キリスト教とは
*聖書は、「新共同訳」を使用しています。
一言で言えば、聖書を土台にした宗教で、聖書は究極的にはイエス・キリストについて書かれたものです。この方は今も生きておられ、この御方を信じる時に、聖書に書いてある祝福の約束が自分のものになるのです。そして、この御方と同じように愛と命に満たされた生き方が出来るようになり、その生が永遠に続くと約束しているのがキリスト教です。詳しく知りたい方は以下の項目を御覧ください。
聖書66巻を土台とした宗教です(私個人としては、イエス様を愛し、イエス様とその御言葉に従うという生き方だと思っているので宗教だと言いたくないのですが・・・)。ここが、例えば様々な経典を土台としていると言う仏教の宗派と違うところです。それでも大きく分けて、ローマ・カトリック教会・ギリシャ正教会・プロテスタント教会の3つの大きな流れがあり、プロテスタント教会に至っては何十もの教派に分かれています。私たちは、そのプロテスタント教会の聖公会系きよめ派に属する日本伝道隊(1903年イギリスで発足)の教会です。時々、「なぜ、たくさんの教派があるのですか?争っているのですか?」と聞かれることがありますが、「たくさんの教派」についてはよく分かりませんし、それが良い事なのか悪い事なのかも分かりません。特に教派が多いのは、「単立(教団・教派に属さない教会)」も含めたプロテスタント教会ですが、16世紀の「宗教改革」以降創始者たちによって、また、聖書の解釈や強調点などの違いによって、結果的にたくさんの教団・教派が生まれてきました。
「争って」の質問ですが、原則そうであってはならないと考えています。原則と言うのは、悲しいことに争った歴史的事実があるからです。しかし私たちは、聖書に書いてある原則を実生活のただ中で実行することが求められています。それには信仰が必要です。このことが神様の御心であるとの確信と、必ず実現に至らせてくださると言う神様への信頼です。聖書には
「・・キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ信徒への手紙1章22・23節)
と書いてあります。神様から見ればすべての教団・教派は、キリストを頭(中心)とした、目や手や足などの違いはあっても1つの体なのです。聖書にはこうも書いてあります。
「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。1つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、1つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリント信徒への手紙12章24~27節)
神様は、たくさんの教団・教派があっても、互いに助け合い、愛し合い、仕え合うことを望んでおられるのです。そして、その神様の御心は教団・教派単位だけでなく、教会・個人単位にまで及ぶのです。
聖書とは
さて、すべての教団・教派・教会・個人の土台でもある聖書について触れておきましょう。聖書は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻の計66巻(聖書が、羊皮紙やパピルスの巻物に書かれていたため)で構成されており、書かれた言語は旧約聖書では主にヘブライ語、一部アラム語、新約聖書はギリシャ語です。ちなみにユダヤ教は、旧約聖書のみを聖書としており、イスラム教は、旧・新約聖書+コーラン(紀元610年頃)が経典です。
年代は、聖書の最初の巻…創世記~申命記は、紀元前1400年頃、指導者であったモーセが著者です。最後の巻…ヨハネの黙示録は紀元90年頃漁師であったヨハネが書いて完結しました。聖書に
「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(ヨハネの黙示録22章18・19節)
と書いてある通りです。
聖書は実に約1500年の期間にわたり、およそ40人の様々な時代、背景を持つ人々によって書かれました。ヨシュアは将軍であり、サムエルは預言者、エズラは祭司、詩編を書いたダビデや箴言を書いたソロモンは王、ルカは医者、ローマやコリント信徒への手紙などたくさんの書簡を書いたパウロは天幕作りの職人でした。書かれた場所は、現イスラエル(紀元70年に首都エルサレムがローマ帝国によって陥落。一度国が滅びましたが、聖書の預言どおり1948年5月14日建国しました。)、並びに中東地域です。
聖書は、旧約聖書では4つに分けられ創世記~申命記を「律法の書」。ヨシュア記~エステル記を「歴史の書」。ヨブ記~雅歌を「詩歌の書」。イザヤ書~マラキ書を「預言の書」としています。新約聖書では、マタイによる福音書~ヨハネによる福音書を「福音の書(伝記の書)」。使徒言行録を「歴史の書」。ローマの信徒への手紙~ユダの手紙を「書簡の書」。ヨハネの黙示録を「預言の書」としています。
聖書のテーマとは
では、聖書のテーマは、何でしょうか?そもそもこれだけの年数と、背景の違う著者たち。様々なジャンル・・。しかも、1900年ほど前に完結した、日本から見ればはるかかなたの外国の書物。一貫したテーマがあったとしても、それが私たちに何の関係があるのでしょうか?それが大いにあるのです。現に聖書は世界のベストセラーで1815~1998年まで推定で約3880億冊が販売・配布され、2000年の1年間だけでも6億3300万冊が販売・配布されたと言います(国際聖書協会)。日本でも年間34万9千冊が頒布されているそうです(日本聖書協会)。また、聖書協会は翻訳事業にも着手していて、全世界145か所以上の国と地域で活動しています。言語は全世界で5000~6000(3000~8000)あると言われていますが、幅があるのは方言との区別がつきにくいからで、日本でも15の言語があると言っている学者もいるそうです。それはともかくとして、聖書協会では6600の言語があるとし、2012年まで2551言語に聖書の全巻・一部翻訳に成功し、なお数百の言語に取り組んでおり、これで人口の90パーセント以上の人々が聖書を読むことができるようになったとしています。普通、翻訳はその民族と生活を共にして言葉を聞き、話し、読み、書くことから始まります。しかし、文字を持たない言語も多く(文字を持っている言語は400~500?)、そこでは文字を作ることからしなければならず、一言語の翻訳事業のために数年どころか数十年かかることも珍しくないそうで、本当に筆舌に尽くしがたい苦労が伴うそうです。この一事を見ても、聖書は特別な本であることは間違いないと思います。では、何が特別なのでしょうか?それは神様が、今も生きて働いておられるように(イエス様が「わたしの父は今もなお働いておられる。」《ヨハネによる福音書5章17節》と言われました)、聖書の約束・言葉は賞味期限・消費期限切れはなく、今も新鮮で、有効なのです。聖書に
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイによる福音書24章35節)
と書いてある通りです。
神様との約束
そもそも旧約聖書・新約聖書の「約」は神様と人との約束(契約)の「約」なのです。旧約はキリスト以前の土台となる約束、新約はキリストによって結ばれた新しい約束です。しかも、神様が人に一方的な規則のようなものを押し付けたのではなく、
「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。」(申命記11章26~28節)
とモーセがイスラエル民族に選択させたように、また、
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。』」(創世記12章1~3節)
と神様がアブラム(アブラハム)に一方的な祝福を与える約束を与えられたように、神様が人との関係の中で人を祝福するために与えられた約束なのです。関係ですから、聖書の7~8割は神様と人との様々な物語だと言われています。しかも、通称「モーセの十戒」と言われる第一戎の前文に
「わたしは主、あなたに神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト記20章2節)
と書いてあります。それは、わたしはあなた方イスラエルの民を、エジプトの国から救い出して、あなた方の個人的な神となりました。だから、あなた方も神の民としてふさわしくなるために以下の戒めを中心として守り、神である私から祝福を得なさいと言う意味でした。
しかし、アブラハムも神様を悲しませ、イスラエル民族は何度も何度も神様を裏切りました。聖書に
「わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度もわたしを試み、・・」(民数記14章22節)
と神様が嘆かれ、イエス様も
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(マタイによる福音書23章37節)
と言われました。それでも神様は
「遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変わることなく慈しみを注ぐ。おとめイスラエルよ 再び、わたしはあなたを固く建てる。」(エレミヤ書31章3・4節)
と言われ、イエス様も
「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章20節)
と言われました。
始まりと終わり
なぜ、神様はこんなにも人を祝福されようとするのでしょうか?また、神様が働いておられるとはどういうことでしょうか?それは聖書には始まりと終わりがあるからです。聖書の初めの言葉が
「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1章1節)
です。そして
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女とに創造された。」(創世記1章27節)
が続きます。終りの章には
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海も無くなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」(ヨハネの黙示録21章1~4節)
天地創造とその中心である人類の誕生がスタートであり、新天新地で神様と共に人類が永遠に生きることがゴールであり完成なのです。
神様から離れてしまった人類
では聖書は、神様に導かれた人類の成長物語なのでしょうか?いいえ、そのような面もありますが、そうではありません。人類は神様から離れてしまったからです。神様は、創造主なる御方です。その方が愛の対象として人を創造されました。一組の夫婦が愛の結実として子を求めることと少し似ているかもしれません(下世話な例えですみません)。「神にかたどって」とは、勿論人のような姿かたちではなく、霊なる神様の一部の御性質の反映、聖・義・愛・善・美・真実など・・言うまでもなく、自存、偏在、不変などは反映されませんが・・のことです。そして神様は、人類にこの地(地球)の管理を任されました。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創世記1章31節)
と書いてあるように、これらのことは、神様にとっても御満足すべきことだったのでしょう。
時々、人の本性は善(性善説)か悪(性悪説)と議論されることがあります。この時点ではまちがいなく「善」でした。しかし、始祖アダムとエバの時代に「悪」が入る出来事が起こりました。それが「善悪の知識の木」の実を食べた事件です。
「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」(創世記2章15~17節)
しかし、誘惑されたとはいえ彼らは食べてしまったのです。
「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」(創世記3章4~6節)
そして、「食べると必ず死んでしまう」の言葉の通り、彼らは死んだのです。もちろん木の実は毒入りではないので、その場で死んだのではありません。では、この木は何のために植えられたのかとの疑問がわいてくるかもしれませんが、個人的には、彼らが成長してから必要になる、特殊な木の実だと解釈しています。
彼らは、「神様」か「自分の欲」かを選択し、後者を選びました。そして、神様の御言葉を軽んじ、神様を裏切ったのです。その結果、人は自然との麗しい関係が崩れて敵対するものとなり(創世記3章17・18節)、互いの愛の関係が崩れて、責任をなすり合ったり(責任転嫁)、互いを支配しようとする関係になり(創世記3章12・16節)、これを「のろい」とも「社会的死」とも言います。また、「命の木」(創世記3章24節)が象徴するように、「永遠に生きる者」(創世記3章22節)ではなく、寿命が尽きるまでのわずかの間、この地上で生きるだけの「死にゆく者」となったのです。「肉体の死」とも言います。そして、エデンの園から追い出され、神様との関係が物理的に断たれました(創世記3章8~24節)。この神様との関係が断たれた結果、神様の御性質を反映していた人の善の性質が極端に弱くなったのです。これが「霊的な死」です。すなわち、人は神様との関係とその言葉を軽んじ、自分の欲望を優先させた結果、「のろい・社会的な死」「肉体的な死」「霊的な死」を受け、まさに「死んだ者」になったのです。それはまた、神様の御目から見ると
「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」(創世記3章9節)
と書いてあるように、人は「失われた者」(ルカによる福音書19章10節 参照)となりました。しかし、神様はすでにこの時点で人を「死」から救い、すべての関係を回復させ「命」に至らせる計画を立てておられたのです(創世記3章15節)。
神様に選ばれた人々
人が神様から離れ、この世に出て行くのを神様は黙って見守られました。しかし残念なことに、その結果は悪の拡大と神様を拒否する不信仰の拡大でした。それらを止めるために神様は2つの行動を、すなわちノアの洪水とバベルの塔の事件を起こされたのです(創世記6~11章)。その後、神様は御自身の御心を示されるべく、人を選び始められました。個人(アブラハム)を選び、彼の家族が12部族に成長するために、守りと約束を与え続けられました。その後、エジプトでの奴隷生活を経て、律法(「モーセの十戒」など)と、それを守り行えるように預言者が遣わされ、イスラエル民族はイスラエル国へと育てられていったのです。
「あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる。」(申命記5章32・33節)そして、その目的は、「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」(創世記12章3節)
とアブラハムに約束されたように、すべての人々がイスラエル国を通して神様の御心=祝福を受けるためだったのです。
しかし、事実は違いました。
「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった。」(エレミヤ書7章25・26節)
と、預言者エレミヤらが嘆きながら何度も何度も警告しましたが、イスラエル統一王国はイスラエル北王国とユダ南王国に分裂し(列王記上12章1~24節)、イスラエル北王国は紀元前723年頃にアッシリア帝国によって滅ぼされました(列王記下17章1~12節)。また、ユダ南王国も紀元前586年頃、バビロニヤ帝国によって滅ぼされ、エルサレムの神殿も破壊されたのです(列王記下25章1~21節)。このようにイスラエル国を通して、神様の祝福が全世界に拡がるという道は永遠に閉ざされてしまいました。しかし、神様はこの国を見捨てず(エレミヤ書25章8~14節)、ユダヤ人たちは神様が約束された通りに、70年後捕囚から解放され、神殿を再建し(エズラ記1章)、エルサレムの復興を始めたのです(ネヘミヤ記2章11~18節)。それがBC(before Christ-キリスト誕生以前)からAD(Anno Domini―主の年)のローマ帝国圧政下におけるイエス様の時代まで続くのです。
律法を守るということ
このような経緯を経て、彼らは偶像を極端に嫌い、律法を守ることに非常に熱心になりました。しかし、ユダヤの指導者たちは結局その本質である神様を愛することと、自分のように隣人を愛する愛(マルコによる福音書12章28~34節)を忘れてそのカタチだけを守ろうとし、神様から与えられた律法によって、神の子であるイエス様を十字架につけるという最大の矛盾の中で最大の罪(律法に違反することは罪です。法律違反が社会に対して責任を問われるのに対し、律法違反は、神に対して責任を問われます)を犯してしまったのです(マタイによる福音書26章63~66節)。それでも彼らはわたしたち人類に2つの大きなことを教えてくれました。
律法は守り切れない
1つ目は、人の力だけでは「律法」を守り切れないということです。そもそも律法とは、人々がこの地上で幸せに生きるために与えられたものであり、しかも一国の民だけに与えられたものではありません。律法とは
「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」(ローマの信徒への手紙2章14・15節)
と書いてあるように、外からの理解も守ることも出来ないようなルールではなく、自分の内からの要求、良心の声なのです(Ⅱコリント信徒への手紙3章3節 参照)。
新約聖書の中にパウロと言う人物が出てきますが、彼はその手紙の中で自分のことを次のように告白しています。
「わたしは、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうと言う意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。・・『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7章18~24節)
・・もしかしたら私たち人の内には、「善悪の知識の木」の実を食べた悪影響・・知っていても実行できない惨めさがあり、また、善を嫌い悪を喜ぶ心・・もしかしたら罪の法則(罪の性質)があるのかもしれません。聖書的には、私たち人は神様から律法を与えられたイスラエル人も、良心を与えられた異邦人も、共に「律法の下」に置かれており、すべての人は、神様の御前に罪人なのです(ローマの信徒への手紙3章9~20節)。そしてこの時代の人々は、ユダヤ人も異邦人も含めて、守りたくても守り切れない現実にうめき声を上げ、律法違反による罪の自覚と、のろい(罰のようなもの―申命記27章26節、ガラテヤの信徒への手紙3章10節)におののき、次第に自力ではなく、他力によるこの状況からの解放者・救い主を求めるようになっていったのです(もちろんすべての人ではありませんが、イエス様がこの世にお生まれになったとき来訪した「占星術の学者たち」もそのような人たちの一人だったと思います。マタイによる福音書2章1~12節)
※「律法違反によるのろい」について…「呪い」を辞書で調べると、広辞苑では「①怨みのある人に禍があるようにと神仏に祈る。②一般に、憎く思う者がよい運命をたどらないようにと念じる。③・・」(第6版)と書いてありました。聖書には、律法を守ったときの祝福(申命記28章1~14節)と律法を破ったときの呪い(申命記28章15~68節)についての内容がハッキリ書いてあります。一口で言うと祝福は豊かさと繁栄であり、呪いは「主は更に、この律法の書に記されていない病気や災害をことごとくあなたに臨ませ、あなたを滅びに至らせる。」(61節)と書いてあるように、禍と滅びなのです。繰り返しになりますが、律法はすべて守ることが要求されているのです(ヨシュア記1章7・8節)。そして中には、イエス様のたとえに出てくるファリサイ派の人のように「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカによる福音書18章9~14節)と、100%守っています、律法中心の生き方をしています、という人もいるでしょう。確かに彼は、自分の行いと、自分の知恵と、自分の努力・・自分の力によって律法のカタチを守れたかもしれません。しかし、律法の本質である愛を忘れて高ぶり、他人を見下げた彼は、決して神様から律法を守った正しい者、「義」と認められないのです。すなわち、自分の力に頼っていく限り、律法を完全に守り切ることはできないのです。これもまた「律法ののろい」かもしれません。
罪は命によって贖うことができる
2つ目は、罪は血(命)によって贖うことができるということです。「罪の贖い」とは、犯した罪が赦されるために(罪が無くなること)、代価が払われることであり、具体的には、罪を犯した者の身代わりとして、「エルサレム神殿」またはその前身であった「幕屋」で牛や羊などの動物の血(命)が流されることでした。聖書に
「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。これは誤って主の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破ったときの規定である。・・自分の犯した罪のために、贖罪の献げ物として無傷の若い雄牛を主にささげる。・・その頭に手を置き、主の御前で牛を屠る。油注がれた祭司は牛の血を取って臨在の幕屋に携えて入り・・祭司がこうして彼の犯した罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。」(レビ記4章)
と書いてあり、また、
「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。」(レビ17章11節)
と書いてある通りです。律法と預言者の時代がイエス様の十字架で終わるのは、実にこのことに関係しています。イエス様は、動物の血ではなく、
「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血」(Ⅰペトロの手紙1章19節)
を十字架(呪われた者の象徴 ガラテヤの信徒への手紙3章13節)の上で流されることによって2重の罪・・始祖アダム以来の「死」と律法違反による「罪」から解放して下さったのです(ローマの信徒への手紙8章2節)。しかも
「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架にくぎ付けにして取り除いてくださいました。」(コロサイ信徒への手紙2章13・14節)
と書いてあるように、過去だけでなく、現在・未来の罪まですべてを赦して下さったのです。
そもそも贖いの概念は、「罪のない人」が「罪のある人」の身代わりになることです。その意味では人の罪を、人ではない動物が贖い切ることはできません。では、罪のない人って存在しているのでしょうか?
