主日礼拝メッセージ



2024年11月10日          主日礼拝          『将来と希望を与える計画』             ダニエル書9章20~27節

  「お前が嘆き祈り始めた時、御言葉が出されたので、それを告げに来た。お前は愛されている者なのだ。この御言葉を悟り、この幻を理解せよ。」(23)
  「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。
   将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29:11)   

 この23節を、直訳ではなく意訳である創造主訳聖書では「あなたが祈り始めた時、主からそれについての意味が示されたので、私はそれを伝えるために来ました。あなたは特に創造主に愛されています。ですから、その御言葉をよく考え、その幻の意味を悟りなさい。」となります。なぜなら、ダニエルは「イスラエルの民すべて」(7)が完全に赦され、関係が完璧に回復され、真に私たちの神・主となってくださるように求めたからです。その祈りに神は「七十週が定められている。」(24)と答えてくださったのです。一日を一年と数えると(民数記14:34、エゼキエル4:6)週7年×70=490年となります。この数字を実数と捉えるか、象徴と捉えるかによって解釈が違ってきますが、一定の期間の後、ダニエルの願ったように「とこしえの正義が到来」(24)するのです。それが千年王国のことです。イザヤは11章1~10節、35章、65章17~25節などにその描写をしています。「「エルサレムの復興と再建について」(25)は「七週」つまり49年はペルシアのアルタクセルクセス王の治世7年=BC457年(エズラ7:7)あるいは治世20年=BC445年(ネヘミヤ2:1)の勅令ではないかという説が有力です。そして+62週=483年に「油注がれた君」であるイエス様が来てくださったのです。そして残りの一週が(27)が反キリストの預言です。そして破滅することが定められているのです。実に私たちを愛されている御方は、人類に対しても一人に対しても「将来と希望を与える」計画を持っておられるのです。



2024年11月3日          主日礼拝           『悔い改めと歎願と待望の祈り』           ダニエル書9章15~19節

「主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいくださ い。わたしの神よ、御自身のために、救いを遅らせないでください。」(19)
「然り、わたしはすぐに来る。アーメン、主イエスよ、来てください。」(黙示22:20)
 
「教会形成」の学びの中で「からだとして健康な教会」と言う項目があります。健康であることはその働きやからだとしての機能に優先することにも驚きましたが、「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(Ⅰコリント12:22)と書いてあるように、キリストのからだである教会が一つになるために弱い部分が必要だというのです。この世の価値観では「強き者」が一致の中心になりますが、聖書の価値観では「弱き者」が中心になるのです。なぜならこの世では「成果」を求めますが、聖書は「愛」を求めるからです。そして、この「ダニエル」もバビロン帝国、メディア・ペルシア帝国内では、最も「弱き者」なのです。しかし神はその「部分を覆って、もっと格好よくしようと」(1コリント12:23)するように「特別な霊の力」(ダニエル5:12)で覆って下さったのです。そのダニエルがエレミヤ書25:11・12、29:10の預言で、おそらく2~3年で成就すると悟りました。
このような時あなたはどうするでしょうか?御言葉を信じて何もしないで待つでしょうか。神に「愛されている者」(23)ダニエルは違いました。彼は断食して、「わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。」(5)と自分を被害者ではなく加害者の立場に置き罪を告白したのです。そして「主よ、常に変わらぬ恵みの御業をもってあなたの都、聖なる山エルサレムからあなたの怒りと憤りを翻してください。」(16)「わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみゆえに」(18)と当然の権利としてではなく、ただ主の恵みにより頼んで歎願します。そして「わたしの神よ、御自身のために、救いを遅らせないでください。」(19)と待ち望みの祈りをささげています。現在の私たちにはまさに再臨待望の祈りこそ、ダニエルの祈りにあたるのではないでしょうか。




2024年10月27日         主日礼拝           『主、あるいはユダヤ人の視点』           ダニエル書8章15~27節

     「才知にたけ その手にかかればどんな悪だくみも成功し 驕り高ぶり、平然として多くの人を滅ぼす。
      ついに最も大いなる君に敵対し 人の手によらずに滅ぼされる。」(25)
     「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6)

 終末へと進む人類の歴史を、支配者である王ネブカドネツァルには輝く巨大な像に見え、支配される者であるダニエルには荒れ狂う猛獣に見え、主、あるいはユダヤ人には家畜である羊や山羊に見えるのです。家畜には飼い主がおり、その行動も制限され、家畜は飼い主に役立つために存在しているのです。さて、この幻は、治世3年(BC551)に見たので、バビロン帝国が滅びる(BC539)12年前ではないかと言われていますが、天使ガブリエルが説明したように、2本の角が生えている雄羊はメディア・ペルシア帝国のことで、ペルシア王キュロスがユダヤ人の帰還と神殿再建の許可を出しています。この雄羊が「高慢にふるまい、高ぶった。」(4)ときに雄山羊であるギリシアが現れ、雄羊を打ち倒します。200年後の出来事です。「際立った一本の角」(5)とはアレクサンドロス大王のことで、「非常に尊大になったが、力の極みで角は折れ」(8)と書いてあるように、33歳で病死したのです。その後が問題です。4つに分かれて統治された国の内から「一本の小さい角が生え出て」(9)きます。おそらくシリアのセレウコス王朝のアンティオコス・エピファネスのことでしょう。彼は自分の事をセオス・エピファネス(神の顕現)と呼ばせ、大王が征服しなかった「麗しの地」(9)ユダヤにまで手を伸ばし、天の万軍、つまり星であるユダヤの民を踏みにじり、祭壇に汚れた生き物である豚の血が注がれた。2300回とは1500日のことで、祭壇がきよめられることを指します。彼は「罪悪の極みとして 高慢で狡猾な一人の王」(23)です。そしてこの高慢こそが罪の本性であり、反キリストの本性でもあるのです。そしてこの罪の本性である高慢に陥らない唯一の方法が謙遜なのです。愛は高ぶりません。



2024年10月20日         主日礼拝            『第四の獣と人の子の幻』             ダニエル書7章15~28節
    
「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう。」(17・18)
「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」   
                                                                (マタイ24:31)
 バビロン王ネブカドネツァルには「巨大な像の夢」(2章)でしたが、ダニエルには「四頭の獣の幻」でした。同じ出来事が見る者によってこうも違って見えるのかと考えさせられます。もしかした巨大な像は帝国の質を表し、四頭の獣はその性格を表しているのかもしれません。すなわち、バビロン帝国=金の頭=鷲の翼が生えたライオン(AD609~539)、メディア・ペルシア帝国=銀の胸と腕=3本の肋骨(バビロン・リビア・エジプト)をくわえた熊(AD539~331)、ギリシャ帝国=青銅の腹と腿=四つの翼を持つ豹(AD331~168)、ローマ帝国=鉄のすね、足は一部が鉄一部が陶土=第四の獣=(AD168⦅共和政から帝国政になったのはAD27⦆~西ローマ476、東ローマ1453)。という説が有力です。そしてこの「第四の獣」の性質と性格を持った国、すなわち鉄の性質の帝国(支配)と、陶土(陶磁器の原料)の性質をもった自由主義の国が現在です。現在は200以上の独立国があり、大きく分ければ王などのリーダーを中心とした国か民衆を中心として国に分かれるのです。そして、この帝国の性質を持った国から1本の角(1つの国で治めきれない国)が後から生えてきて、尊大・・神を冒涜する言葉を語っていた。これが「反キリスト」(マタイ24::15、Ⅱテサロニケ1~12、Ⅰヨハネ2:19、黙示録13:1~10)です。この反キリストの働きとは別に、そこに御座が据えられ、「日の老いたる者」(9)・・真の神様の御姿が見え、「人の子」(13)・・真のキリストが私たち、人類の神となられる御姿とこの方に仕える、多くの人々の姿が見えるのです。ここに「聖者(25)聖なる民(27)」は、イスラエル人の事であり、キリストにおいて一つとされたキリスト者の事でもあるのです(エフェソ2:11~13)。



2024年10月13日         主日礼拝            『天の父の御心を行う者だけ』       マタイによる福音書7章24~29節      
     「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(22)

先月は、石川県の奥能登で、豪雨による沢山の被害がありました。10月に入り、アメリカの南部、東部でも、ハリケーンにより多くの被害があったそうです。豪雨や洪水、津波など、水による被害も、地震と同様、またつらいですね・・・聖書にも、水による被害の箇所が記されています。と言っても、イエス様の例え話の中なのですが。「あなたがたは地の塩であり、世の光である」(5:13,14)「右の頬を打つなら、左の頬をも向けてやりなさい」(5:39)「敵を愛しなさい」(5:44)「あなたの宝のあるところに、心もある」(6:21)「まず神の国と神の義をもとめなさい」(6:33)「求めなさい。そうすれば、与えられる」(7:7)「何事でも人々からして欲しいと思う事は、人にもしなさい」(7:12)「天におられるわたしたちの父よ、・・・」(主の祈り6:9-)などと教えてこられ、今日の箇所は、イエス様が山上の説教と言われているこれらのお話しの最期の所です(28)。イエス様は大工でした。大工と言うと、日本では家を建てる仕事をされている職人の方々を言いますが、この当時イエス様が具体的にどんな仕事をしておられたのかは詳しくは分かりませんが、大工で生計を立てておられたのは、間違いないようです。そのイエス様が、大金のかかる家を建てるという重大事の際の最も大切な事を教えられたのです。家にとって土台が最も大切。おろそかにすると、大きな被害が出てしまいます。つまりそれは、イエス様の言葉を聞いて行う事です。イエス様と出会ってからの期間が長ければ長い程、多くの御言葉を蓄えて来られたでしょう。ただ、御言葉を多く知っているだけではダメだよと警告されておられるのです。そんな事言われても無理だわ~、とおっしゃるかも知れません。山上での説教だけでも、その通り行うことは非常に難しいのです。しかし、そのダメだわ~という気持ちをそのままイエス様の所に持って行きましょう。恐れや怒り、憎しみ、妬み、自分はダメだとの思い込みなど、否定的な感情をイエス様にお渡しし、聖霊様に満たして頂きましょう。



2024年10月6日          主日礼拝             『獅子の口を閉ざされた神』          ダニエル書6章26~29節
 
    「わたしは以下のとおりに定める。この王国全域において、すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。 
       この神は生ける神、世々にいまし 
       その主権は滅びることなく、その支配は永遠。 
       この神は救い主、助け主。 
       天にも地にも、不思議な御業を行い 
       ダニエルを獅子の力から救われた。」(27・28)
    「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」(フィリピ3:17)

急に気温が下がり秋らしくなってきました。またこの秋も短いという予報も出ています。ご自愛ください。さて、このダニエルも80歳を超え、引退をしていたのに、国の支配がバビロンからメディア・ペルシアにかわったために三大臣の一人に任命され、それが他の者たちの恨みを買い、王の信頼を受けていたにもかかわらず、獅子の穴に投げ込まれるという、むごい死刑を言い渡されたのです。しかし、結果的に獅子に食われず、彼の敵は一掃され、ダレイオス王は、「すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。」と勅令(王などが直接出した命令)を出し、ネブカドネツァル王に続いてダレイオス王も「生ける神」真の神を信じたのです。そして、ダニエルは次の王キュロスにも用いられたのです。もしかしたらこの影響が「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」(マタイ2:1)と続くのかも知れません。帝国が滅び、年月が経ち、形が変わっても「生ける神」に対する信仰は残っていたのかも知れません。では、なぜダニエルにこのような事ができたのでしょうか?日本のクリスチャン人口はいまだに1%以下で、日本基督教団が「2030年問題」としている教会存続危機も解決していません。結局は継続、継承、後継者問題です。その解決はただ一つ。ダニエルやパウロのように「生ける神」を現すことです。「私を見ないで…」ではなく「私を見て…」と言いましょう。



2024年9月29日           主日礼拝           『賛 美 ・ 主』      テサロニケの信徒への手紙 一 5章12~25節
      
    「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
     これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」(16~18)                             「私は知っている。人は生きている間、幸福であり、善いことをする以外に良いことはないし、また、食べたり飲んだりし、
     自分の仕事に満足を見いだすことも、神の賜物である。」(伝道者の書⦅コヘレトの言葉⦆3:12・13 現代訳聖書)
 
今回、自民党の総裁選=総理大臣である石破茂氏は、同志社大学を設立した新島襄師から洗礼を受けた、金森通倫のひ孫にあたる4代目クリスチャンです。日本の風潮として早速石破氏批判のようなものが始まっていますが、聖書に「願いと祈りと執り成しと感謝を・・王たちやすべての位の高い人のためにも献げなさい。」(
Ⅰテモテ2:1・2)と命じられているように、王のような立場にある石破氏が何をしてくれるかだけでなく、この日本のために自分たちは何ができるかを祈り求め
ていきたいと思います。では、真の王の王である神様は私たち人に、何を求めておられるのでしようか。聖書は明白です。「いつも喜んでいなさい。」(16)これ
が神様が私たち人に望んでおられることです。「本気で言ってるの?」「出来るはずがない」「現実を見てよ・・」そんな声が聞こえてきそうです。確かにこの世は
「エデンの園=楽園」ではなく、聖書も「わたしは、あなたに産みの苦しみを与え、あなたは大いに苦しんで子を産むようになる。それでもあなたは夫を慕い、夫はあなたを支配することになる。」「あなたは、一生あくせく働いて、食物を得、ついに死ななければならない。あなたは土のちりから造られたから、死ねば、そのちりに帰る。」(創世記3:16~19)と書いています。しかも、「この世の神」(Ⅱコリント4:4)は、神ではなく「あなたがたは、悪魔である父から出た者であっ
て、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は初めから人殺しであって・・悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。」(ヨハネ8:44)と書い
てあります。すなわち、この世の神であり私たちの人の父は悪魔であると言っているのです。だから私たち人は「生まれながらに神の怒りを受けるべき子でした。し
かし、神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし・・共に復活させ、共に天上で座に着かせ
てくださいました。」(エフェソ2:3~6)ハレルヤ!私たちは生きる者とされたのです。



2024年9月22日          主日礼拝              『命がけの礼拝』                ダニエル書6章1~14節

 「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつもの通り二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、
  日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」(11)
 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)
 
 先日のパリオリンピックで、セルビアの柔道選手が「十字を切った」として国際柔道連盟から5か月の資格停止を受けました。宗教的行為をしてはいけないという禁止事項違反になるそうですが、ダニエルたちにも同じような禁止事項が与えられました。しかもその禁止事項は、メディアとペルシアのダレイオス王以外のすべての国民が対象で、しかも国際柔道連盟とは違い,王に気に入られている3人の大臣の一人であるダニエルを陥れようとするものでした。つまり、期間限定とはいえ悪意がありしかも内容は、王を最高神とすることでした。ダニエルは80歳を超えているにも関わらず「政務に忠実で、何の汚点も怠慢も」(5)見いだせない人物です。しかも、「ダニエルには優れた霊が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた」(4)と記しています。すなわち高齢のダニエルにとって最も大切な事は、自分の実績や感情や思いや能力ではなく、日々の神様との交わりだったのです。だから彼は自分の命よりも神様との関係を大切にしたのです。
 私たちは、日々の生活において何に焦点を当てているでしょうか?9月15・16日に第47回「西日本再臨待望大会が行われ、計4回の集会がありました。そこで何回も出て来たのが、旧ホーリネス教会中田重治師が提唱した新生・聖化・神癒・再臨の「四重の福音(新聖歌381)」です。ここには、クリスチャンがクリスチャンとして「完全な者」(フィリピ3:12)に変えられていく工程がバランスよく説かれていると言われています。また、A・B・シンプソンが提唱した「四重の福音(新聖歌427)」は、クリスチャンの体験ではなくて、主であるキリスト・イエスに焦点を当てています。イエス様も「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ5:39・40)と言われました。形はどうあれ、この御方に目を留め、この御方と交わり、この御方の声を聞こうではありませんか。



2024年9月15日          主日礼拝            『悔い改めなかった王』              ダニエル書5章17~28節
 
   「見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたた えておられます。
    だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」(23)
   「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、
    また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように と、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)

人にはそれぞれの立場において責任があります。今日の物語は、王でありながらその責任を放棄し、その結果王の死とバビロン帝国の滅亡を招いたことが記されています。ベルシャツァル王に召し出されたダニエルは言います。「いと高き神は、あなたの父(おそらく祖父)ネブカドネツァル王に王国と権勢と威光をお与えになりました。・・しかし、父王様は傲慢になり、頑に尊大のふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。・・ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。」そして、王に祖父に倣って悔い改めることを求めたのです。そして壁に書かれた文字、「あの手を遣わして」書かせた文字は、「メネ、メネ、テケル、そして、パルシン」すなわち神が王の治世を数え、秤で計ると足りないことが分かったので、バビロン帝国は、メディアとペルシアに分け与えられると言うものでした。遣わされた「あの手」とは誰の手だったのでしょうか?また神様はこの文字と、説き明かしたダニエルを通して、ベルシャツァル王に何を求められたのでしょうか?それはへりくだることであり、悔い改めることでした。確かに祖父ネブカドネツァル王は偉大な王であり王としての素質を持っていたでしょう。それに対してベルシャツァル王は正式な王ではなく、王としての素質も十分でなかったかも知れません。しかし、御旨のままに王を立てられる御方に何の障害があるでしょうか。もしあるとすれば、神ではなく、自分に焦点を当てて心をかたくなにし悔い改めない事ではないでしょうか。神が私たちを選んだのです。足らなくても失敗しても神様の責任です。私たちはただ、悔い改め、選んでくださったこの御方について行こうではありませんか。



2024年9月8日           主日礼拝             『サタンの偽り』                  創世記3章1~13節

      
      「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(3:1新改訳) 

神様がおられるのなら、何故災害などが起こって、沢山の方が亡くなったりするのですか?という質問を頂いたりします。神様がいらっしゃるのなら、人類、いや他の生き物も含めてみんな幸せに生きれるはず。でも、現実は全く違い、相次ぐ災害を始め、夫婦関係・友人関係・知人関係などあらゆる人間関係の破綻、自死者の増加、相次ぐ戦争、急速な自然破壊などきりがないです。聖書の始めにある創世記には、人間が神によって創られ、神と共に幸せに暮らしていた中から、どの様になっていったかが記されています。助け手も与えられ、夫婦でエデンの園に住まうのを許され、何不自由ない日々を送っていたのですが、ただ一つだけ食べてはいけないと言われていた木の実がありました。その戒めを守っていたある日、蛇(サタン)が現れ、上記の言葉を女(エバ)に投げかけます。サタンは木の実を強制的に食べさせることは出来ませんが、偽りを言って惑わしました。その結果、人はルールを破り、神様よりエバを選び罪を犯します。自分が裸であったのを恥ずかしいと思うようになり、そのままの自分を受け入れる事が出来なくなり、会うのが楽しみだった神様からも身を隠し、そして出て来るのは、否定的な言葉ばかりになってしまいます。幸せだったエデンの園にもいることが出来なくなくなってしまいました。これが人類の不幸の始まりです。ですから、神様が、ではなく、人間が自ら招いた事なのです。それからは、全ての事をそのまま受け入れるのではなく、全てが否定的になってしまうのです。ある人は、こんな足りないだらけの自分なんか必要ないと自分を否定し、自ら命を断ってしまったりします。騙されてはなりません!そのままで素晴らしい存在なのです!創造してくださった神様はあなたを「高価で尊い」(イザヤ43:4新改訳)と言ってくださるのです。サタンの偽りに騙され続けないで、騙されていることをまず知り、その否定的な感情を神様の前に捨て去りましょう。



2024年9月1日           主日礼拝           『王の前に現れた人の手の指』             ダニエル書5章1~9節

 「宮廷の知者たちは皆、集まって来たが、だれもその字を読むことができず、解釈もできなかった。ベルシャツァル王はいよいよ恐怖にかられて顔色が変わり、
  貴族も皆途方に暮れた。」(8・9)
 「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」(Ⅱコリント12:9) 
 
 ダニエル(ベルテシャツァル)たちが、「ユダヤ人の捕囚の一人」(5:13)として連れて来られて66年経った頃の事です。バビロン帝国を最も繁栄させ「あなたがその金の頭なのです」(2:38)と言われたネブカドネツァル王がBC562年に召された後、エビル・メロダク、ネリグリッサロス、ラバシ・マルドゥク、ナボニドスが王位をつぎ、ベルシャツァル(ベルよ、王を守りたまえ)はナボニドスの子で共に国を治めていました。特に最後の数年間はメディアとペルシアの連合軍との戦いに敗れ、一線を引いた父王に代わって実権を握っていたと言われています。だから「第三の位」(5:7)と言ったのです。とすれば、王としての言動に問題があると言わざるえません。①大宴会を開く時ではありません。帝国滅亡の危機に直面していたからです。②エルサレム神殿の祭具を器として酒を飲み、偶像を褒めたたえました。してはいけないことです。ネブカドネツァル王は祭具を祭具として宝物倉に納めました(1:2)。③恐怖に捉えられ、パニック状態になりました。③この字を読み、解釈をした者に、軽々しくとんでもなく大きな地位を与えようとしました。・・これらをおそらく祖父であるネブカドネツァル王と比べるとリーダーとしての器の違いがはっきりします。まさに真の神は「最も卑しい人をその上に立てることもできる」(4:14)のです。ではどうすればいいのでしょうか?自分が「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者である」(黙示録3:17)ことを認めることです。認めてあきらめるのではなく、聖書に御言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ1:22)と書いてあるように、また、「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます」(ローマ8:26)と書いてあるように自分の力ではなく、神様に頼り、神様の力で行う人にならせて頂くのです。



