な恐ろしさを感じた。自分がほめられるためには、人を池に突き落としてもかまわない。そうした思いが、まだ西も東もわからない幼い時から、人間の胸の中に巣食っている。とすれば、われわれ大人の胸の中には『人にほめられたい』『人に認められたい』『人によく思われたい』という思いが、根を張り、幹が育ち、もはや、なんとしても、抜きがたいほどに成長しているのではないか。そう思って私は、この事件について家人と語り合ったものであった。50p」
 私は西も東も分からない、分別のない幼な子だからこそ「罪の性質」に強く支配されているのではないかと思います。私はあたかも遺伝のようにして、生まれた時から人を支配している「罪の性質」を考えると、罪の意識の全くないといっていいほど薄い子どもたちに、それは罪だと教え、罪を意識させることが成長した大人の責任だと考えています。そしてこの罪から解放してくださった方がおられることを、ぜひ伝えたいと願っています。

 ※人類の始祖についての疑問
 さて、神は「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」(創世記6:5)ついに全世界に及ぶ洪水を起こされ、人類を一掃されたのです(創世記7:17~24)。ここで一つの疑問が出てきました。ノアを含めた8人以外は一掃されたので、その子孫である私たちに直接的な影響はないかもしれませんが、単純な質問です。アダム以外に人類と呼ばれる人々はいなかったのでしょうか?私は、聖書は他の人類の存在を否定していないと思います(私の戯言です。聞き流してください)。神様がアダムにエバを娶わせられた時、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記11:24)と書いてあり、「最初に造られた人」と呼ばれていません。また、カインが罪を犯して追放された時、彼らが始祖であるならこの地上に3人しか人間がいないはずなのに「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」(創世記4:14)と恐れ、神様も「カインに出会う者がだれも彼を撃つことの無いように、カインにしるしを付けられた」(創世記4:15)のです。神様はまだ肉食を許されていないので、人を食う獣でもないでしょう(創世記9:3~11)。さらにカインは妻を娶り、「町を建て」た(創世記4:17)とあります。また、「神の子ら」「人の娘」(創世記6:2)と対比して書いてある箇所もあります。それにはいくつかの説があるようですが、私は「神の子ら」とは「天使」(マタイ22:30)のことではなく、神の「霊」を与えられたアダムの全ての子孫(カインの子孫も含む)のことであり、「人の娘」とは「土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2:7)と書いてあるように、「命の息」を吹き入れられていない土の人、地の民?のことではないかと思います。もちろん彼らは「泥人形」ではありませんが、聖書の言う「人」でもないと思います。その意味ではやはり「私たちの始祖はアダム」なのでしょう。それはそれとして神様は「霊」を持つアダムの子孫が、「霊」を持たない地の民?に良い影響を与えることを期待されたと思いますが、「人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした」(創世記6:2)と記してあるように、自分の人生に大きな影響を与える伴侶を選ぶ規準が、信仰や愛や心ではなく「美しさ」を第一にし、相手の選択より自分の選びを強調しているので、逆に悪い影響を受けたのではないでしょうか?さらに「神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、」(創世記6:4)と記されているように、その後「妻(結婚)」という慣習すら無視して、自分たちの欲望のままに行動した姿がここにあると思います。彼らは神から与えられた「霊」をもつ「神の子ら」としての立場も使命も忘れてしまったのかもしれません。私たちの先祖ながら自分の欲望や誘惑に弱く、情けなく思いますが、もしかしたら罪の性質に支配されたアダム以降のすべての人の内にあり、もちろん私の内にもある人の性質なのかもしれません。

◆「ノアの洪水」以降の更なる罪性と不信仰の拡大
話を戻しますが、神様は大洪水によって人類を一掃されました。しかし、これで人類や動物たちが滅ぼされたわけではありません。神はセトの子孫であるノアとその妻、3人の息子とその嫁の8人と箱舟にいる動物たちをその滅びの中より救われ、彼らに更新された祝福と規則を与えられました(この規則は以前のように違反した者を神が罰するのではなく、規則によって人が人を罰する現代の法律のようなもので、責任を分担し人がその責任を全うすることにより自立するその一歩ではないかと思います)。また「洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」と一方的に約束して下さいました(創世記9:1~17)。それが、虹の契約です。「虹」はケシェトというヘブライ語で弓をも表し、武器である弓を置くことにより神様は人との敵対ではなく平和を示されたのです。そして再び「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。」(創世記6:11)のような状態になったとき神様は、人を滅ぼす洪水ではなく人を生かす命の水としてイエス・キリストを送られたのです(ヨハネ4:15)。また、この契約は神様が人や地を管理するのではなく、人々が地の管理者として責任を持つことを表しています。すなわち神様は、ノアを信頼されこの地を委ねられたのです。ノアやそれに続く人々が信頼に足りるからではありません。ノアもその息子も失敗しましたが(創世記9:18~27)、それでも神様は信頼してくださいました。また、神様はノアの子孫から人類を興すことで、一つの言葉、共通の規則によって連帯感を生み出し、励まし助け合うことによる「一致の力」で「罪の性質の支配」から解放されることを期待されたのではないかと思います。つまり、「一致」というプラスの力で、罪の性質と言うマイナスの力に打ち勝つことを願われたのかもしれません。しかし、彼らがその一致の力でしたことは、神への不信仰と明らかな反逆のしるしである一つの塔・・神様が介入できないように自分たちのために自分たちの塔を建てたことでした(創世記11:1~4)。彼らは・・私たちの先祖は、マイナスの力にさらにマイナスを加えたのです。そこで「主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ」(創世記11:9)と書いてあるように 神様は介入され、彼らを全地に散らされました(創世記11:8)。これがバベルの町の塔の出来事です。
人は互いの善意を信じられず、言葉が通じないことで相手のことを悪くしか受け取ることしかできなくなったのです。疑り、不信、神様に対しての「不信仰」もまた罪性の表われ、アダム以後、受け継いだ人の性質かもしれません。このようにして、この時代は、罪性と不信仰が拡大していった堕落の時代とも呼べると思います。 

3、約束の時代(創世記11:27~出エジプト19:2)
◆イスラエル民族の始祖「アブラハム」「イサク」「ヤコブ」の選びと一方的な約束
  ・祝福の源アブラハム
 神様は、「罪性と不信仰が拡大していった堕落の時代」のただなかで、一人の人アブハラム(アブラム)を選ばれ、特別な約束をなさいました。彼の子孫に神の示される地カナンを与え(創世記12:7)、「大いなる国民にし」、また「祝福の源となるように。」(創世記12:2) さらに、彼やその子孫であるイスラエル人を通して「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」(創世記12:3)と約束されたのです。これが神様が人に約束された基本であり、ある面すべてです。後の約束は補足に過ぎないと言っても過言ではないかも知れません・・アブラハムが無名でまだ子も無く、一坪の土地も持っていないときにです。この約束を受けるための条件は、約束を信じて故郷を離れ神が「示す地」に行くことでした。確かにアブラハムは神様の言葉のみを信じて故郷カルデアを離れ、親族と別れてカナンの地に来ました。それは素晴らしいことで唯一の条件を満たしました。しかし、この地に留まらなければならなかったのに、彼は飢饉で一度はカナンを離れてエジプトに行き(創世記12:10)、二度目は一応カナンですがエジプトへの中継地点ゲラル(創世記20:1)まで下ったのです。放っておけばエジプトに行ったかもしれません。しかし神様の御介入でそうはなりませんでしたが、ここでも神様を信頼しきれず、自分を守るために妻を妹と偽りました。二度目です。確信犯です。夫としては言い訳のしようがない恥ずべき行為だと思います。しかし、神様はアブラムを祝福し24年後に再び契約を結ばれます。内容は①「多くの国民の父とする」②「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。」③「あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。」以上です。ただし「男子はすべて、割礼を受ける。」という条件というかしるし付きです。またこの契約の中でアブラムはアブラハムへ、妻サライはサラに神様から祝福された名前を与えられます。(創世記17:1~21)所有地は「エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、」(創世記15:18)です。その後二人の間に約束の子「イサク」が与えられますが、彼をささげることによって「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:18)とお褒めの言葉をいただきました。

・平和の信仰者イサク
イサクも父アブラハムと同じ道をたどりました。飢饉があったときゲラルに行ったのです(創世記26:1)。このとき神様がイサクに現れて「エジプトに下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。」(創世記26:2・3)と神様がこの地に留まることを許されたのですが、彼もまた父と同じく、人を恐れて妻を妹だと偽りました。しかし、イサクはこの地で何度も何度も井戸を掘りました。水は人にも家畜にも必要不可欠なもので、井戸をめぐる争いは絶えません。そして井戸を掘るのは・・当時は当たり前ですが手堀りですから大変な労力がかかり、たとえ掘れたとしても飲める水が湧き出してくるとは限らないのです。そんな労力と思いと運?でイサクたちがやっと掘り当てた井戸も地元の人に,力づくで取られてしまいました。弱かったわけではありません。おそらく戦えば勝てたでしょう。しかし彼らは戦いを避けたのです。「平和」これが彼の本質であり、信仰に裏付けされたものです。そこでイサクは井戸に「争い」「敵意」と名付けながら、ひたすらイサクは井戸を掘り続けました。彼には神様への信仰があったからです。そして忍耐の限りを尽くして、とうとう一つの井戸を掘り当てました。そこにはもう争いがなく、彼はレホボト(広い場所)と名付けました。信仰の勝利です。

・神にしがみついて離れない人ヤコブ、祝福されイスラエルとなる
父と祖父の道に反し、イサクの子ヤコブはカナンに留まり続けました。しかし、イスラエルの始祖ともいうべき3人の族長のうち性格的には一番問題があったと思います(ヤコブはヘブライ語でかかとをつかむ者=人を出し抜く者、押しのける者の意味。創世記25:26)。ヤコブは直接的な争いごとを好まず、あまり家から出たがらない穏やかな性格をもつ反面、その名のとおり欲しいものは決してあきらめず、家族を騙してでも得ようとする所がありました。「狐のようなずるさ」とでも言うのでしょうか?一杯の煮物で兄エサウから長子の権利を奪い(創世記25:27~34)、父イサクを騙して長子の祝福を奪いました(創世記27:18~29)。叔父ラバンとは「狐と狸の化かし合い」の状態になり、無勢であるヤコブでしたが(もちろん彼が自覚する以上に、神様は真実な御方ですから、ヤコブとの約束を守り、いつも御手がそこにあったのです)、忍耐と年月を味方につけ結果的に,杖1本しか持っていなかった彼が、たくさんの家族と,多くの財産(主に家畜)を持つようになったのです(創世記32:10~22)。
彼の強さは、人だけに向けられたものではありません。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着るものを与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」(創世記28:20~22)。と記してあるように、なんと神様と取引(契約)しようとしたのです。「いや、このヤコブの言葉は、受けるに値しない神様の約束になんとか答えようとしたものだ。」という解釈もあるようですが、どちらにしても素直に祝福を受ければいいのにヤコブはそれができず、自分の力に頼り続けてきた彼は神様の御前にも何者かであろうとしたのかも知れません。そんなヤコブをも神様は愛して、ペヌエルの地で彼を砕き、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」(創世記32:29)・・「イスラエル」とはヘブライ語のサーラー(争う)とエール(神)の組み合わされた語ですが、サーラーの語根には「治める」という意味もあり神が支配するとも訳せます・・と「ヤコブ」ではなく「イスラエル」という新しい名を与えて祝福されたのです。しかし、神と争った者がなぜ祝福されるのでしょうか?「そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」(25)と書いてあります・・この方は神様でした(30)・・「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。」(26)と書いてあります。この格闘は体と体をぶつけ合うレスリングや相撲のようなものではなく、心の葛藤のようなものではないかと考えられます。その時ヤコブは一人でした。人生最大の危機を前にして悩んでいたのです。最大の危機とは最大の敵である兄エサウと対面することでした。前述したように彼は杖1本しか持っていませんでした。兄に殺されそうになったからです(創世記27:41参照)。先程兄エサウから長子の権利を奪い、父イサクを騙して長子の祝福を奪ったと書きましたが、彼は悪人でも詐欺師でもありません。益の公平さは別にして、物事の駆け引き・取引が上手かったのです。聖書には「ヤコブに騙されたエサウ」ではなく「こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。」(創世記25:34)と書いてありますし、父を騙したのも、長子の祝福は一杯の豆の煮物で兄エサウから権利を買った(譲られた)自分に資格があると思っていたからかもしれません。つまりヤコブなりの理屈はあるのです。それに反し叔父ラバンは、自分だけの益のためにヤコブを騙すずるい人間でした(創世記31:36~42)。しかし、そのラバンにも競り勝って多くの家族と財産を手に入れました。もちろんヤコブは神様が自分の味方となって下さり、守って下さったことは自覚していたでしょう。でもそれは自分が正しく、道理は自分にあるので、神様も「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創世記28:15)と約束されたことを守ってくださると思っていたのかもしれません。しかし、その道理も理屈も通じない相手が兄エサウなのです。始め兄に対して懐柔政策をとりましたが、使者の返事は「あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」(創世記32:7)でした。ヤコブは心底恐れ、家畜の群れを3組に分け、家族をその後ろに置き自分は一人川向こうに残ったのです。すべての財産を失い家族が殺されても自分が助かることが、道理をわきまえたヤコブの計画だったのでしょうか?いいえ、彼は窮地に立たされ怯え、人生を振り返って自問したことでしょう。自分は本当に正しいのか?兄に対して、父に対して、母に対して、二人の妻や二人の側女、叔父、召使たち、その他もろもろ・・多少心に引っかかるが間違ったことはしていない。やはり自分は正しい。だから神も自分を見捨てず、約束どおり故郷に連れ帰ってくれるはずだ。大丈夫だ・・でも本当に神は守ってくれるのだろうか?このように自問自答していると、神様が現れてくださったのです。ヨブ記にもこう記されています。「『神はわたしを正しいとしてくださるはずだ』/ とあなたは言っているが/ あなたのこの考えは正当だろうか。・・主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。・・全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。/神を責めたてる者よ、答えるがよい。・・『聞け、わたしが話す。/ お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。』/ あなたのことを、耳にしてはおりました。/ しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。/ それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/ 自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ記35:2、38:1、40:2、42:4~6) 
私にも小さな経験があります。25歳の時、ある青年対象の集会に行きました。求めていたのではなく、幾つかの偶然が重なりたまたま参加しただけです。「キリストの愛に応えて」がテーマでしたが、私はメッセージを聞いていて非常な反発を覚えました。「神様が愛?だったらなぜこんな悲しい事や恐ろしいことが起こるんだ?日本の社会も世界も矛盾だらけだ。」・・私は神を信じていないわけではありません。お寺の孫として生れた私は、神も仏も言わば幽霊や妖怪の類まで信じていました。それで今でもホラー映画やお化け屋敷に行けないのですが、私は「神」という存在を人の思いや一種のエネルギーのようなものとして捉えており、人と同じような人格?神格?があるとはとても思えなかったのです。しかし、自問自答?否、ただ心の内で文句を言っていたはずの自分がなぜが次第に追い詰められていき、とうとう「お前はどうなのだ、お前に愛はあるのか?」と問われたとき、なんと表現したらいいのかよくわかりませんが、スパッと心が切り開かれ・・自分の心の中を垣間見たように思いました。そしてそこにあったのは不満と不安といらだちと・・自分でも思い出したくない幾つかの出来事でした。降参です。認めます。確かに私には人の不幸を喜ぶ悪魔の心があるのです。そう自覚した時、実際にこの鼻でプーンと生ゴミの腐ったような臭いをを嗅いたのです。私の心の腐った臭いでした。そして無意識のうちに責めてしまっていた神様がすぐ近くにおられるのに気づいて、この御方の前に初めて膝を屈めました。「イエス様、よろしいのですか、本当によろしいのですか。私のような悪魔の子があなたの僕になっても。」イエス様は言われました。「あなたは『すでに神の子なのである。』」(Ⅰヨハネ3:1口語訳) 私はこの御方の愛に触れ、心を開いてこの御方を受け入れたのです。その瞬間から私は変わりました。「我は我なり、なれど我にあらず。永遠の命を内に宿した永遠なる者なり」後で御言葉が与えられました。「彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。」(Ⅱテモテ2:11 口語訳)・・私は「闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ」られ(使徒26:18)、「死から命へ」(ヨハネ5:24)、滅びから永遠に移される経験をしたのです(ガラテヤ6:8)。
ヤコブも自分の心の声だとばかり思っていたのに、腿の関節?を打たれてこの方が現実の御方だと分かり、さぞや肝が冷えたことでしょう。兄エサウよりもっと畏れなければならない御方だからです。しかし、ヤコブは、ひれ伏す代わりにしがみついて祝福を求めました。それこそ命がけ、死に物狂いでした。なぜならヤコブは単に取引上手ではなく、交渉人だったからです。これが彼の本質です。交渉人には、本当に大切なもの・価値あるものが何か分かっています。イエス様が「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイ13:44)と言われたように、交渉人であるヤコブは最も価値あるものを求め、神様はそれを与えられたのです。神と争って腿の関節を外され、それでも求め与えられた祝福・・それがイスラエルと言う名です。その名が個人名から部族名、国名にまでなり、現在に引き継がれていくのです。神様との断絶による「霊的な死」 しかし、神様は、神の敵(ローマ5:10)ともいうべき人間に、イスラエル・・直接的には「神と争う」という意味ですが、「神の支配=神の国」という意味も含めて祝福を与え
その後、彼は兄エサウと和解し、ベテルに上りヘブロン(創世記35:1、27)に行きました。カナンの地です。そして飢饉があったときヤコブはエジプトに下ったのではなく、息子たちに「エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。」(創世記42:2)と言ったのです。その後、一家そろってエジプトに行かなければならなくなった時には、ベエル・シェバで祭壇を築き「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトに下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」(創世記46:3・4)、と神様の約束と導きを確認してエジプトの地、ゴシェンに住みました(創世記46:28)。このことには11番目の息子ヨセフが大きく関わっていますが(創世記45:10)父や祖父と違ってこうでもしなければヤコブは「約束の地カナン」を離れなかったのかも知れません。アッパレな信仰です。
 
