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2019年12月22日

2019年12月22日              「御心に適う人に平和があるように」               ルカによる福音書2章8~20節 

「いと高き所には栄光、神にあれ 地には平和、御心に適う人にあれ。」(2:14)
メリークリスマス!!!イエス・キリストの誕生日をお祝いする日です。ところで皆さんは、アドベントをどのように過ごされたでしょうか?一般的にはプレゼントであったり、ケーキや鶏料理、家族や友達、恋人らと楽しく過ごす時でしょうか?しかし聖書を見ると、あまり華やかさや楽しそうな雰囲気は伝わってきません。今日の箇所の中心人物は、名もなき羊飼いたち。しかも徹夜で羊たちの番をしなければ生きていくことができない大変な仕事を担っている人々です。彼ら羊飼いたちは「律法」、特に律法学者たちが付け加えた規則を、その職業上十分に守れないと言う理由で社会的に軽んじられていました。しかし「すべての民」・・時代を超えた世界中の人々に与えられる大きな喜びの知らせが、天使を通してまず彼らに届けられたのです。それは救い主(罪からのマタイ1:21)が生まれた。と言う内容です。「罪」とは何でしょうか?法律を破ることとは少し意味合いが違います。それは神様が人に与えようとするものを拒んだり妨げたりするもののことです。神様は「御心に適う人」すなわち信じ受け入れた人々に「平和」があるようにと言われました。罪はこの平和を拒み、妨げるのです。不幸なことにすべての人にこの「罪」があります。しかし幸いなことに、すべての罪はイエス・キリストによって解決されるのです。これこそが真のクリスマス。最高のプレゼントなのです。

2019年12月22日

2019年12月15日

2019年12月15日                   「インマヌエルの神」               マタイによる福音書1章18~25節

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは、『神は私たちと共におられる』という意味である。」(1:22)
今日は、アドベント(待降節・・イエス・キリストの誕生を待ち望む期間ラテン語)3週目です。現実主義や即戦力を求められている時代の中で、ほぼ1か月間クリスマスについて考えるのは、決して無駄なことではないと思います。さて、今日の主人公はマリアの夫であり、イエスの父であるヨセフです。彼は婚約していました。婚約と言ってもユダヤ式でしたので、法的には結婚と等しく、別れる時には離縁状を出さなくてはなりませんでした。しかし、この二人はそんな心配とは無縁で、愛を育んでいたことでしょう。ところが突然大きな試練が訪れました。彼女が妊娠していることに気が付いたのです。だれの子?「聖霊によって」と書いてありますが、前例もなく説明されても」理解できないことです。もしヨセフが律法にただ忠実な人であったなら、妊娠したことを公にし、律法に従って(申命22:23~27)石で打ち殺したことでしょう。しかし彼はそうしませんでした。そもそも律法は人の幸せのために神様が与えて下さったものです。その根底に愛があります。ヨセフはマリアを愛していたがゆえに、自分が損することをいとわないで助けようとしたのです。それこそが本当の意味で「正しい」ことであり、神様の「義」と同質であり、ゆえに夢に天使が現れ「インマヌエル」の約束を与えて下さったのです。

2019年12月17日

2019年12月8日

2019年12月8日                  「決心やいかに」                    ルカによる福音書1章26~38節
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)
堺福音教会の川上静子姉のお証詞は如何だったでしょうか?ご自身も、癌の末期を迎えておられる大変な方々を看護されて来られ、ある日突然、ご自分が最も大変だと思っていた筋肉の難病に侵されてしまうのです。それも、養育の必要な小さなお子様の面倒を義母に託さなければならない辛さ・・・もう駄目だというところを何度も通られ天国まで行って来るという経験もされ、ハッピー!かと思いきや、遂には、余りの辛さに、神様に怒りをぶつけてしまい、神様なんかいない!!!と叫んだのです。その時、神様はずっと自分を抱っこしてくださっていたことが分かり、「あなたが一番して欲しいことは何ですか」と尋ねられます。色々考え、すべての人が永遠に変わらない神の国の喜びや平安を知ることが出来るようにと願うことを決心。それから、彼女は徐々に癒され、もう一度看護師に復職するまでになられたそうです。マリヤも突然、大変な決心をしなければならないことに遭遇します。それは、救い主を自分の身に宿すという、とてつもなく大きな決断を迫られるということだったのです。断る自由は勿論ありました。マリヤの決心やいかに?

2019年12月09日

2019年12月1日

2019年12月1日                  「この命が人の光です」                  ヨハネによる福音書1章1~5節

「万物は言によって成った.言によらずに成ったものは何一つなかった.言の内に成ったものは,命であった.この命は人の光であった」(4)
いよいよアドベントに入りました。今年も台風による被害が激しく19号では、関東方面で100名近くの方の命が失われました。先日「小さないのちのドア」代表理事である永原郁子姉の講演で、体内の赤ちゃんは受精後6週で心臓が動き始め、5か月で耳が聞こえ始め、6か月で記録ができるようになるそうです。改めて胎内にいる時も人は人であり、命は素晴らしいと思いました。しかし2017年のデーターでは、946065人の赤ちゃんが誕生し、164000人が中絶されているのです。尤も何時から「人」なのかという議論は残りますが、「天地創造の前に」(エフェ1:4)と書いてあるように、失われた赤ちゃんも人なのです。さて今日はこの命について考えてみましょう。命そのものは、神様にしか創ることのできない尊いものです。しかし軽んじられる命と尊ばれる命があるのです。戦時中は召集令状一枚の軽さだと言われました。ある時イエス様はご自身の命を捨てることによって、私たち人を生かす道を示されました。即ち十字架と復活の道です(マタ716:21~26)。それを止めようとしたペトロを叱責し、この命を神のように人の益のために用いるなら尊ばれ、多くの人のように自分の欲望のために用いるなら失うと言われたのです。

2019年12月09日

2019年11月24日

2019年11月24日                   「聞くこと」                           アモス書8章11節

「実に、主のことばを聞くことのききんである。」(8:11新改訳)
最近、主人から度々、耳が遠いと言われます。補聴器を付けた方がいいのではとも言うのです。確かに、まだ静かな部屋でだれかの話しを聞くのは容易いですが、色んな音が飛び交っている中で、話しを聞くのは苦手で、とてつもなくエネルギーを使います。人間は約2万Hzまでの音を聞くことが出来るそうですが、犬の聴力は約3万8千Hzまでの音域を聞き取ることが出来ると言われています。何と犬は人間の約2倍近くの音域を聞き取ることが可能なのです。しかし、聞こえる聴力よりも大事な「聞くこと」があります。大切なことは、語る人の意図を知って聞く事なのです。聞くという言葉は、英語ではhearとlistenがあります。hearは「自然と耳に入って来る時」に使われ、listenは「声」や「音」「話」などに自ら耳を傾け、意識的に、時には集中していく場合に使われます。どちらかと言うと、日本語の「聞く」はhear、「聴く」はlistenに近いようです。私も傾聴ボランティアを少ししていますが、なかなか大変です。自分から話してくれる人はまれなのでついこちらから質問したり、話題を提供してしまいます。神様に対してはどうでしょうか。神様のお言葉を、ただ聞き流すhearしていますか?それともlistenしていますか?神様のお心を伺っているでしょうか?

2019年11月27日

2019年11月10日

2019年11月10日                   「殉教者ステファノの覚悟」                使徒言行録7章44~53節

「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」(7:51)
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いる心。   神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩編51:19新改)
 「訴えのとおりか」と大祭司の問いに対するステファノの答弁です。本来なら偽証に対することなので否定できたかもしれません。しかし、彼はそうせずに「聖なる場所」すなわち神殿と「律法」を言い伝えによって(伝統)、絶対視する彼らを、歴史を通して目を開かせようとしたのです。もちろん悔い改めてくれるとは思っていなかったでしょう。しかし、「兄弟であり父である皆さん」と丁寧に、同胞に対する親愛と議員に対する敬意を込めながら呼びかけています。ステファノは神殿や律法の奴隷になっている彼らを愛するゆえに、自分の命を犠牲にしてでも語らざるを得なかったのでしょう。もしかしたらその愛による無私の心が、表情に出て「天使の顔」(6:15)のように見えたのかもしれません。彼は「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」と責めていますが、本当は耳を傾けて心砕かれ、悔いた心を持って欲しいと叫んでいるのです。私たちもステファノの言葉に耳を傾けましょう。そして、聖書で人を裁くのではなく、愛をもって人を生かす者とさせて頂きましょう。イエス様は私たちが「命を得るため、しかも豊かに得るため」に来て下さったのです。

2019年11月10日

2019年11月3日

2019年11月3日                  「天子のように輝いた顔」                    使徒言行録6章8~15節

「最高法院の席についていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」(6:15)
 私も、半世紀以上生きてきました。厚生労働省(2019年7月30日発表)による日本人の平均寿命は、女性87,32歳。男性81,25歳です。あと21年余り・・自分はどんな死に方をするのだろうと考えることがあります。「わたしにはまだ死ぬという仕事がある」晩年、パーキンソン病を患っていた作家・三浦綾子は、こう言ったそうです。ステファノと議論した人々は、奴隷の身分から解放された自由人やその子孫、また外国出身のユダヤ人のことです。彼らは自分たちの「負け」を素直に認めることが出来ず、世論や権力者たちを先導してステファノを捕らえさせ、最高法院に訴えたのです。理由はでっち上げで「あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。」・・すなわち神殿(聖所)と律法に逆らうことで、ユダヤでは死罪に当たることでした。正義もへったくりもありません。理不尽極まりないことです。普通であれば悔しくて、悔しくて溜らなくなるでしょう。しかし、ステファノは死を前にしながら、その顔は喜びに満ちて天子のように輝いていたのです。常識では考えられないことですが、事実です。そして「二十六聖人」と呼ばれるこの日本で初めての殉教者たちの死もまた喜びに満ちたものだったようです。そして主は私たちにも、この理不尽な死によっても変わることのない喜びを与えようとして下さっているのです。

2019年11月03日

2019年10月27日

2019年10月27日                    「役割分担ー能力付与」                   使徒言行録6章1~7節

「私たちが、神の言葉をおろそかにして、食事の世話をするのは好ましくない。そこ兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人探しな さい。彼らにその仕事を任せよう。私たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(6:3・4)
「教会の7つの本質」に照らし合わせれば、第3の能力付与・役割分担に当たります。それまでは、使徒と呼ばれているリーダーが教会の全部の管理・運営をしてきたのでしょう。食事の世話も、祈りと御言葉の奉仕も共に大切な奉仕であり、共に聖霊様の力と、配慮や正しい判断をする知恵が必要でした。そして評判が良いとは保証済みとも訳され、御言葉による保証・・すなわち御言葉の良い証人のことです。もっと平たく言えば、神様の導きを求め、御言葉の約束が与えられ、それを信じて実行する人の事です。
今日はこのことについて一緒に考えてみたく思います。最近やっと気が付いたことですが、聖書は単純で、行いやすいということです。聖書を頭で理解するより、御言葉を実行する方が神様の存在を体験できるのです。エッと思われるかもしれませんが考えて見れば当たり前のことかもしれません。なぜなら「聖書」は全ての人・・ノンクリスチャンにも、無学な人にも開かれているからです。複雑ではありえないのです。もし導き・・御心を知る、御声を聞くと言う言い方をしますが、直接幻や御声を聞く事だけではなく(稀なことです)、私たちの良心に働きかける声を聞くことであり、聖書を知っていれば御言葉を通して応えられるのです。