2024年8月25日          主日礼拝           『天の王…真の神を信じた王』           ダニエル書4章25~34節

 「わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、驕る者を倒される。」(34)
 「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。それによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩編119:71口語訳)
 
 ネブカドネツァル王は、大きな木の夢を見ました。その木は切り倒され、枝を払われ、葉を散らされ、実を落とされ、その木陰や枝に宿る獣や、鳥が追い払われるのです。しかも、切り株に鉄と青銅の鎖をかけられると言うものでした。そしてその夢は、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)と書いてある通り、ネブカドネツァル王にも救われて欲しいと願われる神様からの警告でした。厳密にいえば王は真の神を受け入れていないかと言えばそうではありません。20年ほど前のダニエル(占い師の長ベテシャツァルと呼ばれています。ダニエルとは「神は私のさばき主」と言う意味で、ベテシャツァルとは「ベルよ、彼の人生を守りたまえ」と言う意味です。ちなみに「ベル」とはマルドゥクとも呼ばれるバビロン帝国の主神です。)による夢の解き明かしで神様の前にひれ伏し、3人を火の試練から救った神の顕現に触れ、バビロンの神々の中にその座を設けたのです。それは真の神を自分に仕えさせるようなものでした。つまりネブカドネツァルが主であり、真の神は「主」ではなかったのです。そこで神様は夢を通して警告を与え、神を「主」とすることを求められたのです。なぜなら、そうしないと神が与えようとしている「永遠の命」(ヨハネ3:16)を得ることが出来ないからです。この警告によって王は自重していましたが、抑えるだけではいつか噴き出てしまいます。12か月を過ぎた頃この警告は現実となり、王は自分を牛だと思い込む「リカンスロピー」妄想性人物誤認症候群という一種の精神病になります。しかし一定期間が過ぎ、ネブカドネツァルが「目を上げて天を仰ぐと、理性が戻って来た。」(4:31)と記されています。そして上記の言葉の通り、真の神を「天の王」として受け入れ、救われたのです。神様はネブカドネツァルが王だから、特別な価値があるからそうされたのではありません。すべての人が救われて、永遠の命を得るためにそうされるのです。



2024年8月18日           主日礼拝           『思い悩むな!』            ルカによる福音書12章22~34節

      「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(12:22)
                         
今年は、元旦から大きな地震があり、今月も地震が頻発しています。それも限定された地域だけではなく、あちこちで起こっています。今度は巨大地震も来る可能性があるとまで噂されています。地方自治体では、巨大地震に備えましょう!と度々アナウンスされ、具体的な備えを教えてくださっていますが、なかなか出来ません。うちが出来ているのは、せいぜい飲料水の準備を少しと食器棚にストッパーを付けて非常用袋の用意(賞味期限が切れていてまだ交換が出来ていない)くらいです。イエス様の例え話の中に「愚かな金持ち」の話しがあります。この金持ちは、大事な財産である穀物が豊作となり、全部を納め切れないので心配はしたが、新しい大きな倉を建てるという計画に安堵し、何年も心配のない生活が出来るのだから宴会でもして楽しく暮らそうと考えました。そこに神様が現れ、「愚かな者よ」(20)と呼びかけられ、「今夜、お前の命は取り上げられる」「お前が用意した物はだれのものになるのか」(20)「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない」(21)のだと警告されました。その後にイエス様は、空の鳥(ここではカラス)や野の花の生き方を通して「思い悩むな」と言われました。ギリシャ語の「思い悩む」(メリムナオー)は、ヘブライ語の動詞「ダアグ」で、基本的な意味は①心配する②恐れるです。どちらも否定的なものと捉えられています。否定的な意味の心配や不安を捨てなさいと命令されているのです。汚れたものとされているカラスや儚い野の花よりも価値のある者でしょう(24,28)。思い悩んでも、寿命を伸ばせないでしょう(25)。栄華を極めたソロモン王よりも野の花の方が着飾っているのです(27)。思い悩みは非ユダヤ人がするものだよ(30)。それだけでなく、「ただ神の国を求めなさい」(31)「富を天に積みなさい」(33)という肯定的な命令もされています。イエス様は、有り余るお金を持った中で生活しておられたのではありません。ご自分とその一行は放浪しながら伝道される中で、天の神様のみに頼り、何の心配もなく生活して来られたのです。不安の尽きない時代だからこそ、もう一度、イエス様の信仰に倣い、思い悩むのをやめましょう。



2024年8月11日         主日礼拝           『再び、ネブカドネツァル王の夢』             ダニエル書4章6~15節

  「すなわち、人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれをだれにでも与え、また、
   最も卑しい人をその上に建てることもできるということを、人間に知らせるためである。」(4:14)
  「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)

 心の扉を開けて「イエス様、わたしの主として私の内にお入りください。」(参照 黙示録3:20)イエス様を信じ、心の王として迎え入れることは人の人生において最も素晴らしいことではないかと思います。8月に行われたキャンプでも、2人の小学生が信仰告白いたしました。「死から命に」(ヨハネ5:24)「滅びから永遠に」(ヨハネ3:16)「闇から光に」(使徒26:18)「サタンの支配から神の御元に」(使徒26:18)移されるのです。何と言う恵でしょうか。しかし、そのために必要なのは、世界の王と言う権力ではなく、打ち砕かれた謙遜な心なのです。バビロン帝国の王ネブカドネツァルは、ダニエルの夢の解き明かしで世界を支配しておられる御方に触れたとき、「あなたたちの神はまことに神々の神、すべての王の主」(2:47)と言ってひれ伏したのです。しかし、燃え盛る炉で、この御方の顕現に触れながらも悔い改めず、いわば偶像の神の一角に生ける御方の座を設けたにすぎません。王は夢の中で警告を受けたのです。大地の真ん中に生える大きな木。それを聖なる見張りの天使が、この木を切り倒せと命じ、この命令は聖なる者らの決議によるという夢なのです。世界一の王と言えどもこの夢を見て恐れ悩みました。当然でしょう。人として世界一であっても真の絶対者の前ではそうではないからです。私たちはどうでしょうか?確かに私たちも神様を信じています。しかしこの御方を、神々の内の神にしていないでしょうか?まことにこの御方こそ私の王として、この御方に従っているでしようか。イエス様も、マタイを弟子にするとき「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12・13)と言われたのです。



2024年7月28日         主日礼拝          『火の試練ーダニエルはいずこに』            ダニエル書3章19~27節

   「王は言った。『だが、わたしには4人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。
    それに4人目の者は神の子のような姿をしている。』」(3:25)
   「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、
    逃れの道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13) 
 
 「そうでなくとも」(3:18)によって、彼らはすでに勝利者になっているのです。実際に名さえも奪われた奴隷のような彼ら・・ハナン(主は慈悲を示される)ーシャドラク(アク=月の神の指令の下に)、ミシャエル(誰が神のようであるか)ーメシャク(誰がアクのようであるか)、アザルヤ(主は助けられる)ーアベド・ネゴ(ネゴの召し使い)しかし、神は主なのです。イスラエルにおいてだけでなく、すべての創造神であり、神々ではなく唯一の神なる御方は異国の地においても主権をとっておられるのです。まさにダニエル書の主題は、神の主権なのです。彼ら3人が火の試練に勝利することによって、①御言葉の成就ー「火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ43:3)②信仰者を励ますー「燃え盛る火を消し」(へブル11:34) その結果、王は彼らの神を認め、彼ら3人を「バビロン州で高い位のつけた」(3:30)のです。ここで注目して欲しいのは、彼らは縛りから解放され自由になっていることと、神の子のような方が一緒にいることです。イザヤもキリストの預言で「その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14)と言いました。キリスト御自身も「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されました。そしてこの御方こそ私たちに真の自由をお与えになるのです(ガラテヤ5:1、Ⅱコリント3:17)ここでもう一つ注目して欲しいのは、ダニエルです。彼は王の側近で彼らを助ける事もできたでしょう。しかし、しませんでした。なぜならダニエルの主は神であり、神は「火の試練」を通して神を体験することを望まれたのです。



2024年7月21日        主日礼拝           『信仰の勝利―そうでなくとも』              ダニエル書3章8~18節

 「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。
  そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(17、18)
 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」(使徒5:29) 

 神のようになりたい人間がいます。彼は自分の身代わりとして金の像を造りました。その彼を利用しようとする輩がいます。「何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと」(2:8)と書いてあるとおりです。理由はもしかしたら妬みかもしれませんが、彼らを王の命令を無視し、王の建てた金の像を拝まない者として訴えたのです。彼ら・・シャドラク(王の朋友?)、メシャク(バビロンの神を拝せよ?)、アベド・ネゴ(神は星座の軍である?)は、ダニエルの功績によってバビロン州の行政官に任命されました。それから20年間、彼らは人の妬みを買うほど、王に忠実に仕えた事でしょう。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(ローマ13:1)「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。」(エフェソ6:5)と聖書にも書いてあります。しかし、信仰は違います。彼らは「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」(3:15)に答えたのです。①「お答えする必要はございません」―問答は避けました。信仰は見せるものだからです。②「わたしたちのお仕えする神」―異国の偶像だらけの地でも、彼らは真の神を礼拝していたのです。「礼拝」とは拝むだけでなく「仕える」と言う意味も含まれます.③「必ず救ってくださいます」―信仰告白です。私たちの神はすべてを創られ、すべてを治められる全能の神です。奇蹟と不思議は当たり前のことです。④「そうでなくとも‥決していたしません」―信仰の決心です。求めた通りにしてくださるか否かは、神様がお決めになることです。願った通りにならなくても、神様は最善以外のことはなさいません。





2024年7月14日       主日礼拝            『神様の新しい業』                  イザヤ書43章18、19節 

            「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」(19) 

先週のメッセージに出てきたネブカドネツァル王は、本当に残念でした。預言者ダニエルを通して神様の啓示を与えられ、異国の王が真の神様に心を向けたかに思えたにもかかわらず、20年後に大きな金の像を作ってしまい、神様の事は全く忘れてしまったようです。イスラエルの人たちも、エジプトでの苦しい生活を強いられていた時、神様は彼らの叫びを聞かれ、逃げ道がない中、紅海を二つに分け、脱出させてくださったのです。神様の約束の地を目指した旅の途中、エジプトで苦しんでいたことを忘れ、エジプトでの生活を懐かしみ、あの頃は良かったとか、文句ばかりでした。16節にあるように、人はとかく自分が考えているような状況が得られない時、過去と現在を比較して、昔は良かったと言ってしまったり、過去の失敗や過ちを思い出しては苦しんで後悔して、今を生きることが難しくなってしまう事もあるのではないでしょうか。だから自分はこんなに惨めで、いくら努力しても無駄だし、どうしようもないのだという無気力、倦怠感に包まれている状態。どんな状況の中であったとしても、私たちが目と心を向けなければならないのは、そういった現状ではなく、出エジプトの神様であり、その神様がどのように導いて来てくださったかなのです。その神様が、「新しいことを・・・行う」(19)と言われています。この言葉は、イスラエルの民が、悔い改めて主に目を向けるようになったので、告げられたのではありません。北王国が滅亡してしまっても、高慢になり、私たちには神様がいるから大丈夫だとか勝手に思い込み、悔い改めもせず、どこまでいっても主を裏切り続け、信頼もしないのにです。その預言の実現は49:10のように素晴らしいものです。その目的は43:21です。イスラエルの民から、私たちは、日々悔い改め、心の石があれば日々取り除き、本当に心を主に向けましょう!何もないように見えても日々道を造ってくださり、私たちを愛し続けてくださる主の業に期待しましょう!



2024年7月7日       主日礼拝           『神になりたかった王様』                   ダニエル書3章1~12節
 
    「それで、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴の音楽が聞こえてくると、諸国、諸族、諸言語の人々は皆ひれ伏し、
     ネブカドネツァル王の建てた金の像を拝んだ。」(7)
    「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)
 
七十人訳聖書によれば、治世18年の時とあります。ダニエルたちがバビロンに連れてこられて20年がたち、エルサレムが陥落した年でもあります(BC586)。そこでネブカドネツァル王は巨大な金の像(60×6アンマ、1アンマは約45㎝)を造り、「王の建てられた金の像の前にひれ伏して拝め。ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。」(5・6)と命じたのです。さん然と輝く、27メートルの黄金の像、その前に集められ総督、執政官、地方長官などの高官たち、おそらく幾万という人々が楽器の音と共にひれ伏すのです。・・いったいこの王は何をしたいのでしょうか?20年前巨大な像の夢を見て不安になり、「あなたがその金の頭なのです。あなたのあとに他の国が興りますが、これはあなたに劣るもの。」(2:38・39)とダニエルの解き明かしを聞いてひれ伏し「あなたたちの神はまことの神々の神、すべての王の主」(2:47)と告白した王の姿はどこにあるのでしょうか?王は、勝手自分がひれ伏した神々の神、すべての主になりたかったのです。そしてこれが罪の根源であり、罪と共に滅びていく人の姿なのです。エバは「神のように」(創世記3:4)という言葉によって、神様が彼らのために用意された「エデンの園」で、神にではなくサタンの側に付いたのです。サタンとは「いと高き者のようになろう」(イザヤ14:14)としておとされた堕天使であり、「罪と死との法則」(ローマ8:2)の主体なのです。この罪の性質は完全否定であり、その本質は高慢です。そして「しかし、お前は陰府に落とされた 墓穴の底に。」(イザヤ14:15)と書いてあるように、サタンは死に定められているのです。そして、このような状態から救いうるのは、イエス・キリストの愛を受け入れ、この御方を愛し、この御方に従う事のみなのです。



2024年6月30日      主日礼拝           『巨大な像の夢と解き明かし』                ダニエル書2章37~49節
 
 「天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。」(44)
 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」                                                               (ヨハネ5:24)

 異国の王の信頼を得たかに見えたダニエルたちに、命の危機が迫ってきました。しかも自分のミスでないことでです。あなたならどうしますか? 彼はまず・・
①理由を聞いた・・「王の高官アリヨクに尋ねた」(2:15)情報を得ることは解決の糸口です。しかも彼は知者皆殺しの命令を受けていた。②王に願います・・「しばらくの時をいただけますなら」(2:16)人の絶対者?「わたしの命令は絶対だ」(2:5)は、感情的な即断を常とします。そこで時間をかけて、互いに冷静になることが大切なのです。③宣言します・・「解釈いたします」(2:16)まだ何のしるしもない時から、真の絶対者である神に信頼したのです。④仲間と共に祈った・・「天の神に憐れみを願い、その夢の秘密を求めて祈った」(2:17・18) 共に(マタイ18:20)また、具体的に祈りました。⑤祈り続けた・・「すると、夜の幻によって」(2:19) おそらく祈り続けたのでしょう。適任であるダニエルに天の神は夜、幻によって、王の夢とその解き明かしを与えられたのです。⑥神に感謝した・・「わたしの父祖の神よ、感謝と賛美をささげます」(2:23) 神との関係において最も大切な事です。すべてのものに満ちておられる神は、様々な善行やささげものは求められません。必要ないからです。ただ、その気持ちを喜ばれるのです。
 さて、いよいよ解き明かしです。この夢は、これから世界がどうなると思い巡らしておられた王に(2:28~30)、神が啓示をもって答えられたのです。人手によらない一つの石によって砕かれた、巨大な像の夢でした。絶対者に一番近い人であり国であったバビロンが金の頭、以下銀の国はメディア・ペルシャ連合国、青銅の国はギリシャ、鉄の国がローマ帝国、鉄と陶土の国は現代と言われ、それが「神の国」
再臨のキリストによってもたらされるのです(2:45)。



2024年6月23日      主日礼拝             『人と住まいを共になさらぬ神』           ダニエル書2章10~16節

  「王様のお求めになることは難しく、これに応じることのできるのは、人間と住まいを共になさらぬ神々だけでございましょう」(11)
  「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9) 

今日は私たちの信じている「神」について考えてみましょう。ただ「この世の神」(Ⅱコリント4:4)「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者」(エフェソ2:2)すなわち堕天使サタン(エゼキエル28:12~18、イザヤ14:12~15)の事ではありません。聖書に「この国は偶像に満たされ 手の業、指の造った物にひれ伏す。」(イザヤ2:8)と書いてある人が作った神の事です。さて、ダニエル書においては、「王が何度か夢を見て不安になり、眠れなくなった」(1)と書いてあります。真の神は.ヤコブに(創世記28:10~15)、ヨセフに(創世記37:5~11)また、エジプト王の給仕役と料理役(創世記40:8~17) 
ソロモン王(Ⅰ列王記3:5~15)また、ソロモンは「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません」(Ⅰ列王記8:27)。新約では、主の天使が夢に現われて言った(マタイ1:20~24)と書いてあります。そしてこのバビロン王ネブカドネツァルに夢を見せられたのです。王が即位して2年目、エジプトを支配下に置いてまさに王の王、世界の王になっていました。この世の神の如く何でもできたのです。しかし、不安は消えません。そこで夢を解くように命じました。しかも、「わたしの見た夢を言い当て」(5)る条件付きでした。そこで賢者たちが王に答えたのが上記の言葉です。確かにバビロンにも神はいました。「祭具類は自分の神々の宝物倉に納めた」(1:2)と書いてある通りです。しかしそれらの神々は賢者の言葉の通り、人間以上の者、すなわち人が自分を神としてかたどった物だったのです(一説では二ムロド⦅創世記10:9⦆を神とした)。しかし私たちの神は、人を造られた神であり、「人間」=肉なる者=人の弱さを示す―の御方で、最高の権威をもって祝福されるのです。



2024年6月16日       主日礼拝             『心の石を取り除こう!』               エゼキエル書36章26節

     「わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(26)
                          
1517年10月31日、マルチン・ルターが、ローマ・カトリック教会の問題を提示した事に始まり、キリスト教はカトリックとプロテスタントに分かれてしまいました。私たちはそのプロテスタントの方で、その中でも、きよめ派に属しています。しかし残念なことに、プロテスタントはこれでもかという程分裂を繰り返しました。これは麗しい状態でしょうか。終末の時代、不法がはびこり、愛が冷える(マタイ24:12)と預言されていますが、これはこの世の事であって、イエス様を信頼する者たちにとっては、聖霊による義と平和と喜びを与えられるのです(ローマ14:17)。にもかかわらず自分こそは正しいという所に立って、人を非難し受け入れない。自分が神様に代わっての裁き人かのように裁く。これは、サタンの思う壺にはまっている状態なのです。人間関係の中で生じて来る、私たちの内に貯まる怒りや憎しみ、批判やうわさ話、こうした否定的な感情に特に気を付けなければならないのです。これらの状態をそのまま放置するなら、サタンへの足場を作り続け、やがて神様に属する者ではなく、サタンに属する者とされていくのです。そこで、私たちがしなければならない事は、そうした心にある石を取り除くという事です。突発的にそういう感情を抱くことは避けられないかも知れません。問題は、それを保持し続け、増大させるところにあります。そういった感情を、人はなかなか手放せないし、そのまま持っていたいのです。そういう感情と決別するという決心が必要です。心を愛で満たしたくても、石が詰まっていたら、愛が入る隙間がないのです。「石の心を取り除く」(26)と約束してくださっている神様に、取り除いて頂き、聖霊によって注がれる愛で満たして頂きましょう。




2024年6月9日        主日礼拝               『小さな奇蹟』                 ダニエル書1章11~21節 

   「世話係はこの願いを聞き入れ、十日間彼らを試した。十日たってみると、彼らの顔色と健康は宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かった。
    それ以来、世話係は彼らに支給される肉類と酒を除いて、野菜だけ与えることにした。」(14・15))
 
 今日から、「ダニエル書」から学びたいと思います。ヤコブの手紙に「離散している十二部族の人たちに」(1)と記されていますが、BC722年頃北イスラエルがアッシリア帝国によって滅亡し南ユダもBC587年ごろ滅亡します。「離散」とは国が滅亡したイスラエル民族の人々の事です。さてダニエル書は、著者ダニエルによって書かれたもので、バビロンの王ネブカドネツァルが最初にエルサレムを包囲した時(BC605年頃)に連れて行かれてから、ペルシア王キュロスの治世3年までのBC536年頃までの事が記されています。この書は大きく2つに分けられ、1~6章まではダニエルと3人の少年たちの出来事であり、7~12章まではダニエルの見た幻と預言が綴られています。またこの書は2:4~7章までアラム語(当時の共通語)で、その他はヘブル語で書かれています。今回この書から学びたいのは、神は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束された通りの御方であることを知ることです。それでは1章から始めます。
 ダニエルは王族か貴族出身の少年で、他に選ばれた3人の少年と共にバビロンの宮廷に仕えさせるために連れてこられました。言うなれば国家による誘拐です。いつ殺されるかもしれない恐怖の中で、異国の地に連れて行かれ名さえも奪われました。今日ガザで人質となっているイスラエルの人たちもそうでしょう。私には想像もつかないことですが、ある日突然に現実となるのです。その中で彼ら少年たちは、王の命令に逆らったのです。8節に書いてあるように、「宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心」したのです。何も毒や律法に反することではなく、偶像にささげられる肉や酒を拒否したのです。通常考えられない事であり、育ち盛りの少年たちにとって野菜だけで健康であるはずがありません。しかし、命がけで自分に従おうとしている少年たちに特別な事をしてくださいました。それは、侍従長の心をダニエルに向けさせ(御計らいによって)、野菜のみで他のおそらくバビロンのどの少年たちよりも健康にしたのです。彼らにとって最初の小さな奇蹟です。




2024年6月2日       主日礼拝            『互いのために祈りなさい』              ヤコブの手紙5章13~20節

 「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」(16)
 