 ◆430年のエジプト滞在と約束の地カナンに向けての脱出
 それから神様は430年の期間(出エジプト12:40。内30年はヨセフの滞在期間だと言われています)エジプトの地を苗床のようにして彼らを養われ、やがてイスラエル人・イスラエルの民と呼ばれるようになったのです。神様が「わたしはあなたをそこで大いなる国民とする」(創世記46:3)と約束されたとおりです。しかし「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。『イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。』」(出エジプト1:8~10)と。「エジプトの国の最良のもの」(創世記45:18)豊穣の地ゴシェンの寄留者である彼らについに迫害の火の手があがったのです。それがいつから始まったのかはっきりしませんが、3歳年上のアロンが家で育てられ、次男モーセをパピルスの籠に入れて流さなくてはならなくなった状況(出エジプト1:22)を考えると、この頃から激しくなったと考えられます。そのモーセが80歳のときエジプトを脱出したので(出エジプト7:6)、430年マイナス80歳(年)となり、エジプトに寄留してから350年頃からかも知れません。また「ヨセフのことを知らない新しい王」とわざわざ記しているのは多くの年数が経過したことだけではなく、支配者が全く変わったこと・・そもそも異邦人ヨセフが王に次ぐ第二の位につけたのは、その頃のエジプトはヒクソスと呼ばれる異邦人(下エジプトの一地方であるゴシェンは、ヒクソク人の都市があったとも言われています)が支配していたからではないかとも言われていますが、そうなると「新しい王」とは支配権を回復したエジプト人のことなのかも知れません(創世記41章)。それはともかくとして王は、多産で強くなったイスラエル人を恐れたのです。彼らは奴隷の家となってしまったエジプトの国から神様によって救出され、モーセに導かれながら約束の地カナンを目指すのです。ちなみに、エジプトに行ったヤコブとその子、孫はヨセフと2人の子を入れたら70人・・ただしヤコブの息子の妻を除く(創
世記46:27)、それが出て行くときには壮年男子(兵役に就くことのできる20歳~?)だけで60万人、+レビ族(彼らは戦わないので数えられなかった。民数記1:47~53)+イスラエル人以外の雑多な人々や女性・子どもを加えれば少なくとも3倍になると思います(出エジプト12:37、民数記1:2~46)。これはまた創世記15章13・14節のアブラハムに与えられた預言の成就でもあり、預言では400年となっていますが、その30年の差はヨセフがエジプトに売られていた期間ではないかと言われています。
 「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子」(ガラテヤ3:7)、・・信仰の父アブラハム・・また「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(マルコ12:26)と称賛され、確かに彼らは選民イスラエルの基礎、律法の基礎、信仰の基礎となりましたが、彼らでも神の約束を信じ、完全に従い続けることは出来ませんでした。しかし、その事が問題になるのではありません。もちろん完璧に守れたら素晴らしいことですが、「自由」で記したように、大切なのは結果ではなく思いです。繰り返しますが「正しさを求める思い」こそが外側の影響を一切受けず、いわば内側だけで完結する絶対的価値のあるものなのです。この思いが正しき神(詩篇11:7、89:15・・)に対する彼らの信仰なのです。事実、彼らは神との約束こそ絶対だ、とするその信仰において成長し、実を結んでいきました(創世記22章、26:15~33、32:23~33章)。やがてドイツの宗教改革者マルティン・ルター(1483~1546)らによって、何らかの行為‥例えば16世紀にカトリック教会が発行した罪の贖いを軽減する「贖宥状」(免罪符)等・・ではなく、神の約束に対する信仰のみが人を救う(神から義しいと認められること)という「信仰義認説」が、「神の儀は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」(ローマ1:17 口語訳)の聖書の箇所を根拠に高らかに唱えられていくのです。
「約束の時代」は彼らがエジプトを脱出し、約束の地カナンに行く途中・・彼らが個人から家族、さらに部族から民族へと成長して行く中で、一方的な約束から、双方が条件を守ることを前提とした契約・・十戒を始めとする律法が与えられ、神様のルールを中心とする唯一の神政国家、あるいは、「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」(創世記12:3)との約束の通り、神様と人を執り成す祭司の国へと成長していくその基盤となるものなのです。また「約束の時代」は、約束を受けるイスラエル人も大切ですが、約束された神様が、約束という形を通して、祝福し続け、励まし続けて成長させていく時代なのかもしれません。

4、律法と預言者の時代(出エジプト19:3~イエス様の十字架まで)
 ◆神と人類の代表として選ばれたイスラエル民族との契約、すなわち律法
 「イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した」(出エジプト19:1)と書いてあるように律法は、カナンの地へ行く途中のシナイ山でモーセを通して、イスラエルの人々に与えられました。この律法は「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12:3、26:4、)というすべての民を対象にした約束ではなく(もちろんこの約束は継続します)、イスラエル人限定です。繰り返しますが、律法はイスラエルという一民族にのみ与えられました。何故でしょうか?もしかしたら神様は、律法を中心とした神政政治による神の国建設をイスラエルという国において望まれたのかもしれません。では神は全世界の神ではなく、「イスラエルの神」(詩篇59:6、イザヤ21:10)となられたのでしょうか。いいえ、そうではありません。私は農業高校や農業大学校で園芸を学びましたが、そこで教えられた一つのことは、新しい栽培方法や新しい野菜を植えるときには最初から広い畑ではなく、まず限定された狭い場所を選んで徹底的にそれらと関わり、どのような結果になっても緻密なデーターを取り、それを広い畑に適用するための土台とすることでした。そのような方法を雛が殻を破る姿になぞらえて「一角破り」(「農業を好きで楽む人間になる極意」松田喜一著)と言います。もしかしたら神様もこの「一角破り」をされたのではないでしょうか。そのような意味でイスラエルは「限定」ではなく、全国民から選ばれた「代表」なのです。神が御旨をなすために全人類の代表として選ばれたというのは私たちにとって福音です。しかしそれがイスラエルの民にとっても福音であったらいいと切に願います。なぜなら神様の御計画を邪魔しようとする悪しきものたちや、それに従属する者がいるからです。「反ユダヤ主義」という言葉は幻でも過去の遺物でもありません。悲しいことに今も現実なのです。それに至らなくても、サタンが「この世の支配者」(ヨハネ12:32)なのです。神様が「わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。」(レビ20:26)と書いてあるように、この世の民が区別された民を好まないのは当然のことです。無意識の内にも彼らに反感を抱かず、彼らが守られるように祈っていきたいと思います。
 
 ・「律法」すなわち契約の内容、祝福あるいは呪い
 さて律法は、人の繁栄と幸福のために与えられたもので(申命記8:1、10:13)、大きく3つに別れます。「2枚の石の板に刻まれた十の戒め」(出エジプト20:1~17)=神様の明白な御旨、を始めとして「社会生活(道徳的なものも含む)に関する法」(出エジプト21:1~23:33)=人と人との関係、「宗教生活に関する法」(出エジプト25:1~31:11、レビ記)=神と人との関係などで、重複しますが出エジプト記20章1節~申命記28章68節までの中から全部で613箇条あると言われています。これらの律法は神様からの一方的な約束とは違い、契約ですから神様と受ける民双方の意思表示が必要でした。「民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは、主が語られた事をすべて、行います』」(出エジプト19:8)と宣言しました。そこで神様も「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。・・主の戒めに聞き従うならば祝福を、・・主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。」(申命記11:26~28,28:1~68)と答えられたのです。これで契約成立です。この律法によって、祝福と呪い・・つまり守る事によって報酬が与えられ、破る事により罰則が与えられるようになりました。契約による「報酬・罰則」は、イスラエルの民だけでなく大変失礼な言い方かもしれませんが、神様はイスラエルの民が律法を守っている限り、祝福し続けなければならないのです。何ものにも縛られない自存存在なる御方が、たかが人と結ばれた規則によって御自身を縛られる・・なんと畏れ多いことでしょうか。これも神様がイスラエルを愛してくださっている証拠なのかもしれません。この契約によって神様は、正式にイスラエルの神となり、イスラエルは  神の民となったのです。ただ俗に言う「守護神」とは違います。守護神は特定の民を危険や困難から守り、繁栄をもたらす存在であるのに対し、イスラエルの神は、イスラエルの民を律法に明記された報酬と罰則によって裁かれるのです。始めの人アダムに神様が祝福に満ちた規則を与え、破った時の罰則は「死」であったように、イスラエルの民にも祝福は「命と幸い」、呪いは「死と災い」・・つまりイスラエル民族が律法の罰則によって滅びることにより、この契約は終了するのです。「ついにあなたを滅びに至らせる」(申命記28:45、48、51、61)。

 ・律法の契約は終了。しかし、他の契約(約束)は継続
 では、イスラエルの民は守ることによって、神の祝福を受け続けたのか?と言えばそうではありません。契約した結果、「祝福」ではなく「のろい」を受けたのです。イスラエルの民は律法が与えられた直後・・正確には神がモーセに与えている最中に、もう律法を破り始めました(出エジプト32:1~6)。神は契約に従って「彼らを滅ぼしつく」そうとされましたが(出エジプト32:10)、「思い直され」(出エジプト32:14)という繰り返しが続き、契約ではなく神様の忍耐によって継続されていったのです。しかし、とうとう紀元70年頃、ローマ軍がエルサレムの市街だけでなく第二神殿も破壊しつくしユダヤ(イスラエル)の国は滅ぼされました。律法は神殿や国がないと完全には守ることができないので、イスラエルの民が世界中に離散している間も、復興した現在のイスラエル国が守っている律法は、神と結んだ律法とは違うものになっているはずです。その意味では国が滅んだ時点で確かに律法による契約は終わったのかもしれません。もし神様が「一角破り」のように、イスラエルの民を通して人類のデーターを取られたとすれば、その目的は十分すぎるほどに達成されたと思います(このデーターは公開され、聖書になりました)。ですからイスラエルが滅んだ時点で人類が滅ぼされたとしても、何人も神様に異議を唱えることはできません。しかし、イエス様は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。」さらに「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:17・18)と言われたのです。もしかしたらイエス様は、イスラエルの国が滅びることを知らなかったのでしょうか?そんなことはありません。「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。』」(マルコ13:1・2)と、国の中心であるエルサレムの神殿が崩壊することを預言されています。では、どういう意味でしょうか?イエス様は確かに「律法」と言われましたが、それは613箇条のことだけでなく前節に「律法と預言者」と言われたように、聖書、今でいう旧約聖書の全体のことを指します。そうなるとイエス様が言われた「律法」とは、イスラエルの始祖であるアブラハムに約束された変わることのない祝福に始まり(創世記12:2・3),「主が、ホレブで彼らと結ばれた契約とは別にモアブの地でモーセに命じられてイスラエルの人々と結ばせた契約の言葉である。」(申命記28:69)と記され、その内容は「あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし・・あなたの神、主はあなたの運命を回復し・・追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。・・かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。・・」(申命記29:1~30:10)と律法の呪いを受け、滅びた後の民と土地の回復を約束する契約。また、預言者ナタンによってダビデ王に告げられた言葉「主があなたのために家を建てる。あなたが生涯を終え、先祖のもとに行くとき、あなたの子孫、あなたの子の一人に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。・・わたしは彼をとこしえにわたしの家とわたしの王国の中に立てる。彼の王座はとこしえに堅く据えられる。」(歴代誌上17:7~15)・・ダビデ王の子孫から永遠の王が誕生するという約束、他の多くの預言者によってイスラエルの復興が預言され(イザヤ49章、65章、エレミヤ3:12~18、エゼキエル11章・・)、さらに預言者エレミヤを通して、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」(エレミヤ31:31)と、旧約聖書を土台とした「新しい契約」のことまで含まれます。この契約の中で神様は「イスラエルの子孫は 永遠に絶えることなく、わたしの民である。」(エレミヤ31:36)と言われたのです。整理すると、
 ■シナイ山を始まりとして、結ばれたモーセ契約(律法623箇条)は、紀元70年のユ   
 ダヤ属州滅亡で終了。
 ■アブラハムへの祝福の約束。モアブで結ばれた契約。ダビデに与えられた主の約束。 
 新しい契約。預言者の言葉。これらには、条件も罰則もないので永遠に続く。
 これはもう契約ではなく、神様の愛による一方的な約束であり宣言です。つまりイスラエルの民は、律法を守ることによってではなく(「すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」《エレミヤ31:33⦆と言われているので律法がなくなったわけではありません)、神様の一方的な愛によって、永遠に神の民であり、神は永遠にイスラエルの神となられたのです。そのような意味で、イスラエルの民が今でも律法を守っているのは、神の民となるためではなく、すでに神の民となっているその「しるし」なのかもしれません。
 
 ◆イスラエル国の歴史
 さてここで国としての歴史を振り返って見ましょう。イスラエルの民は、「主とその僕モーセ」(出エジプト14:31)によって、エジプトから脱出し(BC1440年頃)、「あなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人」(申命記7:1)その他の民族が住んでいる地を、「あなたたちは行って、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに、彼らとその子孫に与えると誓われた土地を取りなさい。」(申命記1:8)と言われました。それを実際に行なったのは、「エフライム族では、ヌンの子ホシェア、・・モーセは、ヌンの子ホシェアをヨシュアと呼んだ。」(民数記13:8,16)それは「神は救いである」という意味で、ギリシャ語でイエスとなります。「モーセの従者、ヌンの子ヨシュア」(ヨシュア記1:1)「主の僕、ヌンの子ヨシュア」(ヨシュア記24:29)にひきいられたイスラエルの民です。「えっ、これって侵略戦争じゃないの?しかも神様がすすめるって、もしかして聖戦??」この問題については以下を引用したいと思います。

 ※戦争について、「棕櫚の街から 千代崎秀雄著」より引用
 「さて聖書を総体として見れば、とくに新約では戦争全体が否定される。『殺すな、奪うな、犯すな、むさぼるな』という十戒の禁令は新約において徹底され、これは戦争否定に通じる。『山上の説教』において主イエスは、旧約の『殺すな』という禁令を徹底的に掘り下げて、『精神的殺人』のレベルまでも神の前には有罪と断じなさった。・・『正義の戦い』『聖戦』という名目で、侵略戦争・征服戦争が正当化される例は、数限りもない。最も問題なのは、正当化の主張の根拠として聖書を(この場合はほとんどは旧約を、とくにヨシュア記あたりを)引いてくる論法であり、・・こうした『戦争正当化の論法』に対してヨシュア記はどう理解すべきか。・・その内容を一口にいうと、
1,生存ギリギリの基盤としての土地をめぐる民族間の紛争は、当時としてはごくありふれた事件だった。
2,歴史を学ぶとき、ある民族の腐敗・堕落の度が進むと、必ず滅亡の日が襲うーと言う事実に気づく。これは歴史の法則、歴史の審判といえる。当時のカナン人の状態はこれに該当した。
3,この歴史の審判は、イスラエルを除外例とせず、彼らが後年堕落して神の民として失格したとき、彼らもまた他民族の手で滅ぼされた。(棕櫚の街から 千代崎秀雄著 一粒社 35、36、39、40p)」

・カナンの地占領と英雄による統治
神様は腐敗・堕落したこの地の民を裁き、イスラエルの民を定住させたのです。しかし、御使いはその民に言われました。「わたしはあなたたちをエジプトから導き上り、あなたたちの先祖に与えると誓った土地に入らせ、こう告げた。わたしはあなたたちと交わしたわたしの契約を、決して破棄しない、あなたたちもこの地の住民と契約を結んではならない、住民の祭壇は取り壊さなければならない、と。しかしあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。わたしもこう言わざるをえない。わたしは彼らを追い払って、あなたたちの前から去らせることはしない。彼らはあなたたちと隣り合わせとなり、彼らの神々はあなたたちの罠となろう。・・彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことが出来なかった。・・主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった。」(士師2:1~3,13・14、18・19)と、定まったリーダーのいない状況で神に選ばれた士師(民族指導者・英雄)と呼ばれる人々が国を治める、不完全な神政政治・神権政治が約200年程続きました。その最後の13番目の士師であり、最初の預言者であるサムエルは神の御声を聞くことができ(サムエル記上3章)、もしかしたら彼なら神政政治を実現できたかもしれません。

 ・王国の始まりと滅亡
 しかし民はまたしても御旨に逆らって王を立て、神ではなく王に従うことを求めたのです。サムエルは当初「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」(Ⅰサムエル8:19・20)との主張に反対していましたが、民が意見を変えないので神様が御旨を変えられ、彼らの声に従うようにとサムエルを促して王を立て、君主政治になったのです。聖書に以下のように記されています。「裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。『民があなたに言うままに,彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し,彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。』(Ⅰサムエル8:7~9)。
このようにして、イスラエル王国はサウルを王として紀元前1040年頃始まり、2代目のダビデ、子であるソロモンが3代目の王となり(最初の神殿はソロモンの治世、紀元前961頃完成)、そしてその治世の後、紀元前930年頃2つに分裂しました(列王記上12:1~24)。ソロモンの子レハブアムは南王国ユダ(2部族)の王となりました。それに対し北王国イスラエル(10部族)はヤロブアムⅠ世が王となり、十九代目のホシェア王が首都サマリアと共にアッシリア帝国に滅ぼされるまで続きます(列王紀下17:1~6 BC720年頃)。では北王国と共に、イスラエルの10部族も滅んでしまったのでしょうか?そうではないと思います。事実、南王国ユダには、ユダ族とベニヤミン族だけでなく、「ユダの人々への割り当て地が多すぎたため、ユダの嗣業の土地の中にシメオンの人々は嗣業の土地を受け継いだのある。」(ヨシュア19:9)と記され、「祭司アロンの子孫であるレビ人は、ユダ族、シメオン族、ベニヤミン族から十三の町をくじで得た。」(ヨシュア21:4)と書いてあるので、少なくともシメオン族、レビ族が住んでいたでしょうし、分裂したとはゆえもともと一つの王国です。北王国滅亡の際には他の部族も南王国に逃れて行ったと考えられます。