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマの信徒への手紙5章12節)
と書いてあるように、死に定められたすべての人・・偉人であっても、聖人であっても、たとえ生まれたての赤ん坊であっても・・アダムの子孫では人の罪を贖うことが出来ないのです。ですから、罪を贖うことができる、「罪のない人」は、理屈から言えば人として生まれながら、罪を犯した人類の始祖アダム以前の人でなければならないのです。
イエス・キリストの誕生
では、イエス・キリスト(姓ではなく、ヘブライ語でメシヤ…神から油を注がれた者の意味。ギリシャ語でキリスト…救い主の意味)にその資格があるのでしょうか。大いにあります。「クリスマス」はイエス様の誕生を記念してお祝いする日ですが、その時のことが聖書には次のように記してあります。
「・・すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。・・』・・マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・』」(ルカによる福音書1章26~38節)
つまり、イエス様は、聖霊様とマリアによって生まれた方であり、もっと言うならば神の霊(Ⅰヨハネの手紙4章2節)によって生まれた、アダム以来の罪の性質を受け継いでいない唯一の人なのです。しかもこの御方は、
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して,私たちを神の子となさるためでした。」(ガラテヤの信徒への手紙4章4・5節)
と書いてあるように、万物の創造主であり(ヨハネによる福音書1章1~5節 参照)、永遠なる神の御子御自身が、人となってこの世に生まれてきて下さったのです。もちろんそれは100%の神様が、仮に人の姿を取られたということではありません。
「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまたこれらのものを備えられました。・・それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ人への手紙2章14~18節)≪「大祭司」とは、神様と人を仲介する役目のことです≫
と書いてあるように、私たち人と全く同じであられたのです。理屈では合わないかもしれませんが、私たちはこの御方のことを、100%の神であり、100%の人であると信じています(コロサイの信徒への手紙2章9節
「神は愛です」
では、なぜ「罪のない人」が「神の御子」である必然性があるのでしょうか?神様は全知全能の御方であり(イザヤ書37章28節、ルカによる福音書1章37節)、この「石からでも」(マタイによる福音書3章9節)「罪のない人」をお造りになれるでしょうし、人より優秀な存在である天使の内から選ぶことも出来たでしょう(ヘブライ人への手紙2章6・7節)。中には自分が行きたいと思っていた志願兵?も大勢いたのではないかと思います(ルカによる福音書2章13節、マタイによる福音書26章53節 参照)。つまり、物理的には「神の御子」を罪の贖いのために遣わす必要はまったくなかったのです。しかし、道義的責任からではなく、神様の本性において御子でなければならなかったのです。なぜなら、
「神は愛だからです。」(Ⅰヨハネ4章8節)
これは、人に対して愛に富んでいるとか、慈愛にあふれていると言う意味ではありません。神様の存在そのものが「愛」なのです。でも、愛とは「愛する他」があって初めて成り立つことなのに、「自存存在」(出エジプト記3章14節)であらせられる御方が「愛」であるとは矛盾しているのではないかと思われるかも知れません。それは、わたしたちの信じている神様は、一ではないからです。否、神ですから唯一(天地宇宙を創造し、支配《管理》しておられる全知全能の絶対者)の御方なのですが、聖書に「我々にかたどり、我々に似せて」(創世記1章26節)と書いてあるのです。私たち人には、この御方を正確に表す言葉を持っていませんが、便宜上「三位一体」と言っています。それは、3つの位格(ペルソナー①人。人身。人格。②キリスト教で知恵と意志とを備えた独立の主体。位格。③・・。「広辞苑第三版」)を持った1つの御方と言う意味で、父・子・聖霊と呼ばれ、その関係が「愛」なのです。神様は、御自分の中に愛する対象を持っておられるのです。ですから、一つの御方であっても「愛」の存在であり得るのです???益々分からなくなってきましたか?
神様は人の罪を贖うためにご自身をお遣わしになった
このことは理解することではなく、信じることによってしか受け取ることが出来ないかも知れませんが、私たちは、体験的に知っていることでもあると思います。例えば人の心。「心」も一つではありません。ですから迷うのです。例えば行動。「思い」が与えられ、それが「意志」というカタチになり、時至って「行動」に移される・・・。話が横道にそれてしまいましたが、神様は愛なのです。この御方が、罪の贖いの犠牲として他に誰を遣わすことがおできになりますか。溺れている人を見て、助けてあげたいと思ったとします。その時、自分が飛び込まないで、自分の部下や家族などに犠牲を強いるとしたら、それはもはや「愛」とは言えないのです。助けてあげたいと思ったら、どのような立場であっても助けてあげたいと思った自分が飛び込む・・・それが「愛」ではないでしょうか。ですから、イエス・キリストも私たちが思う「自分の子ども」ではなく、「自分自身の中の自分」(ヨハネによる福音書8章28・29節、13章19節、14章9・10節 参照)とも言うべき存在なのです。言葉を変えて言えば、神様は、人の罪を贖うために、御自分をお遣わしになったのです。
罪の贖いとは
では、罪の贖い、「罪のない人」が「罪のある人」の身代わりになるとは具体的にはどういうことなのでしょうか。イエス様の誕生については先程記しました。この御方はキリストとしてお生まれになりましたが、自動的にキリストになられたわけではありません。「罪のない人」として、お生まれになりましたが、罪のない人として神に献げられるために、神の御前に罪のない、人としての生涯を送らなければならなかったのです。
「まして、永遠の霊によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、・・。」(ヘブライ人への手紙9章14節)
と書いてある通りです。そしてその生涯は、誘惑と(マタイによる福音書4章1~11節)、試みと危険に(マタイによる福音書12章9~14節)満ちていましたが、始祖アダムのように、罪を犯すことはありませんでした。
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ人への手紙4章15節)
と書いてある通りです。イエス様が、
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイによる福音書5章17・18節)
と言われたように、律法を完全に守られた傷のない生涯でした。また、
「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業をなしとげることである。」(ヨハネによる福音書4章34節)
と言われ、
「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハネによる福音書5章30節)
と言われました。イエス様の人としての人生は「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイによる福音書4章24節)、「徴税人や罪人」(マタイによる福音書9章10節)などのユダヤ人社会で軽んじられ、嫌われている人々の友になられ、仕えられるより仕え(マタイによる福音書20章19節)、受けるより与え続けられたのです(使徒言行録20章35節、Ⅱコリント信徒への手紙8章9節 参照)。それは、神様の御心を完全に満足させるものでした。
しかし、4つの福音書(伝記のようなものですが、イエス様が架かられた十字架と復活に焦点が絞られています)には無学であるはずのイエス様の権威ある教えや(マタイによる福音書7章28、29節)、普通の人にできるはずのないたくさんの人の病気を癒したり、悪霊を追い出したり、湖の上を歩いたり、実に様々な奇跡が記されています(ヨハネによる福音書2章11節)。これはどのように解釈したらよいのでしょうか。やはり、神の御子としての能力の発露でしょうか。それとも・・・。実はこれらは、イエス様が「およそ30歳」(ルカによる福音書3章23節)から3年数か月の記録です。イエス様はその直前に「洗礼(バプテスマ)」を受けられましたが、その時父なる神様の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心の適う者」と言う御声と共に、聖霊様が「鳩のように」降って来られたのです(ルカ3章21・22節)。それ以前は全く普通の人として家業を継ぎ、母を助け、弟や妹の面倒を見てこられたのです(マルコによる福音書3章31節、マタイによる福音書13章54・55節 参照)。しかしこの時からイエス様は「罪ある人」の身代わりとなるために活動を始められ、それを助けられたのが第3位格聖霊なる神様なのです。だからこそイエス様は、
「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」(ヨハネによる福音書14章12節)
と言われ、御自分が100%の人であることと、聖霊様の助けによって御心を行うことができるようになることを示されたのです。そしてイエス様は、
「このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネによる福音書19章30節)
と聖書に書いてあるように、イエス様は十字架の上で血を流すことによって、「罪のない人」が「罪のある人」の贖いを完成され、イエス様はまさに正真正銘のキリストとなられたのです。ハレルヤ!(ヘブライ語で、最高の喜びの表現)
よみがえったイエス・キリスト
しかし、これでイエス様のご生涯が終わったのではありません。3日目によみがえられました(マタイによる福音書28章1~10節)。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネによる福音書11章25・26節)
と言われたように聖霊様のお力により、死を打ち破ってよみがえられたのです(Ⅰコリント信徒への手紙15章54・55節)。それは、
「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマの信徒への手紙4章24・25節)
と書いてあるように、罪ある私たちが、神様から「義」・正しい者と認められたしるしであり、よみがえられたイエス様と同じ「「霊の体」(Ⅰコリント信徒への手紙15章44節)が与えられて、永遠に神様と共に生きることのしるしなのです(Ⅰコリント信徒への手紙15章20~22節、ヨハネの黙示録21章1~4節)。聖書に
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。」(ローマの信徒への手紙8章1・2節)
と書いてある通りです。アーメン!(ヘブライ語で、その通りですという意味)
※「霊の体」とは、時間と空間に縛られない永遠に生きることのできる体のことです。ちなみに、聖書は人を「霊・魂(心)・体」(Ⅰテサロニケの信徒への手紙5章23節)に分けていますが、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント信徒への手紙3章18節)と書いてある通りに、それぞれが聖霊様のお働きによって、神の子にふさわしくなるのです。そして「神の子」(ヨハネによる福音書1章12節)とは、父なる神様のすべての財産を受け継ぐ資格が与えられたということであり、理屈から言えばイエス様は私たちのお兄さんになるのです(ローマの信徒への手紙8章29節)。
キリスト・イエスとつながるためには
では、私たちがキリスト・イエスに結びつき、その命に満たされるためにはどうすればよいのでしょうか?
①聖書を勉強する。
確かに
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(Ⅱテモテへの手紙3章16・17節)
と書いてあるように、学ぶことはとても大切なことです。しかし、イエス様は、
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところに来ようともしない。」(ヨハネによる福音書5章39・40節)
と言われました。
②イエス様の教えを守る。
これは素晴らしいことです。特に「山上の説教」の名で知られるイエス様の教えは驚愕に値し、イエス様は
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」
と締めくくられ、聞くだけでなく行うことの重要さを強調されました(マタイによる福音書5~7章)。特にその中の
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(7章12節)
という教えは、ほかの宗教・道徳・哲学にもない、通称、黄金律と言われています。しかし、どんなにすばらしい教えであっても自分の能力だけで行おうとすれば、結局「律法」と同じ「のろい」を受けてしまいます。「文字は殺」すからです(Ⅱコリント信徒への手紙3章6節)。
③信仰。
すなわち信じることです。始祖アダム以来、死と滅びに向かっていた私たち人類が、赦しと命に向かうためには神様とその言葉を信じるしかないのです。そういう点では私たち一人一人が、アダムと同じ選択を迫られていることになります。そしてこのことを聖書では、「悔い改め」(使徒言行録17章30節、26章20節)と言います。この言葉は、自分の非を認めて懺悔するというより、考えを転換するという意味で、死と滅びから赦しと命へ方向転換することです。「死から命へ」(ヨハネによる福音書5章24節)、「闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ」る(使徒言行録26章18節)ことです。それは
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマの信徒への手紙10章9節)
と書いてあり、
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソの信徒への手紙2章8節)
とあるように、自分の努力や能力ではなく、信じることによって、ただ(無料)で受けることが恵みであり、それを良き知らせ「福音」と言います。聖書に
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマの信徒への手紙1章16節)
と書いてある通りです。
イエス・キリストは再び来られる
イエス様は、再び来られます。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1章11節)
と天使が告げられたようにです。それは神様が始められた救いの業を完成されるためであり(フィリピの信徒への手紙1章6節、ヘブライ人への手紙6章1・2節)、失われた選民イスラエルに(マタイによる福音書15章24節)救い御手を差し伸べるためなのです。そして、その間を任されたのが「教会」なのです。イエス様の12弟子たちから始まった教会(使徒言行録2章)には、イエス様から特に2つの命令が与えられていました。
①「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13章34・35節)
②「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。』」
教会は、これらの命令を守り行うための、チームなのです。教会についてもう少し詳しく知りたい方は、「教会とは?そして、私たちが目指す理想の教会とは?」の項目をお開き下さい。]
神の計画 ―福音とは何か―
プログラム 1~4p
はじめに 5p
序 6~28p
♦日本の歴史観など様々な歴史観と、聖書の歴史観 6p
・様々な歴史観と日本の歴史観
・聖書の歴史観。聖書には、スタートとゴール、始まりと完成がある
・スタートである「エデンの園」は、神の国であり楽園であった
・始祖であるアダムとエバは、その「エデンの園」で、神ではなくサタ
ンに従った
・それ以降の人類の歴史は、サタンと同じように「神のように」なりた
い者たちによって導かれてきた。日本でも天皇を「現人神」と呼んだ
・聖書によれば、現代は「鉄」と「陶土」が入り混じった時代。「鉄」は
全体主義、「陶土」は民主主義の国か?どちらも不完全
・聖書の律法にこそ、その解決がある。神主主義?
・しかし、人類の歴史は人の支配で終わるのではなく、「千年王国」「新
天新地」へと神の御介入により完成に向かう
※新型コロナウイルスによるパンデミックは、終末のしるしか?
・永遠なる神の国は、新天新地において完成する(宇宙の消滅は可能)
♦人の内にあるもう一つの「神の国」、玉木愛子さんの例 14p
♦神がこんなにも関わろうとされる、人間とは何者なのか? 15p
・様々な人間観と聖書の人間観。すなわち人は「神にかたどって」創造
された
◆私が重要だと考える人の特徴 17p
①自由なる存在 17p
・聖書が示す自由と奴隷について
・神が与え、人が守ることによって幸いを得る法律、すなわち「律
法」を守りたいのに守ることのできないイスラエル人の心の状態
が「罪の奴隷」
・しかし「罪の奴隷」であっても、心の奥底に「正しさを求める思
い」という自由がある
・そして、キリストはすべての人を「罪の奴隷」から解放し、自由
を与えられた。それは、自分の意志によって選択する自由のこと
・選択とは、「霊の望」「肉の望」のどちらかを選ぶことである
・「自由意志」による選択の目的・・成人になること
※成長するために必要な神との関係・・「神の家族」 21p
・人は、この御方を感謝と喜びゆえにひれ伏し、この御方に喜
びと意志を持って従うことを表明するためにひれ伏す
・しかし、神は人に家族のような関係を求められる
・事実、神は人を、「養子」とし、未来の「花嫁」として家族に加え
られた
②愛の存在 24p
・問題は、「人は他を愛することができるか?」
・人は愛を受けることによって、与えることができる存在である
・「与える愛」は、本能の愛だけでは育たない、無条件の愛が必要。
狼少女の例
・人は「無条件の愛」を受け入れる物理的要素を持っている、つま
り人は変わり続けることができる。ポルトマンの「生理的早産説」
1、罪のない祝福された時代(創世記1:26~3:5) 28p
♦「神の国」の始まりと、ただ一つの規則 28p
2、罪性と不信仰が拡大してゆく時代(創世記3:7~11:9)29~37p
♦人は意志による選択によって、神側ではなくサタン側についてしまった29p
♦その結果、サタンの性質である「罪性」による支配とその正体。すなわ
ち罪とは、「完全否定」。それに対し愛は「完全肯定」のことである 29p
♦きっかけとなった「善悪の知識の木」の実を食べたことによる3重の死30p
・「善悪を知る者」とは、一人一人が違った善悪の基準を持つ者となること
・「国」という大きな集団の共通ルールでも、「戦争」と言う過ちを犯す
・3重の死「社会的な死」「肉体的な死」「霊的な死」
♦「罪性」の具体的現れ。「怒り」と人類初の殺人 33p
※「罪性」の影響は、大人より子どもの方が強く受ける?