 ヤコブ最後のメッセージです。ヤコブはイエス様の実の弟であり、キリストとして信じてからも、人として神としての御姿をじっと見続け、本物を追及してきた人物のように思います。彼は最後に祈ることを求めています。知識に頼れば知識が、業に頼れば業が、人に頼れば人が与えられますが、「祈り」は、キリスト者が確かに信じている神に対する語りかけであり、この御方のみ旨が表される時なのです。 
 特にヤコブは、「互いのために祈りなさい」と言われました。詳訳聖書では「ですからあなたがたはお互いに自分の罪(自分のあやまち、失敗、違反、罪)を告白し合い、そして(また)、お互いに(理性と心情が霊的になるように)いやされる(回復する)ために祈り合いなさい。正しい人の真剣な(心からの、絶えない)祈りには非常な力が与えられるのです(力強い働きをします)。」と訳されています。このような祈りが出来るのが、本物のキリスト者であり、成熟したイエス様の弟子なのです。今ズームで、「信徒と牧師の教会づくり」と言う学びをしています。その中に「成長のプロセス」礼拝をささげる人、交わりに生きる人、仕える人、伝道する人として成長する、という項目がありました。そして最後に機械的なプロセスではなく有機的な交わりによって成長すると教えられました。お互いが、「霊的」…
この世の価値観でなく神の国の価値観で生きることが出来るように、祈り合えたら素晴らしいし、真の「いやし」が神のかたち(参照 創世記1:26・27)の回復であるなら、これこそキリスト者としての、否、人としての目的ではないでしょうか。「祈り」とは「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)と言われたイエス様の御言葉が、現実となることなのです。アーメン。次回から旧約聖書「ダニエル書」を学びたいと思います。





2024年5月26日       主日礼拝             『希望と喜びの忍耐』                ヤコブの手紙5章7~12節

        「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。」(8)
 
 ハレルヤ‼ 主イエス様の御名を賛美いたします。先週はペンテコステ、聖霊降臨日であり教会の誕生日でした。教会とは、組織や建物のことではなく一人ひとりのキリスト者の集まりであり、互いを支え合う家族であり、この世に勝利するためのチームなのです。つまり、教会とは、キリスト者と同質であり、キリスト者とは「弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」(使徒11:26)と書いてあるように弟子の事です。そして弟子とは「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(Ⅱコリント3:18)と書いてあるように、また、イエス様も「だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」(ルカ6:40)と言われたように、イエス様のような生き方をする者の事です。それが、「もういいよ」とイエス様に言われて天の御国に帰るまで、或いはイエス様が再臨されるまで続くのです。ヤコブはそのことを「忍耐」と言いました。しかしそれはただガマンすることではなく、マクロシュメオーと言うギリシア語が使われていますが、希望をもって待ち望むという意味です。それは収穫を待ち望む農夫のようにです。秋の雨と春の雨とは、蒔いた麦が芽を出し実りに必要な雨の事です。預言者ヨブの忍耐とは、ヨブ記(旧約776P)のヨブの事であり、彼は突然降りかかった苦難のゆえに自分を呪い友人からも罪を責められ、それでも「神よ わたしはあなたに向かって叫んでいるのに あなたはお答えにならない」(ヨブ30:20)御前に立っていたのです。神はヨブの財産を子ども以外は2倍にして祝福されたのです。さてここに再臨される主を「裁く方」(9)と呼んでいます。確かにイエス様は、「信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)と言われましたが、僕仲間をいじめる例え(マタイ24:45~51)や主人を厳しい方だと非難したタラントンの例え(マタイ25:14~30)もされました。では私たちは何によって裁かれるのでしょうか?祈らなかったことですか、賜物を用いらなかったことですか、完全な信仰がないことですか、財産を惜しんだことですか、自分の命を犠牲にしなかったことですか、いいえ、「愛がなければ、わたしに何の益もない」(Ⅰコリント13)と書いてある通りです。



2024年5月19日      ペンテコステ礼拝        『キリストの証人となるために』          使徒言行録2章1~4節、1章8節

    「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、
     また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(8)

 今日は、ペンテコステというキリスト教の3大祭りの一つです。この言葉は50日目を表し、過越し祭りから、7×7+1のお祭りです。ちなみにユダヤ教の3大祭りは、過越祭、五旬祭、仮庵祭で五旬祭はペンテコステと同じ日の祭りです。このペンテコステに「一同が一つになって集まって」(2:1)…おそらく「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(1:4)と言われたとおり祈り待ち望み、その日に祈りに応えて来て下った聖霊様に満たされたペトロのメッセージによって3千人が洗礼を受け、教会が誕生しました。それで、ペンテコステを聖霊降臨日、教会の誕生日と言います。
 私たちクリスチャンは、この世から離れてはいけませんがこの世と同じでもいけないのです。私たちは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリント12:3)と書いてあるように聖霊様によって新しく生まれ、「命をもたらす霊の法則」(ローマ8:2)によって生かされることによって生きているのです。今日の中心聖句に書いてある「証人」とはこの「命」をあらわす証人の事です。この命は神の国につながる永遠の命の事であり、喜びであり平安であり希望なのです。イエス様が「神の国について話された」(1:3)ように、私たちは神の国が、今ここにもあることを見せなければならないのです。それは「神の国」を体験していなければ非常に難しいことですが、体験していれば簡単な事です。ではどうすれば体験することができますか?「イエスは主である」と御言葉に書いてあるように、神と神の言葉に従うのです。従うことは自分の力ではできませんが、聖霊様の力でできるようになるのです。従うことによって私たちは「神の国」を体験し、神の国を体験したものが集まって「教会」となるのです。



2024年5月12日      母の日礼拝              『母を敬う事』                エフェソの信徒の手紙6章2、3節

    「父と母を敬いなさい。」(5:1)
母の日は毎年5月第2日曜日に、お母さんに日頃の感謝と敬意を伝える日です。諸説あるようですが、世界の多くの国々で「母の日」は5月第2日曜日として広がっています。それは、キリスト教会から始まりました。アメリカのウエストバージニア州で、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するために地域の女性を結束させ、平和活動を行って来られたアン・ジャービスさんという方が1905年5月9日召天されました。1908年5月10日、娘のアンナ・ジャービスさんが教会で亡き母の追悼記念会を持ち、母が好きだった白いカーネーションを祭壇に飾り、参列者にも配りました。アンナさんの意思や母への感謝の大切さが共感を呼び、アメリカ全土に広がり、ついに1914年に国の祝日にまでなりました。日本には明治末期に伝わり、教会で祝われ、第二次世界大戦後の商業的なイベントから広く知れ渡るようになり、今日に至っています。自らもそうでしたが、なかなかお母さんのしてくれる事に感謝を言ったりとかは、こんな日でもないと出来ないですよね。朝ドラでも今回、日本初の女性弁護士にして女性裁判官となられた方のお話しをしていますが、戦前の女性は、何かと理不尽な思いをさせられ、法律の中で、婚姻している女性は無能力者で、資産はすべて夫が管理するという謎のルールがまかり通っていて、女性はそういうものだからとただ従っていたようです。そんな中で「はて?」と疑問を持ち、当たり前とされているルールが何故そうなのか突き詰めていきます。聖書の中でも、人数に女性が含まれませんでした。女性は財産を所有したり、法廷で証言する事も出来ませんでした。女性の意見や存在価値はなかった社会でした。しかし、神様は違っていました。初めから、何の偏見もなく、救い主誕生に際しても、女性をイエス様のお母さんとして用いられたのです。イエス様の誕生より1300年以上も前にモーセを通して与えられた「十戒」の5番目に「あなたの父母を敬え」からの引用が今日の箇所です。父だけでなく、平等に母をも敬えとおしゃる神様に従い、神様の与えられる幸せを享受させて頂きましょう。



2024年5月5日        主日礼拝              『富による支配』                  ヤコブの手紙5章1~6節

   「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。」(5:1)
   「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
    あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)
 
 私たちは、お金に対してどのようか価値観を持っているでしょうか?「お金はあるに越したことはない」とも言いますが、今日の御言葉を読むと、お金を持つ事が怖くなります。最近「清く貧しく美しく」(石田衣良著)と言う恋愛小説が出版され、1961年「名もなく貧しく美しく」と言う東宝映画もありました。戦後の厳しく貧しい環境の中で、一組の聾唖の夫婦が、子育てをしながら様々な困難を乗り越えて懸命に生きる姿を描いた名作です。私の心のうちにも何となく「お金は汚い」というイメージがあります。聖書も同じでしょうか?聖書はお金(富)そのものを否定はしていませんが、お金を持つ者の責任やその危険性を記しています。「金もうけをしよう」(4:13)と言う者たち、富は完全ではないと聖書は言います。当時の富と呼ばれたものは、穀物や家畜、衣服、金銀でした。これらは朽ち果て,虫が付き、さびるのです。実際は銀は錆びても金は錆びることはありませんが、ここでは、富を持つ者の責任を問うているのです。 ①富は蓄えることが目的ではありません。イエス様は「『愚かな金持ち』のたとえ(ルカ12:13~21)の中で「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(15)と言われました。彼は物によって平安を得ようとしたのです。しかし真の平安は、神によらなければ与えられないのです。 ②富は不正を生む危険性があります。ここに「支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。」(4)と書いてあります。彼は自分の為だけに富を用いたのです。自分が贅沢するために貧しい者たちを踏みつけにしたのです。それは「屠られる日に備え」と書いてあるように「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(ガラテヤ6:7)。 ③富は人を支配する道具ではありません。ここに「正しい人を罪に定めて、殺した」(6)と書いてあります。富は権力と容易に結びつき、人を支配しようとするのです。




2024年4月28日      主日礼拝            『成すべき善を行わないのは罪』            ヤコブの手紙4章13~17節

  「あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。
   そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(15~17)
 この手紙は、本物のクリスチャンであって欲しいとの、ヤコブの願いが込められています。それはイエス様御自身の願いでもあります。主は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ28:19)と命じられました。「弟子」とは、イエス様の賛同者(ファン)ではなくて、イエス様のようになりたいと思う人たちのことです。今日の箇所にあるように、商売をして金もうけしよう」と計画するのは決して悪いことではありません。しかし、いつ、どこで、どれぐらい、どんな方法で、何をするという計画には神様がおられないのです。イエス様だったら…が含まれないのです。それがクリスチャンにとって、誇り高ぶっていることであり、悪だと言及しているのです。17節こういうわけで(新改訳聖書)と4章全体の結論をまとめています。「人がなすべき善を知りながら」と言うのは、例えば「モルデカイがエステルに言い送った「この時にあたってあなたがたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。」(エステル4:14)また、イエス様は「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」(マタイ25:45)と言われました。これは最後の審判の日、裁き主なるイエス様の言葉です。ここでは「どんな悪をしなかったか」ではなく、「どんな善をしなかったか」を問われるのです。また、
イエス様の「善いサマリア人」と言う例えの中に、追いはぎに襲われ、半殺しにされたユダヤ人が出てきます。ここで問われるのは「その人を見て憐れに思い」(ルカ10:33)近寄って助けようとするか、否かです。緊急事態ですから考えている余裕はありません。そうすると、敵であるサマリア人が助け、隣人となるのです。




2024年4月21日       主日礼拝              『律法を裁くもの』               ヤコブの手紙4章11、12節

   「もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。
    この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。」(11、12)

 まず注意しなければならないのは、「悪口」という言葉です。ギリシャ語の「カタラレイン」が使われ、「陰口」(ローマ1:30、Ⅱコリント12:20)とも訳されています。つまりここでの「悪口」は、本人に直接言うのではなく、うわさ話やスキャンダル、ネットなどでの非難、中傷になるでしょうか。これらはよく耳にするし、うっかりすれば自分もその中にいたりします。あまり良くないことだと思ってもそれほど気に留めないのが現実ではないでしょうか。しかし聖書はこれらをはっきり「罪」だと言っています。新約はむろん旧約でも、「神に背く者に言われる。…座しては兄弟をそしり 同じ母の子を中傷する。」(詩編50:16、20)「隠れて友をそしる者を滅ぼし 傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。」(詩編101:5)と書いてあるからです。そして「兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、」(11)と書いてあるように、本人が言い訳もできない状況で非難することは、裁くことになるからです。そのことについてイエス様は「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ7:1・2)と戒められました。この「自分の裁く裁き」が律法を裁くことにつながるのです。なぜなら、「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:18)とイエス様が言われたように、律法は人ではなく神が人のために定めたものであり、人の世が続く限り守らなくてはならないものだからです。ところが律法の義ではなくて、自分の正義、あるいは自分の基準、自分の物差しで兄弟姉妹を裁くことは、神よりも自分を上に置くことになるのです。聖書は「自分で自分を裁くことすらしません。」(Ⅰコリント4:3)と言います。では、何も言ってはいけないのでしょうか。そうではありません。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(マタイ18:15)と書いてあるとおりです。




2024年4月14日      主日礼拝            『愛し続け、共にいてくださる主』             イザヤ書43章1~5節

  「水の中を過ぎるときも、わたしはあなたと共にいる。」(2)

本日4月14日、奇しくも私は洗礼を受けて丁度50年を迎えました。イエス様に出会ったのは、その一年前の中学から高校生になる春休みの時でした。『神様っていらっしゃるの』(高木輝夫著)という本を、叔父夫婦の所に遊びに行って来た妹からもらい、自分一人で本に書いてある通り悔い改めをした時に、罪の赦しと救いの経験をし、紹介してもらった近く(でもありませんが)の教会に通い始めました。約1年後の1974年4月14日、イースターの良き日に受洗させて頂いたのです。若いということもあり、品性という面ではお恥ずかしいような者でした。今でもまだまだですが、人生の経験と共に、少しずつ整えて来て頂いたように思います。日々神様と会話をし、聖書を読み、神様の前に自らを反省することをしていました。その神様との関係が、半年ほど断絶した時がありました。それは、既にクリスチャンであった弟が亡くなった時でした。何とか弟の命を助けてくださるように必死で懇願しましたが、祈りは聞かれることなく、翌朝8時くらいに召されていきました。何故私の願いを聞いてくださらなかったのか・・・納得出来なかったのです。同時に、目一杯開いていた心の扉を堅く閉ざしてしまいました。と言っても人の前にはいつもと変わりなく、お祈りをしたり感謝をしたりしていましたが、表面だけで、神様との関係を断ったまま、何か月も過ぎていきました。ある時、仕事で東京に行った帰り、新幹線の中で聖書を読んでいました。何気なく開いた聖書の箇所が「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共にいる。」(口語訳)です。ここを読んだ時、涙が溢れてきました。弟が召されることを何故神様が許されたのかは分かりませんが、この苦しみの中で、一人ぼっちではなく、主がずっと共にいてくださったということが、分かったのです。そして、再び神様との関係を回復し、今に至ります。大きな苦しみに神様に対して心を閉ざす・・こんなことは皆さんにはして欲しくはありません。サタンは繰り返し私たちを偽ってきます。こんな悲しみや苦しみは神様を恨んで当然だとか、あんな人は怒って当然とか、憎んで当然とか。神様が、わたしの目には、あなたは高価で尊い(新改訳)とかあなたを愛していると言われていても、騙されているので、信じる事が出来ないのです。真実を信じ受け入れるために、感情の問題を神様に差し出し、そうした偽りに騙されていることに気づかせて頂きましょう。



2024年4月7日       主日礼拝             『神に従うことの誤解』               ヤコブの手紙4章1~10節

   「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。」(8)
 
 神の愛を体験している私たちクリスチャンであっても、「神に服従し」と求められると、窮屈を感じることがあります。しかし、それは大きな誤解です。この世で服従するとは強いられることで、自分を殺さなくてはいけませんが、神様は、「我々にかたどり、我々に似せて」(創世記1:26)、人を創造して下さった御方です。私たちは指紋が違うように、一人一人が特別な存在で、神様は「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し」(イザヤ43:4)と、言って下さったのです。ですから、私たちが神様に従うとは神に近づく事であって、神様は与えて下さった神のかたち・・新約聖書の時代に生きる私たちにはキリストのかたち(参照 ガラテヤ4:19)が、完成されるように導いてくださるのです。すなわち、この世で服従するとは、キリストのかたち(個性)を殺すことですが、神に服従するとは、キリストのかたち(個性)を生かすことであり、聖書に「人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ」(コヘレト3:12)と書いてあるように自分の人生を喜び楽しむことなのです。ただ気をつけなければならないのは、神様はすべての人が自分の人生を楽しむことを願っておられるということです。神に近づくのを妨げる3つのことは、「すべて」ではなく「自分が」です。私たちはこれらと戦わなければなりません。
①戦いや争いの原因である欲望・・ギリシヤ語でへ―ドネーで、「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。」(テトス3:3「快楽」)、自分のみの楽しみです。
②神を認めない世界である「世」・・この世では自分が「神」となります。そして自分の正しさ・義を人に押し付けるのです。もっと砕いた言い方をすれば自分の持っている価値観・基準の事です。これを手放さなければ「世の友」になってしまいます。
③悪魔です・・もともと御使いであったものが、「いと高き者のようになろう」(イザヤ14:14)として落とされました。これは高慢と言う罪です。ですから、へりくだって、互いに相手を自分より優れたものと考え」(フィリピ2:3)




2024年3月31日        イースター礼拝        『復活を恐れるもの』            マタイによる福音書28章11~15節

   「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」(マタイ28:13)
   「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Ⅰコリント15:20)
 
 イースター(復活祭)おめでとうございます!! 受難週の時は言いにくかったのですが、「おめでとう」と言い合えることはすばらしいことだと思います。しかし、福音の中心は、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)であることを忘れないでください。イエス様は、敵に勝利し、罪を完全に贖い、律法を完璧に守られました。アーメン。さて、今日の聖書の箇所はこの「おめでとう!!」と言えないものたちのことです。上記の言葉は「祭司長たちは長老たちと集まって相談し」(12)て決めた事であり、多額の金と共に受け取ったのは、彼ら「サンヘドリン(ローマ帝国支配下に置ける、ユダ州の行政と宗教の最高議会・法定。71人の議員で構成されている)」に使えている番兵たち(27:65)です。彼らは墓の入り口の封印を破り、大きな石を動かした天使を見て「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(28:4)者たちで、彼らは腰を抜かしたかもしれませんが、逃げ出さずに、急いで議員たちが集まっている所に行ったのです。報告を受けた特に議長である祭司長は、番兵の言っていることを信じました。信じたからこそ、番兵の落ち封じと偽りを広めるために、多額の金と身の安全を保障したのです。ちょつと待ってください。祭司長や議員たちは、「唯一のまことの神」(ヨハネ17:3)を信じているものであり、番兵たちは神の御業を体験したものではありませんか?実は彼らは私たちの始祖がそうであったように、サタンに魂を売った者たちだったのです。サタンは偽りの父です(ヨハネ8:44・45)。サタンは彼らの、権力への欲望や金への欲望を通して働いたのです。私たちの内にも、主の御復活を喜ばないものはありませんか。悔い改めて、心から復活を喜ぶ者とされましょう。



2024年3月24日       受難週礼拝          『成し遂げられた』              ヨハネによる福音書19章29、30節
 
   「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ19:30)
 
今週は、受難週と言ってイエス様の十字架の意味を考える時です。そして次週がイースター(復活祭)です。ただ注意しなければならないのは、イースターのために受難である十字架の苦しみに耐えられたということではありません。十字架にこそが、神なる御方が罪なき人「イエス」となってお生まれ下さった目的であり、   キリスト(救い主)の成された最大の御業なのです。そのことが「ヒソプ」と「成し遂げられた」という言葉に表されています。ヒソプと言うのは「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し・・」(出エジ12:21・22)と記されているように、人々を贖うために屠られる羊を連想させ、「成し遂げられた」とは「イエスは再び大声で叫び」(マタイ27:50)「イエスは大声を出して息を引き取られた」(マルコ15:37)「イエスは大声で叫ばれた」(ルカ23:46)この大声の言葉です。ギリシヤ語でテテレスタイー終わった、完了した、完成した、と言う意味があります。では何が「成し遂げられた」のですか? ①敵との勝利・・アダムとエバがサタンの奴隷になった時神様は「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」・・原初福音と呼ばれた預言の成就です。十字架の死によってサタンの頭は砕かれ、人々が解放された勝利の叫びです。 ②罪の贖い・・屠られた羊によって罪が赦され、神との関係が回復したように、罪なき人、イエス様が人類の王(ヨハネ19:19)として十字架に付けられたことによって、全ての人の罪が赦されたのです。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ4:25)





2024年3月17日        主日礼拝           『重荷を捨てよう!』               マタイによる福音書11章28節
 
  「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(11:28口語訳)

この聖書箇所は、最も有名な聖書の1つです。「わたし」とは、イエス様の事です。皆さんは、このイエス様のお言葉にあるような「重荷を負うて苦労している者」でしょうか?以前はそうだったが、今は重荷は無いとおっしゃる方もおられるかも知れません。しかし、気を付けなければならない事があります。無いと思っているのに、大きな重荷を抱えている場合があるのです。そして、それはサタンが大喜びする状況を自ら作り出しています。内に、怒りや恐れとか、否定的な感情は無いでしょうか。今、アンガーマネジメント(怒りの管理方法)が注目されています。何故怒りが世界中で大きな問題となっているのでしょうか?それは、良い人間関係を壊してしまうからです。失望、いら立ち、傷、むかつき、憎しみなども怒りだと言えます。落胆(うつ)は怒りの別な現れで、内側に向けられた怒りなのです。一般的なマネジメントの方法では限界があります。例え相手を赦せたとしても、怒りは消えません。そうした感情を、イエス様の所に来て、手放し捨てる事から始まります(エフェ4:26-31,コロ3:8)。そうするなら、約束の通り、一時的ではなく、本物の「休み」が与えられるのです。