2019年10月28日

2019年10月20日

2019年10月20日                     「人の心を探り知る方」                   詩編139編1~6節

「神はあなたがたの心をご存じである。」(ルカ16:15)
京都では、ぶぶ(お茶)漬けはいかがどすか?」と聞かれたら、上がって食べてはいけないそうで、「そろそろ帰ってくださいな」という意味だそうです。私たちも、北海道や笠岡にいた時、似たような経験をして、困惑したことがありました。先週、軽井沢に行った時も、男女の考え方の違いを改めて感じることがありました。今考えても、どんなに理解しようとしても理解できないのです。100人いれば、100通りの考え方があるものですが、どこかで、ある程度の考え方の共通性があると、思い込んでしまったりします。人の心を理解するのは、ほんとに難しいですね。今は終末で、愛の冷えた時代だからというのもあるのかも知れません。しかし、人の心を全て見透かしておられる方がおられます。言うまでもなく、神様です!私たちはよく言います。私の苦しみや悲しみの気持ちなんて誰も分かってもらえないと。同じセリフを、神様もおっしゃりたいんじゃないでしょうか。あなたの気持ちを分かっているよ!何で分かってくれないの?と。知り尽くしておられるからこそ、共感することが出来、最善のアドバイスや解決方法を知らせてくださるのです。いい医者を求めて、何件も病院を変わられる方もおられる中で、私たちは神様の所だけに行きましょう。ロマ8:27、ルカ16:14、15

2019年10月22日

2019年10月13日

  「あの計画や行動が人から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできない。

   もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」(38・39)
「神の御心を行えば、神が味方となってくださり、助け手も与えてくださる・・」水村先生の推奨しているジーザスコーチングの概念です。使徒たちは神様の御心どおり命の言葉を民に告げ、自分たちを牢屋に入れ、殺す力のある大祭司に対しても「人に従うより、神に従うべきです。」(29)と、実に堂々と反論しています。神に従うことは神を信じる者の原点です。彼らが悔い改めたかと言えばそうではなく「これを聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えた。」(33)と書いてあります。知識階級の偉い人たちでも理屈ではなく感情で動くのです。絶体絶命です。この時点で使徒たちが全員殺されていたらイエス様の御心はどうなっていたのでしょうか?しかし、助けは思わぬところから現れました。最高法院(サンヘドリン)の議員で、当時大部分のファリサイ派の人たちが律法生活の最高の模範としていた「ヒルレル学派」の筆頭であり、立場が違ってもすべての民衆から尊敬されているガマリエル(後のサンヘドリンの長)が、使徒たちを釈放したのです今日は私たちの言行が神からか、人から来たものか考えてみたいと思います。彼らも人には選択できる自由意志が与えられていると考えていました。先週も考えてみましたが、この世の価値観と聖書の価値観は、正反対と言ってもいいほど違います。終末は「多くの人の愛が冷える」(マタ24:12)とイエス様が預言されました。私たちは聖書の価値観である愛を土台として生きる者とさせて頂きましょう。

2019年10月18日

2019年10月6日

2019年10月6日                 「人に(この世)に従うのではなく」                 使徒言行録5章27~32節

「人に従うより、神に従うべきです。私たちの先祖の神は、あなたがたが木に掛けて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪 を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。」(29~31)
「最高法院(サンヘドリン)」は、イスラエルの最高法的機関であり、大祭司は裁判長のような役割をはたします。すなわちこの国で一番の権力者なのです。その方が何の権力も持っていない一般人に対して2つの事を尋問しました。1、「あの名によって 」-端的に言うと、禁教令違反です。日本でも1565年1569年正親町天皇が出した追放令(京都から宣教師を追放する主旨)1587年豊臣秀吉によるガバテレン追放令、1596年禁教令(26聖人の殉教)、1612年江戸幕府が出した禁教令、その高札が1873年(明治6年)まで掲げられていた。2、「あの男の血を流して責任」-使徒たちは明確に答えています。「復活させられました」-血を流したことは間違い。「悔い改めさせ」-罰をあたえるためではなく、赦し、救い主として認め、従うために。今日皆さんと考えたいのは、「人に従うより、神に従うべきです。」の御言葉です。もちろん何にでも逆らうことではありません。聖書に「人は皆、上に立つ権力に従うべきです」(ロマ13:1)書いてあるように、従うのがクリスチャンの本文です。しかし、人(この世)の価値観と神(聖書)の価値観がぶつかる場合は、「この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」(5:20)と言われた神に従うべきなのです。私が学んでいる「教会の7つの本質」の5番目が「イエス中心」です。それは優先順位ではなく、聖書の価値観で生きると決心し続けることなのです

2019年10月06日

2019年9月29日

2019年9月29日                    「妬みに燃えて」                     使徒言行録5章17~26節

「ところが、夜間に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい』と言った。」

                                                                (19・20)
 「多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにして・・」(12)神様が存分に働かれ、証人の集団(教会?)として完璧です。もうこれで悪しきものが働かず、順風満帆の状態が続く・・そうではありません。むしろここから本当の戦いが始まったのです。最初の投獄は(4:1~21)「人々の手前、どう処罰してよいか分からなかったからである。」(21)と捕らえる側にも戸惑いがありました。しかし、2度目は詳訳聖書によると「ねたみ<憤り、怒り>に満たされ」使徒たち・・もしかしたら12人全員が投獄されたかもしれません。つまり戦いが激しくなったのです。それに対して主はサドカイ派の人々の信じていない天使・・彼らは復活も霊の存在も信じていませんでした・・を用いて使徒たちを救出し逃がしたのではなく、なんと彼らの本拠地である境内で「この命の言葉」を教えるように告げたのです。何故でしょうか?主はサドカイ派の人々のように,自分たちが信じたい事だけ信じるのではなく、前部を信じて欲しかったのだと思います.そして使徒たちはその御声を聞きました。そして従ったのです。十分危険を知っていながらです。これこそが本当の奇蹟であり、神様に絶対の信頼を置いた姿です。

2019年09月29日

2019年9月22日

2019年9月22日                「神の御業の顕著な現れ」                     使徒言行録5章12~16節

     「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。・・また、エルサレム付近の町からも、

      大勢の人が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らず癒された。」(12、16)
聖書は時として、集団を一人の人のように表現することがあります。教会は、ア
ナニアとサフィラという「偽り」を取り除くことによって、聖霊様がイエス様の時と同じように働かれたのです(参照マタイ4:23・24)。私が2011年に牧仕に復帰してから目指しているのは、実にこのような状態です。聖霊様が止められることなく、「一同は心を一つにして」と書いてあるように、個人の上にも集団の上にも自由に働かれる状態です。それを可能にするのが「教会の7つの本質」という考え方であり、先週行った「津田キリスト教会」「御影福音教会」の学びだと私は思っています。学びと言っても実際はトレーニングのようなもので、外に出て行って知らない人に声をかけて祝福や癒しを祈ったり、数人でロールプレイをしたりします。そうすることによって聖書を、頭だけではなく心に落とし込むことによって御言葉を体験しているのです。「霊的ロードマップ」では、子の聖書の箇所は「霊的な子ども」「霊的な若者」を経た「霊的父母」の状態でこれ以上のものはありません。

2019年09月23日

2019年9月15日

2019年9月15日                  「神に愛されている者として」                Ⅰヨハネの手紙4章7~12節

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。」
                                                            (Ⅰヨハネ4:10)
先月だったでしょうか、教会の礼拝時に、自分が神様に愛されているか?との質問があった時、胸を張って「愛されています!」と言われる方が少なかったと記憶しています。私たちが何かを人々に紹介する時、自分が体験して良かったものを勧めますよね。良く分からないけど、きっといいよ!と勧めて、害があれば、もはや詐欺と言えるかも知れません。気をつけるべきは、サタンの偽りに騙されてることに気が付くことと、神様が聖書を通して語られていることのみを信じることなのです。自分は神様に愛されている者だという自覚を改めて持たせて頂きましょう。ロマ1:7、コロ3:12、Ⅰテサ1:4、イザ43:4日。人を愛しているようであっても、自分の欲によることがほとんどです。しかし神様は、自分にとって都合の悪い存在、自分に敵対してくる者、自分に対して不真実な者のために(ロマ5:8~10)、最も大切な命を惜しまず捨てて、私たちを愛して下さったのです。神様に愛されている者として、戒めの通りに、互いに愛し合う者とされましょう。

2019年09月15日

2019年9月1日

2019年9月1日                   「コイノニアー聖書的共有」                  使徒言行録4章32~37節

「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」

                                                       (4:33、34)
 イスラエルの社会の中でも彼らの集団は異質でした。この集団を守るだけではなく、この社会に影響を与えるために彼らは強く雄々しくあらねばならなかったのです。一つは、主は「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。・・信じる者には次のようなしるしが伴う・・。」(マル16:15~18)と言われました。彼らが求めたのはこの約束の成就でした(4:30)。もう一つは、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」(ヨハ13:34、35)と言われた、主に在る交わりの究極のカタチでした。実際にコイノニア(ギリシヤ語)には、交わり、共有、シェアなどという意味があるのです。そして、このコイノニアは彼らが迫害によって散らされた後も、現在に至るまでその精神は続くのです。その特徴は①心も思いも一つにして・・胸痛の価値観を持っていたということです。この世の力の価値観ではなく、聖書の愛の価値観を持っていたのです。究極的なはイエス様のように人の役に立ちたいと思っていたのです。②自分のものだと言う者はなく・・「自分だけの」という意味です。自分に命も含めて全ては、授かりものなのです。③主イエスの復活を証しした・・共有が目的でなく、復活の主を証しすることが目的なのです。

2019年09月01日

2019年8月25日

2019年8月25日                     「勝利の後の祈り」                   使徒言行録4章23~31節

「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、堂々と御言葉を語れるようにしてください。どうか、御手を伸ばし、聖なる僕イエスの名によって、病 気が癒され、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」(29,30)
 第101回全国高校野球選手権大会22日、履正社(大阪)が星稜(石川)を5-3で下して、初優勝しました。素晴らしい戦い、素晴らしい勝利でした。しかし、これで戦いが終わったわけではありません。戦いは続くのです。弟子たちも、サンヘドリンという最高決議機関・・いわばイスラエル社会に勝利したのです。そこで弟子たちはこの勝利を確実なものとするために、祈り(心を一つにし、主に求める)と共有(助け合う)という2つの方法を取りました。今日は祈りについ見てみましょう。①残らず報告しました・・情報の共有です。このことは・・という事でもすべて伝えたのです。そうしないと心を一つにできないからです。但し、全ての人ではありません。仲間だけです。②心を主に向けました・・想定外のことはありません。主に在ってすべては必然です。御心である御言葉を求めましょう。③福音を伝えましょう・・彼らが求めたのは御言葉の約束とそれに伴うしるしです。信仰生活の歩みにおいて四面楚歌ということもあるでしょう。しかし上は空いているのです。子の困難を乗り越える翼を授けてくれるのが、しるしと不思議なのです。

2019年08月30日

2019年8月18日

2019年8月18日                 「無学なただ人・・されど」                   使徒言行録4章13~21節

「神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。すなわち、力ある者を無力な者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。」