※人類の始祖についての疑問
♦「ノアの洪水」以降の更なる、罪性と不信仰の拡大 36p
3、約束の時代(創世記11:27~出エジプト19:2) 37~43p
♦イスラエル民族の始祖「アブラハム」「イサク」「ヤコブ」の選びと一方
的な約束 37p
・祝福の源アブラハム
・平和の信仰者イサク
・神にしがみついて離れない人ヤコブ、祝福されてイスラエルとなる
♦430年のエジプト滞在と約束の地カナンに向けての脱出 41p
4、律法と預言者の時代(出エジプト19:3~イエス・キリストの十字架・
復活) 43~49p
♦神と人類の代表として選ばれたイスラエル民族との契約、すなわち律法43p
・律法すなわち契約の内容、祝福あるいは呪い
・律法の契約は終了。しかし、他の契約(約束)は継続
◆イスラエル国の歴史 46p
※戦争について、「棕櫚の街から 千代崎秀雄著」より引用
・カナンの地占領と英雄による統治
・王国の始まりと滅亡
♦律法違反により「死と災い」を招いた選民イスラエル 48p
5、赦しと恵みの時代(使徒言行録2:1~黙示録3:22)50~80p
♦人類の代表イスラエルの2つの功績。すなわち「律法」を守り切ることので
きない証明と、違反による「罪」は血によって贖うことができる証明 50p
♦罪を贖う者、イエス様の十字架による身代わりの死 52p
♦罪なき人、神の御子イエス・キリストの誕生とその生涯 53p
♦イエス・キリストの十字架による、2重の意味での律法完成と復活による
保証 55p
♦選民イスラエルだけでなく、全人類を祝福する神の御旨とその根拠 58p
・異邦人にも及ぶ神の祝福の事実
・すべての人は神の御前に罪人であり、十字架の贖いはすべての人のためで
あった
・全人類を祝福する神の御旨とその2つの約束の言葉
♦信じることでもたらされる神の祝福 62p
♦神の祝福、すなわち、罪の性質からの解放と永遠の命 62p
・信じる事に対する2つの疑問
♦しかし、自由意志による選択において、再び個々人レベルで支配される可能
性あり 65p
♦「従順」こそが、再び罪に支配されない方法である 67p
♦「従順」とは、聖霊様の導きに従おうと決心する意志のこと 68p
※選択の対象である「肉の望み」は、コントロールすべき欲望
♦「良心」は、「神にかたどって」創造された、かたどりの一部・霊的性質70p
♦良心の「弱さ」の問題と、キリストの流された血による解決 71p
※神は「三位一体(さんみいったい)」なる御方であると信ずる
♦人は「良心」に従いたいという欲求を持っている。一例マズローの「欲求5
段階説」の6段階目による証明 73p
♦「善いサマリア人」のたとえ話は、「良心」に従うことの勧めでもある75p
結論・・イエス様こそ、良心に従いたいと願っているすべての人の道であり、
同伴者・案内人である
♦信じる者は聖霊の働きによって成長し、イエスが様が生きたように生きるこ
とができる。これこそ「恵みの時代」なのである 78p
6、正義の時代(黙示録4章~20:10患難時代、再臨、キリストの統治)
80~89p
♦預言であり予言である、この世の終わりに起こり得る主な出来事 80p
※「ヨハネの黙示録」は「警告」ではない。私の勘違いした一例文
♦ 7年間の「患難時代」に起こり得ることと「サタン・反キリスト・偽預言
者」の協力体制 83p
♦患難時代の目的は、選民イスラエルの救い、全世界への福音の伝達、そして
サタンと同じ心を持つ人たちへの「神の裁き」 86p
♦キリストの再臨と、キリストに統治された世界・・千年王国 88p
7、罪のない完成された、神の国(黙示録20:11~21:21最後の裁き
と新天新地) 89~92p
♦サタン + 彼らと同じ心を持つ人たちへの永遠の裁き 89p
※(神に)敵対するもの・(人を)訴えるものであるサタンの正体。
♦永遠の裁きⅡ 91p
♦神と人が共に住む、死も悲しみもない永遠の世界 91p
本来、神様との交流のために造られた心の中心?にある霊の座ともいうべき場所に居座り、もう一度あなたの個人的な主人になって、支配しようとしているのです。
ある先生に教えられました。クリスチャンであっても、そのリーダーであっても心の奥底に「私は十分でない」、「無力だ」または「絶望的だ」と否定的な感情を持っている人がいると。実際、私にもありました。あるどころか「ダメだ、ダメだ」と言われ続け、子どもの頃から劣等感の塊のようになっていた私は、この「ダメ」こそが自分の本質のように思い込んでいたのです。ですから劣等感の後遺症でしょうか?今でも誉められると居心地が悪くなり、叱られると「ほっ」とすることがあります。叱られている所が、自分の本来の場所だと思っているのです。・・おかしなことを書いてスミマセン。先に「『赦しと恵みの時代』の真髄は『契約(約束)を信じる』この一事にあるのです。」と書いた私ですが、その自分が「自分は足りない」「何をしても無駄」「ここには希望がない」と無意識のうちに信じていることこそ、まさに不信仰そのものだったのです。信仰生活ウン十年、そのことに気づず、それが聖書の言う「罪」であることもわからなかったなかった私ですが、しかし、1対1の導きの中で・・悩みを告白するカウンセリングでもなく、目標に向かわせるコーチングでもない、単純だけど自分では決して気づくことのできなかった視点を示されました。コーチング手法でいう「良い質問」です。その中で、初めて私はこう聞きました。「イエス様、あなたは私のことをどう思われていますか?」イエス様はイメージを与えてくださり、十字架で傷ついた右の御手を示しながら「わたしは、あなたを愛している。」と言ってくださったのです。今まで私が、牧仕(牧師)として何百回も使ってきた言葉です。しかし涙が止まらなくなりました。そして知ったのです。これがファーストコンタクトだったと。私が「お前はダメだ、ダメだ」と世の声を聞く前に、イエス様が、私に「わたしは、あなたを愛している。だから大丈夫だよ」と優しく語りかけ、世に遣わしてくださっていたのです。過度な否定的感情からの解放でした。いいえ、もしかしたら本当の意味での解放の始まりだったかも知れません。聖書に「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:8・9)と書いてあるとおりです。この時から何とか自分を受け入れようと努力するのではなく、自然に自分を愛せるようになった気がします(注 ナルシストではありません)。
◆「従順」こそが、再び罪の性質に支配されない方法である
では、罪の支配から解放された私たちは、どうすれば再び罪に支配されないで、自分の人生を楽しむことができるでしょうか?・・「人生は楽しんでもいいのでしょうか?」「良いことが続いたからきっと悪いことが起る。不安でたまらない。どうしたらいいでしょうか?」と聞かれることがあります。確かに日本の先人も「人の一生は重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし。・・」と言いました。示唆に富んだおもい言葉だと思いますが、創造主が私たちに求めておられるのは「人間にとって最も幸福なのは 喜び楽しんで一生を送ることだ、と」(コヘレト3:12)と記され、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ5:16~18)と書いてあるのです。聖書は、すべての人が自分の人生を楽しむことができるように、そのために他人ではなく自分が変わる(成長する)ことができるようにと書かれた本でもあるのです。
改めて質問します。どうすれば再び罪に支配されないで、自分の人生を楽しむことができるでしょうか?そのためには始祖アダムとエバが罪を犯してしまった原因、その根にあたる部分はどこにあるのか知っておく必要があると思います。聖書には「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」(ローマ5:19)と書いてあります。「一人の人」・・始祖アダムの不従順によって「罪の性質」に支配されるようになり、その結果すべての人が「死すべき者」となったのです。それに対して「一人の従順」であり「最後のアダム」(Ⅰコリント15:45)であるイエス様は「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4:34)、「わたしは自分では何もできない。・・わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」(ヨハネ5:30)、と言われ、さらに「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)と言われるくらい自分の意志ではなく、父なる神の御旨に従われたのです。そして神様からは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17、17:5)と称賛されました。御旨に対する従順、それが「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:8)の意味なのです。
◆「従順」とは、聖霊様の導きに従おうと決心する意志のこと
それでは、従順とは何でしょうか?「従順」とは、読んで字のごとく、人の言うことに素直に従って逆らわないことですが、でもそれは盲信や盲従とどこが違うのでしょうか?結局、冒頭でふれたように、神様を主人とし、自分を僕とする縦の関係にならざるを得ないのでしょうか??そもそも自分にではなく、他に従うことがそんなに大事なことなのでしょうか?ハイ。おそらく自分が想像する以上に重要なことなのです。ただ、イエス様が行い示された「従順」は、「愛」と同じようにこの世の価値観に基づくものではありません。この世の従順は「不平不満をいわず、相手の意向に従うことであり、泣く泣く条件をのんだり、甘受、黙従など自分の意志を抑えること」ですが、イエス様の示された従順は、自分の意志で、喜んで従うことを選択することなのです。私たち夫婦も最近そのことに気がつきました。私たちは阪神大震災の年に結婚し、その年から神戸市の東灘区にある教会に赴任しました。貸しビルの2階にあった教会には青いビニールシートが張られ、牧師館は使用不可で、急遽尼崎市に住むことになりました。二人とも実家を離れて独立していたので、二重の家具や本、電気製品が多く狭いアパート(荷物過多)にギュウギュウ詰めで、開かずの段ボールの隙間で生活している感じでした。そこから震災で壊れた街の壊れた教会に通うのです。そこには「新婚生活」という甘い言葉も雰囲気もありません。ただただ悲惨な現実があるだけでした。このような状況もあってか言い争うことも多く、それでも3~4時間では収まらないくらいの話し合いをして、何とか数々の危機?を乗り越えてきました。以上のことから、お互いどこかで「話し合えばわかる。一致できる。」という感覚を持っていたようです。ところがある出来事を通して、何と言いますか男女の超えることのできない感覚の違いがあることに気が付いたのです。一般的にあくまで傾向としてですが男性は論理的に考えて答えを出そうとするのに対し、女性は感情が豊かで共感性を求めようとします。これを食べ物に例えると「アレルギーがあるので食べられない」と答えるのが男性的思考で、「魚が一番嫌いでツナ缶が一番好き」と答えるのが女性的思考のように思います。私はどうしても筋を通すと言いますか、物事に一貫性がないと落ち着かず、自分で枠を作りその中で行動する傾向があるような気がします。ところがどうも家内はそうではない。私がそのようなことを言うと、考えすぎだとか頭が固いとか言います。明らかに反対の意見だと感じたので問うと、「そうではない。もっと軽く考えて。」と答えます。でもあなたの意見だとこのような結果になるよ。と言うとそんなことまで考えてない。ただ言ってみただけ・・。「ハァ?どう考えたらそうなるの?」「エエッ?どうしてそう思っちゃうの?」「だからさぁ、」こんな会話が延々と繰り返されるのです。そこで私はやっと気が付いたのです。彼女を理解するのは不可能だと!!!ではどうするのか?理解できなくてもいいそのまま受け入れるのです。理解できたら愛する。できなかったら愛さないではなく、聖書は「妻を愛しなさい。」(エフェソ5:25)と命じています。理解できなくても自分の意志で、そのまま愛すると決心するのです。妻に対しては「自分の夫に仕えなさい」と書いたあります。私は気が弱くてそのように命じることができないので、「私の味方になってください」と頼みます。「なんで今さら聞くの?私はずっとあなたの味方よ。ついていきます。」この言葉を聞くと、私は本気になって彼女を愛そうと決心するのです。家内も同じでした。自分の意志で決心して愛する。自分の意志で決心してついていく。聖書はこのような関係を『たがいに仕え合いなさい。』と勧めています。仕え合うとは従い合うことなのです。理解できるから、似た者同士だから愛するのではなく、違いを認め、違いを大切にし、違いを強みにする・・互いの愛を求めるのではなく、互いに愛を与え、互いに従い合うことによって、違うものだからこそ一体となることができる。それに必要なのは感情や経験・理解だけでなく、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません」(ガラテヤ5:16)と書いてあるように、聖霊様の導きに従おうという意志なのです。このことに気付いた私たちは「26年目の真実」と名付け、改めて聖書の真実に驚かされました。
それにしても何故、同じ人間なのに・・、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:24)と神様が言われたように、一体となれる存在なのに・・何故こんなにも互いを理解することが難しいのでしょうか?
※選択の対象である「肉の望」は、コントロールすべき欲望であることの確認
私は、始祖アダムとエバが「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」(創世記2:17)と言われた木の実を食べたことに起因すると思っています。それまでのアダムとエバの選択は(選択の自由は、神様が人に与えた特性ですので、決してなくなることがありません)、善悪を知る知識の実を食べる前だったので、神の御旨に従うか、自分の心に従うかの二者択一でした。そこで自分の心に従うことを選択したのが誘惑に陥る始まりでしたが、確かに神様は「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった」(創世記3:22)と言われました。それ以来男女間の思考や感覚の違いだけでなく、すべての人が自分の内に善悪の基準を持つようになり、互いを別な生き物と思えるほどの違いを感じるようになったのではないかと思います。私も結婚した当初は、家内のことを遠い世界から来た宇宙人ではないかと、本気で疑ったこともありました。最も愛すべき対象である妻でさえこのように感じるのですから、他人はもちろんのこと兄弟・姉妹であっても理解できないことが多々あります。確かに私たちは同じ親から「性質」を受け継ぐものですが、人は「生理的早産」(レポート27p)という特殊能力によって育つ環境の影響を受け、他の動物にはない質的変化をするのです。もしかしたらこの変化を未完成=可能性ととらえるとき、その状態が生涯続くのかもしれません。そしてそれが性格の違い、性格の変化(「三つ子の魂百まで」と言う諺のように、幼い頃体得した性格は変わりにくいものですが、激しい環境の変化や意識することによって意外と簡単に変えることができます。)として表れるのです。結局人は、徹頭徹尾、自分の内にある性格、内なる肉の望み、言葉を変えれば善悪の基準によって行動するのではないのでしょうか。しかし、それはいうなれば一人一人が目盛り幅の違った定規を持っているようなもので、それぞれがこれの長さは何センチだ、と主張したら混乱してしまいます。なぜなら全部が正解で、違うのはそれぞれの内にある目盛り幅だからです。そこで必要になってくるのは、基準(共有)なる目盛り幅です。それが規則(共通)となるのです。しかしそれはあくまでも基準であって、絶対的なものではないので状況によって変わります。少し複雑な言い方をしていますが、車の制限速度規制に似ているかもしれません。日本の道路交通法においては「最高速度」と言い、速度制限標識がない場合には、普通自動車60㎞/h、緊急自動車80㎞/h・・。この例えの場合、一般高速道路のほうが分かりやすいと思うのですが、標識がない場合、法廷最高速度が普通自動車で100㎞/hとなります。そして最低速度が50㎞/hです。共に違反すると違反点数、反則金が課せられます。なぜなら危険だからです。これが共通の認識、規則となるのです。私たちは危険だからという理由よりも、違反の罰を嫌がって守っていることが多いと思いますが、もし罰則がなかったら・・。高速道路において50~100㎞/hが、安全走行の基準であることを知っていたとしても、果たして忠実に守るでしょうか?危険と言う意識は善悪の意識同様、個人の内から出て来るものであって人によって違いますし、何よりも今の自動車の性能は、100㎞/hどころではありません。私の乗っている軽四でもスピードメーターは140㎞/hまでありますし、普通自動車では180㎞/h、あるいはそれ以上表示してある車種もあります。性能から言えばそれ以上のスピードが出るのでしょう。そこで必要になってくるのはコントロールです。まさかスピードの限界まで挑戦してみたいという人は少ないでしょうが(そうなれば完全に暴走です)、私などはついアクセルを踏み込んで120㎞/hまで出してしまい、慌てて80~90㎞/hまで落とします。これがコントロールです。このコントロールが必要なのは、自分の内にある人として生きていくために必要な欲であり、聖書の言葉をではこのレポートで何度も出てきている「肉の望」になるのではないかと思います。人は一人では生きていけません。そのような意味では人も「群れをつくる動物」となるのでしょうが、それだけでなく不完全であり不十分であっても神の「かたどり」で造られた霊の存在である人が、この集団の中で、共に平和でよりよく生きていくためにコントロールしなければならない欲望が、「肉の望」なのです。まとめると、私たちは与えられた自由意志で「肉の望」ではなく聖霊様の御旨である「霊の望」を選択し、喜んで聖霊様の導きに従うことによって欲望のコントロールが可能になり、私たちは自分の人生を楽しむことができるようになるのです。
◆「良心」は、「神にかたどって」創造された、かたどりの一部、霊的性質である
では、「肉の望」は人の動物的?生物的?性質に起因するものですが、私たちの内には「霊の望」である聖霊様の御旨に従いたいと思う霊的?性質はないのでしょうか?私はあると思います。なぜなら、ここでまたささやかな疑問が出て来るからです。
①「肉の望」が内なる性質であり、自分の内なる意思によって欲情や欲望のままに行動すると、失敗や「やりすぎた」などと言う内省はあっても、呵責や罪悪感など自分の行動を責めるものはいないはずだ。ところが事実はそうではない。ではなにが自分の行動の善悪を判断し、善を喜び悪を責めるのか?