◆律法違反により「死と災い」を招いた選民イスラエル
もちろん神様は律法だけを与えてあとは放って置かれたのではなく、正しく律法を守らせるために、多くの預言者を送られました。律法が神の書かれた御旨であるなら、預言者は神の生きた御旨です。それでも彼らは従わなかったのです。
「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった」(エレミヤ7:25・26)と書いてあります。北王国と同じ轍を踏んでしまった南王国も、バビロン帝国による捕囚と特にエルサレムの神殿、王宮を含むすべての家屋が焼き払らわれ、二十代目のゼデキヤが最後の王としてバビロンに連れて行かれました(列王紀下25:7 BC685年頃)。
 彼らは神様の御旨を何度の何度も踏みにじったのです。このときも神は「赦し」を与えられ、聖書に書いてあるとおり70年後に(エレミヤ書25:8~14)ペルシア王キュロスによって、神殿を再建するために解放されたイスラエルの民は(エズラ記1:1~11)エルサレムの復興を始めたのです(ネヘミヤ記2:11~18)。
その後、彼らは律法を守ることに非常に熱心になりましたが、結局、真の精神・本質ではなく、そのカタチだけを守ろうとしました。そして神の御子であるイエス様に、神の民の指導者たちがサンヘドリンと呼ばれる最高裁判所のようなところで、「神を冒涜した。」(マタイ2:65)罪で、神の名によって死刑の判決を下したのです。さらにユダヤ人たちも「民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある』」(マタイ27:25)とイエス様の十字架刑を求めたのです・・結局彼らは、神から与えられた律法によって、神の独り子であるイエス様を十字架につけるという最高の矛盾の中で最大の罪を犯してしまったのです。その結果でしょうか?ユダヤ戦争(AD66~73年)によって、70年頃、3度目の正直ではありませんが、ローマ帝国によってその属州になっていたユダヤは完全に滅亡し(エルサレムの陥落、神殿の破壊。一部のユダヤ人は各地の砦に立てこもり抵抗を継続)、ユダヤ人、イスラエルの民は全世界に散らされて行ったのです。しかし、預言されていたように(レポート45p)世界中に散らされていたユダヤ人は、先祖の土地に集められ、なんと1878年後の1948年5月14日に、議会制民主主義の国として復興したのです。「主の御言葉は正しく/ 御業はすべて真実。」(詩篇33:4)なのです。彼らは旧約聖書でも「あなたたちは、わたしにとって/ 祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:6)と記され、彼らの知らない新約聖書でも、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」(Ⅰペトロ2:9)と書いてあるのです。文字通りイスラエルの民は、王ダビデが「主よ、更にあなたはあなたの民イスラエルをとこしえに御自分の民として堅く立て、あなた御自身がその神となられました。」(サムエル下7:24)と告白したように、また、神御自身が「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)と言われたように、正に神様は、永遠にイスラエルの神となられ、イスラエルは神の民となったのです。
それでも事実、イスラエルの民はアダムの罪の結果である「死(滅び)」が拡大していく
只中で、神の国建設に失敗し更なる「律法の呪い」すなわち、律法違反の罪による死と災いを招いてしまいました。結果「律法と預言者の時代」を経て、人類には「死(滅び)と罪(律法の呪い)」という2重の「死」からの解放が必要になったのです。
               
5、赦しと恵みの時代(使徒言行録2:1~黙示録3:22)
 ◆人類の代表イスラエルの2つの功績。すなわち「律法」を守り切ることのできない証明と、違反による「罪」は血によって贖うことができるという証明
 繰り返しになりますが、「律法と預言者の時代」にイスラエルは2つの過ちを犯しました。自分たちだけが神に選ばれた特別な民だと自認し、他の民族を家畜同様に自分たちに仕える存在だと認識する「過剰な選民意識」と、律法の本質ではなく、戒律の条文に捉われ、そのカタチだけを守ろうとした「形式的律法主義(律法至上主義)」です。しかし、彼らは2つの大きな功績も残しました。 
1つ目は、人の力だけでは律法を守りきることが出来ないことを証明したことです。繰り返しになるかもしれませんが、そもそも律法は人の幸せのために神が与えられたものであり、「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、・・海のかなたにあるものでもないから、・・御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30:11~14)また、「律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されている事を示しています」(ローマ2:14・15)と書いてあるように守ることが難しい外からの要求ではなく、言わば自分の良心、内なる声なのです。それが守れないとは「律法」そのものに問題があるのではなく、自己中心、自己破壊、善を憎み悪を愛する心‥すなわち罪の性質(レポート30p)に支配されているからなのです。律法は愛の精神を基とした、人を生かす善きものです。だからこそ、それを否定し人を殺そう(滅ぼす)とする悪しきもう一つの声があるのです。その声は強く、人類の始祖が「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:4)・・神の言葉を否定し、神に不信感を抱かせ、自分が神のようになりたいと誘う。始祖がどの言葉に強く反応したのか知る由もありませんが、「自分が神のようになりたい」とは、神に反逆して敵対者となったサタンと同じ心です。この時から人は、神の側からサタンの側に移り、サタンの性質である「罪の性質」と言われるものに支配されるようになりました。この「罪の性質」に支配されているから人は罪を犯してしまうのであり、先ほどの悪しき声とはその声なのです。人は本来、自由意志を持ち選択できる存在なのに、聖書的には「罪の奴隷」(ヨハネ8:34、ローマ6:6)・「罪人(つみびと)」(マタイ9;13・・)となったのです。しかし、自分が「罪の奴隷」であることを自覚する人はほとんどいません。「私は欠けはあっても、悪人ではない。まして『罪の性質』などというそのようなおぞましいものに支配されてなどいない」と大抵のイスラエル人が思っていたのではないでしょうか。それほどこの「罪の性質」の支配は巧妙で完璧なのです。しかし、聖書は「正しい者はいない。一人もいない。/ 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。/ 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。/ 善を行なう者はいない。/ ただの一人もいない。/ 彼らののどは開いた墓のようであり、/ 彼らは舌で人を欺き、/ その唇には蝮の毒がある。/ 口は、呪いと苦みで満ち、/ 足は血を流すのに速く、/ その道には破壊と悲惨がある。/ 彼らは平和の道を知らない。/彼らの目には神への畏れがない。」(ローマ3:10~18)と書いてあります。イエス様も山上の説教という形で民に教えられました。例えば「『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく.兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」また、「『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイ5:21・22,27・28)のように、行いに至らなくても言葉や心の中で思うことも律法違反だとだと言われたのです。律法は個人レベルでも戦いではなく平和につながるものです。この律法を守らせるために人類の代表として選ばれたのがイスラエルの民なのです。本来、律法は守り易く、報酬(祝福)は膨大であり、神様が保証してくださるのです。当然ウソやゴマカシはありません。民は喜んでその話に乗ったでしょう。しかし結果は守りきれなかったのです。慌てたのはイスラエルの方かも知れません。当然守れると思っていたのにそれができません。「取らぬ狸の皮算用」ではありませんが、繁栄しか考えていなかった彼らが、ルール違反である罰則に苦しみ何度も神様に赦されていながら、「呪い」の結果である死と災いに怯えるようになります。そして何が何でも・・律法の規定を厳しくし、独自の罰則を付与してでも民に守らせようとします。律法が手段ではなく目的になってしまいました。そうなると律法は民の幸せのためではなく、足かせ・苦しみとなり、指導者たちは守れていないのに守っていると言わねばならない偽り・偽善になるのです。つまり律法はもはや「祝福」ではなく「呪い」そのものとなり、人々は律法違反による罪の自覚とそれに伴う死と災いの恐怖におののくのです。そして自力で守れないと悟った彼らは次第に、他力によるこの状況からの解放・・実際的にも、ローマ帝国のユダヤ属州からの解放、すなわち救い主、ダビデ王に約束された永遠の王を求めるようになったのです(歴代誌下17:14)。
2つ目は、罪は血(命)によって贖う事ができるという証明であり、契約に基づいたものです。日本の場合は、法に違反していると認定された者を犯罪者と呼び、定められた刑罰を受けることによって犯罪が終了します。刑罰とは犯罪に対する制裁として犯罪者に科せられる法益の剥奪を言います。犯罪によっては前科がつくので完全に終了だとは言えませんが、犯罪者からの法的に守られていた命・財産・自由などの一定の剥奪によって犯罪が終了し、日本人として本来の法によって守られるのです。さて、律法の違反は日本の法律より厳しく、一定の剥奪ではなくすべての剥奪によって終了するのです。もし神様の一方的な愛による「赦し」がなかったら、イスラエルの民はとっくに滅びていたことでしょう。先程「律法はもはや『祝福』ではなく『呪い』となり、人々は律法違反による罪の自覚とそれに伴う死と災いの恐怖におののくのです。」と書きました。聖書にも「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。」(ローマ5:13)と書いてあります。では律法はイスラエルの民を罪によって裁き、恐怖におののかすためのものでしょうか?そうではありません。医者が患者に病名を告げるのは、患者が病気であることを自覚し正しく治療を受けるためです。イエス様が「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31)と言われたとおりです。それと同じように罪の奴隷・罪人が、罪から解放されて本来の「人」に戻るための方法が「贖い」なのです。
「罪が贖われる」とは、人が犯した罪が赦されるために命の代価を払うということであり、具体的にはそれが神殿で神様に、罪を犯した者の身代わりとして捧げられる牛や羊などの動物の血(命)でした。聖書に「これは誤って主の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破った時の規定である。・・油注がれた祭司が罪を犯したために、責めが民に及んだ場合には、自分の犯した罪のために、贖罪の献げ物として無傷の若い雄牛を主にささげる。・・その頭に手を置き、主の御前で牛を屠る。油注がれた祭司は牛の血を取って臨在の幕屋に携えて入り、指を血に浸して、聖なる垂れ幕の前で主の御前に7度血を振りまく。・・一般の人のだれかが過って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたときは、献げ物として無傷の雌山羊を引いて行き、献げ物の頭に手を置き、焼き尽くす献げ物を屠る場所で贖罪の献げ物を屠る。祭司はその血を指につけて・・祭司がこうして罪を贖う儀式を行うと、彼らの罪は赦される」(レビ記4:1~31)と書いてあるとおりです。律法の規定は厳しく民や個人が一つでも破ると、その者の血(命)が求められました。しかし、動物の血(命)の代価〓身代わりによる死(犠牲)によって「罪の赦し」と「神との関係回復(祝福)」が与えられたのです。
*「エホバの証人」の輸血問題・・彼らは医療行為である「輸血を受けること、あるいは輸血の代わりに血液の一部を体内に注入して、生命を支えることは正しくありません」(「ものみの塔」誌1962年2月1日号p91)と主張しているようです。確かに聖書には「だれも血を食べてはならない」(レビ記17:12)とハッキリ禁じています。しかしその理由は、「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」(レビ17:11)と書いてあるように、実際には衛生的な面もあったでしょうが、社会生活でなく宗教的な「罪の贖い」に関連したことなのです。その意味では彼らもまた律法を表面的にしか解釈できなかったのだと思います。

◆罪を贖う者、イエス様の十字架による身代わりの死
「律法と預言者の時代」がイエス様の十字架で終わるのは、実にこのことに関係しています。イエス様は動物の血(命)ではなく、「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血」(Ⅰペトロ1:19)を十字架の上で流されることによって、赦しと祝福が与えられるのです。聖書に「キリストは、わたしたちの呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された霊を信仰によって受けるためでした。」(ガラテヤ3:13・14)と書いてあるとおりです。すなわち、イスラエルの人々は、神から与えられた律法によって、神の独り子であるイエス様を十字架につけるという最高の矛盾の中で最大の罪を犯してしまいましたが、結果的に?そこから全世界、全被造物を救いに導く最高最大の恵み・・まさに福音を引きだしたのです。
話を戻しますが、そもそも贖いとは、「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)と書いてあるように、求められるのが財産や権利のようなものではなく、「死」であるなら罪なき人が罪ある人の身代わりとして死ななければならないのです。その意味では人の罪を、人ではない動物の命で、身代わりとして贖いきることはできません。ですから律法が与えられて以降、多くの動物の血が流されてきました。完全に贖うことができなかったからです。「ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。」(ヘブライ10:3・4)と、書いてあるとおりです。繰り返しますが、本来人の罪を贖う者は、その罪に関係のない者でなければならないのです。
《人類の始祖アダムが「罪の性質」に支配されて以来、それが遺伝のようにしてすべての子孫に伝わったのです。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)とも書いてあるのです。ですから神様の御目から見るとき、実際に今、罪を犯していようがいまいが、生まれたての赤子であろうが、すでに罪の性質に支配されている罪人であり、この性質の管理下に置かれているかぎり罪を犯してしまうのです。聖書に「わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。」(詩篇51:7)と書いてあり、また「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」(ローマ3:23)と書いてあるとおりです。》とレポート34pに書いたように、アダムの子孫では不可能なのです。つまり「人の罪」を贖う資格のある「罪なき人」は、人でありながら、罪を犯したアダム以前の人でなければならないし、このような人によってのみ人は、「アダムの罪」からも「律法の呪い」からも解放されるのです。

◆罪なき人、神の御子イエス・キリストの誕生とその生涯
ではイエス様にその資格があるのですか?大いにあります。「クリスマス」はイエス様の誕生をお祝いする日ですが、そのとき乙女(処女)マリアから生まれたと記しています。このことは何も人の関心を引くためでも、奇異を狙った作り話でもありません。事実です(生物学的には処女懐胎は可能だそうです。単為生殖《単性生殖》は、アブラムシやヘビなどにもみられ、哺乳類のマウスでも東京農業大学の河野友宏教授のチームによって成功しました。ネイチャーバイオテクノロジー2007年8月20日付け電子版に発表)。事実でなければ、アダム以来の罪を贖うことができないのです。「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。『‥あなたは身ごも
って男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。・・神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』マリアは天使に言った。「『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』」天使は答えた。「『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。‥』」マリアは言った。「わたしは   主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:26~38)・・「父ダビデの王座」(歴代誌した17:14)とは、イスラエルが待ち望んでいる永遠の王、救い主のことであり、「はしため」とは、端女、奴婢とも書き、召使の女、女の奴隷のことです。おそらくマリアは天使の言葉を100%納得したわけでも、理解したわけでもないでしょうが、戸惑いながらも神様の奴隷になることを決心したのです。イエス様はこのような女性の信仰から生まれてくださいました。聖書に「神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)と書いてあるとおりです。つまりイエス様は、「初めに(天地の初めに、すでに)ことば(キリスト)がおられた。ことばは神とともにおられた。ことばは神とともにおられた。ことばは神ご自身であられた。このかたは初めに神とともにおられた。すべてのものは彼によって(を通して)つくられた(存在するに至った)。存在しているもので、彼によらないでつくられたものは何一つない。」(ヨハネ1:1~3 詳訳聖書)と、万物の創造主・神御自身であられながら聖霊様の御力によって、乙女マリアから人としてお生まれくださったのです。すなわち人でありながら、アダムの罪の性質を受け継いでいない唯一の人・・もちろんそれは神が人のカッコウをしたと言うことではありません。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)と書いてあるように、「罪をおかされなかった」以外では私たち人間と全く同じであられたのです。そしてここで言う「罪を・・」は「罪の奴隷」ではないことが前提です。人はすべて罪の性質に支配され、サタンの奴隷となっており、罪を犯さないという選択肢はありませんが、イエス様は、本来の自由意志を持つ人として「霊の望」(ガラタヤ5:17)を選択し、「霊の導きに従」(ガラテヤ5:16)い続けられたのです。サタンをはじめ様々な誘惑があり、すべての人が罪を犯している中で、幼い時から、行いにおいても心の内いおいても「罪を犯されなかった」のは並大抵のことだはなかったと思います。また、聖書に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)と書いてあります。私たち人には俗にいう前世?はありませんが、イエス様は神様の生まれ変わりではなく、正真正銘の「神」であられ、その方が身分ではなく本質において「神」のまま、私たちと同じ「人」になられ、そして、身代わりの死によって私たちを救うまで、父なる神の御旨に従われたのです。私たちクリスチャンはこの御方のことを、理屈には合いませんが100%の神であり、100%の人であると信じています。
さて、イエス様の地上での生涯は33年数か月です。「おおよそ30歳」(ルカ3:23)までは家業の大工を継いで(父ヨセフは、イエス様が12歳以降(ルカ2:42)に比較的早く亡くなったと考えられています)母や、少なくても4人の弟と幾人かの妹たちを養っていたようです(マルコ6:3)。もっとも大工といっても家を建てるのではなくて、木を使って家具や家畜用の軛(くびき)を作る仕事で、地道に生活していたと思われます。
それから「公生涯」と言われる3年数か月(ユダヤ教の祭りが、年を数えるカギとなります)、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18・19)とのイザヤ6章の預言を「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)とイエス様は宣言されました。また、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ4:17)と御国の福音を宣べ伝え、多くの病気や苦しみに悩む者をいやし、悪霊を追い出され(マタイ4:23~25)、12弟子(マタイ10:1)を中心に72人の弟子(ルカ10:1)などを育てられました。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物にかかれていない。」(ヨハネ20:30)と書いてあるように実に多くの善きことをされたのです。それなのにこの聖書の箇所、フィリピ2章6~8節には、神なる御方が人となられてこの地上に来られたのは、まるで十字架にかかって死ぬためであったかのように書いてあります。そして驚くべきことにキリストなるこの御方は、善きことや尊い教え、人知を超えた奇蹟ではなくて、十字架の死によって人類を救おうとされたのです。