2024年3月10日        主日礼拝           『神の知恵と人の知恵』               ヤコブの手紙3章13~18節
 
 「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。
  義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。](3:17・18)

 ここには「上から出た知恵」すなわち神の知恵と「「地上のもの」とは人の知恵の事です。少し長くなりますが別な役で上記の御言葉を引用してみましょう。「しかし、上から来る知恵は、何よりもまずきよく(汚れがなく)、次に平和を愛し、思いやりがあります(思慮深く、礼儀正しいものです)。それはあわれみと良い実とに満ちていて、(喜んで)理に服し、誠意を尽くし(素直であり)、公平です(偽りがありません)(疑惑、動揺、不誠実がありません)。そして、義(思いと行為において
神のみこころに一致すること)の収穫は、(自分たち自身と他の人々との間にあって、混乱のない、また、恐怖や激情や心の葛藤のない平和な心の中にある各個人の間の和合⦅一致、調和を意味する⦆)平和のために平和をつくりだす(労する)人たちによって、平和にまかれる種の実です。」(詳訳聖書)これが神様の知恵です。 
 しかし、地上の知恵は「ねたみ(嫉妬)と競争心(対抗意識、利己的な野望)のあるところには、混乱(不穏、不調和、反抗)やあらゆる種類の悪い(卑しい)行為がともないます」(16詳訳聖書)と書いてあるようにを自分を土台にしているのです。それに対し神様の知恵はすべての民を土台にしているのです。神様は、死と滅びに向かっている人類をみて、悲しまれました。そこで、すべての民を生かすために、ひとりの人を人類の代表として、その人に死と滅びを背負わせ処罰されたのです。しかし、その方は神様御自身だったのです。神である御方がイエスと言う人となってこの地上に来て下さり、キリスト(救い主)として十字架にかかって死なれたのです。それが「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです」(ローマ8:2)の意味です。この御方を信じる者は死と滅びから解放され、「この世」の知恵にも支配されることがありません。そしてこの御方はよみがえってくださり、インマヌエルの神として、信じる者と共にいつでも、いかなる時でもいて下さるのです。アーメン。



2024年3月3日         主日礼拝           『舌のコントロール』                 ヤコブの手紙3章6~12節
 
   「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。
    わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」 (9、10)
                             
 今日から、「ヤコブの手紙」に戻ります。「ローマの信徒への手紙」には信仰による義が説かれています。「ヤコブの手紙」はそれと対立するものではなく、信仰のあるべき姿を表し、1章は、信仰者の立つべき位置。2章は信仰者が行うべき憐れみの行動。3章は、信仰者が言うべき言葉。4章が、信仰者が従うべき御方。そして5章は、信仰者の忍耐と希望となるでしょうか。さて、今日の3章は舌、すなわち口から出す言葉について警告しています。信仰者の中で最も話す機会が多いのは、教師すなわち今日の牧師のことで、祝福も大きいがその責任も重いことが記されています。なぜなら、言葉で過ちを犯さない人はいないからです。しかし、それらの「過ち」は、主に悔い改めたり、謝れば済むことです。決して大きな森を焼くような災いを引き起こしたりや甘い水と苦い水がわき出る泉のようになることはありません。そうなるとすれば単に言葉の問題ではなく、イエス様が「しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。」(マタイ15:18~20)と言われたように心の問題・・すなわちその人の内側の問題なのです。では、内側が汚れた人(未信者ではなく信者の事です)はどうなるのでしょうか。これらのことを「罪・・信者を命の主から引きはがし、地獄の火で燃やさせるもの(3:6)」だと認めて悔い改めることです(参照Ⅰヨハネ1:5~10)。




2024年2月18日        主日礼拝           『牧師の役割、信徒の役割』           エフェソ人への手紙4章1~16節
 
「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」(7)
「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、
 自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(16)
      
前回は、教会の在り方と目的について考えました。教会の頭はキリストであり、教会はキリストの体です。また、教会の成長とは頭なるキリストのようになっていくことです。今回は、キリストの体をたてあげるためにはどうしたらよいかを考えてみましょう。ここで考えなければならないのは「賜物」です。これは一種の能力ですが、生まれつきのものや努力して得たスキルとは違います。言わばキリストの体をたてあげるために、キリストが一人一人にプレゼントされたものです。リストとしてはローマ12:3~8、Ⅰコリント12:4~11、28等です。ここで考えなければならない第一の事は、自分に何が与えられているか知ることです。聖書によれば一人一人にプレゼントされたもので、一つ以上与えられているからです。考えなければならない第二の事は、その目的です。それらは個人の楽しみや充実のためではなく、キリストの体と言うチームのために与えられているからです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(Ⅰコリント12:27)部分とは器官の事です。ですから、「自分の能力を用いてどうすればイエス様の役に立つことができるだろうか」ではなく、キリストの体をたてあげるためにイエス様は私にどんな賜物を与えられているか」と聞く視点が求められているのです。その一つが5ないし4教と呼ばれている11節の指導者のリストです。聖書によればこれらの指導者は先頭に立って導くものではなく、一人一人が与えられた賜物を十分に用いることができるように、訓練し育てることなのです。第三に考えて欲しいのは、賜物を十分に用いるためにはどうすれば良いかです。「これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって」(Ⅰコリント12:11)と記しているように、聖霊様に頼ることです。指導者が出来ることはせいぜい整えることであって、賜物を用いることのできる力は聖霊様にあるのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒1:8)と書いてある通りです。  




2024年2月11日       主日礼拝            『キリストの体なる教会』            エフェソ人への手紙4章1~16節
 
  「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、
   引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(14・15)      

この世の価値観ではなく、聖書の価値観を身に着けて頂くために講解メッセージをしてきましたが、今回と次回は主題メッセージをします。テーマは「教会」です。
今回は教会の在り方とその目的について、次回は、そのことを可能にするそれぞれの役割、つまり賜物についてです。このエフェソの信徒への手紙は異端を阻止したりや教会内の具体的な問題に対処するためではなく、教会の本来のあるべき姿とその目的を説くことにより、神の教会を建て上げるために書かれました。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(1:22・23)今日皆さんと共に考えたいのは、①教会がバラバラではなく一致する為にはどうしたらいいでしょうか。すなわち「「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。」(4:1・2)一つの希望とは何でしょうか?主は御一人とは?信仰は一つとは?洗礼は一つとは?また神は唯一であるとはどういうことでしょうか?②教会の目的とは何でしょうか。すなわち「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(4:15)とはどういう意味なのでしょうか。インターネットから引用した他の人のメッセージを参考にしながら考えてみましょう。そして私たちのイメージではなく聖書に根ざして生活していきましょう。




2024年2月4日        主日礼拝              『牧仕の証し』                 テモテへの手紙二 2章2、3節

    「そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。 
     キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみをしのびなさい」(22)      

 今回から、メッセージの内容を少し変えたいと思います。今までは、この世(神様のいない世界)の価値観ではなく聖書の価値観をメッセージとして伝えてきました。しかし、今は教会の緊急事態であると感じて、今後どうすればこの危機を乗り越えることができるかを皆さんで考えてみたいと思います。祈祷会においても、ルカ20:41~44「ダビデの子についての問答」つまりイエス様が国のリーダーたちにメシアの存在について質問された箇所を聖書から学ぶ予定でしたが、急遽変更して、礼拝(ヨハネ4:23・24、ヤコブ1:27~2:13)について学びました。礼拝とは、「神様が喜ばれることをすること」良い結論が出たと思います。さて、前回の事で考えなければならないポイントは、今の所3つあるように思います。①価値観の違い②教会の一致(進むべき方向)③それぞれの役割。今日は①価値観の違いについてですが、私のたどってきた経験や証しですので、理解してもらうことが中心になるかも知れません。さて私は1960年3月20日。富山県富山市のアパートで生まれました。中学までに4回引っ越しし、高校から寮生活です。なんとか農家になりたいと思い道を求め、奈良県にある心境共同体に落ち着くまで7回引っ越ししました。その後弟が、世界基督教統一神霊協会(統一協会)にかかわって行方不明になったので、捜しに東京の教会を訪ねイエス様にお出会いし、神学校に行き、牧師になり、牧師をやめて農家になり、上記の御言葉によって再び牧仕になりました。今回の引っ越しで合計25回です。引っ越しは大変ですが、土地や物に対する執着は少なくなったように思います。私は、神と神の言葉に従うものとなりたいです。




2024年1月28日      主日礼拝            『生きた信仰と死んだ信仰』               ヤコブの手紙2章14~26節
 
     「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」(22)      
 
 宗教改革者ルターは、「ヤコブの手紙はまったく藁の書簡です。これは福音的なものを何も含んでいないからです。」と言いましたが、それは一時的な偏見に陥ったのではなく、中世ローカトリック教会が出した「免罪符」のような行いによる義と戦わなければならなかった時代背景によるものと思われます。ルターは「信仰による義」を強調しました。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ1:16・17)しかし、ローマ信徒への手紙とヤコブの手紙が対立するものではありません。憐れみを受けた者が困っている人を助けようとするように、愛された者が自分のように他の人を愛するように、神を信じることによって救われた者が、神とその言葉に従うようにです。信仰の父「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:6)から、神の言葉によって息子のイサクを献げるという行為(創世記22:1~19)が表れるまで数十年の時が経っていますが、それはアブラハムが主を信じた結果なのです。「同様に、娼婦ラハブも」(25)と記されたエリコの住人でありながら、敵イスラエルの斥候をかくまった彼女も「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」(ヨシュア2:11)と主を信じた結果だとヤコブは言い、「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」(25)と結論付けたのです。彼は、教養ある学者でもなければ、美しい言葉や相手を納得させる文章を書ける文学者でもなく、イエス様の実の弟であり、反対者であり、ただの大工の息子です。しかし、以前にも言ったようにヤコブは真理の探究者、本物を追い求めた人です。私たちもヤコブの飾らない実直(誠実で正直)な言葉の前に自分をチェツクし、私たちも本物の信仰を追い求めていきましょう。主よ、お助け下さい。アーメン。




2024年1月21日      主日礼拝             『神は人を偏り見ない御方』              ヤコブの手紙2章1~13節

  「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。
   憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(12・13)
      
 「神のみ前に清く汚れのない信心」(1:27) 宗教、あるいは礼拝。イエス様は「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理を持って礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24)と言われました。礼拝とは、神様にお会いする事ですが、当時は「この山」やエルサレムの神殿で礼拝が捧げられていました。「あなたがたは知らないものを礼拝している」(ヨハネ4:22)とイエス様は言われましたが、実の弟であるヤコブは、この御方を知る者として「霊と真理」の礼拝について他の愛する兄弟姉妹に書き送っています。ヤコブは「栄光に満ちた」(2:1)と言いました。栄光とは神の栄光の事で、肉の兄を神そのものの御方と信じ受け入れることができるのは、聖霊様の御働きによるのであり、「父である神」(1:27)と言えるのはこの御方を知る者とされたからです。ヤコブは「人を分け隔てしてはなりません」(2:1)と言いました。何故なら人の間に貧富の差をつけたのは人や人がその仕組みを作った社会であり、そしてそれらは人の外側にすぎません。神様は「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(Ⅰサムエル16:7)霊なる御方です。この御方を礼拝する私たちも、富んでる人をえこひいきしたり、貧しい人を軽んじたり、またその逆をしてはならないのです。ヤコブはまた「自由をもたらす律法」(2:12)と言いました。それは612ヶ条ある人を外から戒める律法の事ではなく、イエス様が「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』・・『隣人を自分のように愛しなさい』律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている。」(マタイ22:37~40)と言われた自分の内側から出てくる律法の事です。そして「隣人」とは助けを必要としている人の事です。その人が神にかたどられた本来の自分を取り戻せるようにお助けすることが「人に憐れみをかけ」ることなのです。それがボランティア活動であり、私たちがさせてもらっている「里子」であり子育てなどもそれに含まれるかもしれません。。まとめると人に憐れみをかけることも、神様が信じる私たちに求められる「礼拝」なのです。




2024年1月14日       主日礼拝                 『備えの大切さ』          マタイによる福音書24章36~44節
 
    「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(24:44)      

今回の能登地震も、本当に突然でした。予め分かっていたなら、屋外に出れたのにとか、津波に遭わないような高い所に逃げれたのにと思います。建物だけでなく、多くの人命が失われ、残念でなりません。異常事態が起きているのに「大したことはない」「死ぬわけがない」と思い込んでしまう“正常性バイアス”と呼ばれる心理があるそうです。災害時の逃げ遅れの要因としてもあげられます。これに陥った被災者は、情報だけでは動かないそうです。今日の聖書箇所には、イエス・キリストが再臨される預言が記されています。神ご自身であるお方が、人の子となり、成長し、やがて時が来て、十字架の上で人の救いを成就してくださった救い主は、復活され、天に帰られました。その主が、義をもって世を裁き、完成するために、再びこの地上に来てくださるのです。その日が、いつであるのか知りたいのは当然の事でしょう。しかし、イエス様もご存じない。それを知っているのは、父なる神様だけなのです。私たちは知る必要がないのです。ですから、再臨はいつだよとか言う人達には気をつけてください!私達の永遠を決定する再臨は、洪水のように、泥棒のように、突然来るのです!そのために、必要なのは「備え」です。2日に起こった日本航空と海上保安庁の航空機衝突事故も、大惨事となりました。海保機の乗員の方々が5人も亡くなってしまったのですが、日航機の方は、14人は軽いけがをされたにも拘わらず、乗客367人、乗員12人の合わせて379人全員が、たった18分で無事脱出。各国はこれを奇跡だと称賛しましたが、何と言っても、日頃の訓練の「備え」だったのではないでしょうか。勿論、乗客の方々が、あまりパニックにならず、乗員の言うことに従ったからというのもあるでしょう。再臨はいつか分かりませんが、確実に近づいています。いつか分からないからこそ、「備え」が大切なのです。最も大切な「備え」は、愛です。互いに愛し合う事です。




2024年1月7日         主日礼拝              『神の御前に清く汚れのない者』         ヤコブの手紙1章26、27節
 
        「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、 世の汚れに染まらないように自分を守ること、
         これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」(27)      
 
 2024年1月1日から、大変な災害に見舞われました。震度7を観測した能登半島地震で、未だ安否不明者が200人以上おられます。お祈りください。また、道路が寸断されている中、富山市の水橋バイブルチャーチがJCMN(日本セルチャーチ宣教ネットワーク)関係でボランティア活動を始め、石川県の内灘聖書教会が支援拠点となって下さっています。主の守りと支援が届くようにお祈り致します。
 さて26、27節の御言葉は、「御言葉を行う人になりなさい」(22)に関連していますが、困っている人たちの世話は2章から、26節の「舌を制することは3章に、世の汚れについては4章に改めて記しています。今日注目して頂きたいのは、「信心」という言葉です。このギリシア語「スレースケイア」は、宗教的な形式や儀式を表し、「宗教」とも訳されます。すなわち宗教的にいくら熱心であっても、父なる神様がわたしたちに求めているものは違うということです。旧約聖書にも「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)と書いてあります。どのように礼拝をささげるかも大切ですが、どのような心で礼拝をささげるかがもっと大切なのです。神様によって生かされている者は、人を生かす言葉を使います。神様の愛を受けている者は、自分を愛するように他の人を愛します。世の汚れ―神を求めない世界における物(金)、名声、支配などイエス様が荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたことと重なります(参照 マタイ4:1~11)―から解放されて、神の聖さの中を歩む者は、自らも清くあろうとするのです。



2023年12月31日      年末感謝礼拝           『一年を振り返って』            ローマの信徒への手紙5章1~11節

    「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
     このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。](1・2)
      
 今日は、12月31日。今年最後の日です。人は年ごと季節ごとに区切りを付けますが、そのような習慣はいつ頃から始まったのでしょうか? 創世記に「「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節にしるし、日や年のしるしとなれ。」(1:14)と書いてあります。実に人が創造される前から神が定め「良し」と認められたものでした。さて今年は、ロシアのウクライナ侵攻(2022年2月)が未だ止まず。10月7日にはガザ自治区を実効支配するイスラム武装組織ハマスがイスラエルを攻撃し、イスラエルが報復する状態が続いています。その他にも北朝鮮の弾道ミサイル発射や中国の1強体制問題、大リーグで活躍中の大谷選手や、将棋で8タイトル独占した藤井氏、原発処理水放出、旧世界基督教統一神霊協会(統一協会)解散命令、新型コロナの5類移行、阪神タイガースの38年ぶり日本一の話題などなど。
 ところで皆さんにとっての主の年2023年はどんな年でしたか?上記は今年教会に与えられた御言葉です。ここで最も大切なのは、神との関係です。人類の始祖アダムとエバがルールに従わず罪を犯して以来、人は「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2:3)しかし、神なる御方が人類の王として来て下さり、全ての罪を背負って十字架の上で贖いを完成してくださいました。それで神様との関係が怒りから平和に敵対する者から祝福する者へと変えられたのです。
この関係は、どのような環境・状況にも変わることなく、希望へとつながるのです。神から与えられるもの、上から来るものはすべて良いものだからです。その様な視点を持ってこの一年を振り返り感謝を捧げて、主に栄光をお返しいたしましょう。



2023年12月24日      クリスマス礼拝          『神の言葉が肉体を取られた」          ヨハネによる福音書1章1~18節
 
 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(14)      
 メリークリスマス!クリスマスおめでとうございます!日本のたくましいクリスマス商戦のお陰で?クリスマスをお祝いする人々や団体がちまたに溢れています。私が子どもの頃(1960年生まれ)は、そのような習慣があまりなく、青年の頃はクリスマスという名の宴会というイメージだったので、初めて教会に行った時には、「教会でもクリスマスをするのですか?」と聞いたものです。それはそれとして、キリストの誕生が何故めでたいのでしょうか。確かにキリストは4大聖人(釈迦(仏教の祖)、孔子(儒教の祖)ソクラテス(哲学の祖)の一人だからでしょうか。それだけではないと私は思います。「初めに言があった」この書の冒頭の言葉です。「言」とはギリシャ語のロゴスが使われ本来は、意思の表れとしての言葉や理性などの意味ですが、ここでは神の言葉(黙示録19:13)であるキリストの事です。このキリストは創造主なる神そのものなる御方で、人の世界が暗闇であり、死に向かうものに対して、光であり命なのです。この御方が肉の体をとって人として生まれて下さったのが「クリスマス」なのです。直訳するとキリストをミサ(礼拝)する日なのです。目的は「恵み」と「真理」です。「恵み」とはこの御方を受け入れることによって、「死」に向かっていたものが「命」に向かうものとされることです。「死」は罪の結果であり、「罪」は他己否定であり自己否定であり、神の造られた良きものをすべて否定する完全否定なのです。しかし「命」は、他己肯定であり自己肯定であり、神の造られた良きものをすべて肯定する完全肯定なのです。罪の本質が傲慢であるなら、命の本質は愛です。他人を自分より低く見るのではなく、高く見て大切にするのが愛です。本当の自尊は、他尊につながるからです。「真理」は、真理そのものの神に至る道でイエス様の生き方が、「神を見る」(18)ことであり、真理そのものなのです。それは「善いサマリア人」(ルカ10:25~37)の例えのように隣人を愛する生き方であり、アブラハムマズローの唱えた5段階欲求説の6段階目の自己超越の事です。その様な生き方こそが、闇に対する「光」なのです。




2023年12月17日     Ⅲアドベント礼拝           『献げた礼拝』                マタイによる福音書2章1~12節
  
 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(11)      
 クリスマスと言えば、クリスマス・ツリー、クリスマス・キャロル、クリスマス・ケーキ・チキンなど、そしてプレゼント・・。クリスマスを祝うことはAD2~4世紀からありましたが、プレゼントを交換するという習慣は、起源は聖書にありますが、実際はサンタ・クロースのモデルとなったミラの司教ニコラオスの日12月6日に行われていたものを、1535年にマルティン・ルターが提唱しクリスマスに行われるようになったと言われています。日本においては1906(明治39)年救世軍が籠に果物、玩具等を3万人以上の貧しい人たちに手渡したのが始まりです。さて、プレゼントの起源ですが、イエス様がお生まれになった時、ヘロデ大王(BC37~4統治)の所に東方(バビロンやペルシャ)から来た占星術の学者が「ユダヤ人の王としてお生まれのなった方は、どこにおられますか。」(2)と尋ねたことに始まります。この学者(マギ)たちの事は様々な伝承がありますが、世界の平和を願う、真面目な賢者の事でしょう。彼らは「星」に導かれて来たのですが、大切なのは世界を治める「王」の待望と彼らは「王」にアポなしでもお目見えが許される高い地位の人たちであったことです。ヘロデ大王は、自分の地位を守るために幼子を抹殺しようとしましたが、学者たちはその預言された聖書の言葉ゆえに、幼子をひれ伏して礼拝し、3つの象徴的な贈り物を献げたのです。ここにヘロデ大王の傲慢と学者たちの謙遜が対比されています。12節は象徴的な言葉としても捉えることができます。「ヘロデのところへ帰るな」とは、同じ傲慢の道をたどるなとも受け取ることができます。ヘロデ大王の生き方は、争いを生み決して癒されることのない悲しみを生みます。たかがプレゼントの事でも、自分がもらえると思うのと人にあげるのとでは雲泥の差がでます。クリスマスは、学者たちがそうであったように、救世軍がそうであったように、もらうのではなく、献げるものなのです。「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」(イザヤ9:5)神様からのプレゼントです。




2023年12月10日     Ⅱアドベント礼拝         『あなたがたのために』            ルカによる福音書2章8~20節
  
    「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(11)      

アドベント第2週になりました。今年も色んな事があり、悲しい事件ばかりで締めくくられそうでつらいですね。先週の礼拝メッセージが、預言者イザヤによる救い主誕生の預言の箇所でした。ここから約700年経って、イスラエルはどうなったでしょうか。すでに一つの国が二つに分裂していましたが、それぞれの国が他国に占領され捕囚されるのです。不思議な事に、約70年程経って南王国ユダがバビロンから帰還。BC63年頃、今度はローマの支配下となります。その中で、ローマ政府への不満が鬱積し、旧約聖書に預言されているメシアを待望。先の見えない暗闇の中にいた時、羊飼いたちは、不思議な経験をします。旧約の時代には良いイメージのあった羊飼いも、新約になると、定められた礼拝や律法を守れない罪人とされていました。そんな羊飼いたちに、待望していたメシアが誕生したという知らせが、天使によって一番にもたらされたのです。彼らは、かの博士たちのように豪華な贈り物は持っていませんでしたが、天使を通して語られた真理に目を向け、それを信じ、喜ぶ事の出来る人たちだったのです。お偉いパリサイ人や律法学者たちにではなく、「あなたがたのために」と言われたのです。ネットが普及し、誰でも色んな意見を好き勝手に言える時代となりました。しかし、噓の情報も沢山含まれています。私たちは多くの情報の中から真偽を見分け、本当のものを知り、信じていかなければならないのです。真理の書、聖書の中から、神様が言われようとしておられることを悟り、信じていくことが大切です。残念ながら、この当時の神に仕え聖書に精通していた人たちも含め、イスラエルの多くの方々はこの羊飼いの証詞は耳に入らず、今も尚救い主の到来を待ち望んでいるのです。救い主は既に、預言の場所で、私たちのためにお生まれになり、救いの道を完成してくださったのです。改めて感謝しましょう!