②「霊の望」は、聖霊様の御旨であり福音を受け入れた者に与えられる新しい性質のようなものであるが、それ以前には、その性質と類する性質は人の内にないのか?言葉を変えれば、神が「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」(創世記1:26)と言われた、神の与えられた神の「かたどり」は、人の内のどこにあるのか?
③「霊の望」を与えられる聖霊様は、あくまで「助け」であり、主ではない。聖書にも「あなたたちは、もし(ほんとうに)私を愛するならば、私の命令を守る(に服従する)。私は父に求める。父はあなたたちに、彼があなたたちといつまでもともにおられるように、もうひとりの慰め主(助言者、助け主、とりなす者、弁護者、激励者、援助者)を与えられる。」(ヨハネ14:15・16 詳訳聖書)と書いてある。だとすれば聖霊様は、誰あるいはなにを助けるのか?
3つの問いに対する答えは一つで、「良心」です。一般に良心を「善悪を判断し、善を喜び悪を嫌う心の働き」と定義します。しかし、レポート59pでも引用した聖書に「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」(ローマ2:14・15)と書いてあります。「良心」とは、ギリシヤ語の「ジュネイデーシス」が使われ、もともとは「共に見る=他人の痛みなどを見て知ること」の意味ですが、聖書に用いられることにより「神と共に知ること」という意味になったそうです。ですから「良心」は、人の創造の時に与えられた神の「かたどり」の一部であり、律法と同じく神の御旨を反映するゆえに、「肉の望」に善悪のジャッジの判定を下すことができ、「良心」が本来の役割を果たすことがができるように聖霊様が助けてくださるのです。そのような意味で「良心」とは創造主なる神から遣わされた管理監督者のようなものなのかもしれません。ちなみに同志社大学の創立者である新島襄は、「人は宗教的教育により『良心』を育みようやく『人間』となる」という信念を持ち、大学正門近くの「良心碑」には「良心の全身に充満したる丈夫の起り来らん事を」と彫られているそうです。
◆良心の「弱さ」の問題と、キリストの流された血による解決
では、私たちは「良心」に従えばいいのでしょうか?そのとおりです。しかし、良心に
は弱さの問題があります。新約聖書の筆記者であるパウロも「良心が弱いために汚されるのです。」(Ⅰコリント8:7) 「兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、」(Ⅰコリント8:12) 「ある人々は自分の良心を退けた(自分の外に投げ捨てた)ために(Ⅰテモテ1:19 詳訳聖書)「良心の麻痺した(焼きごてによって無感覚にされた)」(Ⅰテモテ4:2 詳訳聖書)等々良心は弱く・簡単に傷つき・捨てられやすい(無視される)のです。ですから、たとえ良心が神様から与えられたものであっても、従うことが困難になり、現実問題として従いえないのです。ではどうすれば良心を強くし、本来の働きをすることが出来るようになるのでしょうか? 次のような御言葉があります。「(彼の)永遠のみ霊(彼ご自身が神として持たれる先在のご人格)の力により、ご自分を傷のないいけにえとして神にささげられたキリストの血は、なおさら、私たちの良心を死んだわざ(いのちのない儀式の遵守)からきよめて、(永遠に)生きておられる神に仕えるものとしないはずがあるでしょうか。」(ヘブライ9:14 詳訳聖書)と。「血はその中の命によって贖いをするのである。」(レビ17:11)と書いてあるように、キリストの命(血)は、「罪の性質」の支配から解放するだけでなく、「死んだ業」という形式的で無力になっていた状態から、生きて力のあるの状態に戻してくださるのです。そして再び神から遣わされた管理監督者として、創造主なる御方を拝し、喜んで従うように導いてくれるのです。そして、イエス様が父なる神様に従われたように、私たちも御旨に従順な者になることにより、内なる神の国が始まるのです。
※神は「三位一体(さんみいったい)」なる御方であると信ずる
実際、御旨に従順な者に与えようとされる、神様の祝福にはすさまじいものがあります。
聖書に「『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証しておられます。」(使徒5:29~32)と書いてあります。ここにも三位一体なる神様の御働きがあります。父なる神様が、十字架と復活によって贖いを完成させるために御子を人として地上に送り、御子であるエス様は、罪を示し、悔い改めと赦しのために十字架にかかられ、聖霊様は、十字架で完成された贖いの事実と、この御方が救い主(ギリシア語でキリスト)であり、私たちの導き手となってくださるという福音を一人一人に伝えてくださるのです。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ローマ1:16)なのです。この「力」はデュナミスと言うギリシア語が使われ、この言葉から英語のダイナマイト、ダイナモ、ダイナミックなどが派生したと言われています。この神の力はまさに古き人を着物のように脱がせ、造り主に似せた新しい人を着せることができる(コロサイ3:9・10)ダイナマイトの力なのです。
ちなみに「三位一体」とは神学用語で、水が液体、固体、気体と3様態に変化するように、一人の神が3役をしている様態論や男性が妻に対して夫であり、子どもに対して父であり、会社に行けば社員と言う立場の違いなら理解しやすいのですが、そうではなく三つの位格を持ったお一人の神と言う意味です。このことを説明することもイメージすることも私にはできません。さらに「太陽の本質が父なる神様で、その本質を可視化したのが子なる神様で、宇宙空間を通って地球に様々な影響を与えるのが聖霊なる神様である」とか、「『思い』が父なる神様で、『言葉』にしたのが子なる神様で、それが『声』となって人に伝わるのが、聖霊なる神様である」などいくつもの説明があるようですが十分ではないのでしょう。「三位一体の神」とは理解するのではなく、そのような御方だと信じることが大切なのだと思います。ただ、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:24)と神様は言われました。愛し合うことによって、性別も育つ環境も違った者が一体となるのであれば、父、子、聖霊という異なった御方が、互いに愛を与え合うことによって一体の神と言う御方になられ、また、三つの異なった御方が一つになっておられるから全知全能であり、自存存在でありうるのかなと思いました。
◆人は「良心」に従いたいという欲求を持っている。マズローの「欲求5段階説」の6段目による証明
では、具体的に「良心」に従うとはどのようなことなのでしょうか?また、私たちの内には「良心」に従いたいという欲求はないのでしょうか?
心理学の分野で、広く知られている心理学者アブラハム・ハロルド・マズロー(1908~70、アメリカ合衆国の心理学者)が唱えた「欲求5段階説」というのがあります(1943年「人間の動機づけに関する理論」の中で発表)。2段目までが「生理的欲求」「安全の欲求」で物理的欲求と呼ばれるものです。3段目からは精神的欲求で、仲間や家族の一員であると感じたい(自分の居場所)「社会的欲求(所属と愛の欲求)」。次にただの一員だけではなく、その中で自他ともに認められたい、尊敬されたいと思うのが承認欲求とも呼ばれる「尊厳欲求」。ここまでが「欠乏欲求・・満たすことが目的」で、他者や環境に依存している状態です。そして5段目が「成長欲求・・成長それ自体が目的」という分野に入る「自己実現欲求」です。これは様々なことを通して自己の素質や能力などを発展させ、より自分らしく生きたいとの欲求であり、この欲求を満たすことができるのは自分自身であるので、他者のせいにすることがなく自立的であると言えると思います。マズローは、人間とは自己実現に向けて絶えず成長してゆく存在であり(その後マズローは、逆説的かも知れませんが、人間には成長や活動への傾向があるのと同時に、怠惰傾向も本来備わっていると主張しています。しかし、それはまたエネルギーを貯えるための生理的反応、傾向・・つまり休息、回復への欲求であると位置づけています。《マズローの心理学72p》)、低次の欲求ほど強いと考えました。それでこの理論をピラミッド型にしたのです。しかし、実際にはこの段階を順番に上るとは限らず、飛び越える人もいますし、また、一つの段階が満たされたからといって次の段階に進むとは限りません。留まる人もいるのです。それでもこの欲求段階説によると、人が成長しようとするのは自分がより良い立派な人間?になるためではなく、人のため、社会のためだと言いながらも結局は自分のため、自分に足りないものを満たすためであり、また、自分らしい生き方をしたいためなのです。つまり自分の内にある善、言葉を変えれば自分の得になることはしても、損になることは決してしないのです。これは善し悪しの問題ではなくホモ・サピエンス・サピエンス(分類学上の現生人類)としての限界なのかもしれません。しかし、現実社会では自分の損になっても人を助けようとする人がいます。例えば、17歳最年少ノーベル平和賞受賞者マララ・ユスフザイ(1997~)、彼女はパキスタ出身のフェミニスト・人権運動家で、14歳の時スクールバス内で武装勢力タリバンに襲撃され、頭を銃で撃たれました。マザーテレサと呼ばれたアグネサ・アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ(アルーマニア語読み1910~97)、彼女は、カトリック教会のシスターで、修道会「神の愛の宣教者会」の創立者です。コルカタ(カルカッタ)の聖テレサとも呼ばれ、1979年ノーベル平和賞受賞。貧しい人々のために仕え続け、その後インド政府によって国葬されました。ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(1918~2013)は、南アフリカ共和国の政治家、弁護士で1994年の第8代大統領で南アフリカ共産党中央委員会を歴任しました。彼は、若くして反アパルトヘイト運動に参加し、1964年国家反逆罪で終身刑の判決を受けるも、27年間の獄中生活の後釈放され、当時の大統領フレデリック・デクラークと共にアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にノーベル平和賞を授けられた人物です。青函連絡船・洞爺丸の海難事故で乗員を励まし、自分の救命胴衣まで与えた二人の宣教師ディーン・リーパー(1920~54)、アルフレッド・ラッセル・ストーン(1902~54)、ナチス・ドイツによる迫害からユダヤ人を救うために、国に背いてビザを発給し続け、6000人の命を救ったと言われる駐リトアニア領事代理・杉原千畝(1900~86)、ビィクトール・エミール・フランクル(1905~97 オーストリアの精神科医、心理学者。ユダヤ人。「夜と霧」など多くの著作)。彼は、1942年家族と共に、ナチスによってテレージエンシュタット(後にアウシュビッツ、テュルクハイムに移送)に強制収容され、父、母、妻を殺されます。フランクルは、強制収容所のように1段目の生理的欲求さえも満足に満たされず、働けなくなったらすぐにゴミのように捨てられていく・・人としての尊厳が全く認められないその中で、捕らわれている人同士が、あるいは捕らえている人の自己犠牲ともいえる愛のある行動を目に耳にしました。フランクルの著書「それでも人生にイエスと言う」の中に次のような一文があります。「バイエルン地方のあるところに強制収容所がありました。そこでは、ナチスの親衛隊員である。収容所所長が、ひそかに、自分のポケットから定期的にお金を費やして、近くにあるバイエルンの市場町の薬局で、『自分の』囚人のために薬を調達していたのです。」(12p)とそしてこれらの愛の行動こそが、人間の人間たる真価であると確信したと言われています。
確かに稀なことかもしれませんが、現実社会に大きな影響を与えているこのような事実を認めたからでしょうか?マズローは晩年6段階目の欲求である、「自己超越、超越的な自己実現」を逆ピラミッドの形で付け加えました。「自己超越」とは、他人の評価や自分の損得どころか、その結果も全く考慮しないで、純粋に個人や社会貢献のために何らかの目的を達成しようという欲求で、目的に対して献身している状態と言えるでしょう。ただしマズローはこの段階(完全な人間性、成熟した人間、心理的に健康な人間。その特徴は、卓越した認識能力、謙遜、創造性、自己矛盾の程度の低さ、同時に利己的かつ非利己的、自分自身への敬意、独立的であり、同時に人間関係を楽しむことができる。心理的自由を持つ。自己超越、真善美の融合、他人への献身、英知、正直、自然さ、利己的個人的動機の超越、高次の欲求のための低次のそれの断念、敵意・残忍さ・破壊性の減少と友情・親切
さの増大、自発性、人類に役立ちたいとの純粋な願望など。「マズローの心理学」フランク・ゴーブル著35~57p)に達しているのは、人口の1%そこそこで(50p)、「老齢者だけに見られるもので・・」(39p)と記しているように、未成熟な子どもは不可能だと考えていたようです。
◆「善いサマリア人」のたとえ話は、「良心」に従うことの勧め
この「自己超越」の段階こそが神様の御旨であり、「良心」・・「純粋な良心」のことですか?ハイ。少なくとも私はそう思います。聖書に「善いサマリア人」という例え話があります。「ある人がエルサレムからエリコヘ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」(ルカ10:30~35)・・追いはぎにあった人はユダヤ人で、祭司やレビ人は彼らの指導者ですから被害者には何らかの責任があり、助けてくれる友人や知人も比較的近くにいたでしょう。しかし関わりたくなくて、見て見ぬふりをしたのです。それに対してサマリア人は、孤独な旅人であり当時ユダヤ人とは敵対関係にありました。責任があるどころか「敵」を助けたことで,後で仲間から非難されるかもしれませんし、自分が襲われるかもしれません。それでも、自分の持っている物やお金や労力を惜しみませんでした。自分のロバに乗せるとは、ロバや荷物がケガ人の血で汚れますし、何よりも自分がロバから降りなくてはなりません。「帰りがけに」というのは余り豊かな人ではなかったのでしょうか?旅人なのに予備のお金さえなく、そのような状態で敵を助け、お世話をする余裕は正直なかったはずです。それでも、「自分は精一杯のことをした。」と言わず、足りないお金を工面してでも彼を100%助けたいと思い、宿屋の主人に頼んだのです。まさに「自己超越」の段階です。他人の評価も自己犠牲も厭わず、困っている人を「憐れに思い」、純粋に助けたいと思ったのです。そしてこれこそが「純粋な良心」なのです。
イエス様は、この例話の後、質問した律法の専門家に(律法学者とも言い、主にトーラーと呼ばれる律法を書き写したり研究したりしますが、一般に言う職業ではありません。彼らは様々な戒めを、実生活において適応するために研究し、それをユダヤの民に教え実践させる教師の役割を果たしていました。当時この戒めを細かく規定し過ぎたために守り切れない現実があり、しかし、完璧に守らなければ、神の最たる祝福である「永遠の命」を受け継ぐこたができません。彼らはそのことに悩んでいたと言われています)「行って、あなたも同じようにしなさい。」(37)と言われました。マズローは「自己超越」の段階に達している者は、人口の1%に程度だと言ったそうですが、私にはイエス様が、行って、あなたも同じようにしなさい。あなたにもできます。と言われたように思いました。
結論・・イエス様こそ、良心に従いたいと願っているすべての人の道であり、同伴者・案内人である
なぜなら、イエス様御自身が、神の御旨であり、「自己超越」あるいは「純粋な良心」に従うという、人間の人間たる真価に至る道を開いて下さったからです。聖書に「群衆が飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:36)と書いてあります。善いサマリア人が「その人を見て憐れに思い」と同じ心です。勿論、イエス様の御心は、この地上に来られた後に書かれたものですが、私は始祖アダムとエバ以降、人類に対して持っておられた御心だと思っています。そして以下の聖書の言葉はレポート54pでも引用しましたが、時が満ちて「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)と行動に移されたのです。ただ、私たち人を助けるためにこの地上に来てくださったのです。たとえそれが御自身の命を失うことであっても、厭われなかったのです。いいえ、気にされなかったと言う方が正しいかもしれません。それが神であり、人となられたイエス・キリストという御方なのです。だからイエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23)と言われたのです。それが神の御心に従う道であり、良心に従う道だからです。そして「自分の十字架」とは、それぞれが純粋に人を助けたいという思いであり、そのために払わなければならない犠牲なのです。
イエス様は「わたしに従いなさい」と言われました。そこには、もう一つ意味があります。それは、「わたしに」とイエス様が言われたように、「従いなさい」と言われた御方がいつも一緒にいてくださるということです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と約束されたとおりです。「共にいる」とは、単に側にいるだけではなく、危険や必要があるときは少し前を進み、あるいは後ろで守り、そうでないときは伴走者のように横にいてくださり、時には歩けなくなった私を背負って下さる御方。主よ、と呼べば答えてくださる御方、不安になって目を開ければそこに居てくださる御方、十字架の重荷に耐えきれず手を伸ばせば、その手を取って立ち上がらせてくださる御方・・「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 イエスは、御自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(へブル12:2 新改訳)と書いてあるとおりです。繰り返します。このイエス様こそ神の御旨であり、「自己超越」あるいは「純粋な良心」に従うという、人間の人間たる真価を開いてくださった先駆者であり、この道を通りたいと願っているすべての人・・クリスチャンであろうが、なかろうが関係なくすべての人の案内人なのです。
人の目やお金や物に捉われないで
自分らしく自由に生きたい
自分らしく、自分らしく、自分らしく・・
でも、自分らしさって何だろう?