◆イエス・キリストの十字架による、2重の意味での律法完成と復活による保証
イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)と言われました。実際に十字架の上で「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、」(ヨハネ19:30) 新改訳聖書では「完了した。」と訳しています。(この原語《ギリシャ語》「テテレスタイ」は他に「終了、完成、完済」などの意味があります。)イエス様はこの律法を完成されたのです。律法を完成するためには2つの方法がありました。
①律法を守り切れなかったことを認め、その罰を受けること。・・洗礼者ヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と言ったように、イエス様は「罪なき人」として「罪ある人」のすべての罪(人類の始祖アダムとエバが、「神のように」なろうとして、反逆者サタンの側に付き、サタンの性質である罪の性質に支配されるようになった「アダムの罪」、このアダムの罪が原因で、神から与えられた律法を守ることができなくて、違反の罪を犯し続けた人類の代表である「イスラエル人の罪」)を背負い、十字架の上で「
父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と言われました。それは出エジプト記12章のように、小羊の血を2本の柱と鴨居に塗り、災いを過ぎ越し、民を護ったように。また、旧約聖書の祭司が羊を罪を贖うための献げ物にしたように(レビ記4:32~34,5:6)、神よ、わたしはユダヤ人の王(ヨハネ19:19~22)、人類の代表として、すべての人の罪の身代わりとして血を流しました。だから彼らを赦してください。と祈られたのです。父なる神様は、御子イエス様の祈りに答えられ、人類唯一の罪人としてイエス様を処罰されたのです。それが「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15:53・54)と叫ばれた意味です。神から見捨てられるのは,本来罪ある私たちですが、私たちには聖い神に見捨てられる理由が多すぎて、とても「わが神」とは言えない者です。しかし、実際に見捨てられたのは「罪なき人」イエス様でした。それは私たちの身代わりになられたからです。全地が12時から3時まで暗くなったのも、神様が十字架につけられ罪人―実際は神の独り子イエス様でしたが―を呪われたからです。旧約聖書にも次のように預言されています。「彼が刺し貫かれたのは/ わたしたちの背きのためであり/ 彼が打ち砕かれたのは/ わたしたちの咎のためであった。/ 彼の受けた懲らしめによって/ わたしたちに平和が与えられ/ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53:5)」と。イエス様は、御自身を傷のない小羊のような生贄として献げることによって「贖い」を「成し遂げられた」のです。聖書には「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。・・まして、永遠の霊によって御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける 神を礼拝するようにさせないでしょうか。・・キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。・・この御心に基づいて、ただ一度     イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。」(ヘブライ7:27、9:14、9:28、10:10)これらの御言葉を根拠にして、私たちは罪の自覚からも(ローマ3:20)、その呪いからも(申命記28:15~68)完全に開放され、罪の性質に支配されサタンの奴隷とされた人、すなわち罪人から本来の人に戻ることができたのです。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ4:25)・・イエス様の復活こそ、私たちの罪が完全に赦された保障なのです。
②律法を完全に守りきり、その祝福(申命記28:1~14)を受けること。・・守られたと言っても表面的な行いだけではなく、「山上の説教」(マタイ5章~7章)で群衆に語られたようにその内面的な心の内においてまでもです。イエス様は「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、・・」(マタイ5:20)と言われました。彼らは律法を行いとして捉え、613ある戒律(トーラー)の内248を行動を促す積極的戒律、365を行動を慎む消極的戒律として、さらに「あなたがたが聞いているとおり」(マタイ5:21)とイエス様が言われた口伝律法(モーセをとおして与えられた律法を、ファリサイ人たちが解釈、分析して更に細かく規定したもの)と呼ばれる多くの戒めを完璧に守ることが、彼らの「義」でした。それに対して「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37~40)と言われたのです。イエス様は行いという形ではなく、愛するという思いこそが律法の「義」を満たすものだと言われました。しかもその精神はイエス様が新約聖書時代に初めて説かれたのではなく、旧約聖書からの引用で、第一の掟は申命記6章5節、第二の掟はレビ記19章18節からです。イエス様は行いではなく思い、愛する精神(こころ)こそが「義」であると言われたのです。
そして、イエス様はその実践者なのです。聖書に「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ3:16)と書いてあるとおりです。事実イエス様は、避けようと思えば避けることのできた十字架に、自らの意志で向かわれたのです。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(マタイ26:45・46)「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイ26:52・53)と書いてあるとおりです。それでは「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。」(ローマ5:7)と書いてあるように、ユダヤ人には、イエス様に愛される何らかの正であり、善があるからでしょうか?いいえ、そうではないと思います。聖書に以下のような記述があるからです。「聞け、イスラエルよ。あなたは今日、ヨルダン川を渡り、行ってあなたよりも大きく強い国々を追い払おうとしている。・・あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、『わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった』と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。あなたが正しく、心がまっすぐであるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、・・あなたはかたくなな民である。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。」(申命記9:1~7)また、旧約聖書の出来事を引用して「だから、聖霊がこう言われるとおりです。『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/ 荒れ野で試練を受けたころ、/ 神に反抗したときのように、/ 心をかたくなにしてはならない。」(ヘブライ3:7・8)と書いてあるように、「かたくなで、反抗的な民」これがイスラエルなのです。しかし、イエス様は彼らを愛し、彼らを救うために身代わりとして十字架にかかってくださったのです。聖書に「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。・・敵であったときでさえ、  御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、 御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ5:8~10)と書いてあります。
 そしてそれは神様の御旨にかなうものでした。聖書全体を一文で要約すると言われる(通称ミニバイブル)次の御言葉がそれを証明しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)この愛こそが、律法を完成し、神様の御心にかなう「義」なのです。だからこそ神殿の至聖所と聖所を隔てていた垂れ幕、聖なる神と俗なる人を隔てていた垂れ幕、大祭司が民の罪を贖うために、年に一度しか通ることのできなかった垂れ幕が、「成し遂げられた」との宣言により「上から下まで真っ二つに裂けた。」(マルコ15:38)のです。イエス様は、サマリアで一人の女性にイエス様こそ救い主、キリストであるという福音を伝え、彼女の問いに答えて「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24)と答えられました。「霊」というのは「主の霊のおられるところに自由がある。」(Ⅱコリント2:17)と書いてあるように、神殿の至聖所だけでなく「どこでも」礼拝できるということです。この時から人はいつでも、どこでも、誰とでも自由に礼拝を捧げ、遠慮なく神の「恵みの座」(ヘブライ4:16)に近づくことができるのです。
つまり、律法の真の要求を満たすことができるのは「罪なき人」イエス様だけなのです。この御方が「罪人」の身代わりに御自身を献げてくださったので贖いが完成し、完全な贖いゆえに罪が完全に赦されるのです。またこの御方の愛が、神様の御旨である律法の義を完成されたので、神様の祝福が溢れ出てきたのです。以上のようにキリスト・イエスの十字架によって律法が完成し、同時にキリスト・イエスを十字架につけたイスラエル人はこの御方を退けたので律法の契約は終了し、呪い(死と災い)が下ったのです。このようにして契約を守ることによる「律法と預言者の時代」は、イエス様の十字架によって終わり、
イエス様の十字架から「赦しと恵みの時代」が始まったのです。

◆選民イスラエルだけでなく、全人類を祝福する神の御旨とその2つの根拠
・異邦人にも及ぶ神の祝福の事実
しかし、間違えないで下さい。この呪い(死と災い)と祝福(命と幸い)は、「律法」を与えられたイスラエル民族のものであって、他の民族には関係ありません。しかし、使徒パウロは(ローマ1:1)次のように述べています「では、あなたがた異邦人に言います。・・しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたがたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたがたが根を支えているのではなく、根があなたがたを支えているのです。・・ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上ってはなりません。むしろ恐れなさい。・・神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。・・」(ローマ11:17~24)パウロは復活のイエス様から、異邦人伝道者としての任命を受けました(使徒言行録9:15)。また、使徒ペトロは「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4:12)と声高らかに宣言しています。さらにイエス様誕生の時、老シメオンは「・・わたしはこの目であなたの救いを見たからです。/ これは万民のために整えてくださった救いで、/ 異邦人を照らす啓示の光/あなたの民イスラエルの誉れです」(ルカ2:30~32)と言いました。そして、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)と復活されたイエス様御自身が言われたのです。使徒たちが「父の約束されたもの」(使徒言行録1:4)・・「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。」(ヨハネ14:16新改訳)と言われた助け主=聖霊様の力によってローマ帝国から解放し、イスラエルを復興する時ですか?と問うたときにです。なぜでしょうか?律法を完成することによって与えられる神様の祝福が、律法とは関係のない異邦人にも及ぶのはなぜですか??

・すべての人は神の御前に罪人であり、十字架の贖いはすべての人のためだった
レポート46pにあるように、確かに律法を守れませんでした。しかし、それはイスラエルという特定の民の問題ではなく、人類の始祖が誘惑されたとはゆえ自分の意志で神に反逆した結果、人を支配するようになった罪の性質のためだからです。「律法が与えられる前にも罪が世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。」(ローマ5:13)と書いてあるように、また、「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」(ローマ2:14・15)。つまり律法を持っているユダヤ人は律法によって「罪ある者」とされ、律法を持っていない異邦人は、良心によって「罪ある者」とされるのです。ですから聖書に「既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」(ローマ3:9)と書いてあるのです。ギリシア人とは異邦人の代表です。ですから「罪なき人」イエス様の十字架は、律法違反による贖いだけでなくアダム以来、良心に従いきれない全ての人類の贖いでもあったのです。以下の御言葉がそのことを証明しています。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んできたように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ローマ5:12,17・18,21)「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23・24)以上のように、       キリスト・イエスによる十字架の贖いはすべての人のためだったのです。

・全人類を祝福する神の御旨とその2つの約束の言葉 
 しかし、聖書はもっと単純で、はっきりとした神様の御旨、計画であったと言います。なぜなら、イスラエルと結ばれた新しい契約とエフェソの信徒の手紙にそのように約束されているからです。これが2つの根拠です。
①イスラエルと結ばれた新しい契約・・「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」(エレミヤ31:31)その内容は、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」・・自在存在であり、創造主であり、愛そのものの御方が100%永遠に味方となってくださるという最高の祝福の他に、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」と言われたように、完全なる罪からの解放。さらに「すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。・・そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。」(エレミヤ31:33・34)と。以上の箇所を新約聖書でも引用して「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。・・彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に、『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで 彼らはすべて、わたしを知るようになり、」(ヘブライ8:10・11)と記されています。また、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」(エゼキエル36:26・27)と書いてあります。「新しい霊、わたしの霊」と神様が言われたこの御方は三位一体の神様、聖霊様のことで、この御方が一人一人の心の中に来てくださり、「霊の望」(ガラテヤ5:17)なってくださるのです。
 《しかし、神様はアダムとエバを見捨てられたのではありません。彼らは多くのものを失いましたが、『神にかたどって・・神のかたち』(創世記1:27)、あるいは『命の息』(創世記2:6)を不完全なかたちではあるが内に残されました。不完全とは、人は肉体(物質的部分)と心・魂(知性・感情・意志などの部分)と霊(神のかたち・・聖、義、善、真実などの神の御性質の反映・・や、命の息・・人間独自の本質的生命であり、聖霊様を宿す場)で構成されていますが、この『霊』の部分が神様との断絶によって、その機能を十分に・・否ほとんど発揮できなくなりました。しかし、神様はキリストにあって、今一度再創造の御業を成してくださるのです。『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。』(Ⅱコリント5:17)》と、レポート33pに書きました。しかし、今や「霊」の部分に聖霊様が来てくださり、そこから再創造の御業をなしてくださるのです。そしてそれはやがて「魂」「肉体」の部分にまで及ぶのです。何とすごい祝福でしょうか!!!素晴らしすぎてイメージすることもできません。
 ②エフェソの信徒への手紙2章13節・・しかし、もう一度言いますがこれらは、契約の民イスラエルの祝福であって、イスラエル人でない私たちにとって受けることのできないものなのです。しかし、・・この「しかし」は特別な「しかし」であって、この「しかし」によって、契約の民イスラエルの祝福を、何の関係もなく、何の努力も、何の犠牲も払ったことのない私たち異邦人が、100%すべて共有することができるのです。このことを聖書は特に「恵み」と言います。そしてその根拠は「エフェソの信徒への手紙」に記してあり、この手紙は「~信徒への手紙」同様、異邦の地の異邦人信者に宛てた手紙なのです。「・・あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。・・それで、このキリストによってわたしたち両方のの者が一つ霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。・・」(エフェソ2:11~22)まさにこの「しかし」が、イスラエル人と異邦人を一つに結びつけ、キリスト・イエスの十字架からほとばし出る祝福が、父なる神様に近づけ、彼らと共に神の家族とならしめてくださるのです。 
 ここで改めて「新しい契約」は、誰と結ばれたのか?と問う必要はないと思います。ユダヤ人の王であり、そしてイスラエルが全民族の代表であるゆえに、同時に全人類の王でもあるイエス・キリストが、しかも十字架刑によって流された血(命・・レビ17:11)によって結ばれた契約なのです。
 
 ◆信じることでもたらされる神の祝福
 ですから福音とは、十字架の上で完成された祝福を受け取ることなのです。イスラエルの民が受けるべき上記の祝福を、イスラエルの神とも、契約とも何の関係もない私たち異邦人が何の犠牲も払わないで受け取ることができるのです。では,実際にこの途方もない祝福(それが善き知らせ、福音のことです)を受け取るためにはどうすればよいのでしょうか? 十字架の贖いが自分に必要であることを認め、聖書の約束を信じることです。  例えば・・
 「神さま、私は罪人です。自分で自分を救うことはできません。いま、私の罪の身代わりとして十字架にかかり,3日目に甦えってくださったイエス・キリストを,私の救い主、また、主として心の王座に迎えます。これから罪を捨て、キリストに従っていきますから、私のすべての罪を赦し、新しい豊かないのちに歩ませてください。お約束を信じて感謝いたします。キリストの御名によって祈ります。アーメン。(『大いなる救い』総動員伝道研究委員会)」
「主イエス様、私はあなたを必要としています。あなたが、私の罪のために十字架で死んでくださったことを感謝します。私は、今、あなたを私の罪からの救い主、人生の主としてお迎えいたします。私のすべての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださり感謝します。私の心の王座で、私の人生を導いてください。私をあなたが望んでおられるような者に変えてください。アーメン。(『四つの法則』国際キャンパス・クルセード1965)」
*「アーメン」とは、ヘブライ語で「本当です。わたしもそう思います。・・」の意味。

◆神の祝福、すなわち罪の性質からの解放と永遠の命
 十字架の上で完成された祝福は、別の言い方をすれば「命をもたらす霊の法則」による「罪と死との法則」からの解放です。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1・2)と書いてあるとおりです。もはや人類は、永遠の滅びに向かう死すべき者ではなく、永遠の命に向かう生ける者とされたのです。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)と書いてあるとおりです。「裁かれることなく」とは、「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることが定まっているように、」(ヘブライ9:27)と書いてあるように人間は、神の御前に出て自分の言動について申し開きをしなければならないのです。「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。・・死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」(黙示録20:12)と書いてあるとおりです。しかし、神様を信じた者は    イエス様と一つにされ、イエス様が十字架で裁かれたように裁かれ、イエス様が復活されたように復活するのです。信じた者は既に裁きが終わつた者とみなされ、イエス様と共に「命へと」移っているのです。聖書に「次の言葉は真実です。『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。』」(Ⅱテモテ2:11)と書いてあるとおりです。もしかしたらそれは、聞いたこともない遠い親戚の大金持ちから突然送られてきた、遺産相続の書類にハンコを押すようなものかもしれません。遺産を受け取るのに必要なすべてのものが揃っていても、印を押さなければ自分の物とならないように、信じなければ受け取ることができないのです。その書類は聖書や信仰の先輩、集会や信仰書、ラジオやテレビなどのマスメディア、最近ではインターネットなどを通して、あるいは直接?などありとあらゆる方法で送られてきます。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ローマ5:2)と書いてあるように、「赦しと恵みの時代」の真髄は「契約(約束)を信じる」この一事にあるのです。信じるだけで神の絶大な祝福を得ることができる。だから、恵みなのです。

 ・信じる事ことに対する2つの疑問
 1つは「信じます」と言っただけで「神の祝福」を受けることができるのか?確かに聖書に「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)と書いてあります。信じる事は神様の約束なのです。何の行為も必要ありません。イエス様が十字架につけられたとき、両側に二人の犯罪人もつけられていました。一人はイエス様をののしり、一人は「『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」(ルカ23:42・43)と記されているように、もしかしたら懺悔という自分の悪を認めて告白することすら必要ないのかもしれません。しかし、「心で神が イエスを・・信じるなら」を詳訳聖書では「その真理に心服する、信頼する、より頼む」と言い換えています。すなわち、何を信じたか?だけでなく、信じたあとにより頼む、つまりどう生きたか?が大切なのです。例えば、「結婚してください」と申し込んでおきながら、その相手に対してなんの関心も行動も起こさなかったら、その告白は受け入れることができないのと同じです。イエス様の実弟であるヤコブも皮肉を込めて同じようなことを言っています。「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」(ヤコブ2:18・19)悪霊どもも神様をを信じていて、震え戦いて(ふるえおののいて)いるのです。イエス様も「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)と言われましたが、それは「信じます」と告白したイエス様に何の関心も信頼も寄せずに、自分たちがしたいことを自分たちのためにしていた者たちに言われた言葉です。では「天の父の御心」とは何でしょうか?聖書に「主は憐れみ深く、恵みに富み/ 忍耐強く、慈しみは大きい。」(詩篇103:8)と書いてあります。イエス様も「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイ9:13)・「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ6:36)と言われました。次の6区分目の「正義の時代」では、天の父のもとに帰えられたイエス様が、今度は十字架にかかるためではなく、人類の王として人々を裁くために再びこの地上に来てくださいます。 
 そして、すべての民(キリスト者)を右と左に分けて「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(マタイ25:45・46)「永遠の罰」とは「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入」(41)ることであり、「永遠の命」とは「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継」(34)ぐことなのです。この裁きの基準が信じるだけでなく、「飢え(マタイ21:18)」「渇(ヨハネ19:28)」き「旅をし(マタイ8:20)」」「裸(ヨハネ19:23)」で「病気」で「牢にいた」この最も小さい者たちではなく、「小さい者の一人に」、しかも、「わたしの兄弟」とイエス様が言われた彼に、あるいは彼女に憐れみの心を表したか、表していないかの違いなのです。この御方を信じる事、それは隣人を憐れむこの御方と同じ方向を向き、この御方を信頼して共に歩むことなのです。

 2つ目は「信じない者」はすべて「永遠の罰」を受けるのか?答えは、「分からない。」です。それは私たち人間の領域ではないからです。私たちができることは、「信じたら罪から解放されて、永遠の命が与えられるよ。そして、イエス様のように人を愛せるようになるよ。」と神様のすばらしい約束を伝えるだけですから。しかし、いろいろな状況で「信じます」と告白できない人たちがいます。このよき知らせ=福音を自分の意志で拒否する人、聞いたことのない人、誤解している人、立場や環境的に難しい人、・・彼らは「神の祝福」を受ける可能性はないのでしょうか?私は個人的には「ある」と思っています。聖書に「そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペトロ3:9)と神様の御旨が記されており、また、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」(Ⅰテモテ2:4~6)と書いてあります。当たり前のことですがイエス様の十字架は信じる者だけではなく、すべての人のためだったのです。イエス様も使徒であるヨハネに「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」(ルカ9:50)と言われました。聖書ではイエス様を信じる者を一人の「花嫁」に例えていますが、花嫁だけでなく「それから天使はわたしに、『書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ』と言い、」(黙示録19:9)と書いてあるように信じる者以外にも招かれている者がいるのです。さらに先ほど引用した聖書「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。・・死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」(黙示録20:12)・・彼らは「信じる者」ではありません。彼らは信仰においてではなく「行い」によって「神の祝福」か、「火の池」かに分けられたのです。この裁きにおいて動機が問われないのは、一人でも多くの人が「神の祝福」に預かるようにとの御旨かもしれません。