                                                           (Ⅰコリント1:28)
ペトロとヨハネを裁判にかけたのは、サンヘドリンと呼ばれる大祭司を裁判長とした71人の人々でした。彼らには権力があり、地位があり、知識があり・・イスラエルの民の代表者です。その彼らが裁判にかけている2人が「無学な普通の人であることを知って驚」いたのです。それ程、2人は適切な弁明を堂々としてはばからなかったのです。そして彼らは、黒いカラスを白だと言いくるめられるほど絶対的な力があったにもかかわらず、自分たちの意に反して処罰も出来ず、ただ脅して釈放したのです。無学な普通の人の完全な勝利でした。なぜこのようなことができたのでしょうか。普通ではありえない、生まれつき足の不自由な男の人を癒した規制以上の奇蹟です。①たとえ知識がなくても、聖霊様が語る言葉を与えてくださるのです。・・サンヘドリンの先生方は、持っている知識や知恵を伝統の維持や自分たちを守るために使おうとしましたが、彼らは真実を語ったのです。「会堂や役員、権力者のところに連れていかれたときは、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる。」(ルカ12:11,12)②地位や権力を持っていなくても、事実を持っていれば恐れることはないのです。私たちにとって、神様との関係における事実は何でしょうか?それは「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」(Ⅰヨハ4:10)て下さったのです。この事実に留まりましょう。③無学な普通の人でも、イエス様が共にいて下されば、力ある者にも打ち勝つことができるのです。Ⅰヨハ5:5.信じましょう。

2019年08月18日

2019年8月11日

2019年8月11日                 「私たちが救われるべき名は」                  使徒言行録4章5~14節

「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(17:8)
ペトロとヨハネが、「美しの門」の前に座って、施しを求めていた男の足を癒しました。彼は躍り上がり、神をほめたたえながら今まで入ることができなかった神殿に入っていたのです。そこで我を忘れるほど驚いたのは、彼を小さい時から見知っていた人々でした。もしや、待ち望んできたメシアが現れたのかと彼らは期待したことでしょう。しかし、ペトロとヨハネが指し示したのは、イエス様の十字架と復活でした。「あなたがたは命の導き手を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。」(3:15)と書いてあるとおりです。そして彼らは、「悔い改めて(神に)立ち帰りなさい。」(3:19)と、勧めたのです。大きな騒ぎになりました。そこで彼らと癒された男が捕らえられ、サンヘドリンという議会(議員、長老、律法学者プラス大祭司が裁判長の計71人で構成されている)で尋問されたのです。「何の権威によって、誰の名によってこんなことをしたのか」(7)・・これが質問です。復活を宣べ伝えたから逮捕されたのに矛先が変わっています。議会の中でも復活について意見が分かれていたのです。私たちクリスチャンの中でも意見が分かれています。あなたはどうですか?心から疑いなく復活を信じていますか。ペトロはイエス様の十字架と復活ゆえに、私たちを死と罪の縄目から救いうるのは、イエス様以外はないと言ったのです。アーメンですか。

2019年08月11日

2019年8月4日

2019年8月4日                       「主に信頼する者」                    エレミヤ17章5~8節

「彼は水のほとりに植えられた木。」(17:8)
暑い日が続いていますが、身体は大丈夫でしょうか?うちの烏骨鶏のメスの1羽は、この暑いのに先週からずっと自分の産んだ卵を抱えています。暑いから、十分
温かいだろうと思うのですが・・・。暑さの中で、クリスチャンはどうなんでしょうか。冷房付けて、ああ涼しいというのではなくて、「水のほとりに植えられた木のようになり 川の流れにその根を張り 暑さが来ても恐れず その葉は茂っている」(8)のです。17章のこの箇所は、「呪われよ、~は」「祝福されよ、~は」と分かりやすいですね。詩編1編にも同じような対比があります。注意しなければならないことは、ここに出てくる木は自然に生えたものではなく、どこからか移植された木だということです。15章や17章にも神様が警告されているように、イスラエルの民は、主に信頼せず、他国の軍事力や偶像に頼り、生ける水の源であるお方から離れ去り、約束の相続地も手放すはめになってしまいます。主に信頼していないなら、枯れてしまう他はないのです。憎しみや怒り、恐れに占領されていないでしょうか。祈らないこと無神論の実践だと、向後先生はよくおっしゃっておられました。主は回復される方でもあります。主によって癒され、信頼する者にされましょう。

2019年08月07日

2019年7月28日

2019年7月28日                      「勝率100%」                   使徒言行録3章11~16節

「あなたがたは命の導き手を殺してしまいましたが、神はこの方を死者
の中から復活させてくださいました。私たちは、そのことの証人です。」(15)
「民衆は皆非常に驚いて・・彼らの方へ駆け寄って来た。」(11)いやされた男の人はおそらく何年も、何十年も「美しの門」の前に座って施しを求めていたのでしょう。多くの人が彼を見知っていました。それが突然立ち上がり、賛美しながら神殿の中にいるのです。人々は預言者か、もしかしたらメシアかと色めき立ったことでしょう。それに対してペトロとヨハネは、①自分たちは特別な者ではない事、②この神の力は死んでよみがえられたイエスの御名から来たこと、自分たちがしたことを認めて悔い改める事(17~)、③そしてイエス様こそモーセや預言者たちが待ち望み預言していたメシアであることを認めて選民としての祝福を受ける事(22~)をメッセージしたのです。すごいことです。大勢の人の前で準備もしないで話し、しかも5千人もの人が 彼らの言葉を聞き入れ、イエス様を信じたのです。驚くべきことです。どうして彼らを納得させることができたのでしょうか。知恵?雄弁さ?いいえ、復活の証人だからです。そして証人であることを神様が証人の味方になって証明してくださるのです。アーメン。

2019年07月29日

2019年7月21日

2019年7月21日                    「美しの門の出来事」                    使徒言行録3章1~10節

「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(6)
「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行なわれていたのである.」(2:43)と記されている一つの事例が、以下の生まれつき足の不自由な男の人の癒しです。この癒しは即座であり完全でした。「歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」(8)と書いてあるとおりです。体に欠陥のある人は境内に入ってはいけないと律法に定められていたからです(レビ21:16~23)。さて癒しには大きく分けて3つの考え方があります。①癒しは、過去のもの。②癒しは、現代も起こりうるが特定の賜物がある人だけ。③癒しは、御名の権威によって誰でも起こすことができる。私は③を支持します。御名の権威とはイエスさまが弟子たちに与えられた権威です(参照ルカ10:19、マル16:18)。願わくば多くの人たちが御名の権威に
よって、癒しや解放を経験できますように。ただ間違ってはいけないのは、「癒し」が目的ではなく「不思議な業としるし」は、神の国が近づいたことの証拠であり、人々の心を活ける神様に向けさせる手段?なのです。では「無学な普通の人」(4:13)であるペトロやヨハネがこのような業を行えたのは何故でしょうか? ①「私には銀や金はないが」・・彼らは金銭ではなく、物によって生きていたのです。もっと言えば神を愛し互いを愛する関係を基盤とし、そこから生み出される心のこもった物によって生きていたのです。そしてこの関係を保つためには,前回のメッセージではありませんが赦し合うことかもしれません。②「立ち上がり歩きなさい」・・神の子としての特権によって願うのではなく、権威によって命じるのです。

2019年07月21日

2019年7月14日

2019年7月14日                    「赦すという事」                マタイによる福音書18章212~35節

「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」 (マタイ18:22)
先日も、悲惨な事件が起こりました。埼玉県所沢市で、友達の家でテスト勉強をしていた中学2年の男子生徒が、同級生の少年に刺されて死亡しました。殺された生徒の遺族は、「犯人を許さない」と言われてたそうです。いじめを受けていたのか、詳しい事は分かりませんが、愛する家族を殺された側として当然の言葉と言えるかも知れません。私も、はらわたが煮えくり返るような思いをした人を赦すという経験が何回かあります。家族に対してはつい、またですか?とか、ほんまに何回も繰り返して、バカにしてるの?と思ってしまい、いい加減にしてよ!という言葉が出てきます。イエス様がペテロに言われた上記の言葉はどんな意味でしょうか。7回同じ人を赦すのも大変なことですが、頑張って490回までは赦しなさいでしょうか。この後の例え話に表されているように、私たちはイエス様によって、大きな罪過を赦して頂いている者として、赦す者とされましょう。何回同じことをするのか!と思った時、具体的に、その人が何回か何十回か何百回?か、記憶に蓄積されていることを忘れ、ゼロにする努力をしてみましょう。思い出すのは、イエス様がこんな自分をどれだけ赦してくださっているかだけで十分なのです。イザヤ43:25、ミカ7:18

2019年07月14日

2019年7月7日

2019年7月7日                  「エクレーシア生活」            使徒言行録2章43~47節

  「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、

    民衆全体から好意を寄せられた。」 (使徒.2:16・17)
 「2030年問題」というのがあります。日キ教団の3分の2が75歳以上となるだけでなく、現住会員も3分の1になると教団継続の危機を訴えています。多く
の教団も同じようなものだと聞きます。それで特に、必死になって若者や子どもに伝道しなければならないと言います。種まき伝道です。確かに存続のために必要なことでしょう。でも聖書はなんと言っているでしょうか?「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである。」(47)なぜ?
①「信じた者たちは皆一つになって」・・ここに「互いに愛し合いなさい」(ヨハ13:34)の御言葉の実践があります。当時は極端な格差社会であり、福祉的  な考え方もほとんどありませんでした。それを解決したのは「社会」ではなく、共有(共同)生活でした。この真ん中に愛がなければ不可能な「生活」です。
②「毎日ひたすら心を一つにして」・・一つになったのは物だけではありません。心もです。むしろ十字架の恵み(パンを裂く)によって、心の方が先に一つにな  ったのでしよう。そしてその心を維持していたのは祈り(神殿に集まり)と食事です。
③「神を賛美していた」・・賛美は義務ではありません。私も歌は苦手ですが賛美は好きです。なぜなら、自分の存在そのもの・・神様に創造されたことを感謝し  、自分を喜ぶことから始まるからです。・・これらが人々に畏敬と行為を与えるのです。

2019年07月07日

2019年6月30日

2019年6月30日                 「シンプルチャーチ」                     使徒言行録2章40~42節

    「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わった。

     そして、一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた。」 (使徒41.42)
ここで言う「洗礼」は、単に教会員になるための儀式ではなく、「私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ・・キリストが・・死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。」(ロマ6:4)と書いてあるように、古い自分に死んで、新しい自分として生きる象徴なのです。ではなぜ死ななければならないのでしょうか?それはキリスト用語でいう「罪」が赦されるためです。言葉を変えて言えば、死ななければ赦されないのです。その赦される筈のない「罪」を、イエス様が代わりに死んでくださったことによって、私たちを赦してくださったのです。私のこの「罪」がイエス様を十字架に追いやったことが分かった時、初めてキリストと共に葬られ・・死を経験するのです。そしてこの死を経験した者のみが「罪と死との法則」から解放されて、「命の霊の法則」(ロマ8:1・2)に生きる・・生かされるようになるのです。そしてこの命の法則・・聖霊様によって与えられる神の命によって、私たちは「種を蒔く人」(マタ13:18~20)の例えではありませんが、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶようになるのです。これが「使徒たちの教えであり、パン裂きであり、福音の原則なのです。そして礼拝とは、御前においてこの命を喜び、楽しみ、感謝をささげ、分かち合うことなのです。