2023年12月3日     Ⅰアドベント礼拝        『預言された御方』                     イザヤ書9章1~6節

    「 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。
     その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱えられる。」(5)  
    
 いよいよアドベント(待降節)に入りました。AD(主の年)2023年12月25日がクリスマス(キリスト+ミサ⦅礼拝⦆…キリストの降誕をお祝いする日)ですが、あくまでもお祝いする日であって、降誕日ではありません。もともと12月25日は冬至にちなんだ太陽神の祭りであり、イエス様の生まれた年もBC4~7年ではないかと言われております。それはさておき、イザヤ(BC740~690?)が、闇の中の大いなる光として預言したのが上記の御言葉です。名は体を表すと言いますが、4つの名は、キリストの御姿を現したものです。
「驚くべき指導者」・・ヘブル語ペレは「人知を超える」の意味があり、他に例のない、優れた助言を与えてくださる御方。別訳では霊妙なる議士(口語訳)、不思議な助言者(新改訳)となっています。
「力ある神」・・神御自身であらせられる。
「永遠の父」・・時を超えた存在で、父、すなわち保護者なる御方。
「平和の君」・・ヘブル語のシャロームが用いられています。この御方の統治は、正義と平和でなされるというだけでなく、個人的にも安心で満たされた状態。
 この御方が、キリスト(救い主)として来て下さったのが、クリスマスです。この御方を信じ、受け入れることによって、この御方は私たちの助け主として、神として、真の父、どのような状態においても平安を与える御方として私たちを満たしてくださるのです。しかしこれで終わりではありません。この御方が再びこの地上に来てくださる時、この預言の御言葉は完全に成就するのです。




2023年11月26日    主日礼拝           『御言葉との格闘』                    ヤコブの手紙1章19~27節
   
   「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、
    その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人の似ています。」(22・23)      

 三浦綾子さんは、随想集「泉への招待」の中に次のように書いています。「聖書の言葉には力がある。ひとことの聖句で死を思いとどまった例を、私は知っていたのである。私が小説を書くという作業も、この延長線上にあった。以来今日まで、私なりに聖書にもとづいて書いてきた。」(14・15P)だからこそ、三浦綾子さんの作品は、神が日本に与えられたバイブルではないかと思うのです。彼女だけでなく日本の多くの文学者も聖書を読んだと言います。夏目漱石、太宰治、川端康成、芥川龍之介、そして割腹自殺をした三島由紀夫。彼らと三浦綾子さんの違いは何でしょうか?それは聞くだけで終わった人と聞いて行った人の違いではないでしょうか。聞くことは大切です。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)と書いてあるとおりです。多くの文学者もキリストの言葉を聞いたと思います。だから信仰らしきものがあったのです。しかし魂が救われていたかどうかは分かりません。何故なら「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネ1:4)と書いてあるように、御言葉を心に受け入れるとその人は変えられるからです。「戦争中に小学校の教師であった私は、敗戦を迎えて、ひどく虚無的な、そして懐疑的な人間になった。その私を敗戦後7年にして変えたのは聖書であった。」と綾子さんは告白しています。御言によって命を与えられ、変えられた経験があるからこそ、「行う人」になれるのです。しかし、行うことは自分が思う以上に難しいことです。青銅の鏡の例えがあるように、御言葉によって指摘されただけでは行動になかなか結び付かないのが現実です。ここに「完全な律法」と書いてありますがそれは文字に記された者ではなく、イエス様が最も重要な掟と言われた愛の律法の事です(参照マタイ22:34~40)。ここに格闘が始まるのです。愛は他者を生かすことです。しかし人は自分が生きたいのです。自分がしたい事をしたいのです。他者のために損をしたくないのです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」(Ⅱコリ8:9)




2023年11月19日     主日礼拝          『良い贈り物は、上から来る』               ヤコブの手紙1章12~18節

   「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」(16、17)

 先日、スティーブンス・栄子師から「イエス・キリストの日と主の日‥携挙と大患難時代」と題して講演会を賜りました。その後の質問の時間に「イスラエルとガザの犠牲者を救われないのか」と言うのがありました。それに対する師の答えは明確です。「神は人に自由を与えられた。だから互いの自由意志で争うのを止められない。」確かにその通りだと思います。ヤコブは試練と誘惑の違いについて次のように述べています。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(15)2007年からガザ地区を実効支配しているという、パレスチナの武装組織ハマスが、10月7日、イスラエルに奇襲攻撃をかけました。これが始まりです。ハマスはイスラエルの存在を認めない組織なので解決がないのです。これらの苦しみは・・ニュースを見るのも辛いくらい悲惨な現実ですが、これは神が与えた試練ではなく、人の罪の結果なのです。私たちは、苦しみに会う時これは自分の欲から来たものか、上から神様から来たものかをよく吟味しなければなりません。「欲」からであれば、コントロールしなければなりませんし、神様からであれば、恵みとして受けるのです。勿論喜ばしいことも辛いこともあるでしょう。しかし、神様からの愛の試練であれば、それを耐え忍ぶことによって「命の冠」が与えられるのです。これは勝利者の冠です。勝利とは苦しみを無くすことではありません。主が「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)と言われましたが、それは試練そのものに勝利することです。作家三浦綾子さんは、いくつもの病が襲い来る中で、「わたしは神にえこひいきされている」と言ったそうです。アーメン。



2023年11月5日      主日礼拝           『貧富が生かされる道』                  ヤコブの手紙1章9~11節

「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされていることを誇りに思いなさい](9・10)
「身分の低い兄弟は、(真の富を与えられ、また神の相続人なるように召されたキリスト者とされることによって)高くされたことを誇りなさい。また、富んでいる人
 は、(人としての自分の弱さを示されたことによって)低くされたことを(誇るべきです)。なぜなら、彼は草の花のように去り行くからです。)詳訳聖書

 現実社会に生きていく上で、お金の問題は避けられません。お金は便利な物であり、どのように使うかが大切なのです。バックストン師は、「お金を儲けなさい。蓄えなさい。そして神のために使いなさい」と教えたと聞きます。ここではお金そのものよりも、その影響・意識が問題にされています。「身分の低い兄弟」と言うのはその様な意味です。貧しいことより貧困意識・・それが自分を卑下しやすくなり、自分がクリスチャンとしても社会においても重要でないと思わせるのです。しかし、それは間違った意識です。神は神のかたちを持つ「身分の低い兄弟」に特別な計画や目的を持っておられるからです。富んでいる人は、高慢になりやすくなります。何故なら、神ではなく持っている富によって自分が守られ、神ではなく、富によって人を支配できると思うからです。しかし、「神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と書いてあるとおりです。しかし、富んでいる人が、人としての弱さを知り、富ではなく神に仕える(信頼する)ことができたら、社会に対して大きな影響を与えることができるでしょう。




2023年10月29日     主日礼拝           『試練は、この上なき喜び』                 ヤコブの手紙1章2~8節

     「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。
      信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。」(2・3)  
 
 イエス様の実の弟であるヤコブは、本物を求め、自ら本物であろうとした人物です。その最初に出てくるのが「試練」です。一般に病気や問題が続くと、「何かに祟られているのではないか」「信仰があるのに、なぜ病気をするのか」「何も悪いことをしていないのに、病気になるのであろうか」などと、心ないことを言う人がいるそうです。「泉への招待」(三浦綾子著)の中に書いてありました。それらの人の根本にあるのは因果応報であり、苦難が罰だという考えです。しかしヤコブは、試練こそその人を完成させる良いものだと言います。それはプロを目指すスポーツ選手や一子相伝の武道に似ているのかもしれません。日本でも、「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と言った山中鹿介(しかのすけ。中国地方で毛利氏と争った戦国大名、尼子氏の一武将)がいます。日本伝道隊の小島伊助師は「信仰×試練=信仰-かす+忍耐=全備して無欠のキリスト者」と言ったそうです。人が成長するのに試練は避けれないのです。しかし、すべての苦しみが成長を促すわけではありません。まず①試練と自ら招いた苦しみを区別しなければなりません。②試練は受容するだけではなく、その意味・・つまり主の御心を知らなくてはなりません。イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)と言われました。③神の業は、必ずしも解決によって現わされるのではありません。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩編119:71)




2023年10月22日     主日礼拝         『イエス様の弟、キリストの僕』                  ヤコブの手紙1章1節
「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。」(1)  
 さて、今日から「ヤコブの手紙」を学んでいきたいと思います。この手紙は「公同書簡(すべてのクリスチャンに向けられた手紙)」と分類される7つの手紙の最初に置かれており、書かれた年代は、AD49年で新約聖書中最も早く、エルサレム会議(使徒言行録15章)AD50年の前であったと言われています。この会議に・・ヤコブと言う人物がリーダーとして発言しています。彼は異邦人伝道に関することを、バルナバとパウロの証しを聞いた後、聖書の言葉(アモス9:11・12すべての国―異邦人)を引用して決定しました。使徒言行録12:17,21:18にもヤコブと言う名が記され、「次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ」(Ⅰコリント15:7)、更にパウロは「ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました」(ガラテヤ1:19)と告白しています。このヤコブとは誰なのでしょうか?確かにイエス様の弟は「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか」(マタイ13:55)と書かれています。しかし、彼らは兄であるイエス様のことを快く思っておらず(参照 マタイ12:46~50)、ヨハネは「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」(ヨハネ7:5)と言っています。しかし、このイエス様の弟であるヤコブこそ、この手紙を書いたヤコブなのです。何が彼を「神と主イエス・キリストの僕」と言わしめたのでしょうか。もちろん両親・・特に母マリヤの影響、20数年一緒に過ごした兄イエスの忠実な人柄、その後の3年半の公生涯と言われる伝道期間の輝かしい姿、人々の評判・・だけでなくまさにイエス様の十字架と復活されたキリストなのです。それが彼を「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(使徒言行録1:14)と心砕かせ、跪かせたのです。そして聖霊様が満たしてくださったのです。もしかしたら彼はすべての人の中で最もイエス様を神として信じることができなかったのかもしれません。だからこそ ヤコブは、本物を求め続けたのでしょう。「本物のクリスチャン」これが本書の目的です。




2023年10月15日    主日礼拝       『教会とは、宣教者のことです』             マタイによる福音書28章16~20節
「『だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」(19・20)  
 「教会とは?」①教会に行く目的は、聞いて学ぶだけでなく、御言葉を行うために聴く。聴くために御言葉を語られる御方を知るためです。②教会の本質とは、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)との告白の上に、イエス様御自身が、御自身の御心を成す所なのです。最後の3回目は、信者としてだけではなく弟子として、具体的に何をすれば良いのかを考えたいと思います。
 まず、イエス様の弟子とはイエス様に学ぶ者たちのことであり、具体的には喜んで御言葉に従う(聴従)という生き方を選んだ者たちのことです。
①教会のプログラム中心から、神や人との関係中心への移行・・教会に行くのは、礼拝式のプログラムや行事に参加することだはありません。もちろんそのことも大事ですが、神と自分、自分と自分、自分と兄弟姉妹との関係、つまり互いに愛し合うことが大切なのです(参照 ヨハネ13:34)。②教会に集うことから、教会から派遣されることへの移行・・それは隣人を愛することです。隣人とはイエス様の救いが必要な身近な人のことです。自分と敵対していたりしていたら祈ることも難しいでしょう。だから皆で神の愛が注がれるように祈り(ローマ5:5)、送り出すのです。③教会の役に立つことから、教会の役に立たない事への移行・・それは身近な人ではなく、顔も知らない他人を愛する事であり、「あなたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と言われた御言葉に従うことです。もちろんすべてのクリスチャンが宣教師になることは出来ませんが、その働きに携わることができます。まず、彼らのために祈ることから始めましょう。④教会の弟子を作ることから、イエス様の弟子を育てることへの移行・・教会で奉仕をすることは非常に尊いことですが、それ以上に尊いことは、イエス様に仕えることです。イエス様が好きでイエス様のようになりたいと思い、「この場合、イエス様だったらどうするだろう」と考える人のことです。⑤より大きな教会を目指すことから、より小さな教会を目指すことへの移行・・量のことではなく質のことです。小さい方が御心を行いやすいからです。100人のチームより、10人のチームが動きやすいし、5人になればもっと素晴らしい働きが出来るのではないでしょうか。




2023年10月8日     主日礼拝          『知られざる神』                    使徒言行録17章16~34節

     「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。」(24)  

昨日の読書会において、「海嶺(かいれい)」をやりました。当たり前のように日本語の聖書を読んで来ましたが、大変な苦難を経た人たちの労苦と涙と関わった多くのクリスチャンの愛と祈りの中で、英語から日本語へと聖書が訳されて今日がある事を、綾子さんの書物から改めて詳しく教えられた時となりました。その中で、ギュツラフ宣教師が、岩吉(松)、音吉、久吉の助けを借りて、英語の聖書を日本語に訳していくに際して、最初に取り掛かったのがヨハネによる福音書でした。それは、彼らを通して、日本人が宗教心に富んでいることを発見し、キリストの神性を確実に伝えるために選んだそうです。そこで、日本人にも共通する宗教心を持っていたアテネの人たちへ語ったパウロの説教から、学んでみたいと思います。アテネの町を歩きながらパウロは、『知られざる神に』と刻まれている祭壇を見つけました。それで、神は、世界とその中の万物の創造者であり(24,25)、人が作り出したり、考え出したりした神とは全く違うということを知らせました。そしてその神は、人間に何かしてもらう必要の無い方。むしろこの方が、民族を造り地上に住まわせ、季節を定め、居住地の境界を決め、人間の歴史を支配し、導いておられる方。エピクロス派は、神は世界とかけ離れた存在だから、人に仕えてもらう必要もないし、人間に興味もないし、世界と関わりを持たないんだと考えていました。しかし神は、御自分がお造りになった世界に生きて働かれ、私たち一人一人と関わりを持ってくださり、御手で守り導いてくださるのです。神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられない(27)というのは、ストア派でも主張されていましたが、神を世界の理性や秩序としてしまって、人格的に生きて、人間に関わり、働かれる神だとは思っていませんでした。旧約時代は、御自分の選ばれた民に、預言者や御言葉を通して現わしてくださいましたが、今や一人の方(イエス・キリスト)を遣わしてくださり、十字架と復活のみ業によって、神を知り、出会う事が出来るようにしてくださったのです。私たちはこの神を知った者として、真の神を伝えて参りましょう!




2023年10月1日    主日礼拝        『教会とは、キリスト御自身のエクレーシアです』      マタイによる福音書16章13~20節

     「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。あなたはペトロ。
      わたしはこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。」(17~19)  

 前回「教会とは?」で、教会に行く目的は、聞いて学ぶだけでなく、御言葉を行うために聴く。聴くために御言葉を語られる御方を知る事なのです。とメッセージしました。今回は教会の本質を共に考えたいと思います。
 「教会」とはギリシャ語のエクレーシアの訳語で、集会(招集された民)とも訳され、新約聖書で100回以上用いられています。特に注目されるのはイエス様がこの「エクレーシア」を最初に使われているからです。語源的にはエク(~から《離れて》~以来+カレオ―(呼ぶ、召す)に由来しており、旧約聖書的には神様によって、契約を結ぶために呼び出されたイスラエルの民を指しました。それを新約聖書的に「キリストの十字架と復活によってこの世から選び分かたれ、父なる神の御心を行うために、聖霊の内住と御力に満たされ、チームとしてこの世に遣わされる人、あるいは集団」と解釈できるのではないでしょうか。そうなると「教会」とは、建物や組織のことではなく、選び分かたれた者であるクリスチャン一人一人を指すのではないでしょうか? ではどのような者が選ばれるのでしょうか。「あなたはメシア、生ける神の子です」とペトロのように信仰告白した者です。場所はガリラヤ湖の北、フィリポ・カイザリア地方の、もしかしたら岩の上に建てられたパーン(牧神)の神殿の前だったかもしれません。イエス様はペトロの告白に対して、「あなたは幸いだ。」とたいそう誉め、この告白は人間業ではないと言い切られたのです(ちなみに人間業は、「洗礼者ヨハネだ」などの告白)。そしてイエス様は「あなたはペトロ(ギリシャ語ペトロス―男性名詞・大岩、アラム語でケファ)。わたしはこの岩(ギリシャ語ペトラ―女性名詞・岩盤)の上に私の教会を建てる。」と宣言されたのです。すなわちイエス様は、この信仰告白した者の上に、御自身の教会・・すなわち御自身が御自身の御心を成すと言われたのです。「教会はキリストの体」(エフェソ1:23)であり、「御子はその体である教会の頭」(コロサイ1:18)なのです。私たちは、キリストの顔であり、口であり、手足であり、心なのです。



2023年9月24日     主日礼拝        『教会とは、御言葉を聞いて行う所』           マタイによる福音書12章46~50節

        そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
        だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(49・50)  
 
 私が38年前、初めて教会の礼拝に出席した時に互いを○○さんではなく、○○兄弟、○○姉妹と呼び合っていました。非常に不思議な気がしましたが、後でこの聖書の箇所が根拠になっていたことを知り、非常な感銘を受けました。御心を行う・・つまり聖書の御言葉を実行することで私たちは神様の家族になることが出来るのです。ここで一つ疑問が出てきます。御言葉を学ぶだけではいけないでしょうか?確かに私が洗礼を受けた時も、信仰生活の5つの約束として、聖書を読む。お祈りをする。集会特に日曜日の礼拝を休まない。献金をする。教会に人を誘う。と教えられました。この約束の中に御言葉を聞いて行うという約束はないのです。以前「日曜日は教会に」という言い回しがありましたが、もしかしたら、御言葉を聞いて行うことより教会に行くことが目的になっていたのではないでしょうか。今三浦綾子読書会の課題図書「海嶺」を読んでいますが、漂流した14人の内、生き残った3人が、イーグル号と言う大宝を50門備えた軍艦でイギリスのロンドンに向かっていますが、日曜日にはチャペルがあり3百人以上の水兵が強制的に集められるのです。私も先輩牧師から教えられて、「主日礼拝を守ることが、神様への最大の奉仕だ」と勧めていました。しかし、聖書にはその様には書いていないのです。むしろ「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24~27)と書いてあるのです。同じように教会に行き聖書を読んでも、行わなければ「愚かな人」になるのです。では何のために教会に行くのでしょうか?特定の日に、特定の時間、クリスチャンが一堂に会して礼拝する利点は多々あります。初代教会のクリスチャンも集まって「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」(使徒2:42)をしていたのです。私たちが教会に集うのは、集うことによって
キリストの体と言う聖なる共同体に属することではなく、勿論そのことも大切ですが、それ以上に聖書の価値観を知り、聖書に表されている神様の御心を知り、その命令であり約束でもある御言葉を聞いて行うためなのです。



2023年9月17日    主日礼拝         『狭い門から入り、細い道を通れ』             マタイによる福音書7章13、14節

     「狭い門から入りなさい。滅びに通じる問は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
      しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」 (マタイ7:13・14)
  
 先日、徳島県小松島市まで行ってきました。シューミン・クオン師(アメリカテキサス州ヒューストン在住)から、「JCMN御国の弟子育成ワークショップ2023」と題した学びを受けるためです(ジャパン セルチャーチ ミッション ネットワークの略で、CCMNの日本版です。主に「教会の7つの本質」を土台にして、セルコーチング手法や短期宣教などの活動を通して、初代教会のように命の溢れる教会を目指すネットワークでありムーブメントです)。弟子=学ぶ人。誰の弟子なのか。主の弟子のロードマップ。弟子としての成長とは。愛と従順。それを妨げるもの。主の弟子を育てる。夫婦や家庭での実践‥。今日はそのおすそ分けです。
 ここに2つの対比がなされています。狭い門VS広い門。命に通じる門VS滅びに通じる門。少ない者VS多くの者。まず第一のことは選択です。私たちのクリスチャン人生において、どちらを選ぶのか?ルカによる福音書では「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(13:23)との問いに答えてのことになっていますが、「少ない」とは量のことではなく質のことです。イエス様は「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)と言われました。すべての人が「狭い門」から入ることが可能なのです。第二のことは知ることです。聖書の言う「命」とは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)と書いてあるように、身も心も神のものになること・・すなわち神の国の住人になることです。神の国とは「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」(ローマ14:17)であり、力(使徒1:8)であり、愛(Ⅰコリント13章)なのです。第三のことは実行することです。主と主の言葉に従う事です。賢い人は、言葉を聞いて行う者だと書いてあります(マタイ7:24~27)。実生活の中で御言葉を思い巡らし、どちらが狭い道であり広い道かを判断するのです。第四のことは、狭い道を通りやすくするために、否定的なもの、神様に喜ばれないものを神様に取り除いてもらうことです(エゼキエル36:26)。



2023年9月10日    主日礼拝            『神様のみ思い』                        ヨナ書4章1~11節


      「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」(4:11)  
                         
ヨナ書をご存じだったでしょうか。旧約聖書の12小預言書の中の一つです。たった4章しかありませんが、1回読んだら忘れられなくて、親近感を覚える書であり、また多くの事を教えられます。この書の舞台は、紀元前750年頃の北イスラエルとその東の方にあった巨大帝国アッシリヤの首都ニネベです。書の名の如く“ヨナ"という人が、北イスラエルの預言者として神様に立てられました。ある日、アッシリヤのニネベに行って神の言葉を伝えよとの使命を与えられるのです(列王記二14:25)。さあこれがまた預言者らしくなく、神様の言うことを聞かず、勝手に逃亡する所から始まります。彼は4章において、その理由を宣べています(4:2,3)が、敵であるニネベが悔い改めて滅びを免れるなどとは、考えるだけでもイヤになるほどで、納得できなかったのです。もしかしたら辞職する覚悟だったのかも知れません。そこでヨナは、ニネベとは反対方向のタルシシュ(スペイン南部)行きの船に乗り込みます。それで、本当に神様から逃れる事が出来ると思っていたのかは分かりませんが、兎に角、行きたくなかったというのは伝わります。それから大変な事になっていきます。経験した事のない大嵐に巻き込まれるのです。大切な積み荷を投げ捨て、終いには自分たちの神に助けを求めるまでに至ります。そんな大変な中、ヨナは船底でぐっすりと寝込んでいました。それを船長に見つかり、この嵐の原因が自分にある事が明らかになり、彼は船を助けるために自分を海に投げ込むように頼み、逃亡は終わりを迎えます。投げ込んだ後、船の他の人々は、この神様を畏れる者に変えられました。当然、ヨナは責任を取り命を持って償うとなっても良い所ですが、大きな魚により、助けられ、悔い改め?て、ニネベに遣わされるのです。使命を遂行した後も、また一悶着あり、自己中を露わにしていきます。そこで、神様は、改めて、イスラエル人だけでなく、ニネベの人々をも愛しておられることを語ってくださいました。何故、言うことを聞かなかった者を見捨てられなかったのでしょうか。何故、特定の人たちだけでなく、全ての人を愛されるのでしょうか。神様のみ思いは本当に深いです!