 ◆しかし、自由意志の選択により、人は再び個々人レベルで罪に支配される可能性あり
 話を戻しますが、信じることによって罪と死との法則からから解放された私たちには、もう罪がないのでしょうか?「罪に定められることはありません。」(ローマ8:1)とは、罪とは一切関係がなく、もう罪を犯さなく、あるいは犯せなくなることでしょうか?そうではありません。確かに私たちは、イエス様の十字架の死による贖いによって解放されました。それは間違いのないことですが、それで罪を犯さなくなるかと言えばそうではありません。何故なら「罪と死との法則」は人を支配し従うしかありませんが、「命をもたらす霊の法則」は選択する自由を与えるからです。レポート20pに書いたように、「肉の望」と「霊の望」の選択であり(ガラテヤ5:17)、もし肉の望みを選択すれば、神の国を受け継ぐことはできなくなります。繰り返しますが、人類を自分の支配下に置くことができなくなったサタンは、肉の望みを通して人を個人的に支配しようとしているのです。では「肉の望」は悪であり罪なのですか?私は違うと思います。24節に「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」と書いてあるように、「肉の望」とは行き過ぎた、生きていくための肉的欲望+偶像礼拝や魔術などの霊的欲望だと思います。この「欲望」を仏教などでは人の幸いを妨げる悪として排除する傾向がありますが、聖書はそうではありません。創造主なる御方が、御自身に似せて人を造られたのです。(創世記1:26)その内側に最初から悪いものをおかれるはずがなく、「罪の性質」のように外側から来たものではないのです。ですから肉の望みそのものは悪いものどころか、必要なものであり良いものなのですが、それが暴走しないようにコントロールしなければならないのです。「十字架につけてしまったのです」というのは、自分ではコントロールしにくい「肉の望」をイエス様にゆだねること(他力本願)、別な言い方をすれば、ティッシュペーパー一枚から一人で運べない大型冷蔵庫に至るまで無分別ゴミのようにしてイエス様に渡すことなのです。イエス様は超強力で灰も残さない「溶融炉」機能も含めた最新焼却炉をお持ちですので、委ねれば完璧に処理してくださいます。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)と、聖書に約束されているとおりです。そして「霊の導きに従って歩みなさい。」と言われているように、「霊の望」を選択することによって、「愛、喜び、平和・・」と     イエス様のような生き方をすることができるのです。
 ただサタンは巧妙で、私たちが気がつかないうちにその支配の手を伸ばしてきています。ここでもう一度「罪の性質」について思い起こしてみましょう。罪の性質とは、欲に導かれる自己中心、神が愛された自分自身を破壊しようとする自己破壊(他者破壊)、さらに 神が創られたすべての善きものを嫌い否、憎み、悪しきものを愛する性質のことです。この性質を一言で表すと否定となります。他人を否定し、自分を否定し、すべての善きものを否定する、まさに完全否定です。もちろん繰り返すまでもなく、この「罪の性質」からは解放されているのですが、サタンは人の内に「否定」という傷跡を残しました。ただ誤解してほしくないのは、例えば否定的感情は悪ではなく肯定的感情も善ではありません。肯定的感情が人を傷つけることもあれば、否定的感情が人を慰めることもあるからです。ようは用い方です。味覚にうま味を含めた5味ありそれが味の深みを表すように、感情もその人を豊かにします。しかし、不安が恐れに、怒りが憎しみに、失望が絶望などの否定的感情に変わるとイエローカードです。本来この「罪の性質」の持ち主であり、実際に人を支配していた元主人のサタンは、コントロールできない肉の欲望によって犯す罪や、過度の否定的感情、更に近年パワースポットや占い、ホラー映画など流行しているようですが、これら幾つかの扉?道?を通してサタンがかかわろうとしています。「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、」Ⅰテサロニケ5:23)と書いてあるように、本来、神様との交流のために造られた心の中心?にある霊の座ともいうべき場所に居座り、もう一度あなたの個人的な主人になって、支配しようとしているのです。
 ある先生に教えられました。クリスチャンであっても、そのリーダーであっても心の奥底に「私は十分でない」、「無力だ」または「絶望的だ」と否定的な感情を持っている人がいると。実際、私にもありました。あるどころか「ダメだ、ダメだ」と言われ続け、子どもの頃から劣等感の塊のようになっていた私は、この「ダメ」こそが自分の本質のように思い込んでいたのです。ですから劣等感の後遺症でしょうか?今でも誉められると居心地が悪くなり、叱られると「ほっ」とすることがあります。叱られている所が、自分の本来の場所だと思っているのです。・・おかしなことを書いてスミマセン。先に「『赦しと恵みの時代』の真髄は『契約(約束)を信じる』この一事にあるのです。」と書いた私ですが、その自分が「自分は足りない」「何をしても無駄」「ここには希望がない」と無意識のうちに信じていることこそ、まさに不信仰そのものだったのです。信仰生活ウン十年、そのことに気づず、それが聖書の言う「罪」であることもわからなかったなかった私ですが、しかし、1対1の導きの中で・・悩みを告白するカウンセリングでもなく、目標に向かわせるコーチングでもない、単純だけど自分では決して気づくことのできなかった視点を示されました。コーチング手法でいう「良い質問」です。その中で、初めて私はこう聞きました。「イエス様、あなたは私のことをどう思われていますか?」イエス様はイメージを与えてくださり、十字架で傷ついた右の御手を示しながら「わたしは、あなたを愛している。」と言ってくださったのです。今まで私が、牧仕(牧師)として何百回も使ってきた言葉です。しかし涙が止まらなくなりました。そして知ったのです。これがファーストコンタクトだったと。私が「お前はダメだ、ダメだ」と世の声を聞く前に、イエス様が、私に「わたしは、あなたを愛している。だから大丈夫だよ」と優しく語りかけ、世に遣わしてくださっていたのです。過度な否定的感情からの解放でした。いいえ、もしかしたら本当の意味での解放の始まりだったかも知れません。聖書に「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:8・9)と書いてあるとおりです。この時から何とか自分を受け入れようと努力するのではなく、自然に自分を愛せるようになった気がします(注 ナルシストではありません)。

◆「従順」こそが、再び罪の性質に支配されない方法である
では、罪の支配から解放された私たちは、どうすれば再び罪に支配されないで、自分の人生を楽しむことができるでしょうか?・・「人生は楽しんでもいいのでしょうか?」「良いことが続いたからきっと悪いことが起る。不安でたまらない。どうしたらいいでしょうか?」と聞かれることがあります。確かに日本の先人も「人の一生は重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし。・・」と言いました。示唆に富んだおもい言葉だと思いますが、創造主が私たちに求めておられるのは「人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と」(コヘレト3:12)と記され、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ5:16~18)と書いてあるのです。聖書は、すべての人が自分の人生を楽しむことができるように、そのために他人ではなく自分が変わる(成長する)ことができるようにと書かれた本でもあるのです。
改めて質問します。どうすれば再び罪に支配されないで、自分の人生を楽しむことができるでしょうか?そのためには始祖アダムとエバが罪を犯してしまった原因、その根にあたる部分はどこにあるのか知っておく必要があると思います。聖書には「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」(ローマ5:19)と書いてあります。「一人の人」・・始祖アダムの不従順によって「罪の性質」に支配されるようになり、その結果すべての人が「死すべき者」となったのです。それに対して「一人の従順」であり「最後のアダム」(Ⅰコリント15:45)であるイエス様は「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4:34)、「わたしは自分では何もできない。・・わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」(ヨハネ5:30)、と言われ、さらに「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)と言われるくらい自分の意志ではなく、父なる神の御旨に従われたのです。そして神様からは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17、17:5)と称賛されました。御旨に対する従順、それが「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:8)の意味なのです。

 ◆「従順」とは、聖霊様の導きに従おうと決心する意志のこと
それでは、従順とは何でしょうか?「従順」とは、読んで字のごとく、人の言うことに素直に従って逆らわないことですが、でもそれは盲信や盲従とどこが違うのでしょうか?結局、冒頭でふれたように、神様を主人とし、自分を僕とする縦の関係にならざるを得ないのでしょうか??そもそも自分にではなく、他に従うことがそんなに大事なことなのでしょうか?ハイ。おそらく自分が想像する以上に重要なことなのです。ただ、イエス様が行い示された「従順」は、「愛」と同じようにこの世の価値観に基づくものではありません。この世の従順は「不平不満をいわず、相手の意向に従うことであり、泣く泣く条件をのんだり、甘受、黙従など自分の意志を抑えること」ですが、イエス様の示された従順は、自分の意志で、喜んで従うことを選択することなのです。私たち夫婦も最近そのことに気がつきました。私たちは阪神大震災の年に結婚し、その年から神戸市の東灘区にある教会に赴任しました。貸しビルの2階にあった教会には青いビニールシートが張られ、牧師館は使用不可で、急遽尼崎市に住むことになりました。二人とも実家を離れて独立していたので、二重の家具や本、電気製品が多く狭いアパート(荷物過多)にギュウギュウ詰めで、開かずの段ボールの隙間で生活している感じでした。そこから震災で壊れた街の壊れた教会に通うのです。そこには「新婚生活」という甘い言葉も雰囲気もありません。ただただ悲惨な現実があるだけでした。このような状況もあってか言い争うことも多く、それでも3~4時間では収まらないくらいの話し合いをして、何とか数々の危機?を乗り越えてきました。以上のことから、お互いどこかで「話し合えばわかる。一致できる。」という感覚を持っていたようです。ところがある出来事を通して、何と言いますか男女の超えることのできない感覚の違いがあることに気が付いたのです。一般的にあくまで傾向としてですが男性は論理的に考えて答えを出そうとするのに対し、女性は感情が豊かで共感性を求めようとします。これを食べ物に例えると「アレルギーがあるので食べられない」と答えるのが男性的思考で、「魚が一番嫌いでツナ缶が一番好き」と答えるのが女性的思考のように思います。私はどうしても筋を通すと言いますか、物事に一貫性がないと落ち着かず、自分で枠を作りその中で行動する傾向があるような気がします。ところがどうも家内はそうではない。私がそのようなことを言うと、考えすぎだとか頭が固いとか言います。明らかに反対の意見だと感じたので問うと、「そうではない。もっと軽く考えて。」と答えます。でもあなたの意見だとこのような結果になるよ。と言うとそんなことまで考えてない。ただ言ってみただけ・・。「ハァ?どう考えたらそうなるの?」「エエッ?どうしてそう思っちゃうの?」「だからさぁ、」こんな会話が延々と繰り返されるのです。そこで私はやっと気が付いたのです。彼女を理解するのは不可能だと!!!ではどうするのか?理解できなくてもいいそのまま受け入れるのです。理解できたら愛する。できなかったら愛さないではなく、聖書は「妻を愛しなさい。」(エフェソ5:25)と命じています。理解できなくても自分の意志で、そのまま愛すると決心するのです。妻に対しては「自分の夫に仕えなさい」と書いたあります。私は気が弱くてそのように命じることができないので、「私の味方になってください」と頼みます。「なんで今さら聞くの?私はずっとあなたの味方よ。ついていきます。」この言葉を聞くと、私は本気になって彼女を愛そうと決心するのです。家内も同じでした。自分の意志で決心して愛する。自分の意志で決心してついていく。聖書はこのような関係を『たがいに仕え合いなさい。』と勧めています。仕え合うとは従い合うことなのです。理解できるから、似た者同士だから愛するのではなく、違いを認め、違いを大切にし、違いを強みにする・・互いの愛を求めるのではなく、互いに愛を与え、互いに従い合うことによって、違うものだからこそ一体となることができる。それに必要なのは感情や経験・理解だけでなく、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません」(ガラテヤ5:16)と書いてあるように、聖霊様の導きに従おうという意志なのです。このことに気付いた私たちは「26年目の真実」と名付け、改めて聖書の真実に驚かされました。
それにしても何故、同じ人間なのに・・、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:24)と神様が言われたように、一体となれる存在なのに・・何故こんなにも互いを理解することが難しいのでしょうか?

※選択の対象である「肉の望」は、コントロールすべき欲望であることの確認
私は、始祖アダムとエバが「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」(創世記2:17)と言われた木の実を食べたことに起因すると思っています。それまでのアダムとエバの選択は(選択の自由は、神様が人に与えた特性ですので、決してなくなることがありません)、善悪を知る知識の実を食べる前だったので、神の御旨に従うか、自分の心に従うかの二者択一でした。そこで自分の心に従うことを選択したのが誘惑に陥る始まりでしたが、確かに神様は「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった」(創世記3:22)と言われました。それ以来男女間の思考や感覚の違いだけでなく、すべての人が自分の内に善悪の基準を持つようになり、互いを別な生き物と思えるほどの違いを感じるようになったのではないかと思います。私も結婚した当初は、家内のことを遠い世界から来た宇宙人ではないかと、本気で疑ったこともありました。最も愛すべき対象である妻でさえこのように感じるのですから、他人はもちろんのこと兄弟・姉妹であっても理解できないことが多々あります。確かに私たちは同じ親から「性質」を受け継ぐものですが、人は「生理的早産」(レポート27p)という特殊能力によって育つ環境の影響を受け、他の動物にはない質的変化をするのです。もしかしたらこの変化を未完成=可能性ととらえるとき、その状態が生涯続くのかもしれません。そしてそれが性格の違い、性格の変化(「三つ子の魂百まで」と言う諺のように、幼い頃体得した性格は変わりにくいものですが、激しい環境の変化や意識することによって意外と簡単に変えることができます。)として表れるのです。結局人は、徹頭徹尾、自分の内にある性格、内なる肉の望み、言葉を変えれば善悪の基準によって行動するのではないのでしょうか。しかし、それはいうなれば一人一人が目盛り幅の違った定規を持っているようなもので、それぞれがこれの長さは何センチだ、と主張したら混乱してしまいます。なぜなら全部が正解で、違うのはそれぞれの内にある目盛り幅だからです。そこで必要になってくるのは、基準(共有)なる目盛り幅です。それが規則(共通)となるのです。しかしそれはあくまでも基準であって、絶対的なものではないので状況によって変わります。少し複雑な言い方をしていますが、車の制限速度規制に似ているかもしれません。日本の道路交通法においては「最高速度」と言い、速度制限標識がない場合には、普通自動車60㎞/h、緊急自動車80㎞/h・・。この例えの場合、一般高速道路のほうが分かりやすいと思うのですが、標識がない場合、法廷最高速度が普通自動車で100㎞/hとなります。そして最低速度が50㎞/hです。共に違反すると違反点数、反則金が課せられます。なぜなら危険だからです。これが共通の認識、規則となるのです。私たちは危険だからという理由よりも、違反の罰を嫌がって守っていることが多いと思いますが、もし罰則がなかったら・・。高速道路において50~100㎞/hが、安全走行の基準であることを知っていたとしても、果たして忠実に守るでしょうか?危険と言う意識は善悪の意識同様、個人の内から出て来るものであって人によって違いますし、何よりも今の自動車の性能は、100㎞/hどころではありません。私の乗っている軽四でもスピードメーターは140㎞/hまでありますし、普通自動車では180㎞/h、あるいはそれ以上表示してある車種もあります。性能から言えばそれ以上のスピードが出るのでしょう。そこで必要になってくるのはコントロールです。まさかスピードの限界まで挑戦してみたいという人は少ないでしょうが(そうなれば完全に暴走です)、私などはついアクセルを踏み込んで120㎞/hまで出してしまい、慌てて80~90㎞/hまで落とします。これがコントロールです。このコントロールが必要なのは、自分の内にある人として生きていくために必要な欲であり、聖書の言葉をではこのレポートで何度も出てきている「肉の望」になるのではないかと思います。人は一人では生きていけません。そのような意味では人も「群れをつくる動物」となるのでしょうが、それだけでなく不完全であり不十分であっても神の「かたどり」で造られた霊の存在である人が、この集団の中で、共に平和でよりよく生きていくためにコントロールしなければならない欲望が、「肉の望」なのです。まとめると、私たちは与えられた自由意志で「肉の望」ではなく聖霊様の御旨である「霊の望」を選択し、喜んで聖霊様の導きに従うことによって欲望のコントロールが可能になり、私たちは自分の人生を楽しむことができるようになるのです。

◆「良心」は、「神にかたどって」創造された、かたどりの一部、霊的性質である
では、「肉の望」は人の動物的?生物的?性質に起因するものですが、私たちの内には「霊の望」である聖霊様の御旨に従いたいと思う霊的?性質はないのでしょうか?私はあると思います。なぜなら、ここでまたささやかな疑問が出て来るからです。
 ①「肉の望」が内なる性質であり、自分の内なる意思によって欲情や欲望のままに行動すると、失敗や「やりすぎた」などと言う内省はあっても、呵責や罪悪感など自分の行動を責めるものはいないはずだ。ところが事実はそうではない。ではなにが自分の行動の善悪を判断し、善を喜び悪を責めるのか?
②「霊の望」は、聖霊様の御旨であり福音を受け入れた者に与えられる新しい性質のようなものであるが、それ以前には、その性質と類する性質は人の内にないのか?言葉を変えれば、神が「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」(創世記1:26)と言われた、神の与えられた神の「かたどり」は、人の内のどこにあるのか?
③「霊の望」を与えられる聖霊様は、あくまで「助け」であり、主ではない。聖書にも「あなたたちは、もし(ほんとうに)私を愛するならば、私の命令を守る(に服従する)。私は父に求める。父はあなたたちに、彼があなたたちといつまでもともにおられるように、もうひとりの慰め主(助言者、助け主、とりなす者、弁護者、激励者、援助者)を与えられる。」(ヨハネ14:15・16 詳訳聖書)と書いてある。だとすれば聖霊様は、誰あるいはなにを助けるのか?
3つの問いに対する答えは一つで、「良心」です。一般に良心を「善悪を判断し、善を喜び悪を嫌う心の働き」と定義します。しかし、レポート59pでも引用した聖書に「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」(ローマ2:14・15)と書いてあります。「良心」とは、ギリシヤ語の「ジュネイデーシス」が使われ、もともとは「共に見る=他人の痛みなどを見て知ること」の意味ですが、聖書に用いられることにより「神と共に知ること」という意味になったそうです。ですから「良心」は、人の創造の時に与えられた神の「かたどり」の一部であり、律法と同じく神の御旨を反映するゆえに、「肉の望」に善悪のジャッジの判定を下すことができ、「良心」が本来の役割を果たすことがができるように聖霊様が助けてくださるのです。そのような意味で「良心」とは創造主なる神から遣わされた管理監督者のようなものなのかもしれません。ちなみに同志社大学の創立者である新島襄は、「人は宗教的教育により『良心』を育みようやく『人間』となる」という信念を持ち、大学正門近くの「良心碑」には「良心の全身に充満したる丈夫の起り来らん事を」と彫られているそうです。
 