2019年07月02日

2019年6月23日

2019年6月23日                   「愛するとは?」                 ヨハネによる福音書15章11~13節 

          「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)
皆さんは、誰かに愛を注いだことがおありでしょう。御自分のお子さんや伴侶、家族や友人など。しかし、その愛を受け取ってもらえなかったり、迷惑がられたりしたら如何でしょうか。特に子どもは、やればやるほど、うざい!とか、うるさい!とかしか言わなくて、もどかしいですよね。先日上映した「塩狩峠」の主人公、永野信夫さんは、列車に乗っている乗客を救うために、自分の命を犠牲にしました。本当に素晴らしい行為ですよね。でも、皆さんが婚約者のふじ子さんだったら、どう感じられるでしょう。昨日、読書会でやった森下辰衛著「雪柳」の中で、フィクションですが、助けられた乗客の一人から「有難くもないし、むしろ、自分勝手な自己満足のために傷つけられた」と訴えられ、自身も、大きな喪失感と共に葛藤し、苦しみ抜いた末に、遺志を継いで人を愛する者へとされるのです。イエス様の掟は、互いに愛し合うことです(15:12)。口先だけだと簡単ですが、人を愛するということは大変なことです。それを可能にするのが、1、癒される 2、つながる 3、手入れされる ことです。つながるとは、自分の意思を以って、選び取っていくことです。そうして、人を心から愛する者とされていくのです。

2019年06月23日

2019年6月9日

2019年6月9日                  「エクレシアー教会誕生日」                     使徒言行録2章1~4節

「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(4)
日本語で「教える会」と訳されるエクレシアの誕生です。聖霊様が父なる神様の約束された御方・弁護者にして真理なる御方(ヨハネ14:16・17)として、使徒たちを中心にして120人ばかりの人々が集まっている所に来てくださいました。それは一時的に、天からこの地上に来て下さったのではなく、一つになって祈り求めている弟子たちの内の住んでくださったのです。そのことを「一同は聖霊に満たされ」-「聖霊が彼らの魂に徹底的に浸透し(詳訳聖書)」と表現しているのです。見えないエクレシアの誕生です。アメリカ人作家であるマーク・トウェインは「人生で一番大切な日は二日ある。生まれた日と、なぜ生まれたかを分かった日」と言いましたが、人と同じようにエクレシアの誕生にも目的があります。もともとこの語には(招集された)民の集会、共同体などの意味がありますが、学校のように教えることが目的であるという意味はないと思います。むしろ単純に御心を行うための群れ、あえて定義するなら「イエス・キリストの十字架と復活によってこの世から選び分かたれ、聖霊の内住によって一致と力が与えられ、父なる神の御心を行うために集められた人々の群れ」となるのではないでしょうか。その中で最も大切な二つのことは、一つになることと、出て行って証人になること・・イエス様が命じられた「互いに愛し合う」(ヨハネ13:34)ことと「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)なのです

2019年06月13日

2019年6月2日

2019年6月2日                 「お勧め、即ちメッセージ」                    使徒言行録2章37~40節

  「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。

   そうすれば賜物として聖霊を受けます。」(38)
まさに、お勧め=メッセージです。しかし、こうなる前に「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいですか」(37)と問うたのです。ハッキリ言って、人を変えることは非常に難しいです。人は自ら変わりたいと思わなければ、変わることができないからです。しかしここでは彼らは悔い改める(方向転換)ほどに、大きく変化したのです。そこにはいくつかのポイントがあります。①御言葉が土台です。全てのことは偶然ではありません。必然です。全てのことは神様の御手の内にあるのです。「聖霊降臨」と伴う特別な現象であっても、御言葉で預言されていたのです。大切なことは、御言葉を土台として行動することです。今回の父のことも御言葉が与えられ、私は平和(和解)の使者として遣わされたのです(エフェソ2:14)。
②イエス・キリストに従う事。はじめ彼らはこの御方を、異端者・偽預言者だ思っていました。あまりにも自分たちが描いていたメシア像とかけ離れていたからです。しかし、ペトロのメッセージによって目が開かれ、事実に目を留めることによってメシアであると悟ったのです。③神の国に招くこと。「悔い改めなさい」とは、じぶんの罪を悔いることだけでなく、進んでいる方向を変えて(メタ・ノイア)神の国に入ることです。私たちも神の国の住民にふさわしい生き方をしましょう。助け主なるお方が導いてくださいます。アーメン

2019年06月04日

2019年5月26日

2019年5月26日              「病める時も、健やかなる時も」         ヨハネによる福音書14章26,27節、16章33節

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27新改訳)
この間から皆さんには、お祈り頂いたり、励まして頂いたり、心から感謝致します。たかが風邪、されど風邪。この歳になって、風邪?でこんなにも苦しむとは!皆さんのこれまでの人生は如何だったでしょうか?健やかな時ばかりだったでしょうか。病気ばかりだったでしょうか。それ共貧しさの中で大変だったでしょうか。苦しみばかりだったでしょうか。自分の置かれている状況が良い時だけでなく、どんな時でも神様に信頼し乗り越えていくことが大切なのです。パウロはフィリピ4:11で、ありとあらゆる場合に満足し、対処する秘訣があると言いました。人としてあらゆるところを通られたイエス様がこの世を去られる時、平安を残してくださったのです。休憩とは単に休むことですが、安息とは神様の与えられる平安のことです。神様が与えてくださる平安の中にある時、私たちはどんな境遇をも乗り越えていくことが出来るのです。

2019年06月04日

2019年5月19日」

2019年5月19日                 「シモンからペトロに」                        使徒言行録2章14節

「イエスは彼に目を留めて、言われた、『あなたはヨハネの子シモンである。あなたの名をケパ(訳すと、ペテロ、石という意味)と呼ぶことにしよう。』」

                                                        (詳訳聖書ヨハネ1:42)
聖霊様が聖書の約束の言葉と、120人ほどの心を合わせた祈りによって、この地上に来てくださいました。これが教会の誕生です。教会とは、これは私の定義ですが「イエス・キリストの十字架と復活によってこの世から選び分かたれ、聖霊の内住によって一つとされ、父なる神の御心を行うために集められた人々の群れ」のことです。「教会時代」とも言われる今の時代は、人々が驚き怪しむ(7)ほどの奇蹟が内住の聖霊様によって行われるのです。すなわちペトロのように造りかえられるのです。彼はシモンであって、決してペトロではありません。少なくても満たされるまでは・・。シモンの元々の性格は軽挙妄動タイプと言われ、考えないで行動し、熱心である一方失敗も多く、年下のイエス様に一番叱られたのではないかと思います。その彼がまさに聖霊様に満たされたときに、岩石(ギリシア語でペトロ)のように変えられたのです。もちろん訳の分からない内に‥ではありません。シモンも失敗を繰り返すうちに、自分がどうすれば良いか分かっていたのでしょう。「三つ子の魂百まで」の諺ではありませんが、「性格だから仕方がない」とあきらめていたのかも知れません。そのことは事実かもしれませんが真実ではありません。性格は変わるのです。「そこで・・時を待っています、ペトロが十一人と共に立って・・使命を共有する仲間と共に行動します、声を張り上げ・・メッセージがあたえられたことを自覚し仲間の代表として、話し始めた。」・・聖霊様の御業、福音です。

2019年06月04日

2019年5月12日

2019年5月12日                    「母の愛と神の愛」                      イザヤ書49章15節

      「女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、

       わたしは、あなたを忘れることはない。」(イザヤ49:15)
母の日に、皆さんは、何らかの形でお子さん達から、感謝の気持ちを表わして頂く事と思います。私は幸いにも、実母と義母の二人共健在ですので、今年は定番のカーネーションを贈ることができました。でも今年は、お母さんに感謝を表わしてくれるはずの幼いお子さん達が、相次いで事故で亡くなっています。たとい2歳や3歳であったとしても、生まれて来てくれて、どれだけ愛情を注いで来られたことでしょうか。お母さんの悲痛な叫びが聞こえてくるようです。
今日の聖書の箇所は、紀元前750年くらいに預言者イザヤの書いた神様の言葉です。自分のお腹を痛めて生んだわが子のためには、自分の命まで差し出す覚悟もある母の愛を感じますよね。けれども、この世で最も美しく気高いと思われていた母親の愛でさえも、何かおかしくなっています。わが子を虐待したり、ネグレクトしたりして殺したりというのが後を絶ちません。しかし、母親が万が一忘れることがあったとしても、神様はあなたを忘れないと言ってくださるのです。

2019年06月04日

2019年5月5日

2019年5月5日                    「一つの言葉への回復」                    使徒言行録2章5~13節

「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。・・彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』」(2:7~11)
受難週が終わり、イースターが終わりました。やっと春らしい春が来たように思います。今日の聖書は、奇遇にもペンテコステの出来事です。今年は6月9日なので少し早いですが、内容を見て行きましょう。前回は聖霊様が「一同が一つになって集まっていると・・」おそらく「心を合わせて熱心に祈っていた」120名ほどの人々に臨んでくださいました。今回は、弟子たちではなく外の人々に働かれた御業を見て行きましょう。①人々を驚かす・・「あっけにとられてしまった。」「人々は驚き怪しんで」 彼らの言葉は、多くの人々に衝撃的な驚きを与えました。神様の御業は普通ではありません。御言葉はもちろん、良心にすら従うことが出来ない自分が、「ダメだ、ダメだ」と人から言われ、劣等感の塊のようになっていた私が、自分どころか人を愛することが出来るようになる。驚きです。②一つ言葉への回復・・これは賜物としての異言ではありません。「主がそこで全地の言葉を混乱させ」(創世記11:9)られたバベルの塔での出来事の回復です。ここで神様は一つのメッセージ、世界共通語である「福音」を語られたのです。③新しいぶどう酒・・あざける者の言った言葉です。彼等は理解できない神の業を理解できる「酔う」に置き換えたのです。しかし人は酔うことにより、「無我夢中」になれるのです。

2019年05月07日

2019年4月28日

2019年4月28日                「復活の事実」                コリントの信徒への手紙一 15章12~20節

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(15:20)

キリスト教は、死人がよみがえったとか変なことを言わなきゃ、いい宗教なのに・・・と言われる方もいらっしゃいます。しかし、残念だと思われているその事実こそが、キリスト教にとって、ポピュラーなクリスマスよりも重要な出来事だったのです!この間東京の池袋で、87歳の高齢男性が運転する車が暴走し、若い母子2人が死亡、10人が怪我をした事故がありました。亡くなった母子の遺族男性は、「たった一瞬で私たちの未来は奪われた」と無念さを訴えられました。朝出かける時に挨拶を交わし、昼もテレビ電話で話し早く帰るからと電話を切ったのが最後となったのです。死を迎えるのは年齢の順番とは限りませんし、あと何十年は生きられるという保証はないし、今日一日でさえも無事に終えることが出来るか分かりません。人類にとって、究極の絶望が死でした。弟子たちも、きっと何か大きなことをしてくれると望みをかけていた先生が、あっけなく死刑となり絶望の中にいました。それから3日目の朝、事態は急転します。沢山の弟子たちや女の人たちが、よみがえった先生に会ったというのです。この事実は何を意味するのでしょうか。それは、絶望は希望となり、死は終わりではなくなったということなのです。そしてこのことは、私たちにも復活の命が与えられる見本となったのです。

2019年05月01日

2019年4月21日

2019年4月21日                  「エマオ途上の二人」                 ルカによる福音書24章13~35節

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32)
イースターおめでとうございます!この日に「主はよみがえりたまえり、アーメン。」と初代教会の人々があいさつしたと言われています。復活はイエス様の最大
の奇蹟です。耳で聞いてもなかなか納得できません。イエス様から直接聞いたかもしれない2人の弟子もそうでした。彼らはイエス様が復活した日曜日の夕方、弟子であることに見切りをつけて、エルサレムから11キロほど下ったエマオにある自分の村に帰るところだったようです。彼らはイエス様を「行いにも言葉にも力のある預言者」(19)と言い「イスラエルを解放してくださると望みをかけてい」た(21)と言いました、が「でした」と過去形です。彼らにとって十字架で自分たちの夢も努力もすべて終わったのです。そう思って離れていく人たちを、もう一度方向転換させるのは並み大抵ではありません。復活の出来事も単に驚かせただけでした。そんな彼らをイエス様は、「物分かりが悪く、心が鈍く・・すべてを信じられない者たち」(25)と叱られましたが、聖書を通してメシアの苦難と栄光について解き明かされたのです。それでも彼らの足は止まりませんでしたが、解き明かしてくれた方に興味を持ち「無理に引き止め」るほど(29)魅力を感じたのです。そこで彼らの目が開かれ復活のイエス様に出会ったのです。彼らは引き返しました。あなたはこの出来事から何を学びますか?