2023年9月3日     主日礼拝           『目的は、信仰による従順』            ローマの信徒への手紙16章25~27節

    「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するもです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、
     預言者たちの書き物を通して、信仰の従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。」(25,26)

 「ローマ信徒への手紙」最後のメッセージです。次回はイエス様の兄弟であるヤコブ(マタイ13:55)が書いた「ヤコブの手紙」から学びたいと思います。「信仰」についていえば、ロ―マは「信仰による義」、ヤコブは「信仰による行い」を表しているからです。それはともかく、パウロはこの手紙を終えるにあたって「秘められた計画」つまり15章7~13節に記したように、福音はユダヤ人だけではなくすべての国民に対するものであり、その目的は「信仰による従順」に導くものなのです。では、聖書で言う「従順」とは何でしょう。ヘブル語「シャーマ」ギリシャ語「ヒュパコーエ」、アクオー(聞く)の複合語の名詞で聞き従う・・聴従となります。つまり、神と神の言葉に聴き従うことであり、パウロはこれこそ信仰だと主張しているのです。ではなぜこの聴従が大切な事なのでしょうか?
①人の罪は不従順から来たからです・・人の罪は、人類の始祖アダムとエバの不従順から始まりました。神は「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」(創世記3:11)と言われました。動機は「神のように」(創世記3:4)・・傲慢です。
②キリストが従順であられたからです・・「キリストは、神の身分でありながら・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)聖書の御言葉です。動機は「深く憐れまれた」(マタイ9:36)・・愛です。滅びに向かっている私たちを、神が救うために来て下さったのです。
③私たちをキリストのかたちに導くからです・・「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」(ガラテヤ4:19)とパウロが言いました。私たちクリスチャンの目的は、何かを得て自己実現に至るためではなく、奉げて神のようになることなのです。神を敬い、へりくだることです。



2023年8月27日    主日礼拝              『異なった教え』              ローマの信徒への手紙16章17~24節
 
 「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
  こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。」(17・18)
 
 パウロは、挨拶の途中で警告します。テルティオに口述筆記してもらう中で突然必要を感じたのでしょう。必ず起こることですが緊急ではないこと・・つまり異なった教え、異端に対することです。異端とは、偽造紙幣に例えると分かりやすいかもしれません。偽札は本物に似せて作られ、公の益ではなく個人の益のみのために用いられるからです。異端は大きく2つに分類されます。一つは聖書に関することであり、一つはキリストに関することです。私が用いている式文(日本イエス・キリスト教団)に「信仰告白」ご記してありますが、そこには「旧新約聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた、誤りのない神の言葉であり・・」「
イエス・キリストは、神のひとり子であり、わたしたちを罪から救うために人となり、身代わりとなって十字架にかかり、ただ一度、ご自身を完全な犠牲(いけにえ)として神にささげ、あがないを成就されました。その復活は、永遠の命の保証です。天に昇られた主は、キリストの日に至るまで、わたしたちのためにとりなしておられます。」聖書に「不和やつまずき」と書いてありますが、キリストや聖書に上記以外の教えを受けたら混乱してしまいます。もちろん一教団の信仰告白が完璧だと言っているのではありませんが、聖書を基として「キリストに対する真心と純潔とからそれてしまう」(Ⅱコリント11:3)ことを恐れるのです。異なった教えは、異端だけではありません。例えば1885年来日したドイツ人宣教師シュピンナーは、人間中心・合理主義的立場である「新神学」を唱えました。それにより日本のリバイバルが止められたと言われています。神や聖書を無理に理解しようとするのではなく、信じ受け入れることにより命を見出しましょう。




2023年8月20日    主日礼拝                『災いの日も』                      詩編23編1~6節
 
    「死の陰の谷を行く時も わたしは災いを恐れない。
     あなたがわたしと共にいてくださる」(4)

先の台風も各地に多くの被害が出ました。また、相次ぐ大規模な山火事。マウイ島では沢山の亡くなった方や行方不明者がいらっしゃいます。災いはいつ起こるか分からず、それも突然に来ます!先の聖徒たちは、こうした災いをどう捉えていたのでしょうか。今日の詩編は、書いてある通り、イスラエル第2代の王様ダビデが晩年に作った詩だと言われています。神様を羊飼い(牧者)と呼んだのはダビデが最初ではなく、ヤコブがその人生を振り返った時に述懐しています(創世記48:15)が、ダビデも若い頃、羊飼いの経験がありました。緑の牧場に行くためには、いくつもの谷を通る必要がありました。猛獣が隠れている危険な場所です。人生も同じで、試練や苦難のない人生などはないのです。勿論例外なく全ての人に死も降りかかります。しかしその中に、神様が共にいてくださいます。23編には過去形がありません。現在形と未来形だけです。どんなに過去に大きな恵みを受けていたとしても、今日、羊飼いである神様と共に生きているので災いを恐れないし、明日も神様と共にいるので心配ないのです。良い羊飼いの声を聞き分けて、災いの日もついて行きましょう。



2023年8月13日    主日礼拝          『パウロの祈りと愛と信仰』              ローマの信徒への手紙16章1~16節

    「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」(13)

 キリスト教は体験宗教であり、その教理より「異邦人を神に従わせるために」(15:18)と書いてあるように聴従によって、変えられた信徒により良き知らせ―福音が全世界に伝えられていったと言われています。パウロも「人は変えられる」という視点を持っていました。勿論彼はもともとはサウル、ユダヤ教の世界でエリートでしたので、自分にも人にも厳しく、人は人によって容易に変わらないと思っていたようです。だから第一次宣教旅行に耐えられなかったマルコを見切り(使徒15:38)、大使徒であるペトロを批判し(ガラテヤ2:14)、クリスチャンに対してもユダヤ教に戻るように説得しないで、迫害したのです(使徒9:1)。しかし、彼はイエス様によって変えられました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)と問われて、気づきが与えられ回心したのです。それからイエス様を主としてから彼自身が変えられていきました。もともとの名は「サウル」ベニヤミン族から出た最初の王です。その後「使徒たちの中でも一番小さい者であり」(Ⅰコリント15:9)と告白し、また、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」(Ⅰテモテ1:15)と告白しています。彼は偉大な者から小さな者パウロ(ラテン語パウルスは「小さな」を意味する)へと変えられていったのです。16章は1~3節が一人の女性の紹介状で、3~16節はローマにいる知人への挨拶です。パウロはこの挨拶の中にどれほどの祈りと愛とを込めているでしょうか。「ルフォス」とはキレネ人シモンの息子で、彼は強制的に十字架を担がせられた人です(マルコ15:21)。ここには25名の個人名と複数の人たち、その中にはローマ人、ギリシャ人、ユダヤ人。貴族から奴隷までいます。パウロはイエス様と同じ、変えられていく人として信仰の目で見ているのです。



2023年7月30日    主日礼拝          『パウロの計画と祈り』                ローマの信徒への手紙15章22~33節

     「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、霊が与えてくださる愛によってお願いします。
      どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。」(30)
 
 15章13節でメッセージが終わり、パウロの生き方について学んでいます。今日はそのパートⅡです。彼は最終的には当時の西の果て、イスパニア(スペイン)にまで福音を伝えることを計画していました。しかも、すぐにではなく、この手紙はコリントから出したので、まず、マケドニア州とアカイア州でささげられた献金をエルサレムに届け、それからローマを通ってイスパニアに行こうとしているのです。途方もない時間と労力がかかります。今まで何度も失敗しました。それでも、神様の御心だと信じて再び計画を立てたのです。パウロとしては、今度こそという思いがあったのでしょう。東半分を制覇した今・・ちなみにローマ帝国東半分伝道旅行は、第一次(46~48年)、第二次(49~52年)、第三次(53~58年)です・・パウロは時は満ちたと感じたでしょう。しかし、何が何でもという強い意志はありませんでした。なぜなら、パウロは祈りを求めるからです。「どうか私のための神への祈りのときに私と一つになって熱心に力闘してください。」(詳訳聖書)と書いてあるとおりです。この「力闘」とは自分の願いをかなえるために神と戦うことではありません。「神の御心によって喜びのうちにそちらに行き」(32)と書いてあるように神の御心ー神の計画こそが自分の喜びであり、神こそが自分に平安を与えてくださる御方であることを体験しているからです。パウロは強い人間です。自分にも厳しければ人にも厳しい。あの大使徒ペトロを人の前で非難し(ガラテヤ2:11)、第2次伝道旅行の時には、途中で逃げ帰ったマルコを切り捨て、恩人であるバルナバと衝突するのです。彼は神に祈ることで強い自分と戦い、弱く神に従う道を選んだのです。



2023年7月23日     主日礼拝         『キリストに仕える者・パウロ』            ローマの信徒への手紙15章14~21節
 
 「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、
  また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。」(18・19)
 
 パウロの最後のメッセージが、「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(7)と考えの違うキリスト者だけでなく、憐れみによって異邦人を受け入れなさいと勧めたのです。今日の箇所からはパウロの生き方が記されています。彼サウロ(ユダヤ名)は、もともと熱心な教会の迫害者でした。(使徒9:1)ところがダマスコで天の光に照らされ、そこでイエス様のみ声を聞きました。彼は3日間目が見えず、食べも飲みもしませんでしたが、主の弟子アナニアに祈ってもらい、すぐに「『この人こそ神の子である』と、イエスのことを宣べ伝えたのです。」(使徒9:20)、しかし、迫害の先鋒を務めたサウロは、キリスト者から受け入れられず、ユダヤ人からは裏切者として命を狙われます。その後、弟子バルナバに見い出され彼と共に後に「第一次伝道旅行」と呼ばれる活動に出ていくのです。このころパウロ(ギリシア名)と呼ばれています(使徒13:9)。今日の聖書に「イリリコン州」と書いてありますが、ギリシアの北マケドニアから北イタリアのあたり…つまり当時のローマ帝国の東半分を指します。パウロは「キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」(19)と言い切りました。この手紙も第三次伝道旅行の終わり頃、コリントで書いたと言われています。パウロはは誇りたかったのでしょうか?そうです。彼は、自分のことではなく、自分を通して働かれたキリストを誇りたかったのです。人は自分に何ができるかを考えますが、パウロは神が自分を通して何をなされようとしているかを考えたのです。これが本当の献身です。


2023年7月16日     主日礼拝        『キリストこそ異邦人の希望』               ローマの信徒への手紙15章7~13節

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(13)

 神は真実な御方です。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意と言う隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2:14)と書いてあるように、キリストは御自身の体である教会に、教会員同士の「隔て」だけでなく、ユダヤ人と異邦人の「隔て」をも取り壊すことを求められるのです。当時?のユダヤ人は驚いたことでしょう。異邦人は神との契約を持たないどころか、神に敵対していると思っていたからです。しかし、聖書は「神の
栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(7)と書いてあるように、イエス・キリストははユダヤ人との約束を果たす事により、異邦人はただ憐れみにより、すべての人を受け入れてくださったのです。「異邦人はただ憐れみにより」と言いましたが、神様は始祖アダムとエバ以来すべての人類を愛して下さり、人類を罪と滅びから救うために、人類の代表であるユダヤ人と契約を結ばれたのです。ですから9節―詩編18:50の引用、10節―申命記32:43の引用、11節―詩編117:1の引用、12節―イザヤ11:10の引用です。少し訳が違うのは、70人訳(主にヘブル語で書かれた旧約聖書を、紀元前2~3世紀ごろギリシヤ語に訳したもの)から引用したと言われています。私たち全ての者を受け入れて下さった神が、すべての希望です。



2023年7月9日      主日礼拝         『雨のように注いでくださる神様』             マタイによる福音書5章43~45節
      
       「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45)

 今年ほど、雨が長く続いたのは初めて?ではないでしょうか。雨が降るのは本当に感謝な事なのですが、続くと、あちこちがカビたりして大変ですね。そんなイヤな雨について、雨の考察ではないのですが、見事に神様という御方の性質を表わしている所があります。今日の聖書の箇所も、イエス様の山上の説教の一つです。この前の39節には、有名な「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とありますが、その後に続いて、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44)と言われています。38節の言葉は、旧約聖書に出てくる言葉です(出21:24,申命19:21,レビ24:20、19:12-18)。それは、憎しみによって過剰な復讐をしないためでした。時は過ぎ、イエス様の時代の律法学者やファリサイ派の人々は、律法は言葉通りに守る事が正しい事だと考えるようになり、復讐する事が当然の権利だと捉えるようになっていました。43節の「隣人を愛し、敵を憎め」という教えは旧約聖書にはありませんが口伝律法として伝えられて来たものです。それに対してイエス様は、上記の言葉を言われたのです。これらは実践不可能な要求でしょうか。神様は、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださり、赦し受け入れてくださるお方です。このお方によって、イヤイヤではなく、我慢してでもなく、アガペーの愛を実践する者としてくださるのです。梅雨が長引いている時、雨のようにご愛と恵みを降り注いでくださる神様に感謝し、神様のお心を今一度覚えましょう。


2023年7月2日      主日礼拝         『兄弟姉妹を喜ばせる』                 ローマの信徒への手紙15章1~6節

 「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、
  互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。」(1~3)
  
 「強い者」とは御言葉(命令と約束)をそのまま受け入れ、行動に移す人の事です。「弱さを担う」とは、寛大な心で支え助ける事です。「自分の満足」とは自分の義の事です。とかく大人…特に親という存在は、子どもに対して自分の義を押し付けコントロールしようとする傾向があります。それがスムーズにいくと自分の満足になります。しかし聖書は弱い者を福音が必要な「隣人」と位置づけ、彼らを喜ばせる、すなわち真の幸福に至るように助けなさいと言っているのです。十人十色、百人百様、人は一人ずつ違います。神様がその様に創られたからです。決して自分の義を押し付けてはならないのです。しかし、人は徹頭徹尾、自己中心です。アメリカの心理学者であるアブラハム・マズローは、人は何のために生きているのかを研究し「欲求5段階説」を唱えました。その5段階目が「自己実現欲求」です。それは自分を生かす事であって、隣人を生かすことではありません。ところが聖書には「キリストも御自分の満足をお求めになりませんでした」と書いてあるのです。詩編69:10の引用ですが、イエス様の十字架は、人からは嘲られましたが、人類を死から命に移したのです。聖書は私たちクリスチャンにも同じような生き方を求めています。「キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ」と書いてある通りです。ですが、罪を赦された罪人に過ぎない私たちに出来るのでしょうか。罪は自分も含めた人を、生かすのではなく殺すからです。しかし、御言葉は真実でありその命令は約束でもあるのです。そして御言葉の約束の責任は、「忍耐と慰めの源である神」がとってくださるのです。



2023年6月18日      主日礼拝        『地上天国??』                  ローマの信徒への手紙14章13~23節
 「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(17)
 「(結局のところ)神の国にとは(自分の欲する)食べ物、飲み物(を用いるというような)事柄ではなくて、義(人間が神に受け入れられる状態)と内心の平和と聖  霊による喜びなのです。(詳訳聖書)
 
 神の国とは、神様が支配(中心)される天国の事です。そこでインターネットで「地上天国」を検索すると、世界救世教と世界基督教統一神霊協会の2つがヒットし、いずれも教祖による支配がうたわれていました。では聖書はどうなのでしょうか?信仰の強い者(幼子のように、ダイレクトにイエス様の言葉と力を信じる者)と、信仰の弱い者(大人のように、経験や心の傷が邪魔をしてイエス様の言葉と力が弱まって伝わる者)がいて、「弱い者が強い者にならえ」と言うのではなく、「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。」(23)と書いてあるように、弱い者を大切にしなさいと勧めているのです。つまり、「神の国」とは教祖の好みによって支配されるのではなく、それぞれ違う者が違ったまま受け入れられる場所なのです。それが愛によってなされる「内心の平和」なのです。「愛」と「罪」は対極をなしています。愛はすべてを生かし、罪はすべてを否定するからです。それが知能に重い障がいをもつ仲間たちの施設「止揚学園」の園長、福井生(いくる)さんの「あたたかい生命と温かいいのち」という言葉に表されていると思います。また、神の国に入る条件はただ一つ、「義」とされること。つまり、イエス様の十字架による贖いです。それ以外にありません。どのように信じるかではなく(信じる者を導くのは私たちではなく、主です)、ただただ、新しい契約によって流されたイエス様の御血の事実だけなのです。そして、贖われた者のみが知る喜びが、聖霊様によって与えられるのです。私たちが滅びから命に移されることは決して小さくありません。「大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)のです。 ハレルヤ! 