 ◆良心の「弱さ」の問題と、キリストの流された血による解決
 では、私たちは「良心」に従えばいいのでしょうか?そのとおりです。しかし、良心に
は弱さの問題があります。新約聖書の筆記者であるパウロも「良心が弱いために汚されるのです。」(Ⅰコリント8:7) 「兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、」(Ⅰコリント8:12) 「ある人々は自分の良心を退けた(自分の外に投げ捨てた)ために(Ⅰテモテ1:19 詳訳聖書)「良心の麻痺した(焼きごてによって無感覚にされた)」(Ⅰテモテ4:2 詳訳聖書)等々良心は弱く・簡単に傷つき・捨てられやすい(無視される)のです。ですから、たとえ良心が神様から与えられたものであっても、従うことが困難になり、現実問題として従いえないのです。ではどうすれば良心を強くし、本来の働きをすることが出来るようになるのでしょうか? 次のような御言葉があります。「(彼の)永遠のみ霊(彼ご自身が神として持たれる先在のご人格)の力により、ご自分を傷のないいけにえとして神にささげられたキリストの血は、なおさら、私たちの良心を死んだわざ(いのちのない儀式の遵守)からきよめて、(永遠に)生きておられる神に仕えるものとしないはずがあるでしょうか。」(ヘブライ9:14 詳訳聖書)と。「血はその中の命によって贖いをするのである。」(レビ17:11)と書いてあるように、キリストの命(血)は、「罪の性質」の支配から解放するだけでなく、「死んだ業」という形式的で無力になっていた状態から、生きて力のあるの状態に戻してくださるのです。そして再び神から遣わされた管理監督者として、創造主なる御方を拝し、喜んで従うように導いてくれるのです。そして、イエス様が父なる神様に従われたように、私たちも御旨に従順な者になることにより、内なる神の国が始まるのです。
 
 ※神は「三位一体(さんみいったい)」なる御方であると信ずる 
 実際、御旨に従順な者に与えようとされる、神様の祝福にはすさまじいものがあります。
聖書に「『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証しておられます。」(使徒5:29~32)と書いてあります。ここにも三位一体なる神様の御働きがあります。父なる神様が、十字架と復活によって贖いを完成させるために御子を人として地上に送り、御子であるエス様は、罪を示し、悔い改めと赦しのために十字架にかかられ、聖霊様は、十字架で完成された贖いの事実と、この御方が救い主(ギリシア語でキリスト)であり、私たちの導き手となってくださるという福音を一人一人に伝えてくださるのです。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ローマ1:16)なのです。この「力」はデュナミスと言うギリシア語が使われ、この言葉から英語のダイナマイト、ダイナモ、ダイナミックなどが派生したと言われています。この神の力はまさに古き人を着物のように脱がせ、造り主に似せた新しい人を着せることができる(コロサイ3:9・10)ダイナマイトの力なのです。
 ちなみに「三位一体」とは神学用語で、水が液体、固体、気体と3様態に変化するように、一人の神が3役をしている様態論や男性が妻に対して夫であり、子どもに対して父であり、会社に行けば社員と言う立場の違いなら理解しやすいのですが、そうではなく三つの位格を持ったお一人の神と言う意味です。このことを説明することもイメージすることも私にはできません。さらに「太陽の本質が父なる神様で、その本質を可視化したのが子なる神様で、宇宙空間を通って地球に様々な影響を与えるのが聖霊なる神様である」とか、「『思い』が父なる神様で、『言葉』にしたのが子なる神様で、それが『声』となって人に伝わるのが、聖霊なる神様である」などいくつもの説明があるようですが十分ではないのでしょう。「三位一体の神」とは理解するのではなく、そのような御方だと信じることが大切なのだと思います。ただ、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:24)と神様は言われました。愛し合うことによって、性別も育つ環境も違った者が一体となるのであれば、父、子、聖霊という異なった御方が、互いに愛を与え合うことによって一体の神と言う御方になられ、また、三つの異なった御方が一つになっておられるから全知全能であり、自存存在でありうるのかなと思いました。
 
 ◆人は「良心」に従いたいという欲求を持っている。マズローの「欲求5段階説」の6段目による証明
 では、具体的に「良心」に従うとはどのようなことなのでしょうか?また、私たちの内には「良心」に従いたいという欲求はないのでしょうか?
 心理学の分野で、広く知られている心理学者アブラハム・ハロルド・マズロー(1908~70、アメリカ合衆国の心理学者)が唱えた「欲求5段階説」というのがあります(1943年「人間の動機づけに関する理論」の中で発表)。2段目までが「生理的欲求」「安全の欲求」で物理的欲求と呼ばれるものです。3段目からは精神的欲求で、仲間や家族の一員であると感じたい(自分の居場所)「社会的欲求(所属と愛の欲求)」。次にただの一員だけではなく、その中で自他ともに認められたい、尊敬されたいと思うのが承認欲求とも呼ばれる「尊厳欲求」。ここまでが「欠乏欲求・・満たすことが目的」で、他者や環境に依存している状態です。そして5段目が「成長欲求・・成長それ自体が目的」という分野に入る「自己実現欲求」です。これは様々なことを通して自己の素質や能力などを発展させ、より自分らしく生きたいとの欲求であり、この欲求を満たすことができるのは自分自身であるので、他者のせいにすることがなく自立的であると言えると思います。マズローは、人間とは自己実現に向けて絶えず成長してゆく存在であり(その後マズローは、逆説的かも知れませんが、人間には成長や活動への傾向があるのと同時に、怠惰傾向も本来備わっていると主張しています。しかし、それはまたエネルギーを貯えるための生理的反応、傾向・・つまり休息、回復への欲求であると位置づけています。《マズローの心理学72p》)、低次の欲求ほど強いと考えました。それでこの理論をピラミッド型にしたのです。しかし、実際にはこの段階を順番に上るとは限らず、飛び越える人もいますし、また、一つの段階が満たされたからといって次の段階に進むとは限りません。留まる人もいるのです。それでもこの欲求段階説によると、人が成長しようとするのは自分がより良い立派な人間?になるためではなく、人のため、社会のためだと言いながらも結局は自分のため、自分に足りないものを満たすためであり、また、自分らしい生き方をしたいためなのです。つまり自分の内にある善、言葉を変えれば自分の得になることはしても、損になることは決してしないのです。これは善し悪しの問題ではなくホモ・サピエンス・サピエンス(分類学上の現生人類)としての限界なのかもしれません。しかし、現実社会では自分の損になっても人を助けようとする人がいます。例えば、17歳最年少ノーベル平和賞受賞者マララ・ユスフザイ(1997~)、彼女はパキスタ出身のフェミニスト・人権運動家で、14歳の時スクールバス内で武装勢力タリバンに襲撃され、頭を銃で撃たれました。マザーテレサと呼ばれたアグネサ・アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ(アルーマニア語読み1910~97)、彼女は、カトリック教会のシスターで、修道会「神の愛の宣教者会」の創立者です。コルカタ(カルカッタ)の聖テレサとも呼ばれ、1979年ノーベル平和賞受賞。貧しい人々のために仕え続け、その後インド政府によって国葬されました。ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(1918~2013)は、南アフリカ共和国の政治家、弁護士で1994年の第8代大統領で南アフリカ共産党中央委員会を歴任しました。彼は、若くして反アパルトヘイト運動に参加し、1964年国家反逆罪で終身刑の判決を受けるも、27年間の獄中生活の後釈放され、当時の大統領フレデリック・デクラークと共にアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にノーベル平和賞を授けられた人物です。青函連絡船・洞爺丸の海難事故で乗員を励まし、自分の救命胴衣まで与えた二人の宣教師ディーン・リーパー(1920~54)、アルフレッド・ラッセル・ストーン(1902~54)、ナチス・ドイツによる迫害からユダヤ人を救うために、国に背いてビザを発給し続け、6000人の命を救ったと言われる駐リトアニア領事代理・杉原千畝(1900~86)、ビィクトール・エミール・フランクル(1905~97 オーストリアの精神科医、心理学者。ユダヤ人。「夜と霧」など多くの著作)。彼は、1942年家族と共に、ナチスによってテレージエンシュタット(後にアウシュビッツ、テュルクハイムに移送)に強制収容され、父、母、妻を殺されます。フランクルは、強制収容所のように1段目の生理的欲求さえも満足に満たされず、働けなくなったらすぐにゴミのように捨てられていく・・人としての尊厳が全く認められないその中で、捕らわれている人同士が、あるいは捕らえている人の自己犠牲ともいえる愛のある行動を目に耳にしました。フランクルの著書「それでも人生にイエスと言う」の中に次のような一文があります。「バイエルン地方のあるところに強制収容所がありました。そこでは、ナチスの親衛隊員である。収容所所長が、ひそかに、自分のポケットから定期的にお金を費やして、近くにあるバイエルンの市場町の薬局で、『自分の』囚人のために薬を調達していたのです。」(12p)とそしてこれらの愛の行動こそが、人間の人間たる真価であると確信したと言われています。
確かに稀なことかもしれませんが、現実社会に大きな影響を与えているこのような事実を認めたからでしょうか?マズローは晩年6段階目の欲求である、「自己超越、超越的な自己実現」を逆ピラミッドの形で付け加えました。「自己超越」とは、他人の評価や自分の損得どころか、その結果も全く考慮しないで、純粋に個人や社会貢献のために何らかの目的を達成しようという欲求で、目的に対して献身している状態と言えるでしょう。ただしマズローはこの段階(完全な人間性、成熟した人間、心理的に健康な人間。その特徴は、卓越した認識能力、謙遜、創造性、自己矛盾の程度の低さ、同時に利己的かつ非利己的、自分自身への敬意、独立的であり、同時に人間関係を楽しむことができる。心理的自由を持つ。自己超越、真善美の融合、他人への献身、英知、正直、自然さ、利己的個人的動機の超越、高次の欲求のための低次のそれの断念、敵意・残忍さ・破壊性の減少と友情・親切
さの増大、自発性、人類に役立ちたいとの純粋な願望など。「マズローの心理学」フランク・ゴーブル著35~57p)に達しているのは、人口の1%そこそこで(50p)、「老齢者だけに見られるもので・・」(39p)と記しているように、未成熟な子どもは不可能だと考えていたようです。

◆「善いサマリア人」のたとえ話は、「良心」に従うことの勧め
この「自己超越」の段階こそが神様の御旨であり、「良心」・・「純粋な良心」のことですか?ハイ。少なくとも私はそう思います。聖書に「善いサマリア人」という例え話があります。「ある人がエルサレムからエリコヘ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」(ルカ10:30~35)・・追いはぎにあった人はユダヤ人で、祭司やレビ人は彼らの指導者ですから被害者には何らかの責任があり、助けてくれる友人や知人も比較的近くにいたでしょう。しかし関わりたくなくて、見て見ぬふりをしたのです。それに対してサマリア人は、孤独な旅人であり当時ユダヤ人とは敵対関係にありました。責任があるどころか「敵」を助けたことで,後で仲間から非難されるかもしれませんし、自分が襲われるかもしれません。それでも、自分の持っている物やお金や労力を惜しみませんでした。自分のロバに乗せるとは、ロバや荷物がケガ人の血で汚れますし、何よりも自分がロバから降りなくてはなりません。「帰りがけに」というのは余り豊かな人ではなかったのでしょうか?旅人なのに予備のお金さえなく、そのような状態で敵を助け、お世話をする余裕は正直なかったはずです。それでも、「自分は精一杯のことをした。」と言わず、足りないお金を工面してでも彼を100%助けたいと思い、宿屋の主人に頼んだのです。まさに「自己超越」の段階です。他人の評価も自己犠牲も厭わず、困っている人を「憐れに思い」、純粋に助けたいと思ったのです。そしてこれこそが「純粋な良心」なのです。
イエス様は、この例話の後、質問した律法の専門家に(律法学者とも言い、主にトーラーと呼ばれる律法を書き写したり研究したりしますが、一般に言う職業ではありません。彼らは様々な戒めを、実生活において適応するために研究し、それをユダヤの民に教え実践させる教師の役割を果たしていました。当時この戒めを細かく規定し過ぎたために守り切れない現実があり、しかし、完璧に守らなければ、神の最たる祝福である「永遠の命」を受け継ぐこたができません。彼らはそのことに悩んでいたと言われています)「行って、あなたも同じようにしなさい。」(37)と言われました。マズローは「自己超越」の段階に達している者は、人口の1%に程度だと言ったそうですが、私にはイエス様が、行って、あなたも同じようにしなさい。あなたにもできます。と言われたように思いました。

結論・・イエス様こそ、良心に従いたいと願っているすべての人の道であり、同伴者・案内人である
なぜなら、イエス様御自身が、神の御旨であり、「自己超越」あるいは「純粋な良心」に従うという、人間の人間たる真価に至る道を開いて下さったからです。聖書に「群衆が飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:36)と書いてあります。善いサマリア人が「その人を見て憐れに思い」と同じ心です。勿論、イエス様の御心は、この地上に来られた後に書かれたものですが、私は始祖アダムとエバ以降、人類に対して持っておられた御心だと思っています。そして以下の聖書の言葉はレポート54pでも引用しましたが、時が満ちて「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)と行動に移されたのです。ただ、私たち人を助けるためにこの地上に来てくださったのです。たとえそれが御自身の命を失うことであっても、厭われなかったのです。いいえ、気にされなかったと言う方が正しいかもしれません。それが神であり、人となられたイエス・キリストという御方なのです。だからイエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23)と言われたのです。それが神の御心に従う道であり、良心に従う道だからです。そして「自分の十字架」とは、それぞれが純粋に人を助けたいという思いであり、そのために払わなければならない犠牲なのです。
 イエス様は「わたしに従いなさい」と言われました。そこには、もう一つ意味があります。それは、「わたしに」とイエス様が言われたように、「従いなさい」と言われた御方がいつも一緒にいてくださるということです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と約束されたとおりです。「共にいる」とは、単に側にいるだけではなく、危険や必要があるときは少し前を進み、あるいは後ろで守り、そうでないときは伴走者のように横にいてくださり、時には歩けなくなった私を背負って下さる御方。主よ、と呼べば答えてくださる御方、不安になって目を開ければそこに居てくださる御方、十字架の重荷に耐えきれず手を伸ばせば、その手を取って立ち上がらせてくださる御方・・「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。   イエスは、御自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(へブル12:2 新改訳)と書いてあるとおりです。繰り返します。このイエス様こそ神の御旨であり、「自己超越」あるいは「純粋な良心」に従うという、人間の人間たる真価を開いてくださった先駆者であり、この道を通りたいと願っているすべての人・・クリスチャンであろうが、なかろうが関係なくすべての人の案内人なのです。

人の目やお金や物に捉われないで
   自分らしく自由に生きたい
自分らしく、自分らしく、自分らしく・・
  でも、自分らしさって何だろう?
自分らしさから解放されたら
   本当に自由になれるのだろうか?
もし、それができるなら・・
   それが可能なら
     そのような生き方がしてみたい
もしかしたら、生き方そのものからも
   自由になれたら
   それがイエス様だったら
わたしは、イエス様のようになりたい

 「赦しと恵みの時代」は、罪なき唯一の人であるイエス様が、律法の規定により「ユダヤ人の王」としてだけでなく、「人類の王」として、十字架の上ですべての人の罪の身代わりとして血を流して(命をささげて)くださいました。それによって始祖アダムとエバ以来、支配されていた「罪の性質」から解放され、選択の自由が回復されました。それだけでなく、良心を選択し従いたいと願うすべての人の道となり、案内人となってくださるのです。福音・・究極の福音とは、神様が人類の王になってくださったことです。真に人を生かす永遠の命は、聖書にではなくこの御方の内にあるからです。ですから、聖書に「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない。」(ヨハネ5:39・40)と書いてあるのです。
 すべての人が聖書を読む恩恵に預かるとは限りません。単に物理的に読めない方もいるでしょうし、環境や偏見その他の理由で読まない方もいるかもませ知れんが、良心はすべての人にあるのです。イエス様は人を羊に例え、御自身を羊飼いに例えてこう言われました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:10・11)と
言われました.さらに、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊も導かなければならない。」(ヨハネ10;16)とも言われました。イエス様はユダヤ人です。囲いに入っていない羊とは、イエス様の「声を聞き分ける」つまり、イエス様を信じたユダヤ人以外のすべての異邦人を指すのですが、それだけではないかも知れません。  イエス様は「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(マルコ9:40・41)と言われたのです。私たち人は、他人が良心に従いたいと願っているかどうかはわかりません。しかしイエス様はその方たちの味方となってくださるのです。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(マタイ7:1)気をつけましょう。この御方は、キリスト=王、預言者、祭司として任職のあぶらを注がれた者=救い主として来られ、その役割を果たして「天に上げられ、神の右の座に着かれた。」(マルコ16:19)のです。しかし、今度は「裁く方が戸口に立っておられます。」(ヤコブ5:9)と書いてあるように、裁き主として悪しきものとそれに従うものたちを裁き、義を確立するために来られるのです。
 