自分らしさから解放されたら
本当に自由になれるのだろうか?
もし、それができるなら・・
それが可能なら
そのような生き方がしてみたい
もしかしたら、生き方そのものからも
自由になれたら
それがイエス様だったら
わたしは、イエス様のようになりたい
「赦しと恵みの時代」は、罪なき唯一の人であるイエス様が、律法の規定により「ユダヤ人の王」としてだけでなく、「人類の王」として、十字架の上ですべての人の罪の身代わりとして血を流して(命をささげて)くださいました。それによって始祖アダムとエバ以来、支配されていた「罪の性質」から解放され、選択の自由が回復されました。それだけでなく、良心を選択し従いたいと願うすべての人の道となり、案内人となってくださるのです。福音・・究極の福音とは、神様が人類の王になってくださったことです。真に人を生かす永遠の命は、聖書にではなくこの御方の内にあるからです。ですから、聖書に「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない。」(ヨハネ5:39・40)と書いてあるのです。
すべての人が聖書を読む恩恵に預かるとは限りません。単に物理的に読めない方もいるでしょうし、環境や偏見その他の理由で読まない方もいるかもませ知れんが、良心はすべての人にあるのです。イエス様は人を羊に例え、御自身を羊飼いに例えてこう言われました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:10・11)と
言われました.さらに、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊も導かなければならない。」(ヨハネ10;16)とも言われました。イエス様はユダヤ人です。囲いに入っていない羊とは、イエス様の「声を聞き分ける」つまり、イエス様を信じたユダヤ人以外のすべての異邦人を指すのですが、それだけではないかも知れません。 イエス様は「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(マルコ9:40・41)と言われたのです。私たち人は、他人が良心に従いたいと願っているかどうかはわかりません。しかしイエス様はその方たちの味方となってくださるのです。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(マタイ7:1)気をつけましょう。この御方は、キリスト=王、預言者、祭司として任職のあぶらを注がれた者=救い主として来られ、その役割を果たして「天に上げられ、神の右の座に着かれた。」(マルコ16:19)のです。しかし、今度は「裁く方が戸口に立っておられます。」(ヤコブ5:9)と書いてあるように、裁き主として悪しきものとそれに従うものたちを裁き、義を確立するために来られるのです。
◆信じる者は聖霊様の働きによって成長し、イエス様が生きたように生きることができ
る。これこそが「恵みの時代」なのである
さて、「律法の時代」は律法を完全に守りきることによってのみ与えられる神の祝福でしたが、この時代はイエス様を信じる事によって、誰にでも与えられる祝福なのです。受ける資格のない者が与えられる赦しと恵み、それが今の時代です。正確には「赦しと恵みの時代」はイエス様の十字架から始まりました。死を滅ぼして復活されたイエス様が40日間この地上で多くの弟子たちにその姿を見せられ(Ⅰコリント15:26、6~8、使徒言行録1:3)、天に上げられる前に「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた,父の約束されたものを待ちなさい。」(使徒言行録1:4)と命じられました。さらに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして・・わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)と言われました。その約束のとおり、12使徒と呼ばれた特別な弟子たち、婦人たち、イエス様の家族を中心に120人ぐらいが、心を合わせ熱心に祈り続けて、10日後に「助け主」(ヨハネ14:16・26、15:26、16:7 新改訳)である聖霊様がこの地上に来てくださったのです。その時からイエス様に従おうとする人たちは変わりました。特に「使徒と名付けられた」(ルカ6:13)12人の特別な弟子たちは、イエス様が逮捕され、十字架刑に処せられる直前まで「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論の起こった。」(ルカ22:24、参照マタイ20:20~28)と赤裸々に記されています。また、ユダの裏切りはよく知られていますが、彼だけでなく弟子たち全部が裏切ったのです。「イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ』と、前もって合図を決めていた。・・このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マタイ26:47~56)と書いてあります。私だったら、「選択のミスだ!弟子たちの質が悪すぎる。」と叫ぶところです。ところがこの使徒たちが変えられたのです。例えば、シモンがそうです。彼が弟アンデレに連れられてイエス様に紹介されたとき、「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ-[岩]という意味-と呼ぶことにする』と言われた。」(ヨハネ1:42)と書いてあります(ケファはヘブライ語、ギリシャ語でペトロ)。彼は12使徒の中で唯一結婚をしており、年長者でした。それでもその性格は,軽挙妄動タイプと言われ、余り深く考えないで言行し、熱心である一方失敗も多く、年下のイエス様に一番叱られたのではないかと思います。彼は自分の衝動を抑えることができず、周りの人に合わせたり、待つことができません。そのシモンが助け主である聖霊様によって、まさに岩のように変えられたのです。もしかしたらシモンも「ペトロ、ペトロ」と呼ばれながらもそうならない自分に嫌気がさし、どうすればいいかわかっていても変えることができないので、「性格だから仕方がない」とあきらめていたのかも知れません。しかし、「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。・・』人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、・・『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。・・ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」(使徒言行録2:14~41)と驚くべきことが、彼のメッセージと共に記されています。あのペトロが、自己推薦するのでなく,無言のうちに仲間から促され,代表者として、思いつきの言葉ではなく、聖書の言葉を引用しながら、おそらく初めてのメッセージをしたのです。もちろん、変えられたのは彼だけではなく、「ボアネルゲス、すなわち、『雷の子ら』という名を付けられた。」(マルコ3:17)と書いてあるように、気性が激しかったのであろうヤコブとヨハネの兄弟。ヤコブは12使徒最初の殉教者であり、ヨハネは「愛の使徒」と呼ばれ、「ヨハネの福音書、Ⅰ、Ⅱ,Ⅲヨハネの手紙、ヨハネの黙示録」を記すまでになりました。「亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」(マルコ14:51)臆病な若者であるマルコは「マルコによる福音書」を記しました。また、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7:60)とイエス様のようにステファノは祈り、「ステファノの殺害に賛成していた。」(使徒言行録8:1)教会の迫害者サウロは、復活のイエス様に出会い(使徒言行録9:1~19)パウロも福音の伝道者に変えられました。・・モーセがエジプトで行(おこな)った10の災い(出エジプト7:14~11:10)、それに続く14章の葦の海を2つに分ける奇跡、200万人とも言われるイスラエル人の40年にわたる放浪生活。また、ヨシュアがヨルダン川を2つに分けたり(ヨシュア3:1~17)、エリコの戦いを始め、カナン占領のための様々な戦いなど、これらはすべて外に現れる奇蹟ですが、この「赦しと恵みの時代」は人を造り変える内なる奇蹟が行われ、今に・・そうなんです!現代にまで至っているのです‼聖霊様は現実の御方です。キリストの証人として、また、福音とおして注がれるすさまじい祝福をその人の心の内に、現実化してくださるのです。それらを一言で表現すれば、私たちの内に「神の国」が到来することです。これこそが奇蹟であり、すべて聖霊様の御働きなのです。聖書に「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ローマ14:17)と書いてあるとおりです。ですから信じる者にとって今は、「聖霊の時代」なのです。それはつまり、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:8)・・賜物(たまもの)」とは恩恵や祝福として与えらるプレゼントのことです。「神からのプレゼント」これこそが、現代である「赦しと恵みの時代」なのです。
6、正義の時代(黙示録4:1~20:6 患難時代、キリストの再臨、千年間の統治)
◆預言であり予言である、この世の終わりに起こりうる主な出来事
ただし「赦しと恵みの時代」はいつまでも続くものではありません。かつてイエス様が弟子たちに次のように言われました。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群に羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。・・兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる。」(マタイ10:16~22)と。羊は・・もちろん家畜化された羊のことですが、彼らは穏やかさと平和の象徴であり、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」(ヨハネ10:3)と書いてあるように従順さの象徴でもあります。それに対し狼は「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。」(使徒言行録20:29)と書いてあるように、残忍さと争いの象徴なのです。普通ならこのような狼の群の中に送り込まれたら、瞬く間に餌食にされてしまうでしょうが、その狼を制してきたのがイエス様の弟子たちの歴史なのです。なぜなら羊と共に羊飼いがいるのと同じように、イエス様がいてくださるからです。それでもなお御赦しと御計画ゆえに殉教する人たちもいます。迫害する彼らは肉の欲望・望みに従う人で、人を動かす力である金力・権力・快楽(欲望)を持っているので狼のように強く、また、この世を実質支配しているのです。この世の終わりとは、彼らの支配の終わりのことで、イエス様はその前兆としていくつかの事を列挙されました(マタイ24:3~14)。
・大勢の偽キリストや偽預言者が現れて、人々を惑わす。
・戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞く。
・民は民に、国は国に敵対する。
・各地に飢饉や地震が起こる(疫病ールカ21:11)。
・キリスト教に対する迫害や背教が起こる。
・不法がはびこり、多くの人の愛が冷える。
・福音が全世界に宣べ伝えられる。
彼らの支配の終わりとは、レポート2pでバビロン帝国の王ネブカドネツァルが、巨大な像の夢を見、ダニエルがその夢を解き明かし、この像の一番下、つまり人による支配の終わりについて次のように言っています。「足指は一部が鉄、一部が陶土です。すなわち、この国には強い部分もあれば、もろい部分もあるのです。・・しかし、鉄が陶土と溶け合うことがないように、ひとつになることはありません。この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることはなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。山から人手によらず切り出された石が、鉄、青銅、陶土、銀、金を打つのを御覧になりましたが、それによって、偉大な神は引き続き起こることを王様にお知らせになったのです。この夢は確かであり、解釈もまちがいございません。」(ダニエル2:42~45)と。これらの古い支配の終わりに起こりうる戦いや苦難を経て神の国は完成するのです。イエス様はかつて「神の国は観察しうるしるしを伴って(人々に見せびらかすようにして)来るものではない。また(人々が)「見よ、ここに(ある)」とか、見よ、あそこに(ある)」とか言うものでもなお。見よ、神の国はあなたたちの内(あなたたちの心)に(あなたたちの間《回り》に)あるのだ。」(ルカ17:20・21詳訳聖書)と言われましたが、それが見える形での「神の国」という最終段階にきたのです。聖書に「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29:11)また、「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペトロ3:8・9)・・それでも「彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった。」(黙示録9:21)と書いてあります。これから苦難の時が来ます。長引けば人類が滅びるかもしれないほどの苦難です。そして、この苦しみを終わらすために再びイエス様が来てくださるのです。天使が「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1:11)と告げられたように、オリーブ山から天に帰られたイエス様は再びオリーブ山に立たれます。そのとき山は2つに裂け大きな谷ができるとゼカリヤ書14章4節に書いてあります。なぜなら、イエス様が最初に人の子として生まれられたクリスマスの出来事に対して(初臨)、2度目は「さばき主」(使徒言行録17:31、Ⅱテモテ4:1)として「威光」(Ⅱペトロ1:16)をもって来られ(再臨)、その後「千年王国」と呼ばれる王なるキリストによる義の支配が始まるからです(黙示録20:1~6)。その有様は、旧約聖書やイエス様のお言葉の中にもありますが、聖書最後の巻、「ヨハネの黙示録」に詳しく記されています。
※黙示録は「警告」ではない。私の勘違いした一例文
ただこの黙示録には様々な見解があって、ローマ皇帝ネロ(在位56~68)や、ドミティアヌス(在位81~96)のクリスチャン迫害時代に彼らを励ますために象徴的に記したものであるとか(過去主義的見解)、時代に関係なく善と悪、光と闇の戦いを記したとか(観念主義的見解)、教会時代(赦しと恵みの時代)を、歴史的に記したものとか(歴史主義的見解),その他諸々説があるようです。また、黙示録を、「警告」として取る者もいます。実は、私もそうでした。以下はその時の文です(一応参考のために載せました。読み飛ばしてください)。
『・・8月15日は日本では、「終戦記念日」です。しかし韓国では「光復節」と言い、朝鮮が日本の植民地支配から解放されたことを祝う日で「光復」とは、奪われた主権の回復を意味するそうです。聖書は「愛がなければ・・何の益もない」(Ⅰコリ13:3)と言いますが、実際に被害を受けた国々の人たちを目の前にして、聖書が私たちに求めている「愛」とは、具体的にはどのような「愛」なのかを考えさせられました。そして14日の午後3時頃からだったでしょうか、一緒に行った日本の人や、中国の人たちと手をつないで祈りました。しかし、与えられたのは胸を締め付けられるような痛みであり、腹の底から沸き上がってくるような悲しみでした。私は思わずうめき声を漏らし、思いっきり床を叩いてしまいました。それで少し手を痛めてしまったのです。・・すぐに気が付きました。私は今、父なる神様の御心に触れさせていただいたのだと・・しかし、意味が分かりませんでした。そこで次の日朝早くから祈りと断食の中で熟考し、夕方になってようやくいくつかの部分が開かれてきたのです。
今は終末の時代と言われています。もうすぐ人類が滅びようとしているのです。アダムとエバから始まった人類の歴史がその幕を閉じようとしています。・・人類が滅びるというのは正確な表現では無いでしょう。まもなく二千年前この地上に来て下さった聖霊様が、同じ霊を持つ人々と共に天に帰ろうとされています。そうなったらこの世は修羅場になります。不法がはびこり、放射能が拡がり、美しい自然が破壊され、争いに争い、戦争に戦争が起こり、多くの人々が死ぬことになるでしょう。そこに一人の人物が現れます。彼は世界を統一し平和を築きます。そしてエルサレムにのぼり、神殿を建てて自分こそが神だと宣言するのです。そして、自分を神だと認めようとしないイスラエルや他の人々を滅ぼそうとします。しかしそこにイエス様が再臨されて、逆に彼らを滅ぼすのです。そこで生き残った人々は、イエス様こそ真のキリストだったと認めて悔い改めるのです。これがイスラエルの民族的な悔い改めであり、リバイバルなのです。神様は悔い改めようとしない人類を、サタンの手に引き渡してでも救おうとされているのです。それは二千年前に独り子であるイエス様を十字架につけたように、今度はイエス様の血で贖った人類を十字架につけるようなものであり、悪の道に走った我が子を、刺し殺してでも悪から救いだそうとしている親の愛に似ているのかも知れません。私にも中二と小六の子どもがいますが、もし私が愛する自分の子を殺さなくてはならなくなったら・・そう思っただけで胸が苦しくなります。・・二千年前人類はイエス様の十字架を止めることが出来ませんでした。しかし今ならまだ間に合うかも知れません。なぜなら神様にとって、一人の人は一人であり、一つの国も一人であり、アジアも一人の人であり、全世界も一人の人であり、アダムとエバから始まった全人類も一人の人なのです。そして私たちは人類の一部なのです。