2019年04月22日

2019年4月14日

2019年4月14日             「父よ、彼らを お許しください」               ルカによる福音書23章26~38節

「その時、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」(23:34)
今週は、受難週です。今から約2千年前、33歳のイエス様が、子ロバに乗ってエルサレムの都に入城し、群衆から「ホサナ」と迎えられた日曜日(パームサンデー)から、死を打ち破ってよみがえられた次の日曜日イースター(復活祭)の前日までです。この出来事は4つの福音書と言われる伝記のようなものに記されていますが、大きな違いは、別紙を見てもらえればわかるように、この受難週から復活までの8日間に多くの紙面が割かれています。また、「福音書」と呼ばれているように、私たち人類にとって福音(良き知らせ)の中心となる重大な出来事が記されているのです。では今日はその中の一つの出来事・・十字架の7言と言われている1言目から、共に福音について考えてみたいと思います。①「父よ」・・神様のことです。3月に教会員が召され大勢の方が集まりました。そこで人は死んだらどうなるのか?と問いました。勿論様々な考えがあるのでしょうが、聖書は「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、」(ヘブ9:27)と書いてあります。その裁く御方が、父と呼ばれている神さまなのです。②「彼らを」・・民衆?議員たち?それとも兵士たち?いいえ、私たち全ての人です。エッ、変でしょう。この出来事は、時間・場所限定じゃないの?自分たちは律法も知らないし・・そうではありません。彼らとは良心を持つ全ての人を指すのです(ロマ2:14・15)。③「お赦しください」とは、宣言です。イエス様は良心に従い切れない全ての人の身代わりとなって死の裁きを受けられ、裁きは終わったと言われたのです。

2019年04月22日

2019年4月7日

2019年4月7日                      「五旬祭の日」                       使徒言行録2章1~4節

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ『霊』が語らせるままに、ほかの国々

 の言葉で語りだした。(1~4)」
ユダヤには、聖書に記された3大祭りがありました。「あなたは年に三度、わたしのために祭りを行わねばならない。」(出エジ23:14~19)と書いてあるように、過去の出来事を基としながら、現在の信仰生活につながる大切な意味を持ったものです。①は、除酵祭で七日間酵母を入れないパンを食べます。これは奴隷の地エジプトを出たことを記念する祭りで、信仰生活においては罪の奴隷から救われたことを感謝します。②は、初穂の祭りで小麦の初物をパンにして捧げる祭りで、除酵祭から五〇日目にあたるので、五旬節―ペンテコステ(ギリシャ語)の祭りとも呼ばれます。信仰生活においては、自分の内なるものを捧げて天からの火・・すなわち聖霊様に満たされたことを喜びます。③は、取入れの祭りで、秋の収穫祭のことです。この祭りは、収穫を祝うとともに四〇年間荒野で放浪した先祖の苦労を偲んで仮小屋で一週間生活するので仮庵の祭りとも呼ばれています。信仰生活においては、この地上での生活は仮で、天上にこそ真の住まいがあるとの再臨の希望に満たされることです。今日は特に②について考えてみたいと思います。なぜ、聖霊様に満たされなければならないのか?(動機) どうすれば満たされるのか?(方法) 満たされたらどうなるのか?(その働き)

2019年04月09日

2019年3月31日

2019年3月31日               「基督教は、外国の宗教?」                 ローマの信徒への手紙5章12~21節

「こうして、罪が死によって支配していたように、恵も義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(5:21)
 「キリスト教は、外国の宗教でしょう。家は代々仏教ですから。」と言われる方がおられます。突っ込みどころ満載の表現です。「外国ってどこですか?」と聞いてもアメリカ?ヨーロッパ?と答えられるそうですが、実は中東のイスラエル国(紀元70年に滅亡、1948年に復興)が発祥の地です。仏教も、外国のインドが発祥の地で日本には、中国経由で6世紀中ごろ伝わったと言われています。やっぱり外国の宗教では?そうではありません。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように・・」(12)と書いてあるように、「一人の人」とはアダムのことです。聖書によると、人類の最初の人はアダムとエバとなります。神話?あながちそうとも言えません。人類は「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれるアフリカにいた一人の女性から生まれたという説もありますから。それはともかくとして、彼らは「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世2:17)と戒められた木の実を食べてしまったのです。それから人は、「死すべき者」にりました。しかし、「最後のアダム」(Ⅰコリ15:45)であるイエスは、十字架刑と言う身代わりの罰を受けることによって、私たち人類を永遠の命の導くのです。肉体派滅んでも魂は生きるのです。そして魂には、迎えてくれる方も場所もあるのです(ヨハ14:1~3)。これが希望なのです。

2019年04月03日

2019年3月24日

2019年3月24日                  「新しく造られる?」                 ヨハネによる福音書3章1~16節

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)
ゲノム編集という言葉をご存じでしょうか?ある生物が持つ全遺伝情報を、その生物のゲノムというそうです。近年、多くの生物のゲノムが明らかになり、重要な遺伝子が特定され、その働きなども分かってきています。その情報を利用し、その情報を切ったり繋げたりするので編集と言われています。皆さんは、自分の嫌いな所や直したい所はありますか?それらが分かっていたとしても、私たちは、自分を変えるより、他の人を変えようとします。イヤだと思いながら、自分は変えたくないのです。基本、人は変わらないのです。そこが、良くなりたいと思っても出来ない所以です。誰かのようになれたらと思われた事があるでしょうか?願いがかなって、その人になれたとしたら、それはもはや自分ではありません。私たちは、一人一人が世界でただ一つの唯一無二の存在です。誰かのようにならなくていいのです。また、遺伝子レベルの大変な手術も必要ないのです。ただイエス様を信じ、神様のいのちである聖霊に住んで頂き、自分の意志をもって従っていくならば、新創造の業が進められていきます。

2019年04月03日

2019年3月17日

2019年3月17日                       「使徒の補充」                   使徒言行録1章16~26節

      「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、・・いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、

       わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(使徒1:21・22)
 イエス様の約束を信じた120名ほどの人々は、心を合わせて祈っていました。しかし、祈っていただけで何もしなかったわけではありません。彼らは「 
父の約束」=「父は別の弁護者を遣わして」(ヨハ14:16)=聖霊様が来てくださるのを待ちながらその準備をしていたのです。バックストン師は
聖霊様の御働きについて次の3つの経験を記しています。第一の経験は、「あなたがたとともに」です。(ヨハ14:17) 第二の経験は、「あなたがたのうちにおられる」ということです。(ヨハ14:17) 第三の経験は、「聖霊があなたがたの上に臨むとき」、これであります。それによって天から来る力を持ち、また天に属する武具を着ることができます。ですから、それによって私たちは主イエスの真に役に立つ兵士となることができます。(バックストン著作集第9巻使徒行伝講義上44・45p)・・使徒たちは兵士として戦うために、ある面使命を果たし終えたユダの代わりに人を補充したのです。その条件は2つ、その中に金力、権力、能力は含まれていません。1、常に使徒たちと行動をを共にしていた者・・日曜日だけでなく、クリスチャンとしてひびの生活の中で忠実な者 2、復活の証人・・イエス様が復活されたことを信じるだけでなく(完全な罪の赦しと蔡倫を含む)、その力を体験している者。

2019年03月17日

2019年3月10日

2019年3月10日                 「待つことは、祈ること」                     使徒言行録1章8~12節

「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(使徒1:14)
イエス様は、「父の約束されたものを待ちなさい。」(1:4)と言われました。そのとおりに、12弟子たちはエルサレムに止まりました。そこは、「泊まっていた家の上の部屋」(1:12)で、おそらく過ぎ越しの最後の食事をした所で、マルコの家であったと思われます(参照12:12)。そこで、12弟子たちは待ちました。しかし何もしなかったのではありません。彼らは祈ったのです。①心を合わせた祈り・・中心メンバーは、ユダ以外の12弟子、婦人たち・・「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」(ルカ24:10)・・、イエス様の母や弟たちです。「12弟子」はイエス様が兵士たちに捕らえられるのを止めることができませんでした。その最たるものがイスカリオテのユダでした。「婦人たち」」は当時、社会的地位が低くその言行は信頼されていませんでした。そして肉親である彼らも、イエス様と良い関係ではありませんでした(参照マタイ12:46~50)「過去を超え 一つ心で 祈り合う 賛美もアーメン 祈りもアーメン」②熱心な祈り・・「ひたすら祈りに励んでいた。」(詳訳聖書)祈り続けるためには目的が必要です。彼らは「待て」と言われて「これからどうしようか」などと話し合ったわけではありません。「約束」があるのです。あとはその約束が、実現するように求め続けるのです。私たちの方で用意が出来たらそうなります。

2019年03月11日

2019年3月3日

2019年3月3日                   「聖霊に満たされる」                      使徒言行録1章8~12節

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 (使徒1:8)
 前回は、同じ聖書の箇所から、なぜ律法の祝福が地の果てである異邦人にまで及ぶのかを考えました。今回はこの御方に満たしてもらうためにはどうすればいいかを考えてみたいと思います。キリスト教の多くは体験できるのです。前提はどこにおられるかです。旧約時代はもちろん、三位一体の神様ですから、天と呼ばれるところでしょう。しかし、現在この地上には御言葉とおり聖霊様が来て下さっています。後は個人的に迎え入れればいいのです。ではどうすればいいのでしょうか?
①まず何のために・・目的です。私の場合はイエス様の弟子になりたかったのです。②どのような心で・・動機です。わたしは、イエス様に従いたかったのです。
③イエス様を第一にするために、自分の中にイエス様より大切にしているものはないかを、チェックします。
④あったら、それを一つ一つイエス様に捧げます。私の場合は、最後に2つのものが残りました。
⑤捧げ終わったら、空っぽになった心に?聖霊様を迎えます。以上

2019年03月11日

2019年2月24日

2019年2月24日                     「父の涙」                   ルカによる福音書15章11~24節

「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。」 (エレミヤ31:3口語訳)