 ◆信じる者は聖霊様の働きによって成長し、イエス様が生きたように生きることができ 
  る。これこそが「恵みの時代」なのである
 さて、「律法の時代」は律法を完全に守りきることによってのみ与えられる神の祝福でしたが、この時代はイエス様を信じる事によって、誰にでも与えられる祝福なのです。受ける資格のない者が与えられる赦しと恵み、それが今の時代です。正確には「赦しと恵みの時代」はイエス様の十字架から始まりました。死を滅ぼして復活されたイエス様が40日間この地上で多くの弟子たちにその姿を見せられ(Ⅰコリント15:26、6~8、使徒言行録1:3)、天に上げられる前に「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた,父の約束されたものを待ちなさい。」(使徒言行録1:4)と命じられました。さらに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして・・わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)と言われました。その約束のとおり、12使徒と呼ばれた特別な弟子たち、婦人たち、イエス様の家族を中心に120人ぐらいが、心を合わせ熱心に祈り続けて、10日後に「助け主」(ヨハネ14:16・26、15:26、16:7 新改訳)である聖霊様がこの地上に来てくださったのです。その時からイエス様に従おうとする人たちは変わりました。特に「使徒と名付けられた」(ルカ6:13)12人の特別な弟子たちは、イエス様が逮捕され、十字架刑に処せられる直前まで「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論の起こった。」(ルカ22:24、参照マタイ20:20~28)と赤裸々に記されています。また、ユダの裏切りはよく知られていますが、彼だけでなく弟子たち全部が裏切ったのです。「イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ』と、前もって合図を決めていた。・・このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マタイ26:47~56)と書いてあります。私だったら、「選択のミスだ!弟子たちの質が悪すぎる。」と叫ぶところです。ところがこの使徒たちが変えられたのです。例えば、シモンがそうです。彼が弟アンデレに連れられてイエス様に紹介されたとき、「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ-[岩]という意味-と呼ぶことにする』と言われた。」(ヨハネ1:42)と書いてあります(ケファはヘブライ語、ギリシャ語でペトロ)。彼は12使徒の中で唯一結婚をしており、年長者でした。それでもその性格は,軽挙妄動タイプと言われ、余り深く考えないで言行し、熱心である一方失敗も多く、年下のイエス様に一番叱られたのではないかと思います。彼は自分の衝動を抑えることができず、周りの人に合わせたり、待つことができません。そのシモンが助け主である聖霊様によって、まさに岩のように変えられたのです。もしかしたらシモンも「ペトロ、ペトロ」と呼ばれながらもそうならない自分に嫌気がさし、どうすればいいかわかっていても変えることができないので、「性格だから仕方がない」とあきらめていたのかも知れません。しかし、「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。・・』人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、・・『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。・・ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」(使徒言行録2:14~41)と驚くべきことが、彼のメッセージと共に記されています。あのペトロが、自己推薦するのでなく,無言のうちに仲間から促され,代表者として、思いつきの言葉ではなく、聖書の言葉を引用しながら、おそらく初めてのメッセージをしたのです。もちろん、変えられたのは彼だけではなく、「ボアネルゲス、すなわち、『雷の子ら』という名を付けられた。」(マルコ3:17)と書いてあるように、気性が激しかったのであろうヤコブとヨハネの兄弟。ヤコブは12使徒最初の殉教者であり、ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれ、「ヨハネの福音書、Ⅰ、Ⅱ,Ⅲヨハネの手紙、ヨハネの黙示録」を記すまでになりました。「亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」(マルコ14:51)臆病な若者であるマルコは「マルコによる福音書」を記しました。また、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7:60)とイエス様のようにステファノは祈り、「ステファノの殺害に賛成していた。」(使徒言行録8:1)教会の迫害者サウロは、復活のイエス様に出会い(使徒言行録9:1~19)パウロも福音の伝道者に変えられました。・・モーセがエジプトで行(おこな)った10の災い(出エジプト7:14~11:10)、それに続く14章の葦の海を2つに分ける奇跡、200万人とも言われるイスラエル人の40年にわたる放浪生活。また、ヨシュアがヨルダン川を2つに分けたり(ヨシュア3:1~17)、エリコの戦いを始め、カナン占領のための様々な戦いなど、これらはすべて外に現れる奇蹟ですが、この「赦しと恵みの時代」は人を造り変える内なる奇蹟が行われ、今に・・そうなんです!現代にまで至っているのです‼聖霊様は現実の御方です。キリストの証人として、また、福音とおして注がれるすさまじい祝福をその人の心の内に、現実化してくださるのです。それらを一言で表現すれば、私たちの内に「神の国」が到来することです。これこそが奇蹟であり、すべて聖霊様の御働きなのです。聖書に「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ローマ14:17)と書いてあるとおりです。ですから信じる者にとって今は、「聖霊の時代」なのです。それはつまり、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:8)・・賜物(たまもの)」とは恩恵や祝福として与えらるプレゼントのことです。「神からのプレゼント」これこそが、現代である「赦しと恵みの時代」なのです。

6、正義の時代(黙示録4:1~20:6 患難時代、キリストの再臨、千年間の統治)
 ◆預言であり予言である、この世の終わりに起こりうる主な出来事
 ただし「赦しと恵みの時代」はいつまでも続くものではありません。かつてイエス様が弟子たちに次のように言われました。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群に羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。・・兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる。」(マタイ10:16~22)と。羊は・・もちろん家畜化された羊のことですが、彼らは穏やかさと平和の象徴であり、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」(ヨハネ10:3)と書いてあるように従順さの象徴でもあります。それに対し狼は「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。」(使徒言行録20:29)と書いてあるように、残忍さと争いの象徴なのです。普通ならこのような狼の群の中に送り込まれたら、瞬く間に餌食にされてしまうでしょうが、その狼を制してきたのがイエス様の弟子たちの歴史なのです。なぜなら羊と共に羊飼いがいるのと同じように、イエス様がいてくださるからです。それでもなお御赦しと御計画ゆえに殉教する人たちもいます。迫害する彼らは肉の欲望・望みに従う人で、人を動かす力である金力・権力・快楽(欲望)を持っているので狼のように強く、また、この世を実質支配しているのです。この世の終わりとは、彼らの支配の終わりのことで、イエス様はその前兆としていくつかの事を列挙されました(マタイ24:3~14)。
・大勢の偽キリストや偽預言者が現れて、人々を惑わす。
・戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞く。
・民は民に、国は国に敵対する。
・各地に飢饉や地震が起こる(疫病ールカ21:11)。
・キリスト教に対する迫害や背教が起こる。
・不法がはびこり、多くの人の愛が冷える。
・福音が全世界に宣べ伝えられる。
彼らの支配の終わりとは、レポート2pでバビロン帝国の王ネブカドネツァルが、巨大な像の夢を見、ダニエルがその夢を解き明かし、この像の一番下、つまり人による支配の終わりについて次のように言っています。「足指は一部が鉄、一部が陶土です。すなわち、この国には強い部分もあれば、もろい部分もあるのです。・・しかし、鉄が陶土と溶け合うことがないように、ひとつになることはありません。この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることはなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。山から人手によらず切り出された石が、鉄、青銅、陶土、銀、金を打つのを御覧になりましたが、それによって、偉大な神は引き続き起こることを王様にお知らせになったのです。この夢は確かであり、解釈もまちがいございません。」(ダニエル2:42~45)と。これらの古い支配の終わりに起こりうる戦いや苦難を経て神の国は完成するのです。イエス様はかつて「神の国は観察しうるしるしを伴って(人々に見せびらかすようにして)来るものではない。また(人々が)「見よ、ここに(ある)」とか、見よ、あそこに(ある)」とか言うものでもなお。見よ、神の国はあなたたちの内(あなたたちの心)に(あなたたちの間《回り》に)あるのだ。」(ルカ17:20・21詳訳聖書)と言われましたが、それが見える形での「神の国」という最終段階にきたのです。聖書に「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29:11)また、「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペトロ3:8・9)・・それでも「彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。」(黙示録9:21)と書いてあります。これから苦難の時が来ます。長引けば人類が滅びるかもしれないほどの苦難です。そして、この苦しみを終わらすために再びイエス様が来てくださるのです。天使が「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1:11)と告げられたように、オリーブ山から天に帰られたイエス様は再びオリーブ山に立たれます。そのとき山は2つに裂け大きな谷ができるとゼカリヤ書14章4節に書いてあります。なぜなら、イエス様が最初に人の子として生まれられたクリスマスの出来事に対して(初臨)、2度目は「さばき主」(使徒言行録17:31、Ⅱテモテ4:1)として「威光」(Ⅱペトロ1:16)をもって来られ(再臨)、その後「千年王国」と呼ばれる王なるキリストによる義の支配が始まるからです(黙示録20:1~6)。その有様は、旧約聖書やイエス様のお言葉の中にもありますが、聖書最後の巻、「ヨハネの黙示録」に詳しく記されています。

※黙示録は「警告」ではない。私の勘違いした一例文
ただこの黙示録には様々な見解があって、ローマ皇帝ネロ(在位56~68)や、ドミティアヌス(在位81~96)のクリスチャン迫害時代に彼らを励ますために象徴的に記したものであるとか(過去主義的見解)、時代に関係なく善と悪、光と闇の戦いを記したとか(観念主義的見解)、教会時代(赦しと恵みの時代)を、歴史的に記したものとか(歴史主義的見解),その他諸々説があるようです。また、黙示録を、「警告」として取る者もいます。実は、私もそうでした。以下はその時の文です(一応参考のために載せました。読み飛ばしてください)。
 『・・8月15日は日本では、「終戦記念日」です。しかし韓国では「光復節」と言い、朝鮮が日本の植民地支配から解放されたことを祝う日で「光復」とは、奪われた主権の回復を意味するそうです。聖書は「愛がなければ・・何の益もない」(Ⅰコリ13:3)と言いますが、実際に被害を受けた国々の人たちを目の前にして、聖書が私たちに求めている「愛」とは、具体的にはどのような「愛」なのかを考えさせられました。そして14日の午後3時頃からだったでしょうか、一緒に行った日本の人や、中国の人たちと手をつないで祈りました。しかし、与えられたのは胸を締め付けられるような痛みであり、腹の底から沸き上がってくるような悲しみでした。私は思わずうめき声を漏らし、思いっきり床を叩いてしまいました。それで少し手を痛めてしまったのです。・・すぐに気が付きました。私は今、父なる神様の御心に触れさせていただいたのだと・・しかし、意味が分かりませんでした。そこで次の日朝早くから祈りと断食の中で熟考し、夕方になってようやくいくつかの部分が開かれてきたのです。
 今は終末の時代と言われています。もうすぐ人類が滅びようとしているのです。アダムとエバから始まった人類の歴史がその幕を閉じようとしています。・・人類が滅びるというのは正確な表現では無いでしょう。まもなく二千年前この地上に来て下さった聖霊様が、同じ霊を持つ人々と共に天に帰ろうとされています。そうなったらこの世は修羅場になります。不法がはびこり、放射能が拡がり、美しい自然が破壊され、争いに争い、戦争に戦争が起こり、多くの人々が死ぬことになるでしょう。そこに一人の人物が現れます。彼は世界を統一し平和を築きます。そしてエルサレムにのぼり、神殿を建てて自分こそが神だと宣言するのです。そして、自分を神だと認めようとしないイスラエルや他の人々を滅ぼそうとします。しかしそこにイエス様が再臨されて、逆に彼らを滅ぼすのです。そこで生き残った人々は、イエス様こそ真のキリストだったと認めて悔い改めるのです。これがイスラエルの民族的な悔い改めであり、リバイバルなのです。神様は悔い改めようとしない人類を、サタンの手に引き渡してでも救おうとされているのです。それは二千年前に独り子であるイエス様を十字架につけたように、今度はイエス様の血で贖った人類を十字架につけるようなものであり、悪の道に走った我が子を、刺し殺してでも悪から救いだそうとしている親の愛に似ているのかも知れません。私にも中二と小六の子どもがいますが、もし私が愛する自分の子を殺さなくてはならなくなったら・・そう思っただけで胸が苦しくなります。・・二千年前人類はイエス様の十字架を止めることが出来ませんでした。しかし今ならまだ間に合うかも知れません。なぜなら神様にとって、一人の人は一人であり、一つの国も一人であり、アジアも一人の人であり、全世界も一人の人であり、アダムとエバから始まった全人類も一人の人なのです。そして私たちは人類の一部なのです。
「黙示録」は、預言だから必ず起こらなければならない。・・私はそんなことはないと思います。ソドムとゴモラ(創世18:16~33)のことでも「アブラハムはなお、主の御前にいた」(22)と書いてありますが、私は主が執り成しをしてもらいたくて、アブラハムの前から離れることが出来なかったのではないかと思います。イスラエルの敵、アッシリヤ帝国の都ニネベがヨナの宣教によって滅びを免れたとき・・「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」(ヨナ3:10)と書いてあるとおりです。ヨナ自身はこの決定に不満だったようですが、「すると、主はこう言われた。『お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木でさえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。』(ヨナ4:10・11)」・・これが神様の御心なのです。この終末の時代に必要なのは、アブラハムのようにモーセのように(出エジプト32:32)神様の怒りと痛みを知ってその破れ口に立って執り成す祈り手なのです。私が26歳の時のお出会いしたチョン・ドンネ夫人もその一人だと思います。夫人は毎日毎日午後2時に定岩里教会に行き祈るそうです。夫人は「私が23歳で死んでも90歳で死んでも行くところは同じだ。しかし日本人は本当の神様を知らないから、本当の神様を知ることが出来るように祈るんだ」と言われたのです。夫人は23歳の時日本の兵隊に夫を定岩里教会ごと焼き殺され(午後2時がその時間です)、自分の人生をメチャクチャにされた人です。日本を恨んでも当然でしょう。ところが日本のために、日本人のために祝福を祈って下さっている。私は夫人の手に主の十字架の釘跡を見たのです。
風雨に晒されし老婆の手に/主の釘跡を見ん/われその手にすがりて/ただ哀れみを乞う。日本が滅びなかったのは、実にこの夫人のような方々の執り成しによるのではないかと
思いました。「黙示録」の時代は神様の痛みが増し加わらないためにも来てはいけない時代
であり、人類の一部であり、終末の世に生かされている私たちだけが、唯一それを止める
ことが出来るのではないでしょうか。クリスチャンの多いこの韓国の祈祷院で、「光復節」
に神様の痛みを感じたのは、朝鮮の執り成しと、韓国の方々と共に祈るためではないかと
思わせられました。2013年8月 前田寿浩 』             