「黙示録」は、預言だから必ず起こらなければならない。・・私はそんなことはないと思います。ソドムとゴモラ(創世18:16~33)のことでも「アブラハムはなお、主の御前にいた」(22)と書いてありますが、私は主が執り成しをしてもらいたくて、アブラハムの前から離れることが出来なかったのではないかと思います。イスラエルの敵、アッシリヤ帝国の都ニネベがヨナの宣教によって滅びを免れたとき・・「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」(ヨナ3:10)と書いてあるとおりです。ヨナ自身はこの決定に不満だったようですが、「すると、主はこう言われた。『お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木でさえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。』(ヨナ4:10・11)」・・これが神様の御心なのです。この終末の時代に必要なのは、アブラハムのようにモーセのように(出エジプト32:32)神様の怒りと痛みを知ってその破れ口に立って執り成す祈り手なのです。私が26歳の時のお出会いしたチョン・ドンネ夫人もその一人だと思います。夫人は毎日毎日午後2時に定岩里教会に行き祈るそうです。夫人は「私が23歳で死んでも90歳で死んでも行くところは同じだ。しかし日本人は本当の神様を知らないから、本当の神様を知ることが出来るように祈るんだ」と言われたのです。夫人は23歳の時日本の兵隊に夫を定岩里教会ごと焼き殺され(午後2時がその時間です)、自分の人生をメチャクチャにされた人です。日本を恨んでも当然でしょう。ところが日本のために、日本人のために祝福を祈って下さっている。私は夫人の手に主の十字架の釘跡を見たのです。
風雨に晒されし老婆の手に/主の釘跡を見ん/われその手にすがりて/ただ哀れみを乞う。日本が滅びなかったのは、実にこの夫人のような方々の執り成しによるのではないかと
思いました。「黙示録」の時代は神様の痛みが増し加わらないためにも来てはいけない時代であり、人類の一部であり、終末の世に生かされている私たちだけが、唯一それを止めることが出来るのではないでしょうか。クリスチャンの多いこの韓国の祈祷院で、
「光復節」に神様の痛みを感じたのは、朝鮮の執り成しと、韓国の方々と共に祈るためではないかと思わせられました。
2013年8月 前田寿浩 』
.教会とは? <キリストの弟子である「あなた方」のことです>*「新共同訳聖書」
相生めぐみキリスト教会 牧仕 前田寿浩
・現状と問題提起
福音派(聖書を信仰の土台と考えているグループ)の牧師である私の以前のイメージ・・・教会とは教会堂があって、牧師がいて、日曜日にクリスチャンが集まってきて礼拝式を行う…。聖なる場所で、聖なる人から、聖なる日に、聖なる徒が共に集まって、聖なる書から、聖なる言葉を聞く、その目指すところは聖なる約束の地、天国です。俗なる世から離れ、教会を中心にした聖なる共同体に属することが、私たちクリスチャンの目的なのです。ですから、週の始めの日に、教会の礼拝に出席することが第一のことであり、牧師である私も「主日礼拝を守ることが、神様への最大の奉仕だ。」と勧めます。奉仕とは教会内のことであり、伝道とは未信者を教会に結びつけることであり、信仰とは自分を犠牲にして、献金や教会の行事を優先することだと思っています。そして、これらは信仰生活の5つの基本や約束として教会一般に広まっており、子ども向けの賛美歌にも、「わたしたちの 五つのつとめ 1.聖書を読む 2.おいのりをする 3.教会学校をやすまない 4.けんきんをする 5.お友だちをさそう (日本基督教団出版局発行 こどもさんびか(改訂版)1975年3月31日 改訂11版発行)」と記されています。以上のことをもう少し突っ込んだ言い方をするならば、聖書を読むことも、献金や祈ることも、奉仕や教会に結び付けようとする人も全て教会のため、平たく言えば「教会中心主義」です。誤解しないでください。教会が繁栄・成長すること自体は決して悪いことではありませんが、それらが目的になると危険です。なぜなら、この延長線上に成果主義、あるいはこの世的な成功や物質的な豊かさに焦点を合わせる、行き過ぎた「繁栄の神学」に陥りやすくなり、それらを可能にしやすい、魅力あるカリスマ的指導者を求めたり、今問題になっている旧世界基督教統一神霊協会(統一協会)等の物質的なものを得る手段としての宗教が存在するからです。新約聖書の記録では、イエス様は弟子たちを選び、寝食を共にしながら神の国の福音を伝え、その中で弟子たちを教え、戒め、注意をし、手本を示し、権威を与え、奇蹟を体験させ、導き、彼らのために祈り、その足さえ洗い、弁護者であり助け主である聖霊様が来てくださることを約束してくださいました。つまり、イエス様は弟子を愛し育て、成長することを望まれましたが、神殿が繁栄することにはあまり関心をお持ちでなかったように思います。たとえば「そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」(ヨハネ2:14~16)と一度ならず戒められました。また、「イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。『これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」((マタイ24:1・2)と預言されました。つまり、イエス様は神殿の繁栄は望まれませんでしたが、神殿に行かれたり、「諸会堂で教え」(マタイ4:23)られたのです。ですから、問題になるのは教会に行くことではなく、行くことが目的になっていることなのです。では、行くことが目的でないなら、「日曜日は教会に!」というフレーズはどこから来たのでしょうか?また、「教会は何をするところなのでしょうか?」・・クリスチャンにとって当たり前となっている事柄について考え、改めて聖書からその根拠を探ってみたいと思います。*当時は紀元前20年頃からヘロデ大王により、神殿の大増修築が行われていた(別名ヘロデ神殿)。
・日曜日に教会に行く根拠
まず「日曜日は教会に!」ですが、残念ながら聖書にその根拠を見出だすことはできませんでした。確かにイエス様が復活したのが「週の初めの日」(マタイ28:1、マルコ16:2、ルカ24:1、ヨハネ20:1)であり、週の初めの日である日曜日に、クリスチャンが集まっていた記述や(使徒20:7、Ⅰコリント16:2)、日曜日を「主の日」(ギリシャ語クリアケー ヘーメラ「ヨハネの黙示録1;10」)と記した箇所もあります。しかし、弟子たちはユダヤ教の習慣や安息日も守っており(使徒3:1、17:2、18:4)、これらが日曜日に教会に行かねばならないという根拠にはなりませんし、逆に日曜日にしか教会に行ってはならない理由になりません。私が思うに、天に上げられたイエス様を目撃した弟子たちは、喜びに満たされて(ルカ24:52)、当初、毎日集まっていましたが(使徒2:46)、ユダヤの指導者からの迫害が始まり(使徒4:2、5:17)、だんだんと集まる回数が減っていったのではないでしょうか。事実、日曜日に集い始めたのが1世紀後半から2世紀にかけてであり、それが太陽神ミトラスを主神とした宗教の影響やAD321年ローマ帝国の皇帝コンスタンチヌスによって頒布された「日曜日強制休業令」によって定着し、さらにラオディキア教会会議(AD364年)によって決定された?と言われています。すなわち、聖書には「日曜日は教会に!」という根拠がないのです。では、聖書にその記述や神様が命じていないから御心ではないのでしょうか。
・御心についてー御心症候群?に陥らないために
御心について考えてみましょう。ここで問題になるのは、「御心を行えない・行いたくない」より、「御心が分からない・御心が示されない」ことではないでしょうか。ここで言う「御心症候群」も、神様の御心がわからず、祈っても御言葉が示されず、特別な夢も幻もみません。そこで何の行動も起こせず途方に暮れる状態をさすそうです。でも、考えてみてください。日常の生活の中で、朝起きるのに「御心が示されないから起きない」「御声が聞こえないから、食事をしない、トイレも我慢する」というクリスチャンはいないでしょう。むしろ「御心」を求めるのは非日常の出来事・・どんな学校に行くとか、どんな仕事をするとか、どこに住んで誰と結婚するとかなどではないでしょうか。そのようなときに夢や幻や御声が聞こえたりなど特別な導きがあるはずだと信じているのです。私も同じように思ったことがあります。ある時、私が所属していた教会に講師が来て、青年たちに講義をしてくれたことがありました。イエス様を信じて比較的月日の浅い者が多かった青年会では、この御方の御心に従いたいという思いが強く、話が「結婚」に及んだ時、私も含めた殆どの青年が「神様の導きに従います」と答えていました。それに対して講師は「導きはない、自由だ。誰と結婚するかは自分が決めるのです。」と言ったのです。ショックでした。神様は親のような方だ、と聞いていた私は、自分の思いや願いを我慢して親に従うのが子の務めであるように、御心に従うことも同じようなことだと思っていたのです。ですから、信じた当初、細かいことまで指示があると思い、笑い話のようですが聖書を読みながら右足から歩く方が御心なのか左足からなのかと、指示を求めて真剣に祈ったのです。確かにクリスチャンが聖書の御言葉に御心を求めるのは当然かもしれません。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Ⅱテモテ3:16)と書いてあるからです。しかし注意しなければならないのは、聖書はすべての時代、すべての地に住む人々に真理を示しますが、一人一人の生き方に対する細々とした指示はありません。聖書は元々過去・現代・未来において、神が預言者に代表される、人間にあらわされた啓示の書であり、神が人や人の代表であるイスラエル民族と契約し関わり続けてくださった赤裸々な記録であり、神様から人へのラブレターであり、人類が地上で長く生きていくための取り扱い説明書のようなものであり、人が自分(他人ではない)を変え、成長して行くための知恵の本であり、そして何よりも、死に向かうべき人類が、命に向かうことができるように神の計画が記された書なのです。上記以上に聖書は様々な言い表し方がされていますが、私の経験したことによれば「これこそ命の書・神の言葉だ」です。私は1985年8月15日にイエス様に出会い救われました。それまでは聖書を読まなければならないと思いながらもなかなか読めず、1か月以上かかってやっと創世記を読み終えました。しかし、それからはむさぼるようにして聖書を読み始め、出エジプト~黙示録まで1週間で読み終わりました。内容はまるでわかりませんでしたがその時感じたのが上記の言葉です。後で気付いたことは聖書は命の本ではなく、命であるイエス様に出会う本であるということです。聖書に「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)と書いてあるとおりです。それはとにかく聖書には、「サウロの回心」や「コルネリウス、カイサリアで幻を見る」「ペトロ、ヤッファで幻を見る」「マケドニア人の幻」(使徒9:1~19、10:1~8、9~33、16:6~10)など、特別な導きはありますが、それらは例外的なことで、一般的には御心に対する3種類の姿勢があると思います。
①あくまでも御心が示されるまで待つ。
②自分で判断し、成功したら御心、失敗したら自分の心。
③自分で判断し、成功しても御心、失敗しても御心。
では聖書はなんと言っているか、以下の御言葉について考えてみましょう。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2 新共同訳)
「この世(この時代)に同調してはいけません(その外面的な、皮相的な風習に追従してはいけません)。むしろ、神の善なる、受け入れるべき、完全なご意志がなんであるか(神の前であなたの善なる、喜納される、完全なものがなんであるか)を(自分で)弁別できるように、自分の心を(全体的に)刷新することによって(心の新しい理想と新しい態度をもって)異なった人になりなさい(変化させられなさい)。(詳訳聖書)
「ローマの信徒への手紙」は、大きく3つに分けられます。1~8章福音の教理、9~11章イスラエル問題、12~16章からは福音の実際、つまりこの世で神様の御心に従って生活するにはどうしたら良いかが書かれています。その原則が、この世(ここでの「世」とは、現実世界というより、真の神を抜きにした不安定な社会を指します)の目的を忘れた伝統的な風習に倣うのではなく、神様の御意志が何であるかを、新しくされた心で自分で弁別(見分ける、識別する)することなのです。もっとも弁別できるようになるために1節にあるように自分を献げて礼拝し、交流してこの御方を知っていく・・裁判官が判例を探すように聖書を調べるのではありません。私の卒業した関西聖書神学校でも、「あなたの動機は、愛か?欲か?」とよく問われました。静まって神様に問いながら自分で判断するのです。他の箇所も「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(ローマ14:5)と書いてあり、旧約聖書にも「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。・・その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1:2・3)「すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ」(伝道の書9:10 口語訳)と書いてあります。神様は私たちを律法やあらゆる文字の規定から解放し、聖霊様に従える新しい生き方が出来るようにして下さり(参照 ローマ7:6)、心の内に戒めを持つ者(参照 ローマ2:15・29、Ⅱコリント3:3、ヘブライ8:10、10:16)、真の自由人として下さいました(参照 Ⅰコリント10:29、ガラテヤ5:1・13)。つまり「神の霊によって導かれるものは皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ローマ8:14・15「アッバ」とは当時使われていたアラム語で、「父ちゃん」という意味)と書いてあるように、良き父であり母である神様は子どもを信頼して自由を与え、子どもが決めたことを尊重し応援してくださる御方なのです。理想の兄であるイエス様も同じです。長々と書きましたがまとめると、法律のように広い御心の範ちゅうにおいて何をしても自由なのです。これが第一の事です。自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取れば神様は助けてくださいます。
しかし弱く足りない私たちは時に御心を見失い、やり方が悪くて失敗もし、世の抵抗にあうこともあり、途方に暮れることも多々あります。ところが、神様は「自業自得」だと私たちを見捨てず「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)と書いてあるように、聖霊なる神様御自身が、弱くどうしてよいかわからず、呻くことしかできない私たちの呻きを共有してくださり、訳の分からない状態になっている私たちを助ける用意があらせられるのです。ここに第二の事があります。神様は私たちを選び、使命を与え、この世に遣わしてくださったのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)と書いてあるとおりです。すなわち神様には私たち一人一人に対する御計画があるのです。これが狭い御心であり第二の事なのです。そのためには自分の自由を捨てなければなりません。否、神様から与えられた自由の意志を持って、神様に仕える・・僕、奴隷になるのです。これが「献身」であり、旧約聖書でいう「自由の奴隷」なのです(参照 出エジプト21:5・6)。「献身」とは牧師の特権ではありません。御心に従いたいと思っているすべてのクリスチャンがなすべきことなのです。聖書に「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)と書いてあるとおりです。そして自分がやりたいことがやれる自由より、神に従うことを選んだ者たち、すなわち「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)という結果を産むのです。では、どうすれば神の御計画・・個人的な御心を知ることができるでしょうか?イエス様は言われました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:9~13) ではなぜ聖霊様の御力が必要なのでしょうか。それは、自分のしたいことをするのであれば自分の努力・能力で十分ですが、御心を成すためには「武力によらず、権力によらず ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。」(ゼカリヤ4:6)と書いてあるように、聖霊様によらなければ不可能だからです。自己実現は自分の力でできます。しかし、神の御心を行う・・神実現は神の力である聖霊様によらなければ不可能なのです。
では、質問に戻りますが「日曜日は教会に!」行かなくてもいい・・そうではありません。もちろん行かない自由もあれば、行く自由もあります。聖書に「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」(ローマ14:6)と書いてあるように、強制ではなく自分の意志で、主を愛し、感謝を献げるために行くのであり、また、死を打ち破って復活された日曜日に、復活の主を記念して集まるのですから、聖書的には、日曜日は祝賀会(セレブレーション)であり、喜びに満ちた最高の日のはず?です(聖書の原則に従っていきたいと、自省しています)。また、特定の日に特定の時間、人々が集まるのはメッセージを伝えるにも活動するにも、話し合うにも便利がいいのです。そもそも「安息日」とは元々、主のことを思い主に献げる日のことです。しかし、贖いを完成された日から今はすべて主の日です。いつでも100%主にに献げ、イエス様を思うことができるのです。以上のことから御心に対する姿勢は③になると私は思います。