22日(金)は、神原明美さんの命日だったそうです。慈しんで育てられ、幸せな人生を歩んで欲しいと願われ、楽しみにされておられたことと思います。その大切な愛娘さんが、病のために、若くして召されるとは!ご両親の悲しみはいかばかりだったでしょうか。子どもを与えられなかった私たちでしたが、小さないのちを守る会を通して、一人の男の子を授かり親とされた事により、単なる夫婦が、家族とされ、子を育てるという大きな喜びを味わせて頂きました。子の成長に一喜一憂し、今年成人となろうというのに、心配は限りがありませんが。今日の箇所は、イエス様の例え話の中でも有名な放蕩息子というお話しです。このお父さんは、二人の息子を、深い愛をもって育て、見守って来たのでしょう。何よりも、子どもの幸せを願っていたと思います。ところが、突然下の息子が、相続分の生前贈与分をくれと言い出したのです。ここにいれば、何の不自由も不足も無いのに・・・それらをお金に換えて、出て行きました。思春期だから親の言うことを聞かないのは仕方がないとどこかで思いつつ、私の子育てが間違っていたんだろうかとかと悩み、毎日心配し、涙にくれていたのではないでしょうか。一日も早く、帰って来て欲しいと願っていたでしょう。その息子が、放蕩の果てに落ちぶれ、雇って欲しいと帰って来ました。またこの子が財産を奪ってしまうかも知れないのに、父は大喜びで迎えました。無条件の、無限の愛をもって愛していたからです。

2019年02月25日

2019年2月10日

2019年2月10日                  「助け主が来るまで待ちなさい」                 使徒言行録1章3~5節

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けら れるからである。」(使徒1:4b・5)
 イエス様がこのように命じられたのは、復活して40日がたち、使徒たち(12弟子たち)と食事をしていた時です。これは非常に不思議な光景です。十字架の上で祈られ、血を流された御方。亜麻布で包まれ、岩に掘った墓穴の中に納められた御方。3日目に墓が空っぽだ、復活されたと女たちが騒いだ御方。その御方がまるで何事もなかったかのように、平然と依然と同じように自分たちと食事をしておられる・・いえ、決して同じではありません。以前はこの御方はイスラエル解放の希望でした(ルカ24:21)。この御方についていけば何とかなると思っていたのです。しかし今は、この御方とならばどんなことでもできると思っているでしょう。もちろん今の彼らには事実を受け止めるのが精一杯で、復活の意味も、今イエス様が話しておられる「神の国」についても十分に理解していないかもしれません。神の国は公生涯の始めに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マル1:15)、と宣べられたように、また、今日実現したと言われたイザヤの預言も、神の国のことでした(ルカ4:18~21)。今度は、イエス様が十字架の上で完成して下さった神の国を、弟子である彼らが行いではなく信仰によって受け取れることを身をもって示していかなければならないのです。その為に必要なのは、聖霊様であり、弁護者である御方を(ヨハ16:7、14:16)待つことなのです。

2019年02月10日

2019年2月3日

2019年2月3日                      「福音の土台」                       使徒言行録1章1、2節

「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、ほうむられたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと 、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」Ⅰコリント15:3~5)
今回から、「使徒言行録」を学んでいきたいと思います。この巻は神様が完成して下さった「福音」を土台にして、教会が誕生し、それが異邦人に伝えられ、世界の中心であるローマに伝えられていく歴史をつづった歴史書です。そして「使徒言行録」(十二使徒たちの言行を記録したもの)という表題ですが実際は、使徒ペトロと異邦人伝道者パウロを中心に物語は展開していきます。さて今日は「福音の土台」について考えてみたいと思います。イエス様はこの地上で三十三年半の生涯を送ったと考えられます。そのうちの三十年は家業の大工を継ぎ、母マリアと弟妹たちを養っていたようです(マタイ13:55)。その後、公生涯にたたれ神の国を宣べ伝えられ、多くの病気や苦しみを癒され、悪霊から解放されました。まt、十二人をはじめ多くの弟子たちを育てられました。しかし、「福音」はそれらの良い事、すばらしい事ではなくて、イエス様の十字架と復活なのです。何故でしょうか?一言で言えば「律法」を完成されたからです。「罪なき御方」の贖いによる罪の赦しと、行いではなく(613か条の律法と口伝律法)、愛による(マタイ22:34~39)完成(律法を完全に守り切る)とその祝福、そしてこの律法は、始祖アダムの罪の現れであるので、十字架の御血は、すべての人の救いになるのです(ロマ5:12~21)

2019年02月09日

2019年1月27日

2019年1月27日                 「思い煩いからの解放」                     Ⅰペテロの手紙5章7~9節

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」(Ⅰペトロ5:7)
若い子が、小さなニキビが出来たから学校行きたくないと言ったら、何を愚かなことを言ってるの!と思われるでしょうか?人には偉そうなことを言い、自分の悩みこそ正当的な、悩むにふさわしいものだと思い込んでおられないでしょうか。私の知っている人は、仕事上のことで思い悩まれ、診療内科で薬を処方して頂くほどになられていました。よくよくお話しを伺ってみると、まだ心配していることは何も起こっていないのに、こうなったらどうしようとか思い煩われておられたのです。枡野俊明さんの書かれた「心配事の9割は起こらない」という著書で、余計なことに悩まないシンプルな生活を手に入れるよう勧められています。ある精神科のお医者さんが患者を調べると、実に病院に来た人の92%が取り越し苦労で、本当に治療が必要な人はわずか8%だったことが分かったそうです。よくよく考えてみると、私たちはほとんど起こらないことに心と時間を取られていると言えます。実にもったいないで話しですね。しかし、悩むにふさわしい問題であったとしても、気を付けなければならないことは、思い煩うことはサタンの罠だということです。サタンに立ち向かうためには、思い煩わないで神様に信頼することなのです(Ⅰペテロ5:9)。色々な心配をするけれど、イエス様は全部ご存じであり、神様が私たちのことを心配され、必要なものを与えられ、助けてくださるということです(箴言16:3、詩編37:4,5、Ⅰペテロ5:7、マタイ6:31,32)。問題が大きければ大きいほど、主に期待しましょう!

2019年01月27日

2019年1月20日

2019年1月20日                 「主に結ばれた者たち」                コロサイの信徒への手紙4章7~18節

「彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。」   (コロサイ4:7b)
コロサイ最後のメッセージです。ティキコには上記の言葉が添えられていました。彼は使徒20:4、エフェソ6:21にもその名が記され、パウロの様子や思いを伝え励ます者でした。一緒に行くオネシモはフィレモンの逃亡奴隷です(フィレモン8~20)。パウロは彼を「忠実な愛する兄弟」と呼んでいます。続いてアリスタルコ(使徒20:4,27:2)、彼はパウロと同じ囚人として行動を共にしていた。バルナバのいとこマルコは、パウロとバルナバに連れられて第一次伝道旅行に同行しましたが、すぐに帰宅してしまいました(使徒13:13)。このマルコをパウロは「そちらに行ったら迎えるようにとの指示を」しています。さらに「彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです」(Ⅱテモ4:11)と賛辞しています。そのほかにも、キリスト・イエスの僕エパフラス・・彼はおそらくリーダーだったのでしょう。愛する医者ルカとデマス・・彼は「この世を愛し、わたしをみ捨ててテサロニケに行ってしまい(Ⅱテモ4:10)と記された人物です。彼らは、「主に結ばれた」者であり、「キリスト・イエスの僕」です。決してパウロの僕たちではありません。なぜならパウロの仕事(使命)は、自分の弟子を作ることではなく、イエス様に彼らを結び付けることだからです。彼らは自分の意志でパウロと行動を共にしパウロに仕えているのです。中にはアリスタルコのように囚人となってまでパウロに付いて行こうとする者までいます。なぜでしょうか?彼こそキリスト・イエスの真のあかし人であり,その証拠が「捕らわれの身」であり、「イエスの焼き印」なのです。(ガラ6:17)

2019年01月23日

2019年1月13日

2019年1月13日                「塩で味付けされた快い言葉」             コロサイの信徒への手紙4章2~7節

「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」   (コロサイ4:5・6)
さて、「コロサイ」という小アジアにある、小さな町あてた手紙もいよいよ終わりに近づきました。ここでは正しい福音が語られました。特に食べ物や、安息日、月・日の規定、また、神の言葉ではなく幻や神秘体験、独りよがりの禁欲主義から解放するためです。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すことなく御子の内に宿らせ、」(1:19)と書いてあるように、キリスト・イエスで十分だと言ったのです。その後、具体的なクリスチャン生活について記しています(3章)。その結論は家族や仕事など身近な関係についてです。今日の聖書の箇所は、勧めの言葉として①内部の人に対しては、ひたすら祈ること、祈ってもらうこと。・・なぜなら、神様の御心を行うためには、神様の助けが必要だからです。②外部の人に対したは、チャンスを逃さず、塩で味付けされた快う言葉で福音を語ること・・なぜなら、福音はすべての人に必要ですが、それを届けるのには工夫が必要だからです。「塩で味付けされた・・」とは、例えば食べる人が「美味しい」と感じる料理のことです。御言葉が素材であれば、材料としては十分でしょう。後は素材を活かして調理し、相手が好む味付けをすることです。基本は塩です。細かいことを言えば料理を出すタイミングも必要でしょう。6節に書いてあるように「一人一人」を観ることが大切です。

2019年01月13日

2019年1月6日

2019年1月6日                 「わたしの証人となる」                      使徒言行録1章6~8節

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、

 わたしの証人となる。」  (使徒1:8)
2019年第一主日。伝道の年3年目です。今年は伝道隊でも人事異動があり、私も理事のひとりになりました。理事長も水村師から、三宅師になり4月から塩屋キリスト教会に異動になります。覚えてお祈りください。さて上記の御言葉は、今年の目標・道しるべとして牧仕である私と、教会に与えられたものです。ポイントは「わたしの証人」です。証人とは自分が体験したことを、事実であると証明する人の事で、「わたし・・」と書いてあるように、この御方が誰であるかを聖書や他の書物、他の人ではなくあなたが証明しなければならないのです。ヨハネが「初めから存在していたかた、私たちが聞いたことのあるかた、私たちが自分自身の目で見たことのあるかた、私たちが自分でじっと見つめ、また自分自身の手でさわったことのあるかた、そのかたの中にあるいのちのことばについて私たちは書いています。」(詳訳聖書・Ⅰヨハネ1:1)と言っているようにです。そのためにはまず、イエス様が誰なのかを知らなくてはなりません。ペトロのように「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と答えられたら幸いです。そのためには行動しなければなりません。イエス様が命じられたことを一つでも行いましょう。挑戦です。命令にはそれが行えるように必ず神様の約束が与えられているからです。

2019年01月07日

2018年12月30日

2018年12月30日              「重荷を下ろせましたか?」                 マタイによる福音書11章25~30節

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」                (マタイ11:28・29)
今年もいよいよ最後の主日になりました。皆さんにとってどんな年でしたか?今年は2月の豪雪、大阪や北海道での地震、8月の西日本豪雨や特に台風21号など災害が多くて「災」が2018年の漢字でした。私たちの教会は「伝道の年2年目 家族や友人に重荷を感じ、福音を伝えると同時にこの重荷をイエス様の十字架の下に降ろす。」ことが目標でした。1年を振り返って感謝しましょう。もちろん足りないことや間違ったことはあったでしょうが、それらも含めてイエス様は「わたしのもとに来なさい」と言って下さっているのです。何故でしょうか?それは①罪から清められるためです【Ⅰヨハ1:7~9】。罪とは律法に違反することだけではなく、否定的な感情(悲しみ、絶望、怒り、妬みなど)や、偽りの概念(無力、無駄、無意味など)に縛られて神様の御心を行えない状態です。私たちの内にあるこれらの罪を認め(自分では気が付かないことが多い)、主の十字架の下に持っていくとき、赦しと清めが与えられるのです。②人々を活かす水があふれ出ます(ヨハ7:38)。これは聖霊様の働きです。どの様な状況の中でも愛と人を生かす言葉が出てくるのです。