 ◆7年間の「患難時代」の内容と「サタン・反キリスト・偽預言者」の協力体制
 しかし、今はそう思いません。原子爆弾が実際に日本の広島市(1945年8月6日)、長崎市(同年8月9日)に投下されただけでなく、長崎大学核兵器廃絶研究センターによると、2020年6月1日現在 核保有国、北朝鮮を含む9カ国、1万3410基の核弾頭数があるそうです。それだけでなく、原子力発電所の事故は世界中で起きており、特にアメリカのスリーマイル島(1979)、カナダのチョークリバー(1952)、ロシアのチェルノブイリ(1986)の原子力発電所の事故は被害が甚大です。日本でも、茨城県東海村の核燃料加工施設で発生した事故(19999)や2011年3月11日に発生した東日本大震災において、震度マグニチュード9,0を記録、津波による影響もあって、福島第一原子力発電所がメルトダウンをお起こしました。もし、大爆発を起こしていたら東日本は壊滅状態であったと言われています。それでも2021年3月現在で5発電所、9基が稼働しています。また、異常気象によるアフリカ東部のサバクトビバッタの被害(現在進行中)や2019年9月~翌年2月まで続いたオーストラリア大規模森林火災、地震、津波、台風、竜巻、火山の噴火等々。争いと言うか戦争・内戦状態の国は、196カ国中(2021年1月現在)四分の一以上、2021年2月にはミャンマーでクーデターが勃発しました。また、「ハマスはナクバに当たり声明を発表。『今こそあらゆる場所で敵と戦うときだ。われわれの土地を奪った代償を支払わせる』と強調し、ヨルダン川西岸やガザ、エルサレムに加え、難民として世界中で暮らすパレスチナ人に対イスラエル闘争を呼び掛けた。ヨルダン川西岸ラマラでは15日、イスラエルの占領に抗議するデモが行われた。」(2021年5月16日神戸新聞4面)・・10日に始まり実質   11日間続いガザ自治区(ハマス)とイスラエルの戦闘によって、ガザ側で232人、イスラエル側で12人、共に子どもを含む犠牲者が出ました。この間ハマスは4300発以上のロケット弾を発射しています。このような情勢を見るとき、一日も早くこの世の支配者たちが裁かれるようにと願います。しかし、「慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」(マタイ24:6)のです。具体的な出来事は6章以降にでてきますが、その前の5章では、三位一体の神様の御姿が記されています。「またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。」(黙示録5:1)・・「わたし」とは著者、使徒ヨハネのことで、「玉座に座っておられる方」とは父なる神様で、この御方がこれから先の神様の救いの御計画について記された巻物を持っておられるのです。「わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の霊である。」(黙示録5:6)と書いてあります。子なる神様と聖霊なる神様の御姿です。確かに絵に描けない象徴的な方、生き物がこの黙示録にはたくさん出てきます。それは、迫害下で権力者たちの目に留まらないようにしなければならなかったでしょうし、何よりも言葉で表現するのが難しかったのではないでしょうか。そして、贖いを完成されたイエス様が、七つの封印された巻物を開いてから、本当の苦難「産みの苦しみ」(マタイ24:8)が始まるのです。
 この苦難は特に「患難時代」と呼ばれ、ダニエル書の9章24節の七十週の預言、25~27節において、「油注がれた者」はイエス様のことであり、「彼は一週の間」の「彼」は「憎むべき荒廃をもたらすもの」(ダニエル11:31、12:11)「憎むべき破壊者」(マタイ24:15)「不法の者」(Ⅱテサロニケ2:3、8)「滅びの子」(Ⅱテサロニケ2:3)「反キリスト」(Ⅰヨハネ2:22)「一匹の獣」(黙示録13:1)のことで、一週は7年と計算します。・・この期間は7年と限定付きですが、イエス様が「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」(マタイ24:21・22)と言われるほどの想像したくないような苦難が黙示録の6章から記されています。この章で七つの封印のうち六つが開かれ、七つ目の封印が開かれることによって、七つのラッパの災いが始まり(8:7~9:21)、最後の七つの災い(神の怒りを盛った七つの鉢15:1~16:21)へと続くのです。それは大きく前半(3年半・・黙示録11:2・3)と後半(3年半・・黙示録12:6・14、13:5、ダニエル7:25,12:7)に分かれます。黙示録6章に出て来る「白い馬」=おそらく反キリストで勝利を得る者。「赤い馬」=戦争。「黒い馬」=飢饉。1コイニクスは約1,1ℓ、1デナリオンは1日分の労賃。青白い馬」=死。剣と飢饉と死(疫病)と猛獣によって世界の4分の一の人々が死亡。迫害が起こり、大地震や火山の噴火、隕石の落下などの天変地異が起こります。それがきっかけとなって反キリストによる戦争が起こり、それが飢饉、死・・黙示録9章18節では「人間の三分の一が殺された。」の恐怖のスパイラルが起こるのです。12章の「一人の女」とはイスラエル国のことでしょうか?
 13章に、「一匹の獣」に象徴される反キリストの正体ともいうべき姿が記されています。 
 本性1、立場・・反キリストとは、「竜」から「自分の力と王座と大きな権威」(13:2)を与えられた者です(王位継承者)。そして「竜」とは「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、」(黙示録12:9)なので、反キリストは「この国々の一切の権力と繁栄」(ルカ4:6)を司る「この世の神」(Ⅱコリント4:4)の継承者となるのです。それはまた、始祖アダムとエバを誘惑して、禁止されていた木の実を食べさせた蛇に、神様が「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとの砕く。」(創世記3:15)と言われました。女の子孫とは人類の王、キリストのことであるなら、蛇の子孫はキリストと相反するこの世の王、まさに反キリストなのです。
 本性2、性質・・「わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。」(13:2)と記されています。そのような表現は、ダニエル書7章2~6節にも記され、「豹」はギリシャ帝国、「熊」はメド・ペルシャ帝国、「獅子」はバビロン帝国の象徴です。これらは全体主義の国で「神のように」(創世記1:5)人々を支配したい王(レポート8p)によって導かれてきました。すなわち反キリストである「一匹の獣」は帝国の性質を受け継いだ者であり、彼ら3人の王を合わせたより強く、世界を統一して帝国を築き上げるのです。そうしてエルサレムの神殿で自分が神であると宣言します。その裏付けは、イエス様の「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たらー読者は悟れーその時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」(マタイ24:15・16)のお言葉であり、「この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。」(Ⅱテサロニケ2:4)の異邦人伝道者パウロ警告です。「一匹の獣」である反キリストは、象徴ではなく実在の人物で、自分に逆らう者、自分を拝まない者たちを皆殺しにし、「すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ物を買うことも、売ることもできないようになった。」(13:16・17)と書いてあるように、経済を支配するのです。彼は宗教の世界からではなく、政治の世界で活躍するトップの「王」なのです。
 本性3、支える者たち・・「反キリスト」は、あくまで「絶対的王」であり、政治の世界の人間です。それを「至高の神」の地位にまで押し上げたのは、支える者たちの業です。彼らを聖書は「もう一匹の獣」と表現します。彼らもまた人を支配したい者たちだからです。そしてとても悲しいことに「この獣は、小羊の角に似た2本の角があって、竜のようにものを言っていた。」(13:11)と書いてあるように、「もう一匹の獣」とは宗教界の・・もしかしたら世に追従し堕落した教会を中心とした、世界統一教会?なのです。さらに「わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。」(黙示録16:13・14)と書いてあります。「偽預言者」とは「もう一匹の獣」の別名で、「サタン」「反キリスト」「偽預言者」という、三位一体ともいうべき協力体制がここに記してあります。
 さて、サタンの三位一体ともいうべき協力体制の中で、彼らは何をしようとしているのでしょうか?「汚れた霊どもは、ヘブライ語で『ハルマゲドン』と呼ばれる所に、王たちを集めた。」(黙示録16:16)と書いてあります。最後の大戦「ハルマゲドン」が特にイスラエル人を滅ぼそうとして始まるのです。その時「主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます」(Ⅱテサロニケ2:8)と書いてあり、「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。」(黙示録19:11)と書いてあります。「神の言葉」(黙示録19:13)であり、「王の王、主の主」(黙示録19:16)であるキリストが再臨されたのです。

◆患難時代の目的は、選民イスラエルの救い、全世界への福音の伝達、そして、サタン 
 と同じ心を持つ人々への「神の裁き」
最後に勝利が約束されているとはいえ、なぜ、このような恐ろしいことが起こるのでしょうか?それは「今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです」(Ⅱテサロニケ2:6・7)と書いてあるように、「抑えている者」とは聖霊様のことで、「不法の秘密の力」とは、サタンの働きことです。聖霊様が天に帰られたので、自由になったサタンを長とする悪霊たちと「肉に欲望」を選びサタンと同じ心を持つ人間たちが、縦横無尽に暴れまわるからです。ここで核兵器や細菌兵器などあらゆる兵器が使われても不思議ではりません。新型コロナウィルスがそのような類のものでないようにと、願い祈ります。
では、なぜ愛である神が、このような恐ろしいことをゆるされようとしているのでしょうか?わかりません。もちろん私ごときに分かるはずもありませんが、2011年3月11日(金)午後14時46分に起こった「東日本大震災」のボランティアに行った時に感じたことがあります。
私たち4人は6月11日(土)の夜大阪に集合し、バスで次の日の早朝福島県いわき市に着きました。それから17日(金)の夜、教会関係のボランティアセンターを離れるまで津波で破壊されたり、海水で使えなくなった様々な物をその家から運び出したり、漁港近くの溝のドロ掃除などをしました。津波の爪あとを見、2万人以上の方々が死傷し、多くの方が行方不明になっている現状を目の当たりにするにつれ、「なんで・・どうして・・」と言う気持ちが抑えきれず、3日目にはかなり落ち込んでいたと思います。そんなときにこんな言い方は不謹慎かもしれないが、ここに神様の強く激しい愛を感じました。私の親の一人ですが、道を踏み外し、悪に走ろうとする子どもを、親が体を張ってでも止めようとするような強い親の愛を感じたのです。もちろん私にそのような愛があると言っているわけではありませんが、私はそのような強い愛に触れたような気がして涙が止まらなくなりました。そのとき神様から「物は壊れるものだ。命は失われてしまうものだ。だから今わたしを見上げなさい。そして永遠の命を得なさい。」・・そう言われたように感じたのです。もしかしたらこの「患難時代」も、御子に血によって「罪の性質」の支配から解放したのに、再び自分の選択で滅びに向かう人々を、黙って見過ごすことのできない神様の強い愛の表れかもしれません。  
 さて13章で、支配する者である「反キリスト」について触れましたが、14章では闇に対する光のように裁き主である「キリスト」について記され、また、黙示録の目的ともいうべきものが記されています。1節の「小羊」とは再臨のキリストのことで、反キリストがエルサレムの神殿に座しているとき、キリストはエルサレムの一番高い山であるシオンに立っておられるのです。反キリストが、獣の刻印を押された者たちに囲まれているとき、キリストは、14万4千人というイエス様をキリストと信じて、額にその名を記されたイスラエル民族の代表に囲まれて、力強くも美しい賛美を受けています。彼らは「初穂」(14:4)ですから、イスラエル民族の悔い改めが起こったのです。それから「わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。」(14:6・7)と書いてあるように全世界に、テレビ、ラジオ、文章やインターネットなどあらゆるものを使って、福音が伝えられるのです。それから「神の裁き」(14:7)が始まるのです。つまり、黙示録の目的は選民イスラエルの救い、全世界への福音の伝達、そして、サタンと悪霊、彼らと同じ心を持つ人々への「神の裁き」です。
確かに「ヨハネの黙示録」には様々な解釈がありますが、少なくともこの「患難時代」はイスラエルの人々の救いに焦点を当てているように思います。聖書に「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです」(ローマ11:25・26)と書いてあるように、私たち異邦人の救い(教会時代)は、患難時代前の携挙で一応終わったのかも知れません。「携挙ーけいきょ」とは、キリスト教の教義の一つで、「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストと共に結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」(Ⅰテサロニケ4:16・17)と言う聖書に箇所を根拠にして、クリスチャンが、復活の体に変えられて空中で、復活されたイエス様に会い、イエス様と永遠に生きるという教えです。この携挙の時期ですが、私は「患難時代」前だと教えられていましたが、今はわかりません。もしかしたら「患難時代」の終わりかもしれませんが、イエス様が共にいてくださるのであれば、それほどの違いはないのかもしれません。

◆キリストの再臨と、キリストに統治された世界・・千年王国
この「患難時代」最後が「ハルマゲドン」の戦いであり、前述したように再臨された   キリストの勝利で終わります。そして獣=反キリストと偽預言者並びに「獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者」(黙示録14:9)は「火の池」に投げ込まれ、サタンと悪霊は千年間「底なしの淵」に閉じ込められます(黙示19:19~20:3)。これが「神の裁き」なのです。そして迫害され殉教した人たちは復活し、「彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する」(黙示録20:4~6、ダニエル12:2・3)のです。
回復、特にイスラエルに関する回復の預言はたくさんあります。言葉を変えれば、旧約聖書に書かれてある約束が実現するのです。例えば・・
「見よ、その日が来れば、と主は言われる。
 耕す者は、借り入れる者に続き/ ぶどうを踏むものは、種蒔く者に続く。
 山々はぶどうの汁を滴らせ/ すべての丘は溶けて流れる。
 わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。/ 彼らは荒された町を建て直して住み  
ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み/ 園を造って、実りを食べる。
わたしは彼らをその土地に植え付ける。
私が与えた地から/ 再び彼らが引き抜かれることは決してないと/
あなたの神なる主は言われる。」(アモス9:13~15)

「そこで、彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。・・わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」(エゼキエル37:21、27・28)

「わたしはエルサレムを喜びとし/ わたしの民を楽しみとする。
泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
そこには、もはや若死にする者も/ 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。
百歳で死ぬ者は若者とされ/ 百歳に達しないものは呪われた者とされる。」(イザヤ6     
5:19・20)

「狼は小羊と共に宿り/ 豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち/ 小さい子供がそれらを導く。
牛も熊もともに草をはみ/ その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/ 幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては/ 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように/ 大地は主を知る知識でみたされる。
その日が来れば/ エッサイの根は/ すべての民の旗印として立てられ/ 
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。」(イザヤ11:6~10)
 
 ・・など等です。「この世の神」(Ⅱコリント4:4)、「この世の支配者が追放され」(ヨハネ12:31)、たのです。イエス様がこの世を治められるとこんなにも素晴らしい世界が到来するものかと驚嘆します。しかし、この王国は永遠に続くわけではありません。まだ完成していないからです。
 *「正義」とは時代や場所、人によって変化する正しさではなく、人を創造され、「天と地、海と水の源を創造」(黙示録14:7)された神様の普遍・不変・不偏の正しさです。

 7、罪のない完成された永遠の時代(黙示録20:7~22:5 最後の裁きと新天新地)
◆サタン + 彼らと同じ心を持つ人たちへの永遠の裁き
千年という期間が経つつと閉じ込められていた、サタンと悪霊が解き放たれます。すると彼らに惑わされた、多くの民がイエス様の治世に反対して戦いを挑み、そして裁かれます。戦いを挑んだ民は火で焼かれ、サタンと悪霊は「火の池」で永遠の苦しみを受けると書いてあります。(黙示録20:7~10)
なぜ人はこんなにも神に逆らおうとするのでしょうか?今の時代、「福音」を伝えると、「神を見せろ、見たら信じる」と言う人がいます。しかし、人類の歴史のある時点において、文字通りイエス様が現人神(天皇のことではない)としてその御姿を見せてくださり、今はキリストの証人(信じる者たち)の個々において、また歴史を通してその御姿を見せ続けてくださっているのです。またある人は「救いが分からない。分かったら信じる」と言います。千年王国時代、文字通り死から救われ、永遠の命と永遠の体(栄光の体)を与えられた沢山の人がここにいますし、ひとりひとりにあたえられた良心は飾りではないはずです。それなのになぜ・・人とはいったいどんな存在なのでしょうか?
確かに神さまが人を造られた時、人に自由意志を与えられ、選択できるようにしてくださいました。この「正義の時代」もアダム以来の肉の体を受け継いでいる以上、相反する二つの性質、すなわち「霊の望み」と「肉の望み」(ガラテヤ5:17)も受け継いでいるのです。そしてに「霊の望み」が聖霊様に導かれるように、「肉の欲望」に従い、自分の欲望を満足させようとするのはサタンに導かれているのかもしれません。神様に属する心を選んだ者は、神様と共に歩み、神様と共に「新天新地」で永遠の祝福を受け、「肉の望み」を選んだ者は・・もう一度言いますが「肉」は決して悪いものではなく、動物であり霊的存在でもある「人」が生きていく上で必要な性質なのです。ただ他の動物が、そのコントロールを本能がするのに対し人は自分の意志で、選択によってしなければならないのです。・・サタンに惑わされて、否サタンによってその心がハッキリさせられて、サタンと共に歩み、サタンと共に「火の池」で永遠の裁きを受けなければならないのです。

※(神に)敵対するもの、(人を)訴えるものであるサタンの正体
では「サタン」や「悪霊」とは何ものなのでしょうか?聖書はあまり多くを語っていません。ヘブル語の「サーターン」は「分離する」「反対する」「非難する」などの意味を持つ言葉から派生し、ギリシャ語に翻訳されて「ディアボルス」(敵、悪魔)になりました。これは「訴える者」「ざんげんする者」の意味があるそうです。また、新約聖書には頭としてのサタナス(悪魔、サタン)、その部下のダイモニオン(悪霊 マルコ3:22)、また、ダイモーン(マタイ8:31)とも記されています。元来サタンは「明けの明星、曙の子よ」(イザヤ14:2)と呼ばれていた天使長で、「天の星の三分の一を掃き寄せて」(黙示録12:4)と書いてあるように、天使の三分の一を、仲間にして神にクーデターを起こしたが失敗して(イザヤ14:13・14)、堕天使になったといわれています。つまり、サタンも、少しニュアンスは違うかもしれませんが「神のように」(創世記3:5)いいえ、神様に憧れたのではなく、自分が神に代わって支配したかったのです。彼らは、「訴える者」(ゼカリヤ3:1)、「誘惑する者」(マタイ4:1)、「偽装する者」(Ⅱコリント11:14・15)、「人殺しであり偽り者」(ヨハネ8:44)であるとも言われ、もともと「火の池」は彼らのために用意されたものであると言われています(マタイ25:41)。また、聖書に「臆病者(下劣な者、軽べつすべき者、臆病のため勇気のない者、卑怯のために従順な者)と、不信仰で不真実な者と、憎むべきものによって堕落し汚れている者と、人殺し、みだらで姦淫を行う者、魔法使い、偶像崇拝者(神以外の人または物に至上の崇敬を表す者たち)、すべての偽り者(言葉また行為で知っていて不真実を伝えるすべての人たち、以上のすべての人々)が受ける分け前は、火と硫黄で燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録21:8 詳訳聖書)とも書いてあります。これがサタンと同じ心であり、自分自身も含めて神の創造された良きものを憎み、完全否定する罪の性質、もしかしたら、神への復讐がサタンの本性であるように、火の池で燃やされるのは復讐の火かもしれません。

◆永遠の裁きⅡ
「千年王国」が終わると、サタンと悪霊は解放され、「ゴクとマゴク」(黙示録20:8)の人々を惑わして戦いを起こしますが、「彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。」(黙示録20:9)と書いてあるように、滅ぼされてしまいます。その後「大きな白い玉座とそこに座っておられる方を見た。」(黙示録20:11)と書いてあるように、最後の裁きが始まるのです。ここでは過去に亡くなったすべてのイエス・キリストを知らないで、死んだ人が神の御前で裁かれるのです。
しかしその「さばき」は、仏教の言う冥界の支配者・閻魔王のように地獄に堕ちてきた人間の善悪を、その生前の行為や罪悪が書きとめられた閻魔帳に応じて、審判・懲罰するというのと少し似ているかもしれません(参照 新村 出編 広辞苑第3版 岩波書店)。確かにこの「さばき」の時には命の書や幾つかの書物が開かれます。イエス様が「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」(マタイ12:36)と言われたように、「幾つかの書物」には生前のすべての行為だけではなくすべての言葉も記されているのかもしれないのです。(「責任を問われる」が新改訳聖書では「言い開きをしなければなりません」と訳されています。)ただ、それは「自分の行い」であって、
「心」でないのは幸いだと思います。聖書に「幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」(黙示録20:12)と書いてあるとおりです。
 
 ◆神と人が共に住む、死も悲しみもない永遠の世界
 「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」(黙示録21:1)そこに、そして神様の御用意された新天新地があるのです。そこは「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21:3・4)「もはや、呪われるものは何一つない」(黙示録22:3)と書いてあります。・・罪のない永遠の世界・・これで完成です。

     参考文献
・『永遠への道』    著者 赤江弘之  発行所 単立・西大寺キリスト教会
・『キリスト教神学概論』著者 H・オートン・ワイレー、P・T・カルバートソン
              発行所 日本ウェスレー出版協会
・『キリストの再臨と終末』 著者 森山諭  発行所 荻窪栄光教会出版部
・『これからの世界情勢と聖書の預言』 著者 高木慶太・芦田拓也 
                   発行所 いのちのことば社
・『聖書の主要教理』 著者 ルイス・スペリー・シェイファー 
改訂ジョン・F・ウォルビォード 訳者島田福安・島田礼子
 発行所 聖書図書刊行会  
・『聖書パノラマ』  著者 アルフレッド・T・イード 訳者久利英二 
発行所 いのちのことば社
・『創世記研究』   著者 森山諭  発行所 荻窪栄光教会出版部
・『組織神学』    著者 ヘンリー・シーセン 訳者 島田福安 
           発行所 聖書図書刊行会
・『ものみの塔文章資料集』 著者 練馬凛  発行所 エホバの証人問題対策協会
・『ヨハネ黙示録に見る七つの秘義』 著者 森山諭  発行所 荻窪栄光教会出版部
・・・・など