・教会活動
次に「教会は何をするところなのでしょうか?」の問いについてですが、礼拝の他に(日曜日以外に礼拝をしている教会もあり、聖書的には何の問題もありません。ただ私の仕えている教会が他の曜日に礼拝をしていないのは、要望が無いという単純な理由からです)、諸集会や祈り会、様々なイベントや勉強会等など・・切りがありません。何をしてもしなくても自由なのです。そこで教会に行くことのメインである「礼拝」について考えてみましょう。礼拝では、賛美を歌う、祈る、「主の祈り」や「使徒信条」などの告白、聖書の交読や朗読、メッセージ(聖書の解き明かし)、聖礼典(見えない神の祝福を見えるカタチで表した儀式)、献金(献身の現れ)、特に教会や教会員などに関する報告などをしています。しかしこれらは、「礼拝」そのものではありません。私流の定義では、礼拝とは「神を神として崇め、その御方を拝し感謝をささげ、霊的に交流すること」となります。*神の定義・・天地宇宙すべてのものを創造し、支配(管理)しておられる全知全能の絶対者なる御方。
旧約聖書時代は、「霊的に交流する」ために、大変な苦労と犠牲が伴いました。一年に一度の贖罪日だけに、イスラエルの民を代表した大祭司だけが、きよい動物の血を携えて、神の臨在が現れる至聖所に入ることが出来たのです(参照 レビ16:17)。それは、自分自身と民全体の罪を贖うためでした。なぜなら、罪の赦しが無ければ、聖く義なる神の御前に、私たち人は汚れた罪人にしかすぎず、交流どころか裁かれる存在だからです。事実、大祭司が神に打たれた場合、その遺体を引っ張り出すことができるようにと、足にひもが付けてあったそうです。しかし、イエス様が、十字架の上で贖いを完成された時「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言われ、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」(マタイ27:51)たのです。「垂れ幕」とは、聖所と至聖所を隔てる幕のことで、一説によれば、長さと幅が20m、厚さは10~20㎝あり、異常に重く、とても人の力では裂くことのできない代物だったようです。それが、上から裂けたということは、神の御業であり、一年に一度、民族の代表だけが出来た神様との交流が、「まして、永遠の霊によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」(ヘブライ9:14)と書いてあるように、いつでも誰にでも開かれたのです。また、それはイエス様が「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21~24)と言われた御言葉の成就でもありました。まとめると、いつでも、どこでも、誰とでもささげれるのが「礼拝」なのです。誤解しないでください。わたしは別に「教会で礼拝する必要はない」と言っているわけではありません。
特定の日に、特定の時間、クリスチャンが一堂に会して礼拝する利点は多くあります。特に週の初めの日(日曜日)に礼拝を捧げることは、神様を第一とし、日常生活の中心に神様を置くという生き方の表れであり、そこで牧師というリーダーあるいは導き手を通して、神様の恵みや御心・聖書を正しく知ることができ、共に聞くことによって使命やビジョン、価値観を共有しやすくなり一体感が生まれるからです。また、受けるだけではなく、神様から受けた恵みを人と分かち合い、他の人を助けるためにも集うのです(参照 ガラテヤ5:13、フィリピ2:1~4)。
それでは、前置きが長くなりましたが、聖書から「教会」について学んでいきたいと思います。過去に於いて、多くの教団・教派が聖書から学んだ神学や教理の強調点や理解の違いによって分裂しました。願わくは、終末の世に生かされている私たちが、今度は同じ聖書、否聖霊様によってに一体となり、主の御心を行うことができるようにと祈ります。
1、意味
・教会―ギリシャ語のὲκκλησία(エクレーシア)は、(招集された)民の集会、共同体、教会と訳され新約で100回以上用いられています。特にマタイの福音書に3回(16章18節、18章17節)使われているのは注目に値します。
・語源的にはὲκ(エク)―~から(離れて)、~以来、~に基づいて、~によって、とκαλέω(カレオー)―呼ぶ、招く、召す、呼び出す、に由来し、「呼び出されたもの(の全体)」と言う意味になります。元々この語は七十人訳聖書(ギリシャ語訳旧約聖書)では、「集会・集団・会衆」を指すヘブライ語カーハールの訳語として用いられていますが、以上のような一般的用法のほかに、宗教的用法、つまり神様によって召し出されたり、契約を結ぶために集められたイスラエルの民を指し示しています。それは、絶対者であられる神様に呼び出されることは、単に友人や親、上司、内閣総理大臣やあるいは天皇その人から呼び出されることと全く違うからです。もし、エクレーシアがこの概念を引き継いでいるとすれば、「キリストの十字架と復活によってこの世から選び分かたれ、父なる神の御心を行うために、聖霊の内住と御力に満たされて、チームとしてこの世に遣わされる人々の集団」との定義も成り立つのではないでしょうか。
2、土台―マタイによる福音書16章13~20節
・「教会」が最初に出てくるのが16章18節であり、しかもイエス様の言葉です。
問い「人々は、人の子を何者だと言っているか」
答え①「洗礼者ヨハネ」・・悔い改め(メタ=変化・ノイアー=考え)を迫った預言者。道徳的で革命的な要素が強く、世を変革する人です。
②「エリヤ」・・列王記上17章1節に出てくる預言者。多くの奇蹟を行いイスラエルの神こそ生ける御方であることを示しました。奇蹟を行うことによって、神の栄光を現した人です。
③「エレミヤだ」・・エレミヤ書の預言者エレミヤのことです。彼は敵バビロニア帝国の勝利とユダの補囚を宣言しました。当然、南王国ユダの民も、王たちも他の預言者たちもそれらの預言を受け入れようとせず、逆に迫害されエレミヤ自身も苦しみました。それでも彼は涙をもって語り続け、父なる神様の御心を訴え続けました。「涙の預言者」と言われる所以(ゆえん)です。預言者の中の預言者です。
④「預言者の一人だ」・「あなたは、あの預言者なのですか」(ヨハネ1:21)・・おそらく「わたしのような預言者を立てられる」(申命18:15)を指していると思われます。「わたしのような」とはモーセのことで、彼はイスラエルの民を奴隷の地エジプトから、約束の地カナンに導いた人物であり、神に立てられた偉大な指導者で、約束の地に導く導き手です。
*4人の人物は、イスラエルの民が求める理想の救い主(キリスト)の型です。そしてもしかしたら求められる教会の型かも知れません。
問い「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
答え「あなたはメシア、生ける神の子です」・・これがイエス様の求めた答えであり、
啓示によらなければ告白することが出来なかった言葉です。この告白はイエス様こそ今も生きて働かれている神御自身の御子であり、約束の救い主、キリストであるとの信仰の告白なのです(メシア⦅マーシアハ⦆はヘブライ語で、油注がれた者という意味で、その語がギリシャ語訳クリストス⦅キリスト⦆-救い主の意味となる)。更に言われました。「あなたはペトロ(ペトロス-男性名詞・大岩の意味)。わたしはこの岩(ペトラ-女性名詞・岩盤の意味)の上にわたしの教会を建てる。」・・・イエス様はこのペトロの信仰告白の上に御自身の教会(エクレーシア)を建てると言われ、この教会に「陰府の力」より強い権威と「天の国の鍵」を授けられたのです。つまり、恐れ多いことに教会とは、信仰告白をしたすべてのクリスチャンのことであり、この信仰告白の上に私たちの努力ではなく、神様御自身が神様の教会を建てると言われたのです。そして「教会」が見える形で現れたのが、ペンテコステの日なのです。
*ローマ・カトリック教会は、ペトロの信仰告白ではなく、ペトロの上に普遍的(ギリ
シャ語カトリック)な教会を建てると解釈しました。この使徒ペトロの後継者がローマ
教皇なのです。この教皇(法王)がすべての教会の権威を持ち、その下に枢機卿、大司
教、司教、司祭、一般信徒となります。
3、始まりー使徒言行録2章1~42節
天に挙げられた日に、イエス様から父なる神様の約束を待てと言われ(使徒1:4・5)、弟子たちがその言葉の通りに待ち望みの祈り、すなわち「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(使徒1:14)のです。彼ら3種類の人たちは決して仲の良い人たちではなく、むしろわだかまりや対立があったのではないかと思います(参照 マタイ12:46~50)。それが「心を合わせて」とは驚きです。そしてその結果、五旬祭の日に聖霊様が降臨されました。御自身が建てると言われた「教会」を、聖霊様が120名ほどの人々を満たすこと(彼らの魂に徹底的に浸透し-詳訳聖書)によって実現したのです。満たされた彼らは集まっていた場所から出て行き、自分の意志ではなく聖霊の導きの中で自分たちもよく分からないまま与えられた言葉(一時的な賜物)で語り出したのです(使徒2:4)。それは諸外国の者たちに、神の大いなる御業を褒め称える母国の言葉として届きました(使徒2:11)。奇蹟です。しかし、更なる奇蹟は12使徒たちに、一致と秩序(「ペトロは十一人と共に立って」⦅使徒2:14⦆・・イエス様が十字架に着けられる直前にも、誰が一番偉いのかと争っていた弟子たちが⦅ルカ22:24⦆、メッセージを与えられた一人を尊重し、共に立つことによりチームであることを表しました。)、御言葉による理解とメッセージが与えられたことです。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わった。」(使徒2:41)と記されたとおりです。「あなたはメシア、生ける神の子です」・・この告白の上に御自身が「教会」を建てられた瞬間です。そして、この瞬間から二種類の教会が誕生したのです。
4、二種類…見える教会と見えない教会
1つは目で見ることが出来ない本質的な教会で、1つは目で見ることが出来る歴史的、制度的な地域教会です。本質的な教会は、「普遍的な教会」「公同の教会」あるいは「天上の教会」とも呼ばれ、現代・過去・未来のすべてのクリスチャンが所属する一つの「教会」で、神のイメージの中にある完成された唯一の教会の会員となるのです。そして、その端的な表現が「キリストの体」(エフェソ1:23)であり「花嫁」(ヨハネの黙示録19:7・8、21:2)ではないでしょうか。
もう1つの地域教会は、「コリントにある神の教会へ」(Ⅰコリント1:2)「ガラテヤ地方の諸教会へ」(ガラテヤ1:2)「父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ」(Ⅰテサロニケ1:1)・・と文字通り地域に所属する教会のことです。しかし、先に記したようにこれらの「教会」とは、組織でもなく、「教え」でもなく、ましてや建物ではありません。ズバリ!クリスチャン(使徒11:26 口語訳)と呼ばれる人々のことです。だからパウロは上記のように、当然「教会へ」と呼びかけるところを「人(者)たち」・・「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」(ローマ1:7)「エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ」(エフェソ1:1)「フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ」(フィリピ1:1)などと表現しているのです。
本質的な教会と地域教会。この二つは決して対立するものではなく「教会」の二つの面であり、見えない教会は見える教会によって表され、見える教会は見えない教会の本質を通してすべての教会とつながっているのです。重複するかもしれませんが、以下に幾つかの「教会」の特質を記しておきましょう。
・教会は、家族である(エフェソ2:19)。・・父親は神様であり(ガラテヤ4:6)、長子(はじめに生まれた子)はイエス様で(ローマ8:29)、私たちはクリスチャンはすべて父なる神様の子(養子)であり(ヨハネ1:12、エフェソの1:5)、弟、妹なのです。孫ではありません。しかも、「アッパ、父よ」(アラム語で父ちゃん―ローマ8:15)と呼びかけれる自由の子(参照 ガラテヤ4:31)です。ここでは家族としての愛の交わりや、自由に父なる神に近づくことができる特権、安全が保障され、受け入れられている確信があるからこそ、安心して素の自分が出せる場所。また、父なる神様の財産をすべて受け継ぐ「神の相続人」(ローマ8:17)なのです。最近自分のペットを、家族のように紹介される方があります。私も犬や猫を飼っていたのでその気持ちも理解でき、ほほえましく思うのですが残念ながら、どんなにそのペットがかわいくても、どんなに自分が願っても、日本の法律では自分の財産を人以外に相続させることはできないのです。
・教会は、神殿である(エフェソ2:21)。土台が「使徒や預言者」であると言うのは、時代の風潮や人の考えや、伝統によるのではなく、神の御心に従い、御言葉を行ってきた人たちによって建てられることを表しています。そして、それぞれまったく違う者たちがイエス様によって固く結び合わされ、組み立てられて大きくなり、やがて神御自身がそこに住まわれるのです。ここでは、神の御言葉と御業によって互いに愛し合うようになり、そのことによって人や人類が成長し、そこに聖なる神御自身が住んで下さることが強調されています(Ⅰコリント3:16、6:19,エフェソ3:16・17)。
・キリストは教会の頭であり、「教会はキリストの体で」ある(エフェソ1:22・23)。「御子はその体である教会の頭です」(コロサイ1:18)と書いてあるように、イエス様が頭であり、私たちは体なのです。ここで強調されているのは、イエス様と私たちが一つであり(参照 使徒9:14)、私たちがキリストの御心を行うことができるということです。また、私たちは違いを認め合い、それぞれ与えられた賜物によって互いに助け合い、支え合って一つの体のように有機的に結びつき、それぞれの役割を果たすことによって、個人ではなくチームとしてプレイをすることができるのです(参照 ローマ12:3~8)。そのためには、偽りのない純粋なアガペーの愛が必要だと書いてあります。このアガペーの愛によって、私たちは「互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思」うことができ、アガペーの愛によって、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈」ることができるようになり、問題解決や励ましではなく「喜ぶ人とともに喜び、泣く人と共に泣く」ことができるようになるのです(参照 12:9~21)。さらに痛みや喜びが共用でき、体の機能に無駄がないように、不必要な者がいないことなどがあげられます(参照 Ⅰコリント12:12~26)。
*ギリシャ語には、アガペー(神の愛、無条件の愛、母親の愛)、フィレオ―(友人間の
愛、友情、信頼・絆)、ストルゲー(親子・親族などの血縁の愛)、エロス(男女の愛、
燃え上がるような激しい愛)の4種類の愛の表現がある。
・教会は、畑である(Ⅰコリント3:9)。畑とは種を播き、育て、収穫をする場所のことです。聖書にはこの種は「御国の言葉」(マタイ13:18)、すなわち御言葉であると書いてあります。御言葉自体に命があり、それが人の心に播かれると、やがて芽を出し成長し、花を咲かせ実を結ぶのです。実にも「悔い改めにふさわしい実(生き方が変わること)」(マタイ3:8)、「永遠の命に至る実(救われた人々のこと)」(ヨハネ4:36)、「霊の結ぶ実(良き品性のこと)」(ガラテヤ5:22)、「唇の実(賛美が溢れること)」(ヘブライ13:15)、「義の実(神の御前に正しいと認められるような、内面的外面的生活)」(ヤコブ3:18)などがあります。御言葉を信じ、受け入れると(行為も含む)、自分の証(経験と約束の御言葉を通しこの御方が今も生きておられる神であることの証人)、多くの人が救われる救いの実が結ばれます。イエス様は、御自身のことも含めて「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)と言われました。使徒パウロは「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」(使徒16:31)と言いました。教会とはたくさんの実が結ばれる所です。しかし、種まきの例えでは、その種を奪おうとしたり、妨げようとするものがあるので、守らなければならないことも記されています(参照 マタイ13:18~23)。
・教会は、花嫁である(エフェソ5:25~32。ヨハネの黙示録19:7・8)本質的な教会が、唯一無二の愛の対象であり、約束(契約)によって小羊であるイエス様と小羊の血によって贖われた花嫁、神の養子とキリストの花嫁という2重の家族、同じ相続人となります。ここで強調されているのはただ一つ、夫であるイエス様に相応しいような妻になることです。それは愛においても、品性においても、行いにおいても・・全てにおいてです。聖書に「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられてのですから、上にあるものを求めなさい。・・上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。・・あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1~4)と書いてあるとおりです。もしそのことが可能になるとすれば、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえ」て(Ⅱコリント3:18)くださる聖霊様の働き以外はありません。それは、「恵みにより、信仰によ」るのです(エフェソ2:8)。
・・では、「教会」とされた3千人ものイエス様の弟子である彼らは、具体的には何をしたのでしょうか?