2018年12月30日

2018年12月23日

2018年12月23日               「地に平和があるように」                 ルカによる福音書2章8~20節

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ1:14)
メリークリスマス!!イエス様のご降誕を心よりお祝い申し上げます。第一アドベントにおいてヨセフより学びました。ヨセフは正しい人であったので、マリアが身ごもっていることを知った時、非常な苦しみと悲しみの襲われたことでしょう。もしヨセフがただ正しいだけの人であったなら、自分の身の潔白を証明するためにマリアを訴えた事でしょう。しかし彼はマリアを守るために離縁しようとしました。ところが夢に天使が現れたのです。そこでヨセフはマリアと罪(申命22:24)を共有することを選んだのです。そして聖なる御方である主も、師と罪の世界であるこの世に来て下さったのです。またマリアは天使から告知を受けた時、自分の幸せではなく、あのエステル(エステル4:16)のように、民の救いを選んだのです。さて今日の民全体に与えられる大きな喜びは誰に与えられたのでしょうか。そうです。野宿をしていた羊飼いたちです。何故でしょうか?彼らが夜も働く働き者だからでしょうか?いいえ、違います。その頃のユダヤでは、律法を守ることのできない羊飼いたちは社会の最下層に位置していました。神様は一部の御心に適っていると思い込んでいる律法学者やパリサイ人だけでなく、文字通りすべての人を救いたいと思われているのです。このクリスマスに改めて全ての人が救われることが御心であると知って、主に祈り求めていきたいと思います。

2018年12月29日

2018年12月16日

2018年12月16日            「神が人となられたということ」                 ルカによる福音書1章26~38節

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」                                                              (Ⅱコリント8:9)
NHKの朝ドラのヒロインも第2子の妊娠が分かり、大喜びでした。しかし、今日の箇所のマリアは、手放しで大喜びという訳にはいきませんでした。天使のお告げにより、結婚もしていないのに妊娠し、しかも、生まれて来る子は、「偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」というのです。律法から外れているという命の危険と大きな使命を負った子どもを産み育てるという重大な責任を伴うことだったからです。この一人の若い娘さんの決心が、神様の偉大なご計画を大きく進めていくことになったのです。さて神様は、永遠の初めから存在される御方です。別な言い方をすると、始めも終わりもない御方ということになり、有限な人間にはどんなにしても理解できないことなのです。先週の映画でも表現されていた三位一体も、人間には分かりづらいことかも知れませんが、私たちは三位一体の神様を信じています。この中の御子イエス様は神様の独り子です。ということは父なる神様から生まれた存在です。人間の女性が生むと言うのとは違うかも知れません。生れた時に、何も出来ないような状態ではなかったと想像します。今度は、人間の救いのために、人間の子としてお生まれくださり、自分では何にもできない赤子になってくださったのです。そして人として、様々な喜怒哀楽や弱さ、不自由さを経験してくだいました。

2018年12月29日

2018年12月9日

2018年12月9日               「主が求めておられる義」                  マタイによる福音書1章18~25節

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

                                                             (マタイ1:23)

「夫ヨセフは正しい人であった」(19)・・正しいとは規範や基準を乱さず、ルールに対して違反していないことです。ここでは「主の戒めに聞き従うならば・・」(申命6:27)と書いてあるように、また、「2人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」(ルカ1:6)と書いてあるように律法を守ることでした。しかし、ヨセフのしたことは神様の正しさ・・「義」に適いませんでした。だから主の天使が夢に現れたのです。では何が足りなかったのでしょうか?それこそ律法が「その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。」(申命22:24)と命じるように、マリアを訴えてそのようにしなければならなかったのでしょうか?とんでもありません。そんなことをすれば愛を忘れて義務だけを押し付けるパリサイ人の自己満足の義と同じになってしまいます。主が私たちに求められる「義」とは関係の義です。相手を愛し相手を満足させようとする義です。ヨセフはそれが分かったので、マリアを受け入れ不義の汚名を共に被ったのです。そして聖なる神様も、私たちを罪人として切り捨てずに、インマヌエルの神として私たちの内に来て下さいました。「罪人のひとりに数えられたからだ。」(イザ53:12、ルカ22:37)と書いてある通りです。これがクリスマスなのです!!余談になるかもしれませんが、先日夫婦の関係についてメッセージしました(コロ3:18)。「夫に仕えなさい」とは主従の関係ではなく、愛の表現であり、神の義に適う事なのです。

2018年12月09日

2018年12月2日

2018年12月2日                    「闇の中に輝く光」                       イザヤ書9章1~6節

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の 父、平和の君」と呼ばれる。」(新改訳イザヤ9:6)
今日から、アドベント(待降節)に入りました。光といのちの根源であらせられる御方が、闇と死の世界に、無力な赤子として生まれて下さいました。この事実をもう一度考えてみたいと思います。さて、預言された御言葉の時代背景は、アハズ王の率いる南王国ユダの危機です。
アッシリア帝国の脅威を感じたアラムと北王国イスラエルは反旗をひるがえし、ユダは同盟に加わろうとしました。そこで先手を打ったアラムとイスラエルが攻めてきたのです。その時主が、預言者イザヤを遣わして「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない・・。」と言わせたのです。しかし不信仰なアハズ王とユダの民は恐れたのです。そして信仰に立ち返って平安を得るのではなく、人間の力に頼ってアッシリア都の有効関係を深めて行ったのです。さて現代はどうでしょうか?争いや戦争がなく平和な時代でしょうか。いいえ、とんでもありません。「もはや戦後ではなく戦前である」と言われて久しく、世界的に見れば国と国、民族と民族が敵対しています。何かのきっかけで第3次世界大戦がおこる可能性も決して低くありません。また国内でも「・・戦争」や、貧困・格差の問題、結婚の高齢化や離婚率の問題、自然災害や人災・・不安と恐れがいたるところにあります。イザヤの預言は今もいきています。信仰に立ち返ってこの御方と共に歩むか(インマヌエル)?アハズ王のように自分の力に頼るか?今一度自分に問いたいと思います。

2018年12月02日

2018年11月25日

2018年11月25日               「正しいこと」                     マタイによる福音書1章18,19節

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)
「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」(コロサイ3:1口語訳)
マリヤの夫となるヨセフはまた、イエス様のお父様でもあります。遺伝子的には関係はないのですが・・・。このヨセフは正しい人だと言われています。原文か
ら見ると、「正しい」とは「ディカイオス」という言葉で、神様の目から見て正しいという意味になります。単に人間社会の倫理道徳的な正しさではありません。マタイ9:13に出てくるイエス様のお言葉の「正しい」とは、真面目に律法を守り、その努力の故にその辺の人よりはましな人間で、神様から良い評価を受けられる資格があると思い込んでいる人のことを指して言われています。イエス様ご自身も息を引き取られた後、百人隊長から「本当に、この人は正しい人だった(ルカ23:47)と言われました。「正しい」という生き方は、どうでもいいことではなく、大切なことです。しかし、「正しい」にも2種類あります。マタイ9:11のファリサイ人達は、残念ながら、神様に喜ばれる正しさを持ってはいなかったのです。ヨセフはというと、不貞を働いたと思われるマリアをさらし者にすることを望まず、ひそかに縁を切ろうとしました。ヨセフは神様に喜ばれる、愛に裏打ちされたされた正しさを持っていたのです。あなたは、どんな正しさをお持ちでしょうか。

2018年11月25日

2018年11月11日

2018年11月11日              「人間関係に勝利する」                コロサイの信徒への手紙3章18~25節

「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。」(18、19節)
先週は、自分の内側にある「怒り、憤り、悪意」などの悪い感情、また、「みだらな行い、不潔な行い、情欲」などの悪い行いや習慣に対して、勝利することを学びました。すなわち、それらを抑えたり、止めることは実際大変難しいことです。なぜなら地に属する「古い人」にとってそれらは自然なことだからです。しかし、イエス様によって「新しい人」に造りかえられた人にとっては簡単なことなのです(参考Ⅱコリ5:17)。さて、今日はその中で最も大きな戦いである人間関係について学びたいと思います。ここに3種類の関係が出て来ます。①夫婦 ②親子 ③主従・・社長と従業員。この中で最も大切で、最も難しいのは①の夫婦の関係です。ここで大切なことは、妻は夫に愛されていることを知り、夫は妻に信頼されていることを知ることです。言葉を変えれば「互いに愛し合う(ヨハ13:34)」ことです。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」(12)と書いてあるように、私たちは「互いに愛し合う」ために「互いに愛し合う」ために神様に選ばれ、「互いに愛し合う」ために聖なる者・・きよめられ、「互いに愛し合う」ために神様から愛を頂いているのです。それだけではありません。「愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです」(14)と書いてあるようにこの「愛は」自分の愛ではなく、求めて与えられる賜物の愛です(Ⅰコリ12:31)。求めましょう。受け取りましょう。そして勝利しましょう。お祈りいたします。

2018年11月12日

2018年11月4日

2018年11月4日               「古い人を捨て、新しい人を着る」             コロサイの信徒への手紙3章5~11節

「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(9、10節)
 今日の箇所には、3つの「捨てる」が出てきます。①みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲・・悪い習慣や依存など外側の事。②怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉・・否定的な言葉や悪い感情など内側の事。③古い人をその行いと共に・・「行い」とは具体的には①・②を指します。重要な事は、悪い習慣や依存、また感情のコントロールなどかなり難しいことが、古い人を着物を脱ぐように脱ぐことができるようになることです。厳寒の地では、いくらボロ服であってもそれを脱いだら死ぬかもしれないので脱ぐことができませんが、そこに暖かそうな新しい服があれば着替えることができます。多くの常緑樹も新芽が形成され、それに押し出されるようにして古い葉が落ちるのです。この箇所を詳訳聖書で見ると「あなたがたは、古い<新生していない>自己を、その悪い行いといっしょに、脱ぎ捨てて、新しい<霊的な自己>を着たからです。その<新しいもの>は、それを創造されたかたのかたち<似像>に従って、新しくされる<かたちを作り直される><過程の中にいつもあり>、知識<の上にまたより十分でより完全な知識>に達するのです。」となります。先日お配りした「霊的な旅のロードマップ(Ⅰヨハネ2:12~14)」では、「若者として強く成長している」段階に当たると思います。神の子どもとして新生し、御子イエスの御血によって、罪からも傷からも不義(目的、思想、行動において彼のみこころに沿わないいっさいの事・・詳訳聖書Ⅰヨハネ1:7~9)からもきよめられた・・すなわち御心にまっすぐ向かう事ができるようになった私たちは、神様の愛に満たされ、御言葉に従う力が与えられるのです。