2023年6月11日      主日礼拝       『捜し回られる神様』                    ルカによる福音書15章1~7節

  「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください。」(6) 

パウロの主治医であったルカは、パウロと同じく、直接イエス様に会った事はありませんでした。しかし、イエス様とイエス様のなさった事を、最初から目撃して御言葉のために働いた人々から詳しく話しを聞いた正確な情報を、テオフィロ閣下に宛てて書いたのが、ルカによる福音書と使徒言行録(1:1~4,使徒1:1,2)です。このルカによる福音書には、詳しく分かり易くイエス様が教えられた事やなさった事が記されています。その中の15章にもイエス様が神様の本当のお心を伝える例え話が3つ入れられています。最初の例え話が、今日の聖書の箇所です。この時イエス様は、徴税人や罪人と食事をしていました。迎えるとは、お客さんとして歓迎する事であり、食事を共にすると言うのは、全面的に受け入れ親しく交わるという事です。それを目撃したファリサイ派の人々や律法学者たちは、不平を漏らしました。何故でしょうか。彼らから見ると、徴税人や罪人は、社会的にも信仰的にもダメな人たちで、自分たちがそんな人たちと関わると汚れてしまうので、正しくあり続けるために、一切関わりを持っていませんでした。それが、信仰の清さを保ち、自分たちの救いの成就に繋がり、ひいては社会を守る事だと信じていたのではないでしょうか。多分、神様が必死になって捜し回るのは、「正しい人」だけだと思って、正しく生きられない人は、自分たちにとって価値の無い人であり、存在すらしていないのと同じだから、捜し出す対象だとは思いもしなったのです。それなのに、イエス様は、今も、そうした失われた人々のために命を捨ててまで捜し回ってくださるのです。まだ、捜してくださる方に出会えていない方は、こんな泥だらけの傷だらけの汚い私なんかどうせ駄目だと思わないで、そのままで遠慮しないで出会ってください。見つけたなら、責めないで、あなたが見つかった事を大喜びしてくださるのです。



2023年6月4日       主日礼拝       『見解の違う兄弟に対して』               ローマの信徒への手紙14章1~12節

「他人の召使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召使いは立ちます。主は、その人を立 たせることがおできになるからです。」(4)
 
 「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35)と言われました。イエス様の命令には約束がともないます。イエス様を3度も「知らない」と言ったペトロやイエス様を銀貨30枚で売ったユダをも、「この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)イエス様のように兄弟姉妹を愛することは、命じられないととてもできるものではありませんが、「信仰の弱い人を受け入れなさい」というパウロの勧めもかなり難しいことです。食べ物に関する事(健康のためではなく、偶像に奉げられた肉のことや宗教上の規制)、暦に関する事…日本でも友引や赤口(しゃっこう)など日の吉凶を占う六曜や生年月日や方角の吉凶を八卦盤によって占う風水等があるそうです。イエス様を受け入れる前にこれらの影響を受けてそれを払拭出来ていない兄弟姉妹をパウロは、「信仰の弱い人」と表現しているのです。決して「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。」(Ⅰコリント5:11)と書いてある人の事ではありません。パウロは彼らの見解を否定せず(裁かない)、兄弟姉妹として受け入れなさいと言われました。何故なら①彼らはイエス様が、その御血をもって買い戻されたイエス様のものだからです。兄弟姉妹を否定することはその主人であるイエス様を否定することになるからです。イエス様が裁き主(ヨハネ5:27、ヤコブ4:12)であって、私たちではないのです。②「召し使いは立ちます」…「ささえられるのです」(詳訳聖書)と訳しています。イエス様は全能なる御方です。この御方に信頼して、自分の正義や常識に立つことがないようにし、自分と見解の違う兄弟姉妹を主に在って信頼していきましょう。




2023年5月21日     主日礼拝         『眠りから覚めるべき時』              ローマの信徒への手紙13章11~14節

「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今やわたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(11)
 
 「今がどんな時」・・この世の終わりであり、神様を中心とした新しい時代が始まろうとしている危険な時であると、パウロは言っているのです。そしてそれはキリストの再臨によって、十字架から始まった救いが、復活したイエス様と同じ栄光の体に変えられることによって完成するのです。キリスト教用語では「義認(新生)、聖化、栄化」と言います。聖書に「「ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(Ⅰコリント15:52)「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置く事さえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:20・21)と書いてあるとおりです。詳訳聖書では「今の時がどんな(危機的な)時であるか、」と訳してあります。この様な時だからこそパウロは目を覚ましなさいと言っているのです。そして、「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(12)と勧めるのです。なぜなら、「残された時が少ないのを知った」(黙示録12:12)サタンが、「選ばれた人たちをも惑わそうとするから」(マタイ24:24)です。彼らの惑わし・誘惑は「大きなしるしや不思議な業」だけではありません。「昼間の(明るい光の)中にあるように、りっぱな(気品高い)生活(ふるまい)をしましょう。宴楽(酒宴)と酩酊、不倫と放蕩(好色と不品行)、争いとねたみの中に(生活してはなり)ません。(詳訳聖書 13)と書いてあるように、日常生活の中での欲望との戦いです。サタンは私たちの内にあるこの欲望をコントロールするのではなく、暴走させることによって、再び自分の奴隷にしようとしているのです。「主イエス・キリストを身にまといなさい」・・イエス様だったらどうするかと考え、イエス様の力に頼りなさい。そうすれば欲望に打ち勝ち、コントロールすることができるのです。



2023年5月14日    主日礼拝             『感謝』                    コロサイの信徒への手紙3章15節

     「感謝の心を持つ人になりなさい。」(3:15新改訳2017)
     「感謝する人になりなさい。」(3:15聖書協会共同訳)
     「いつも感謝していなさい。」(3:15新共同訳)

今日は母の日です。お母様がご健在の方々は、それぞれに感謝を表された事でしょう。毎年お伝えしますが、母の日は教会から始まりました。ウエストバージニア州で、1905年5月9日に亡くなったお母様を追悼しようと、アンナ・ジャービスという女性が、グラフトンの教会で白いカーネーションを配ったのが始まりです。その習慣が徐々に広がり、アメリカ合衆国は1914年に、5月第2日曜を「母の日」として制定し、国民の祝日としました。日本では、明治末期頃、初めて母の日のイベントが行われ、1915(大正4)年には教会でお祝いの行事が催されるようになり、民間にも広まっていき、1947(昭和22)年に、公式にアメリカと同じ5月の第2日曜日となりました。母の日は、ただお母さんに何かプレゼントを渡せばいいという日ではなく、お母さんに感謝する気持ちが大切です。改めて、お母さんに気持ちを込めて感謝を伝えましょう。そして、お母さんを与えてくださった神様に感謝する事も忘れてはなりません。先程皆で祈りました“主の祈り”には、感謝の祈りがありません。これは、イエス様が弟子の質問に対して教えてくださった祈りの手本です(ルカ11:2~4、マタイ6:9~13)。わざわざ入れてないのは、感謝というのは、お母さんに対しても同じですが、自然に出るものなので、こういう時にこうしなさいと、強制されてするものではありません。また、人からであれ、神様からであれ、私たちは最初は感謝していても、いつしか慣れて、それが当たり前になって、感謝の気持ちを忘れてしまいがちです。お母さんへの一つ一つの小さな感謝を忘れていませんか?神様は私たちに何をしてくださいましたか?今日、神様に感謝する事を忘れていませんか?



2023年5月7日    主日礼拝            『2種類の負債』                 ローマの信徒への手紙13章8~10節

    「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(8)
 
 私たちの社会は完璧ではありません。日本においても大戦後の1946年11月3日、日本国憲法第97条に基本的人権が認められましたがそれでも、安倍元首相銃撃事件(2022年7月8日)、岸田総理襲撃事件(2023年4月15日)などの事件が絶えません。パウロの生きていた時代はローマ帝国に支配され、クリスチャンであるという理由で迫害される理不尽な社会でした。それでもパウロは、社会を変えるのではなく、あなたが変わりなさいと言ったのです。その第一は権利ではなく、義務を果たしなさいと言ったのです。
 「借り」とは「負債・借金」の事です。それは誰からも借金をしてはいけないという事ではなく、ギリシア語シュペイロオには「果たすべき義務」という意味が含まれているそうです。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納める人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(7)と書いてあるとおりです。特に「貢」とはローマ帝国に属州であるユダヤが払うべき直接税の事です。果たすべき義務とは金銭的なものだけではなく、ローマ帝国や指導者たちに積極的に従うことでもあるのです。しかし、ここにもう一つの「借り」があります。この借りは、周りの人を隣人として愛することです。愛することは神様の愛を自分が受け取ることから始まり、隣人が神様に愛されていることを伝えることです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)と書いてあるとおりです。どんなに優れた法律であっても、律法であっても消極的に守るだけでなく、積極的に愛し合わなければ、決して良い社会にはならないのです。


2023年4月30日   主日礼拝           『裁くのか?従うのか?』              ローマの信徒への手紙13章1~7節

   「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(13:1)
   「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 (マタイ22:21、マルコ12:17、ルカ20:25)

 「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(12:21)との、御言葉の実践です。私たちにとって、関わりのある最も大きな集団は「国」です。この国を始めとして「上」に、どのような態度を示すのかが、私たちクリスチャンにとって重要な事です。何故なら私たちクリスチャンは、イエス様の十字架と復活によってこの世から選び分かたれ、父なる神様の御心を行うために、聖霊の内住と御力に満たされてこの世に遣わされる存在だからです。当時神の選民であるユダヤ人たちには2つの考え方がありました。1つは、自分たちは神の国の住人だから、この世の国なんかどうでもいいと無関心の人たち。もう1つは神の権威以外認めず、国が御心に反せば武力を使っても阻止しようとする人たちです。それらに対して第3の考え方を表わしたのが上記のパウロの言葉です。迫害の足音の聞こえるローマにおいて命の掛かった思いお勧めです。もっともこれはパウロだけの考え方ではありません。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。・・しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」(Ⅰペトロ2:11~17)と書いてあるとおりであり、イエス様御自身も「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのです。私たちは盲目的に従うのではなく、自分の意志をもって上の権威に従うのです。ただ問題は、国が神の御心から外れたときです。日本でも先の戦争がそうでしょうし、戦国や江戸時代がそれらに当たると思います。その様な時は、預言者たちのように警告しなければなりません。逆らうのではなく、祈りながら気付きを与えるのです。使徒ペトロやヨハネも、反乱を起こしたのではなくユダヤの議会において「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」(使徒4:19)と言いました。第二次世界大戦中に殉教した牧師や高山右近も然り。



2023年4月16日    主日礼拝           『罪と死との法則からの解放』        コリントの信徒への手紙一 15章12~20節
      
         「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」(15:20口語訳) 

先週は、全世界でイースターをお祝いしました!イースターの象徴が卵とうさぎですが、「新たな生命を生み出すという意味がある卵は、死という殻を破ったイエス・キリストの復活を象徴するシンボルです。イエス・キリストが死者の中から蘇った後に、マタイによる福音書では、不思議な記述があります(28:11~15)。また、コリントの手紙を書いたパウロは、神がキリストを蘇らせた事が作り話であるなら、それは神に逆らう証言となって、神を冒瀆したという事になり、復活していないイエスを復活したなどと言っているクリスチャンの偽りの罪を見逃せず、クリスチャンたちを迫害して来た人です。しかし、ある時、パウロは、復活したキリストに出会い、罪を犯していたのは、自分の方だと気付くのです(使徒9)。そのパウロが、最も大切な事として伝えたというのが、コリント一15:3~6です。特に6節には、同時に500人以上もの人たちの前に表れたと記述しています。何よりも、臆病だった弟子たちが皆、変えられ、大胆に復活されたキリストの事を伝え始めたのです。では、何故キリストが復活する事がそんなに大事な事なんでしょうか。罪深い私たちは自分では救われないから、イエスを信じれば天国に行けるから安心!ではないのです。もともと、人は死ぬべきものではありませんでした。しかし、私たちに死が入って来たのは、アダムの罪からです(21,22)。神は、この罪と死の法則からも解放してくださったのです(ロマ8:1,2)。死をもたらされた人間によって、自らも、人間同志の関係も壊れ、いじめや戦争などが頻発し、誰一人例外なく死ななければならなくなっただけでなく、その人間の罪によって、その他のすべての生き物や私たちの住む地球や宇宙が、死に満ちた状態に変えられているのです。けれども、キリストの復活は、滅びに向かう世界の歴史を変え回復してくれる希望であり、証拠なのです。やがて、自分自身も罪と死の法則から完全に解放され、人間同志や他の動物が愛し合う正しい関係に帰り、地球や宇宙も回復され、創造された時の美しい姿に戻る時が来るのです。



2023年4月9日     イースター礼拝        『わたしは主を見ました」           ヨハネによる福音書20章11~18節

「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」(ヨハネ20:18)
 
 イースターとは、イエス様が十字架につけられ、3日後の日曜日に復活されたことをお祝いするお祭りで、春分の日の後の最初の満月の、次の日曜日がイースターになります。また、名前の由来は、古代ゲルマン神話の春の女神Eoster
(エオストレ)からきていると言われています。「偶像じゃん」と言わないでください。重要なのは、出来るだけ大勢の人と福音を分かち合うことですから。さて、今日はマグダラ(ガリラヤ湖に面した小さな町)出身のマリアのお話です。彼女は「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカ8:2)と紹介されているが、もしかしたら「この町に一人の罪深い女がいた。・・だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:36~50) もしかしたら「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ12:3)のもマグダラのマリアかもしれない。ここで大切な事は可能性が示唆されるほどの女性だという事です。女性たちはイエス様の十字架の場面で突然注目されているように思われますがそうではありません(参照 マタイ27:56、61、28:1)。彼女らはずっとイエス様に従い続け、うるさい使徒たちがいなくなったから目立つようになっただけです。その女性の中心にいたのが、マグダラのマリアです。復活を信じていたわけではありません。しかし十字架に架けられ、すべてが終わり、弟子たちが泣き悲しんでいたときでもマリアはイエス様のために動き回っていたのです。「わたしは主を見ました」報酬です。



2023年4月2日      受難週礼拝         『主は、「渇く」と言われた』           ヨハネによる福音書19章28,29節 

  「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」 (19:28)
 イースターの40日前から受難節(レント)が始まり、特にその1週間前を受難週と言います。今日は、イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに入城され、人々から「ダビデの子にホサナ(救ってくださいとの掛け声のようなもの)」と迎え入れられた日でパームサンデーとも呼ばれています。しかしイエス様は
木曜日には祭司長らによって捕縛され(参照 マタイ26:47~56)、金曜日には群衆は「十字架につけろ」(マタイ27:22)叫び続けたのです。
 今日は、イエス様の十字架上の第5言「渇く」について学びたいと思います。
この短い一言は人間としての苦しみを表しています。確かにイエス様は100%の神様です。肉体の痛みや苦しみなど経験したことはありません。しかし、私たち人間を「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深き憐れまれた。」(マタイ9:36)のです。そして、7重のへりくだりと言われる「キリストは、神の身分でありながら、・・人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」フィリピ2:6~8)と書いてあるように100%の人間になられたのです。「聖書の言葉が実現した」と言われるのは詩編22章16節です。イエス様は、十字架に付けられる前にむちを受けられ、ドロローサの道を十字架を担いで歩かされ大量の血を流されたのです。私は医学の事は全く分かりませんが、ある解説によると、「血液量減少性ショック」となり「脱水症状」となって異常な渇きを覚えられ、少ない血液を体全身に回そうとして心拍数が異常に上がり、「心機能不全」に陥り、息を引き取られたと書いてありました。確かにその様な状態の時に腹水等の水が溜まると書いてありました。ではなぜこのことが重要なのでしようか?神である御方が心も体も100%人間となって下さり、人間として苦しまれ、そして王となられたのです。だから、弱い私たち人間を、父なる神様の右に座して執り成すことがお出来になるのです(ヘブライ4:15)。



202年3月26日      主日礼拝          『思い悩みからの解放』              マタイによる福音書6章25~34節

       「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(6:33)

マタイの福音書の5~7章には、有名な『山上の説教(垂訓)』があります。今日の箇所は、その一部になります。この福音書では、「思い悩む」という言葉が7回使われています。その内の6回が今日の箇所にあります。「思い悩む」の原語メリムナオーは、反対方向に引っ張られる、分けられる、引き裂かれるなどの意味があるところから、私たちの思いや心が定まらず、バラバラになっているというような意味合いの言葉です、フィリピ4:6では「思い煩う」と訳されています。イエス様は幾度かに亘って、「思い悩むな」と言われています。わざわざ説教の中に入れられたのは、やはり人間は思い悩みやすいのだという事なのではないでしょうか。そこからの解放の仕方を、イエス様は分かり易く説いてくださいました。まず、一切の農作業をしない空の鳥が養われていること、次に、はかない野の花でさえ、栄華を極めたソロモン王(イスラエル第三代王様・列王上10参照)も到底及ばないような装いをしてくださるのだから、それらに優る人間に、必要な物は備えてくださるのだという事を言われているのです。それからイエス様は積極的な命令をされます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。「神の義」とは神の正しさです(5:20)。「神の国」とは、単に天国のことを指しているのではありません。罪の支配から救い出され、神の支配される所を意味します。それは、やがて来ようとしている世の終わりの後の事を言っているだけではありません。別な箇所では、「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:20,21)とも言われています。そして、神の国は拡大していくものです(13:31,32,ルカ13:18,19,マルコ4:30,31,32)。小さなゴマ粒より小さなからし種は空の鳥が巣を作るほどに成長します。内住する聖霊によって、私たちは従順において、信仰において、愛において、成長していくのです。一度求めたら終わりではなく、継続を命じる文体になっています。



2023年3月12日     主日礼拝  『礼拝者の日常生活』       ローマの信徒への手紙12章9~21節

   「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
    喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(14・15)

 「礼拝」とは、神を神と崇め、この御方を拝し感謝を献げ、霊的に交流することです。そして私たちは、偽りのない愛を神様からいただくのです。混じりっ気のない純粋な愛、100%相手の事だけを思えるアガペーの愛は人の内にありません。ですから、人の愛は条件付きの愛だと言われるのです。クリスチャンの生活にはこのアガペーの愛が底に流れているのです。そこが他の人と違う事であり、このアガペーの愛は特別な時ではなく、日常の当たり前に生活の中でこそ活かされるのです。日常と言っても決して平平凡凡ではありません。3節から、チームでの働きについて書いてありますが、それには家族のような愛で「互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思」わなければ出来ないことです。日常的に苦難は起こり、貧しさを分かち合わなければならない兄弟姉妹や旅人は、現代とは事情が違います。ここで特にアガペーの愛で関わらなければならないのは迫害する者、敵対する者でしょう。私たちは「怒り」をイエス様のところへ持っていくことが出来、イエス様が自分を傷つける者に対して「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られ、ステファノが「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)とひざまずいて叫んだように、聖霊様によって同じことをすることが出来るのです。また、アガペーの愛は、妬みや問題解決ではなく、喜ぶ人をさらに喜ばせ、泣く人を思いやれる心を与えてくださいます。私たちの日々の生活にこのアガペーの愛が必要なのです。この愛が自分の内にないことを認めて、神様から与えていただきましょう。そしてこの愛を溢れさせていくのが、私たちの生活なのです。




2023年3月5日     主日礼拝  『何が神の御心ですか?』      ローマの信徒への手紙12章1~8節
 
 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、
  何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(2)
 
 ローマ信徒の手紙は、大きく3つに分けることができます。1~8章「福音の教理」、9~11章「イスラエル問題」、12~16章「福音の生活」です。今回は、教理から生活へと聖書を進めていきますが、それは「イスラエル問題」を軽視しているからではありません。これらの章は、パウロの同胞に対する情熱と言いますか、はらわたが暴露され、選びに関することや、異邦人が救いにあずかることの流れや最終的には全てに日との「救い」が記されていますが、福音の流れをスムーズにするために、パウロ先生は怒るかもしれませんが、福音の生活について学んでいきたいと思います。
 ここでまず出てくるのは「礼拝」です。礼拝とは「神を神として崇め、この御方を拝し、感謝をささげ、霊的に交流すること」です。「福音」は旧約聖書から積み上げられてきたものですが、それを実際の生活の中で応用していく第一の事は、聖書を調べて過去の事例を捜すのではなく、この御方を礼拝し、この御方と交流することによってこの御方の事を知っていくことなのです。次に「むしろ、神の善なる、受け入れるべき、完全なご意志がなんであるか(神の前であなたの善なる、嘉納される、完全なものがなんであるか)を(自分で)弁別できるように、自分の心を(全体的に)刷新することによって(心の新しい理想と新しい態度を持って)異なった人になりなさい(変化させられなさい)。」(2 詳訳聖書)弁別とは、識別・見分ける事という意味です。すなわち、この御方を「知る」ことにより、御心が識別できるようになり、この御方の御心を、チームで行えるようになるのです。ハレルヤ!