5、使命…伝えるために、礼拝し、交わわる。使徒言行録2章42節
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(新共同訳聖書)」
「彼らは使徒たちの教え、交わりをし、パンを裂くことと祈りに絶えず専念して、動かされることがなかった。(詳訳聖書)」
初代教会は洗礼を受けた3千人もの人々に対して、4つのことをしました。しかもただ熱心に行ったというだけでなく、詳訳聖書に「絶えず専念して、動かされることがなかった。」と書いてあるように、これら4つのことを最も大切なこととして・・現在の礼拝プログラムとはずいぶん違いますが、もしかしたら礼拝の内容として繰り返し行っていたのかもしれません。もっとも「クリスチャン生活」ということになると43~47節に記されているように、少し活動の種類・重点が違ってくるので、ここでは教会が行った4つのことについてのみ記したいと思います。
①使徒の教え・・それはイコール聖書そのものの教えではありません。繰り返しになりますが、聖書とは過去から現代、未来に至る神と人との約束(契約)に導かれた具体的なかかわりの記録であり、特に旧約聖書は、人類の代表とした神が選び給うたイスラエル民族の歴史であり、その中に神の言、真理があるのです。ですから「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練するうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(Ⅱテモテ3:16・17)と書いてあるのです。では、イエス様を神と信じた彼らに「聖書の教え」ではなく、「使徒たちの教え」と記しているのでしょうか?それは、イエス様の教えや「神の国の秘密」(マルコ4:11)が旧約時代から積み上げられ、 イエス様によって完成された福音が、「無学な普通の人」(使徒4:13)である、使徒たちの生き方・・すなわち福音の中に生き、福音を伝えた弟子たちを通して学ぶだけでなくその生き方に倣うことだからです。実際に使徒たちの教え、正確には弟子たちを通して具現化されたイエス様の教えと私たち人間の教えは違います。イエス様の価値観と世の価値観は正反対と言っていいほど違うのです。例えば、実際に多く献金した金持ちより、わずかしか献金出来なかった貧しいやもめが多く捧げたと認められます。何故なら、金額よりどのような心で捧げるかが問われるからです(参照 マルコ12:41~44)。例えば今でいう教職者のようなパウロは「ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエスご自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」(使徒20:34・35)と記しています。例えばイエス様は「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マルコ10:42~44) 例えば、弟子たちが「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と聞いたとイきエス様は「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(マタイ18:3・4)と答えられました。例えば「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43・44) 例えば「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)等々です。私たちはこの世で生まれ育ったので、この世の価値観を教えられなくても分かっています。しかし、神様の価値観は教えられないと分かりませんし、分かっても理解できないことも多くあります。だから一週毎に学び続け、聖書の完成、あるいは実である使徒たちの価値観を自分の価値観に変換していく必要があるのです。現在は多くのプロテスタント教会で「メッセージ」という礼拝プログラムの中心になっていますが、実際はメッセンジャーの一方的な教えだけで価値観を身に着けることは難しく、この時代、対話方式での日常生活への適用が中心になっていたようなので、伝統より、原点であるこれらの方法を検討する必要があると思いました。「自己発見型聖書の学び」はその1例です。
使徒たちは、福音の中に生き、福音を伝えた者です。礼拝も交わりもすべては福音の中で生かされていることの証明です。おそらく弟子を育てることも、イエス様がそうであられた様に行動を共にすることによってなされたのではないかと思います。
②相互の交わり・・これは単に同じ価値観を持つ者同士の楽しく、親睦を深めることではありません。当時、環境や身分の違う様々な人がいました。特に奴隷は「人」と認められていない人々のことで、そのような中での交わりは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34・35)というイエス様の命令である御言葉の実践でした。また、それは「へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え」ないと出来ないことであり(フィリピ2:3・4)、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2:14)と書いてあるようにイエス様に頼らなければ不可能に近いことでした。しかし、これらを経て得た交わりというか絆は、物理的にも心情的にもその関係を深め、天の御国のような平和な共同生活体だ形づくられていったのではないかと思います(参照 使徒4:32~37)。
③パンを裂くこと・・「パンを裂く」とは、食べ物を持ってくる人も、そうでない人も共に分け合って食事を楽しみ、感謝をささげ神の愛を実践した教会での会食の中で(後に愛餐(ギリシア語 アガペー)と言われるようになりました)、「パンを裂く」という目に見える形で福音が示されました。それが「主の晩餐」と小見出しをつけられた箇所で「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、盃を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。この「パンを裂く」という行為が後に「聖餐式」と呼ばれイエス様が始められたことです。さらに「このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Ⅰコリント11:26)と書いてあるように、再臨を待ち望むことでもあります。告げ知らされた福音である、イエス様の十字架、葬り、復活、顕現(けんげん)(参照 1コリント15:1~11)が、言葉ではなく、パンとぶどう酒(汁)を食するという象徴的な見える行為によって表され、私たちは信仰でイエス様の十字架と復活にあずかっているのです。
*ギリシア語 アガペーは「愛」の他に教会での会食を意味する「食事」とも訳され、
それが唯一ユダの手紙の中にあります。「こういう者たちは、厚かましく食事に割り込み、
わが身を養い、あなたがたの親ぼくの食事を汚すしみ・・」(12)と偽教師(異端)を
批判しています。
④祈ること・・初代教会は祈りの教会だともいわれています。神様の約束を信じて、「心を合わせて」(使徒1:14)と記してあるように、それぞれ違う立場の者同士が、一心に祈ることに始まり、祈り求める箇所が多くでできます。本来祈りとは、神様の約束に対して、「もういいかい、まーだだよ。も―いいかい、まーだだよ。もーいいかい、もーいいよ。」と約束に応答し、主が約束されたことを現実化していくのが祈りなのです。もちろん聖書には「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)と書いてあるように、祈りとは神様と話すことであり、自分の心の願いを打ち明けることでもあります。また、祈りは他の人を「執り成」(Ⅰテモテ2:1)すことであり、また、「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)と書いてあるのは密室にこもってずっと祈ることではなく、祈りの生活をしなさいという意味なのです。「祈りの生活」とは、いつも神様に心を向けていることであり、メタノイアすることなのです。このギリシア語は「悔い改め」と訳されていますが、後悔することより「考えを変える・思いを変化させる」という意味で、恋人に心を向けるように神様に愛の心を向け、その霊的交わりの中で神様の御声(御心)を聞き、さらに求めることによって、神様の霊に満たされ(参照 使徒2:1・2)・・すべてのクリスチャンに必要なことです。そして御業が表されることもあるのです(参照 使徒12:5~17、16:25~34)。
6、結論・・教会とは、教会に行く事によって聖なる共同体に連なることでも、教会の教えや、教会という従うべき組織でもありません。教会とは、すなわち「イエス様を生ける神の御子キリストであると信じ、イエス・キリストの十字架による贖いによってあらゆる罪が完全に赦され、復活によってキリストと同じ永遠の命が与えられ、日常生活も含めたあらゆることにおいてイエス様を中心に考え、イエス様とその御言葉に従うという生き方を選んだ人々の集団」であると結論します。まとめると「すべての事においてイエス様を中心に考え、その御言葉に従うという生き方を選んだ贖われた者たちの集団」、別の言い方をすれば「イエス様が好きで、クリスチャン生活を楽しむ者たち」になると思います。個人から集合体としての群れに、さらに一つの意志を持つ集団になることにより、神様の 御心が行いやすくなるのです。また、「第一」にすることと「中心」に考えることは違います。第一とは、「優先順位」を自分が決めることで、中心とは「この場合、イエス様ならどうするだろう」と神様に聞くことだからです。
7、以下は私が思う教会の現状から、6つの具体的な移行を目指します。
① 教会中心から、人中心への移行
教会のプログラム中心の考え方から、人の関係を深めること、つまり人間中心にシフトすることです。それはまた、神様との関係、自分との関係、隣人との関係を正すことでもあります。聖書に「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37~40)。と書いてあるからです。まず、神様を愛する・・正確には神様に心を向けて、神様の愛を受け取るのです。人は、愛されなければ愛することができないからです。そして自分を愛し、兄弟姉妹を愛するのです。自分自身を受け入れ、自分を愛することが出来なければ、兄弟姉妹を愛することができないからです。ところが日本人は自分を愛することが苦手なようです。私も例外ではなく過去において劣等感の塊のようになっていた時期もあり、自分で自分を愛することがどうしてもできませんでした。そこでどうしたかといえば、自分で自分を愛するのではなく、聖書に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)、と書いてあるとおりに、私を愛して下さった神様を通して自分自身を受け入れ、創造主なる神のイメージの中にある本来のあるべき自分の姿に目を止めるべきだと知りました。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して」(エフェソ1:4)くださったのです。私はある時、牧師同士の祈りの中で一人の牧師に勧められて、イエス様に「私のことをどう思っていますか?」と聞いてみました。すると、幻なのかイメージなのかわかりませんでしたが、イエス様は傷ついた右手を指しながら、「私は、あなたを愛している」と言ってくださったのです。
私はダメだ。
ダメダメ人間だ。
生みの親から言われ、
社会から言われ続けてきた。
しかし、元始の御声をきくがよい。
私を遣わしたあの方が、
十字架で傷ついた右の手を示しながら、
こう言われる。
「わたしは、あなたを愛している。」
もう、充分だ。
そして、自分を愛することが出来るようになった人は、兄弟姉妹を愛することができるようになるのです。中には気の合わない人がいるかもしれませんが、同じ神様の愛を知り、同じ価値観を持っているいる者同志です。互いに愛し合いましょう。再び同じ御言葉を引用しますが「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34・35)のです。さらに「いまだかつて 神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Ⅰヨハネ4:12)と書いてあります・・ここが、この教会が神の国になるのです。
② 教会に集うことから、教会から派遣されることへの移行
それは隣人を愛すること・・神様を通して自分を愛することは、同じ神様を通して隣人、つまり、何らかの助けを必要としている身近な人たちのことで、彼らと敵対していたり(参照 マタイ5:43・44))、自分を訴える相手であっても(参照 ルカ12:57~59)、自分に損害を加えた、その人を愛することが出来るようになるということです。もちろん簡単なことではありません。始めは祈ることさえできないでしょう。しかし、自分を受け入れた時と同じで、イエス様を通してその人を受け入れるのです。ただし無理はしないでください。無理は偽善を産み、偽善は自分も人も傷つけてしまいます。自分の内に自然に愛が育つまで待ちましょう。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)聖書にはこの偽りなき愛(アガペー)が注がれているとき「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:14・15)が実行できるようになり、結果「悪に負けることなく、善をもって悪に勝」(ローマ12:21)つことができるようになるのです。これが、神の国の拡大です。ちなみに、「喜ぶ人と‥」は解決や慰めを人に与えて満足するのではなく、喜びや悲しみを共有・共感しその人と共にいる、最も難しい愛の姿です。
③ 教会の役に立つことから、教会の役に立たないことへの移行
それは他人を愛することです・・イエス様は「だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。」(マタイ28:19)と言われました。他人を愛することは、すべての人を愛され、すべての人を救うために、十字架の上で命を献げられたイエス様を愛することです。宣教の働きは「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人になる。」(使徒1:8)と言われたようにイスラエルから西回りに広がり、再びイスラエルに向かっています。最後の宣教の地はアジアと言われています。アジアにはヒンズー教、イスラム教、仏教が多く、キリスト教の宣教師を受け入れない国も決して少なくはなく、実際には何の係わりもないところに出て行くことはできません。そこで現実にできることは、まず、祈ることです。私の教会でもささやかながら月に一度礼拝の午後「ハイナイト」として選びの民イスラエルのために祈り、また、「迫害下の兄弟姉妹の祈り」として、一人の姉妹に導かれながら世界のために祈っています。そして既成の団体・・私の立場からでは他の教会や現地のボランティア団体、宣教団体などに協力し、助けることになります。これが、ネットワーク作りであり宣教であり、教育や福祉などに関わることによって社会の変革を行うのです。そして、このことには両面があります。送り出される者と送り出す者、出て行く者と支える者です(参照 使徒13:1~3)。神様は共に祝福してくださいます。
④ 教会の弟子を作ることから、イエス様の弟子を育てることへの移行
それは人を愛することのできる人を育てることです。人を愛するために出て行くことと同じくらい大切なことは、そのような人を育てることです。無意識の中でも私は今まで、自分の教会を愛し、自分の教会が成長するために役立つ人材を求めてきました。しかし、イエス様は「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)と言われたのです。イエス様はご自分のことを心配してくれているペトロに「神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16:23)と叱責した後、弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)と言われたのです。自分を捨てるとは自分の意志を捨ててロボットのようになるのではなく、自分の欲や利益などを考えに入れないことであり、「わたしに従いなさい」は詳訳聖書では、「私に堅くよりすがり、生きるのにも、また必要ならば、死ぬのにも、全面的に私の模範にならいなさい。」と訳してあります。またイエス様に従っていこうとするとき、いわれなき非難や他者の苦しみ、迫害を受けることがあります。先日中国の方と話す機会が与えられ、中国では新たに迫害が始まったのではなく、強弱はありますがずっと続いている現実を知らされました。私が神学生だった90年ごろは、迫害が激しくなかった頃だそうですが、神学校に来ていた中国の方は、「帰ると殺されるかもしれない。私を覚えていてほしい。」と言って、小さなアヒルの置物を置いて行かれました。思い起こす度に胸が苦しくなり、なんとか生きててほしいと願います。これが「自分の十字架」です。もちろん人の苦しみは、「エデンの園」という楽園を追放されたことに始まり100%人の罪ですが、神様は御自分とは関係のないこの「罪」という十字架を負われました。私たちも自分と関係のない「十字架」を負わなければ出会えないイエス様の御姿があるのかもしれません。
いわれなき
この苦しみに
顔をあぐ
十字架 負いし
しゆ ここであう
弟子とは、「自分の十字架」を背負って、イエス様に従う人のことであり、牧師や教会や教団・教派、伝統などの人の業に従う人のことではありません。それは、神様が好きで、クリスチャン生活を心から楽しむことのできる人であり、また、神様を愛して、その御心に従いたいと思う人であり、御心を自分だけの能力で行おうとしない自立した大人のクリスチャン(自分の分を知り、他の人に「助けて」と言え、協力してチームで動ける人ー参照 ローマ12:3~8,Ⅰコリント12:12~26)、すなわち、聖霊様の満たしによる良き品性(参照 ガラテヤ5:22・23)と、「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。」(Ⅰコリント12:4)と書いてあるように、聖霊様から与えられた賜物を用いることのできる力を兼ね備えた人を育てるのが教会の大きな役割なのです。
*「自分の十字架」・・イエス様は文字通り十字架に付けられましたが、イエス様が背負われた十字架は、人のすべての罪を贖い、人を「死から命へ」(ヨハネに5:24)移すためでした。私たちの十字架も自分ではなく、他者を生かすために負うべき重荷であり、それがまた、聖書に「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。」(ヨハネに3:19)と書いてあるように、社会的反発や独裁者などによる迫害を負うことになる可能性を暗示しています。十字架とは反逆罪の刑罰だからです。
⑤ 教会の土台を教理や伝統などの人の業から、聖書、すなわち神の言葉である御方への移行
それはイエス様への信仰告白です・・「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)との告白の上に、イエス様は「わたしは・・わたしの教会を建てる。」(マタ16:18)と言われたことの実践です。イエス様が私の個人的な救い主であり、「わたしの主、わたしの神よ」と、トマスのように告白することは(ヨハネに20:28)、すべての事の中心にイエス様を置くことです。福音派の私たちがしやすい過ちですが、物事を聖と俗に分け、聖なることを優先することではありません。考え方や、行動や生活において、この場合イエス様だったらどうされるか?考え、導きを求めることです。そうでないと「善いサマリア人」の例えの中の、神を優先した祭司やレビ人のように、追いはぎに半殺しにされた人を見捨てることにもなりかねません(参照 10:25~37)。ただし、あくまでも中心に考えるのですから決まった答えはありません。すべてはケースバイケースです。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)と言われたのです。またパウロはテモテを推薦するのに「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。」(フィリピ2:20~22)と書き送っているのです。アーメン。
⑥ より大きな教会を目指すことから、より小さき教会を目指すことへの移行
それは、「きいて、受ける」教会から「おこなって、与える」教会への移行です・・もちろん「行う」という目的のために聞かなければなりませんが、「聞く」ことが目的なのではありません。イエス様が、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12:50)と言われたように「御心を行う」ことが大切なのです。このことは教会が量的にも質的にも大きくなることを否定しているのではありません。それは素晴らしいことです。そうではなく、今まで移行してきたことを、実行に移しやすいように体制を作ることが目的なのです。御心を行うことを目的とした教会は大きいより、小さいほうが便利です。たとえば、イエス様は弟子たちに「互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9:50)「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」「互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:14・34)と言われました。そのことを実践しようとする時、たとえば100人の教会では自分以外の対象が99人となりますが、5人の教会では他の4人が対象で「グッ」と現実味を帯びてきます。これは私の考えですが、100人の大教会よりも10人の教会が10あった方が御心を行いやすいと思います。もし、1人の牧師が100人を牧会できるとすれば、物理的・経済的条件が整えられれば1000人教会も可能となります。現にこの日本でも特に都会にはいくつかあるようですし、海外ではメガチャーチ(2000人以上の教会)と呼ばれる教会も決して珍しくないそうです。しかし、御心をおこない、受けるよりは与える教会を目指すには、しゅうとエトロがモーセに「神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。」(出エジプト18:21)と助言した体制の方が実現可能のような気がします。これは一見ピラミッド型で、上から下に伝達するための体制のようですが、そうではなく活動の主体は10人以下の小さなグループで、それを助けて行くのが教会の体制であり、いわば逆ピラミッド型です。なぜ少人数か?それは、経営学に「スパンオブコントロール」(管理の幅・統制の範囲)という用語があるそうです。それによると、1人の上司が直接管理できる人数は5~7人、様々な要因を加えても20人が限度だそうです。これは私のビジョン?・・単に世迷い言に過ぎないかも知れませんが、1000人のイエス様の弟子、100のファミリーチャーチ、10のセンターチャーチを育てることができたら素晴らしいと思います。そこでの働きの中心になるのは牧師ではなくて信徒でしょう。社会に巡回伝道者という働き(役割)があるのならば、教会の牧師というだけでなく、ファミリーチャーチを巡回する、巡回牧師という働きも可能になるのではないかと思います。
2014年2月 記 2016年2月 改訂 2023年2月・4月 改訂
あとがき・・上記のことは教団教派の伝統でもなく、教えられた教会論でもなくいわゆる「色眼鏡」を外して、自分なりに聖書そのものに基づく「教会」について考えてみました。あくまで「自分なり」にですので、私の思う教会の在り方が正しいか間違っているかではなく、これらのことをたたき台として共に考えることができたら幸いと思います。「色眼鏡」と偉そうに書きましたが、「教会の7つの本質」という神様の御目で聖書を見る努力をして眼鏡の色をなるべく薄くしようとしている者です。そこでふと思ったのですが、聖書はすべての場所、時代の人々に開かれた書です。難しいはずがありません。イエス様は「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3)と言われました。使徒たちは「無学な普通の人」(使徒4:13)です。聖書は、もしかしたら知識が豊富で、研究好きの学者の目ではなく、純粋で素直な子どものような目によって開かれるのかもしれません。
時が迫っています。人中心の支配の時代が終わり、新しい神中心の共生の時代が始まろうとしています。もしかしたら教会が培ってきたすばらしい伝統も役に立たなくなるかもしれません。イエス様が「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるものだ。」(マタイ9:17)と言われたように、また、「天地は滅びるが,わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)と言われた永遠なる御方から、新しいぶどう酒を汲みだしていけたらすばらしいと思います。 アーメン.