2018年6月3日

2018年6月3日                 「何故祈らなければならないのか」            コロサイの信徒への手紙1章9~14節

「わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。」(Ⅰサム12:23)
今日は改めて「祈り」について考えてみたいと思います。と言っても定義や方法ではなくて、どうすれば的を得た、長い祈りが出来るかを考えたいのです。こんなことを言うと牧仕として非常に恥ずかしいのですが、祈れないのです。私は6時に起きて、1時間半祈りそれから散歩に行って・・と決めているのですが、なかなかできないのです。本当はもう少し早く起きて3時間半は祈りたいのです。それが文字通り夢の中になってしまうのです。どうすればいいでしょうか?ここでパウロも聖徒のために祈っています。一つは主の御心を知って、御心に従って歩んでいけるようにとの祈りです。なぜこのような祈りが必要なのでしょうか?それは「霊によるあらゆる知恵と理解によって」と書いてあるように、私たちクリスチャンはこの世の価値観ではなく、神の価値観で生きているのです。この世の価値観なら聞かなくとも分かります。この世で生まれ育ったからです。しかし、神の価値観は聞かなくては分かりません。そして御声は細く小さいのです。つぎに「どんなことも根気強く耐え忍ぶように」と祈っています。なぜなら主の御心に従えば主が助けてくださるからです。主の御心は一人では行えません。だから必ず主の助けと仲間が与えられるのです。それまで希望をもって主がこの問題に介入して下さるまで、耐え(ヒュポモネー境遇に対して)忍ぶ(マクロトゥミアー人々に対して)ことが大切なのです。このことによって主が私たちに逆転の人生を与え、また決して変わることのない赦しの喜びを知ることになるのです。

2018年06月04日