2023年2月19日   主日礼拝    『神は私たちの味方です』     ローマの信徒への手紙8章31~39節
 
     「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。」(31)

「イエス・キリスト(メシヤ)の奴隷であり、神の(からの)福音(良い知らせを宣べ伝える)ために選び分けられ、使徒(特別の使者)として召されたパウロから」(1:1 詳約聖書)で、始まった福音を伝える手紙も、「では、この(すべて)について、なんと言うべきでしょうか。」8:31 詳約聖書)と、今まで伝えて来た福音の「まとめ」に入ろうとしています。ちなみに9章からはイスラエル問題、12章からは福音を土台にした実生活について記してあります。そのまとめの第一声が「もし神がわたしたちの味方であるならば・・」
です。以前私が農業で生計を立てていた頃の事です。年に一、二度視察旅行に行くのですが、指導員の方が、新たに農業を目指して成功する人は少なく、成功するのは友だちの多い人だと言っていました。味方とは、私たちの側に立つ親友のような者だからです。以前は私たちは神の敵(5:10)であり、「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2:3)しかし今や、主の十字架と復活の恵みゆえに、100%混じりっ気のない恵みによって、神様は私たちの味方となって、「死」ではなく「命」を与えてくださるのです。
「もし神がわたしたちの味方であるならば・・誰が私たちに敵対できますか。」モーセの死後、従者ヨシュアに「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」(ヨシュア1:5)と約束された通り、「エリコ」という難攻不落の城を目の当たりにした、烏合の衆であるイスラエル人の前に「『あなたは味方か、それとも敵か』と問いかけると、彼は答えた『いや、わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。』」(ヨシュア5:13・14)と、神様御自身が戦って下さったのです。「・・だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」「・・だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。」「・・だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」・・全て100%神様の御業です。




2023年2月12日   主日礼拝             『愛の実践』                   ルカによる福音書25章31~46節

      「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(40)

行く機会の多い回転寿司ですが、最近一部の若者によって行きたくない場所になってしまいましたね。残念でなりません。うちの教会の方の中にも、詐欺の電話がかかって来たという方もおられましたが、未だに振り込め詐欺は無くならず、沢山の方が多額のお金を騙し取られています。またルフィと名乗るリーダー達が日本に送還され、全国規模の強盗殺人事件も終わりを告げて欲しいと願います。こうした人達は、善悪の判断基準が非常に低く、他の人の事を思いやるという心が欠如しているように思えます。里親として預かった子どもの場合は、親から虐待などを受け、当然受けれる親からの愛を受ける事が出来ずに、善悪の基準も教えられないで育てられたというケースが多いです。どこを見ても、つらい出来事しかないようなこの頃ですが、世の終わりが近いなあとつくづく感じます。この世の終わりの時代に、私たちはクリスチャンとしてどうあらねばならないのでしょうか。少なくとも、先の方々には、口先だけの偽善的な愛は届かないのではないでしょうか。今日のこの箇所は、直接には、十字架にかかられる直前のイエス様の御言葉であり、最後の審判の様子が語られています。ここで、イエス様は、何を教えられたかったのでしょう。当時の律法学者やファリサイ人たちは、人々の上に立ち、さも自らの信仰や義が素晴らしいかのように誇り、イエス様の最も求めておられた、人を愛するということ(ヨハネ15:12)が欠落していました。イエス様を救い主として信じることは、基本であり、不可欠のものですが、私たちは、その上に、口先だけでない、本物の愛を実践して行く者とされなければならないのです。あなたは、あのルフィに水を1杯挙げる事が出来るでしょうか。神様から、何か実践することを示されている事があるなら、主にあって、是非ともその実践を始めてみてください。



2023年2月5日 主日礼拝            『聖霊様の執り成し』                  ローマの信徒への手紙8章26~30節

       「同様に霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、
        霊自らが、言葉に表せないうめきを持って執り成してくださるからです。」(26)

 「聖霊の内住Ⅳ」この18~30節の間に、3つの「うめき」があります。すなわち人以外の被造物のうめき、体が贖われることのうめき、聖霊様のうめきです。そしてこれらの「うめき」は「現在の苦しみ」のことで、将来の栄光、すなわち「再臨」「千年王国?」と続く、人ではなく神中心の時代の事です。神中心と言っても心配しないでください。イエス様は「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり‥人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20:26~28)と言われました。字句通りだと、神が人に仕える時代の事です。そして個人レベルでは、将来の栄光とは「御子の姿に似たもの」、つまり、「霊も魂も体も」(Ⅰテサロニケ5:23)死を打ち破って復活されたイエス様のようになるという事です。これほどの恵みはないでしょう。そして現在は聖霊様の内住によって「霊」はイエス様のようになっており、「体」はなっていません。そして「魂」はその途上です。ここに戦いがあり、今日の「うめき」があるのです。「み霊ご自身が来て、口に言い表わし得ないほどに切なる願いを持って(言葉には表わし得ない深いうめき声を持って)、私たちの祈祷に応じてくださる(私たちのために歎願してくださる)のです。(26)私たちは、神様の大きな御計画のためにも、私個人の御計画のためにもどう祈っていいか分かりませんが、聖霊様御自ら、私たちに寄り添い、
言葉にならないこの思いを、本心の祈りを父なる神様の下に届けてくださるのです。ですから「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くことを、私たちは知っています」(28)という御言葉が、現実のものとなるのです。



2023年1月29日 主日礼拝           『創造主との共有』                 ローマの信徒への手紙8章18~25節

      「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」(21)

 「内住の聖霊Ⅲ」の恵みです。17節に「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です」と書いてあります。相続するものは「神の国」つまり神様が、造られ管理されている世界そのものです。神様は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(創世記1:27)と書いてあります。この「支配(ラーダー)」は治めるとも訳されています。これは神様が人に与えられた仕事ですが、具体的には「人がそこを耕し、守るようにされた。…「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、」(創世記2:15~20)と記してあり、イエス様は「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20:27)と言われました。つまり聖書で、神のかたちを持って支配しなさいとは、被造物の僕として仕えなさい。という意味になります。さて、問題は神から離れた人にこの仕事が継続されているか?です。そして驚くべきことに、「…栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」(ヘブライ2:5~9)これは詩編8:5~9節を、「人」に「人の子」であるイエス様を加えて引用しています。そしてイエス様は「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずになったものは何一つなかった。」(ヨハネ1:3)と書いてあるように、「言」であるイエス様が造られ、維持管理されているのです。そして聖書によれば、私たちはイエス様と共同管理人なのです。だから、イエス様と同じ良い管理人となるために、造られた物は人によって虚無に服している、その苦しみと希望のうめきを知る者となったのです。これは創造主の御心なのです。「産みの苦しみ」とは人の支配する世界が終わり、神の支配する世界が始まるのです。そして神様が支配されるとは、人がいかされる世界なのです。




2023年1月22日 主日礼拝          『アバと呼ばせて下さる聖霊』         ローマの信徒への手紙8章12~17節

「神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(15)
 内住の聖霊Ⅱです。前回私たちクリスチャンの内には相反する2つの流れがあります。肉の欲望・霊の導きですが(参照ガラテヤ5:16)、命を与える聖霊様に従うことによって、罪と死をもたらす肉の欲望から解放されたことを学びました。今回は、同じ聖霊様の御働きによって私たちクリスチャンは神の子とされるのです。詳訳聖書では「子という身分をつくるみ霊」と補足してあります。これは実質私たちクリスチャンを養子とし、実子であるイエス・キリストと同じ相続人としてくださったのです。これは私たちが思う以上に大変なことであり、法的にもいくつもの手続きを踏まなければなりません。「子どものような」ではなく「子ども」となることは大変なことです。長男は特別養子縁組制度によって子となりましたが数年の月日と経費、手続きが必要でした。その後娘を里子として預かりましたが、簡単な手続きだけで済みました。子になることと子のようになることは違います。ましてやペットを養子にはできません。族が違うからです。そして神様と人では違いが大きすぎて何の共通点も見出せないのです。確かに聖書には「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)と記してありますが、人は自らの意思で神から離れ、この神のかたちを失ったのです。それを聖霊様が内住してくださる事によって、同じ種族としてくださったのです。だから、私たちクリスチャンは神なる御方のことを「アッバ(アラム語で父ちゃんの意)」と呼びかけることが出来るのです。アーメン。



2023年1月8日 新年礼拝             『内住の聖霊Ⅰ』              ローマの信徒への手紙8章1~11節

       「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(2)

 前回「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(7:24)のパウロの叫びともいうべき箇所から、前半の「内住の罪」について考えてみました。今日は後半について考えてみたいと思います。そしてこの8章は福音の中の福音、結論にして最高の恵みが記されています。
 1節には「キリスト・イエスにある者には、処罰(非行の責任を問われること)はありません。」(詳訳聖書)と書いてあります。聖書に「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、」(ヘブライ9:27)と書いてありますが、非行と関わりのないイエス様がその責任を取って、処罰されてくださったのです。だから私たちクリスチャンは裁きが終わった者として、受けるはずだった罪を犯した事による死の法則、あるいは支配から解放されて、社会に復帰した人が法律によって保護されるように、聖霊様が与えてくださる命によって生きる者とされるのです。では私たちは聖霊様に任せておけばいいのか?その通りです。聖霊様、お願いします。と言えばそれでいいのです。しかし、私たちの内にはもう一つの「声」があるのです。5節に「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」と書いてあります。「肉」とは決して悪ではありません。自分が生きていくための本能のような性質・・詳訳聖書では、「み霊なしの人間の全性質」」と訳しています。この肉の性質は、必要だけどコントロールしなければならないものです。しなければすべての人が幸せに長く生きることが困難になります。ちなみにこのコントロールを、自力でしようとするのが仏教であり、聖霊様に頼ってしようとするのがキリスト教です。自分では出来ないことを認め聖霊様に頼ることにより、自分が生き、他の人を生かしていく。恵みです。



2023年1月1日 元旦礼拝             『神との和解・平和』            ローマの信徒への手紙5章1、2節

  「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
  このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ローマ5:1・2)

 新年あけましておめでとうございます。AD(主の年―ラテン語)2023年を迎えることが出来ました。今年も主にあって、さらなる豊かな歩みが出来るようにお祈り致します。さて、このローマ信徒への手紙1章1節は「キリスト・イエスの僕、神の福音のために‥」と書いてあります。つまり神様がおられるのです。「あなたは善なる方」(詩編119:68)、この善なる神の御前に私たち人間は悪を行ったのです。神は善なる御方ゆえに悪を見過ごすことは出来ません。神は御怒りを持って人の悪を裁かれるのです(エフェソ2:3)。これが本来の神と人の関係です。しかし、神はこの人を愛してくださいました。そこで、神様は御子を人類の代表(王)としてこの世に送られました。それが世界中でお祝いされているクリスマスです。この御方が人類の悪を一身に負い、神の呪いの象徴ともいうべき十字架刑で裁かれました。これで人類の罪は完了です。これが福音なのです。この福音を信じることにより、人には罪がない者と認められた「義」と神の怒りによる滅びではなく、「命」が与えられるのです。そして何よりも神様からは、愛を受ける者になったのです。私たちクリスチャンの原点はここにあります。ここからクリスチャンとしての生き方が始まるのです。特に今年は、神様からの決して変わることなく注がれる愛を体験し、どのような環境の中でも揺らぐことのない平安を経験させて頂きましょう。そして平安を土台として始まる生き方、成長を謳歌して行こうではありませんか。



2022年12月25日 クリスマス礼拝       「救い主がお生まれになった」          ルカによる福音書2章8~20節 
      
    「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:11)
 
 メリークリスマス!こうして2022年のクリスマスも、皆さんと一緒にお祝いできる恵みを感謝します。クリスマスとは、キリストの降誕祭、つまり
イエス・キリストの誕生日をお祝いする日です。最近はお寺でもクリスマスをお祝いするそうですが、それは聖書的には「民全体」詳訳聖書では「すべての民に及ぶ大きな喜びのすばらしい知らせをあなたがたに伝える。」と書いてあるように、あながち間違いではありません。では、このすばらしい知らせは誰から誰に伝えられたのかご存じですか?実は天使から、夜通し羊の番をしていた羊飼いたちに伝えられたのです。なぜ、羊飼い??なぜなら、彼らはユダヤで一番さげすまれ、軽んじられた人々だったからです。神様が「すべて」と言われたらすべてなのです。人が勝手に作った制度や環境は関係ありません。では、「すばらしい知らせ」とは何でしょうか?神様から遣わされた救い主が生まれるという知らせです。では、私たちは何から救われなければならないのでしょうか?それは、「死」であり「滅び」です。いま世界に200近い国がありますが、その4分の1は戦争又は内戦中だと言われています。この争いは国レベルだけではなく個人レベルでもあります。私たちの内にある「自己中心」や「自己破壊」がその原因です。造り主なる御方は、このキリストを受け入れることによって、真の平和、平安を知って欲しいと願われたのです。



2022年12月11日 Ⅲアドベント礼拝      「母マリアへの受胎告知」            ルカによる福音書1章26~38節
      
      「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、
       聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」(マタイ1:18)

先程もみんなで使徒信条を唱えました。とても大切な事として、私たちの信じていることを信条として告白しています。「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ」。この部分が、今日の聖書の箇所に書かれています。ここで重要なのが「処女」という言葉です。一緒に見ていきたいと思います。ここに一人の処女が登場します。名をマリアと言い、ガリラヤのナザレに住んでいて、ヨセフという人と婚約していた(26,27)という事が分かります。ユダヤのエルサレムから遠い、辺境に住む、何か特別な人ではなくごく普通の若い女性でした。イスラエルを救うメシア(救い主)はダビデ王の家系から出ると預言されていて(エレミヤ23:5,6)、ダビデの家系であるヨセフにに嫁ぐ事によって、その身分を獲得する事になるのです。そのマリアのもとに、突然天使が現れ、「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げます。マリアは単純にどの様な方法で起こるのかを問います。天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と答えます。これらの告知に、戸惑い悩んだであろうマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と神のご計画に参与する承諾をしたのです。人間の中には誰一人神の前に正しい人はいない(ローマ3:10)中で、唯一この方法によって、神は人類を救う手だてをしてくださいました。女から生まれ、名前をもって呼ばれる人間、血肉を備え、喜怒哀楽を知る私たちと同じ人間、同時に神の子でもある方がお生まれになる、いやすでになったのです!改めて、クリスマスとは何かを問うてみましょう。それは、神が人となって私たちの間にお住まいになったという事実です。その事実は、神が私たちを愛してくださっているというなのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)


2022年12月4日 Ⅱアドベント礼拝     「夫ヨセフの決心」            ルカによる福音書1章18~25節

 「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。
  そして、その子をイエスと名付けた。」(1:24・25)
 今日はアドベント(待降節)2週目です。キリスト教では、イエス様の誕生を降誕と言い、クリスマスを待ち望む期間がアドベントです。今日は、マタイによる福音書から妻マリアの夫であり、イエス様の父であるヨセフについて考えてみたいと思います。18節に「母マリア」と書いてありますが、この頃はまだ結婚していなくて婚約中でした。しかし、日本と制度が違い生活こそ共にしていませんが、結婚と同じ拘束力があったようです。この妻同様のマリアの妊娠が明らかになったのです。「誰の子?」もちろんマリアは分かっていますが、聖霊様の御力によって身ごもったなんて事実を話しても信じてもらえるはずがありません。「夫ヨセフは正しい人であったので」、律法に従って「石で打ち殺」すのではなく(申命記22:24)、マリアを愛していたので、密かに離婚しようと決心しました。ヨセフは正しく愛に富んだ人だったからです。もし彼が、ただ愛に富んだ人であったなら、すぐさま結婚したかもしれません。ところがその夜、夢の中で真実が示されました。夢ですから信じる根拠は低いのですが、ヨセフはすぐに結婚することを決心したのです。ヨセフは人として正しく決断することが出来、またそれが神様のためなら、人の目や困難も問題としないで決断を変える事の出来る男でした。イエス様はその様な父のところに生まれてくださったのです。しかし、イエス様は乙女マリアの子なのです。その様な事は生物として可能なのでしょうか?単為結果、単為生殖という言葉があるように、植物や昆虫、爬虫類等で確認されていますが、哺乳類では分かりません。ですから、このことは明らかに神様の御業なのです。イエス様は私たちの罪を背負う、アダム以前の罪なき御方として生まれた下さったのです。



2022年11月27日 Ⅰアドベント礼拝       「契約の民として」             へブライ人への手紙8章1~13節

焦点を主イエスに! 

 現代のキリスト教会では、イエス・キリストが救い主である点や、キリストの再臨、又は携挙(キリスト者が天に上げられる事)について語られる中でキリストが裁き主、又は王である点が強調される事が多いように思います。では、ヘブライ書が一貫して語る「私達の大祭司」である点についてはどうでしょう。今日は、イエス・キリストの御誕生を特別に覚えて待つ待降節の始まりです。備えの時に相応しく、改めてイエス・キリストこそ私達、契約の民の為の大祭司である点について考えてみましょう。

〈ヘブライ書の要〉
 本日の箇所、ヘブライ書の要と言える章ではないでしょうか。ここには1~7章の纏めと、神から人類に贈られた最高の御約束が明言されているからです。この御約束は、聖書が一貫して語る言わば聖書の神髄とも言えるもので、契約としてイスラエルと結ばれました。今日の箇所でどの部分が契約の内容を指しているかお判りでしょうか。10節cの「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」の部分です。神が人類最初の人、アダムとエバを創造された時、
御自身にかたどって造られた理由がここにあります。又、出エジプトしたイスラエルに「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面の全ての民の中からあなたを選んで、御自分の民とされた。」(申14:2)と語られたのもこの事実確認です。本日の箇所が「第二の契約」と呼ぶこの契約は、旧約聖書エレミヤ書31:31-34の引用で、神への配信故に捕囚の民となったイスラエルに語られたものです。この時のイスラエルは、神を裏切りに裏切った点においても、その結果国を失いつつあり明日にすら希望が持てないどん底に陥った点においても、最悪を味わっている真っ最中でした。しかし主は、驚く事にその様なイスラエルと新しい契約を結ぶ時、即ち「わたしが彼らの神となり、彼らがわたしの民となる」(エレ31:33c)日が来ると大胆に宣言されたのです。そして遂に、聖書最後の書、黙示録において、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、」(21:3b,c)と、この契約の実現を明らかにします。

〈契約の履行〉
 さてここで一点確認しておきたい事は、この上もなく素晴らしいこの契約はイスラエルの家と結ばれた、という事です。つまり私達異邦人には無関係の話なのです。喜んだも束の間、地獄に突き落とされたような気分になります。しかしローマ書を学ばれている皆さんは一早くお気付きだと思いますが、ローマ9~11章より、イエス・キリストにある異邦人は神の選びの民イスラエルに接ぎ木された者、従ってこの特別な契約に与る契約の民なのです。
 神が最初にイスラエルと結ばれた契約は、「律法」と言う言葉に置き換えられますが、あくまでも天上の写しであり(15節)、地上に限定されています。しかも「欠け」がありました(7節)。これは何も契約自体に欠陥があったと言う意味ではなく、8節が指摘する様に、人間側に問題があったという事です。律法により私達の契約違反が紛れも無い事実と判明しましたが(ロマ7:12-14)、違反、つまり罪の解決は見なかったのです(ガラテヤ3:21)。9節bに「彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、わたしも彼らを顧みなかった」とある様に、第一の契約、律法によっては神の民になるという契約内容は達成されないままでした。神は第二の契約を新たに制定し、必ず履行されるよう、御子イエス・キリストを契約の仲介者、大祭司(6節)とされました。この大祭司が私達の罪を取り除く為のいけにえとして御自身を捧げて十字架で血を流され、復活して全能の父なる神の右に座し、永遠の聖所、真の幕屋で仕えておられるからこそ(2節、7:27,9:24-26)、私達は揺るがない希望を持てるのです。

〈契約の民として〉
 では、時が経てば古びて消えてしまう契約(13節)ではなく、永久に有効な契約の締結者として私達に期待される事は何でしょうか。それは、この契約を片時も忘れず、契約に従って生活する事です。教会とは、この契約に常に立ち、励まし合う共同体です。ヘブライ3:13-14に、「あなた方の内だれ一人、罪に惑わされて頑なにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。―わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。―」とあります。今、日本の教会は士師記の時代の様で、個々のクリスチャン、個々の教会が「それぞれ自分の目に正しいとする事を行ってい」る(士師21:25)状態です。もし今、契約の民の一員である事を軽んじたり、忘れたりしておられるなら、もう一度主イエス様の十字架の御前に初めてひれ伏し、自分の罪深さを悔いてひたすら縋り、この御方の十字架によって赦されたと知った日の事を思い出して頂きたいのです。なぜなら、この契約はホセア書2:21-25で表された夫と妻が結ぶ契りだからです。愛する妻である教会
(エフェソ5:23-27)を迎えに来られる主イエス様に全幅の信頼を置き、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」との御約束に向かって共に前進しましょう。私達は御霊によって御言葉を教えられてキリストの価値観を身に着け、契約の民として聖日礼拝や祈祷会を熱心に守り、日常的に助け合ってキリストの喜びを益々分かち合う、主を待ち望む群れだからです(使徒2:43-47)。弱い私達の傍に常に立って下さる大祭司イエス様が、私達の内に主に対する愛、互いに対する愛を増し加えて下さいますように(エフェソ4:12-16)。        


2022年11月13日 主日礼拝          「内住の罪」         ローマの信徒への手紙7章13~25節

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(7:24・25)
 「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから」(6:15)、「律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを」(7:1)等と書いてる「律法」は悪なのか?という問いかけで7節が始まります。その後パウロは律法が「善いもの」(13)であると言い切っていますが、旧約聖書も「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得る事ではないか」(申命記10:12・13)と言っておりまさに善きものとして記されています。個人的には、平和で長く存続していくための人類の取扱説明書のようなものではないかと思っています。ではこの善なる「律法」がなぜ私たちにとって「悪」になるのでしょうか?それは「良心」が呵責は感じさせても善を行う力を与えてくれないように、「律法」も違反した罪を示し責めるだけで、守る力を与えてくれないのです。否、むしろパウロは自分の内に「善」を知っていても行わず、「悪」を嫌ってもそれをしてしまう仕組みのようなものがあると、認め苦しみそれを「死に定められたこの体」と表現しています。ローマ時代には墓から掘り出した死体に生きた人間を結びつける死刑の方法があったそうです。パウロは、主から離れたクリスチャンは死体とともに腐っていく惨めなものだと言ったのです。しかし、「神に感謝します」(25)死体に結びつけられたからだが朽ちていくように、キリストに結びつけられた体は生きるのです。ハレルヤ!



2022年11月6日 主日礼拝          「法から解放された生き方」         ローマの信徒への手紙7章1~6節

 「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(7:6)  私たちは、律法から解放され、罪を赦されていることが頭で解っても、心で解り行動に移す事は簡単ではありません。パウロがここでいう「律法」とは、罪を明らかにする法の事なので罪と同義語なのであり、広い意味では「法」全体を指しますが、この法から完全に解放される生き方があるとパウロは言うのです。それがこの婚姻法にのっとった結婚のたとえです。このたとえによれば、結婚によって「律法」という夫に結びつけられていますが、夫が死ねば解放され、「キリスト」と合法的に再婚でき、しかもこの御方は永遠に生きておられるので、永遠に結婚生活が続くのです。しかし、実際に死ぬのは「律法」という夫ではなく、私たちなのです。別の言い方をすれば「信仰生活」とは、礼拝や祈祷会、その他の集会に参加したり、聖書を読み、祈り、献金し、また友人に福音を伝えたり、教会に連れて来る・・それだけでなく、キリストを愛し、キリストに従う生き方をすることです。前々回「三浦あや子を読む会in相生」で読んだ「われ弱ければー矢嶋楫子伝ー」によると、彼女は1890年2校が合併し「女子学院」となった時の初代院長を務めました。矢嶋先生は、寮生活においても「一か条の規則も作らない」「他校への学びの許可や学力による学年」「試験中の教師の監視をなくす」などなど、百年後の現代も追いついていない方針を次々に打ち出しました。矢嶋先生の口癖は「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」だったそうです。矢嶋先生は、法ではなく、キリストを愛し従ったゆえに、真の自由を得たのです。




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