2018年11月04日

2018年10月28日

2018年10月28日            「上にあるものー神の国を求める」               コロサイの信徒への手紙3章1~4節

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)
 先週、「霊的な旅のロードマップ(Ⅰヨハネ2:12~14)」を使い、自分がどの位置にいるかチェックしました。霊的子どもの段階は、罪から解放され、神の臨在と愛を体験している状態です。勝利する若者の段階は、自分の内側と外側、相互の関係において勝利してゆくことです。ここにおいて敵である悪しき者たちを強く意識します。最後の段階は、霊的父母になることです。つまり霊的子どもを産み、育て、模範になるのです。そしてその目的は何か?それは、上にあるものーすなわち   神の国が私の内にあり、さらに拡大していくことを求めることです(マタイ6:10)。何故私たちクリスチャンはこの地にある「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(新改訳Ⅰヨハネ2:16)などを求めてはいけないのでしょうか?それは、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」(1)と書いてあるように、私たちはもうこの地上の命に死んで、キリストと同じ天上のいのちで生かされているのです。そして天上のいのちで生かされている人々は、互いに愛すること(ヨハ13:34・35)と、御言葉を聞いて行う者(マタ7:24)になっていくのです。

2018年10月28日

2018年10月21日

2018年10月21日                「言葉の束縛からの解放」             コロサイの信徒への手紙2章20~23節  

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)
 私たちは、自由なようでありながら意外と縛られていることがあります。今日の聖書の箇所は、直接的にはグノーシス主義からくる禁欲主義を否定したものです。グノーシス主義においては、この世は物質と霊で成り立ち、物質は悪で霊は善であると考えています。彼らに言わせれば物質が悪なので、物質でできている肉体も悪になります。そこに2つの全く逆の考え方が出てきます。1つは、快楽主義・・悪であれば何をしても悪だから、欲望の命ずるまま自由に快楽を楽しもうというものです。もう1つが、悪は抑制されなければならないと言う考え方です。しかし、欲望はコントロールされなければなりませんが、神様が与えられた素晴らしいものであると聖書は教えています(御霊の実に「節制」とあるのは非常に意味のあることです)。そしてこれらは人の言葉です。私たちは意外と人の言葉・・近所の人や友人、親兄弟・・それが根拠のないうわさ話のようなものであっても、特に自分の考えや思いがしっかりしていなければ、束縛され支配されてしまう事があります。私たちはそこから解放され、自由にされる必要があります。そしてそれらから自由になることは非常に簡単なことです。そのことについて私も孝子師も講習を受け、解放も経験しました。そして解放されて初めて祖の先にあるもの・・きよめでもなく、神様の愛、力でもなくそれら全部を含め+α(アルファ)した「神の国」がみえてくるのです。

2018年10月21日

2018年10月7日

2018年10月7日                  「重荷を下ろそう!」                 マタイによる福音書8章23~27節

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
今日の箇所は、イエス様が嵐を静めるという所です。「嵐」と訳されたギリシャ語はセイスモスという言葉で、新約では14回ほど用いられており、ほかの箇所では全て「地震」と訳されているそうです。湖の上で起こっていることだから「嵐」となっています。「湖」は「海」とも訳され、黙示録などでも示されているように、この世とか、サタン的勢力が力を振るっている領域を暗示しています(黙13:1~)。舟とはキリストを信じる人たちの群れで、そこにイエス様が乗り込まれるのです。それなのに嵐となり、小さな舟は沈みそうになります。イエス様はそばにいてくださるのに不安なら、イエス様に助けを求めればいいのです。ただ、度々イエス様に信頼できないとしたら、自分の内に巣くってサタンの領域になっているものがあります。そこから解放されなければなりません。先々週、敵意について話しをしましたが、十分でなかったので、その敵意などもどうするかを、具体的に進めていきたいと思います。主のもとに、重荷を下ろしましょう!

2018年10月08日

2018年9月30日

2018年9月30日                  「インマヌエルの信仰―ヨセフ」                 創世記45章1~15節
「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、攻め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(45:5)
ヨハネ5章39節に書いてあるように、旧約は研究して真理を捜さなければならないし(それに対して新約は旧約の答えであり、求められるのは実行すること)、また、そこにイエス様の御姿を見出さなければならない。アブラハムからは、父なる神様に従われるイエス様の御姿(ヨハ5:30)、イサクからは、平和の主であるイエス様の御姿(エフェソ2:14)、ヤコブからは勝利者なるイエス様のお姿(ヨハ16:33、1コリ15:57)、そして今日のテーマであるヨセフは、インマヌエルであるイエス様のお姿です(マタ1:23)。ヨセフはヤコブの11番目の男の子であり、愛するラケルの最初の子です。それゆえ兄たちから憎まれ(37:8)、エジプトに売られ(37:28)、無実の罪で囚人となり(39:20)、助けた人から忘れられ(40:23)、・・まことに散々な人生です・・しかし、「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである.」(39:23)と書いてあるように、主は彼を「エジプト全国の上に」立たせられたのです(41:41)。最大の試練はその後来ました。食糧を求めて兄たちがあの夢のように(37:8)、ヨセフの足元にひれ伏したのです。それでも彼は愛と忍耐と赦しの人でした。何故なら彼は、忘れることができたからです。そしてイエス様の十字架こそが、私たちの罪をすべて、完全に忘れてくださるのです(Ⅰヨハ1:7~9)。

2018年10月02日

2018年9月23日

2018年9月23日               「敵意の壁は取り除かれる」              エフェソの信徒への手紙2章14~17節

「実に、キリストは・・・二つのものをひとつにし、・・・御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・。」(エフェソ2:14)
皆さんの先週の日々の生活は、平和だったでしょうか。様々な事件もありました。今日の聖書の箇所にでてくる「敵意」とは何でしょうか。反対の言葉は「好意」です。敵意は、恐怖心や警戒心、怒りや憎悪、恨みや恥、復讐心などと密接に結びついた感情の一つです。そこには偏見や心の傷があります。人や物事を偏り見るというのは、人の常かも知れませんが、親を始めとする周りの人から与えられたり、よく調べないで少しの情報で決めつけてしまったり、生涯によるかも知れません。自分の存在が脅かされる時、自分が傷つけられ、或いは自分の愛するものや大切にしているものが傷つけられ奪われようとする時、またそんな危険を感じた時に、人は強い敵意を相手に持つのです。このような「敵意」を、キリストは十字架によって、根本から打ち壊し、平和を与えられたのです。

2018年09月28日

2018年9月16日

2018年9月16日              「神中心の信仰へーヤコブ」                   創世記32章23~33節

「ヤコブは、『わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。」(32:31)
「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて行きます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリ3:18)
 族長の信仰に学ぶ3回目は「ヤコブ」です。アブラハムは祝福より、祝福の与え主を信頼する信仰・・「アブラムは主を信じた。」と書いてあるように、この御方を徹底的に信じて、人類が呪い(死)ではなく、祝福(命)を得る道を切り開いた人です。イサクは平和を求めました。父アブラムから受け継いだものを守るために徹底的に弱くなり、争いを避けたのです。逃げて逃げて逃げまくって、ついにレホボト(広い場所)を見出したのです。そこで彼は誰はばかることなく、思いっきり命の水を汲み上げたのです。さてヤコブですが、彼は隔世遺伝でしょうか?性格は祖父であるアブラムに似ていたようです。さらにヤコブはほしい物はどんな手段を使っても、たとえ父を騙してでも得ようとする、狂気じみた野心を持っていました(27:18~29)。その彼を変えたのは、双子の兄エサウから逃げ、石を枕にして寝ていた時のベテル(神の家)の経験です。確かにヤコブはここで自分の神様に出会ったのです。でもここではまだ自己中心の信仰で、神様と商人がするように取引しようとしました。もう一つの大きな転機は、エサウと再会する前のペヌエル(神の顔)の経験です。これがヤコブを自己中心の信仰から神中心の信仰へと成長させたのです。何故ならこの体験が聖潔(きよめ)であり、その時からヤコブ(押しのける者)は、イスラエル(神に勝つ・神は争う・神が支配する)に変えられたのです。ア~メン

2018年09月18日

2018年9月9日

2018年9月9日                 「平和を求める信仰ーイサク」                   創世記26章15~22節

「イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。」(26:22)
 「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:10)
 族長の信仰に学ぶ2回目は「イサク」です。彼は父アブラハムとは違い、父に殺されそうになっても抵抗せず(22:10)、自分の嫁を父たちに決められてもそのことに文句を言わないような、おとなしく従順な性格だったようです。また、ベエル・ラハイ・ロイに住んでいた時飢饉になりました。当時飢饉になれば、エジプトへ食料を求めて行った時代です。アブラハムはカナンを離れましたが、イサクはとどまりました(26:1~6)。彼は受け身的な生涯・・否、徹底して受け身的信仰?を持っていたのです。ですから彼が主の祝福を受けて豊かになり、地元に人たちから妬まれ、またペリシテ人の王アビメレクから「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。」(26:16)と認められてもその力を行使せず、まるで弱い者のように逃げ回り、ついに争いのない広い場所・・レホボトを見つけたのです。イサクはなぜそのようなことができたのでしょうか?それは彼が自分の弱さを認めていたからです。彼は自分が生きていく場所を、汲めども尽きない命の水を、争いではなく逃げることによって勝ち取っていったのです。そして主は彼の信仰を祝福されました。

2018年09月09日

2018年9月2日

2018年9月2日                 「信仰・・従順VS信頼」               創世記12章1~3節、22章1~19節

「アブラハムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。(12:4)
アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。                                                               (22:14) 
 旧約聖書はある面、問いかけであり、基礎です。それに対して新約聖書は答えであり、応用です。旧約は学ばなければなりませんが、新約は実践を求められます。そういうわけで今月は神の選ばれた人であり族長であるアブラハム・イサク・ヤコブまたヨセフの信仰について学んでいきたいと思います。まず信仰の父と呼ばれたアブラハムです。彼が75歳の時、主である神様が「わたしが示す地に行きなさい。」と言われ、それに従って親族の住」むハランを離れてカナンに旅立ったのです。そのことを新約では「これに服従し、行先も知らずに出発したのです。」(ヘブ11:8)と表現しています。さらにここを詳訳聖書では「彼は自分がどこへ行くべきかを知らなかった(わざわざ考えることもなかった)のですが、出て行ったのです。」と表現されています。今日皆さんと一緒に考えたいのは(わざわざ考えることもなかった)の部分です。何故でしょうか?「従順」とは、「おとなしい・素直」というだけでなく、「自分の意見を持たない・考えない」と言う意味も含みます。彼は自分で考えることを放棄して、ただ神様に従ったことが素晴らしかったのでしょうか??ここでアブラハムの信仰を知るもう一つの言葉を考えてみましょう。それが「ヤーウェ・イルエ」です。彼は祝福の約束に引かれて、主に従ったわけではありません。もしそうであるならその祝福の基である「イサク」を捧げれる筈がありません。そうではなく、「アブラムは主を信じた。」(15:6)のです。徹底的に信頼したのです。

2018年09月02日

2018年8月26日

2018年8月26日                   「潜んでいる恐れ」                 イザヤ書43章1~3節、41章10節

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。

 わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」(イザヤ41:10新改訳)
聖書には何度も「恐れるな!」と言われる神様の言葉が出てきます。365回もあると言う人もあったりしますが、数えるとそんなにはないみたいです。皆さんは何かを恐れていますか?決して恥ずかしいことではありません。人間は恐れるばかりするので、神様は何度もしつこく忠告して、励ましてくださるのです。ただ、気を付けなければならないことがあります。恐れには、分かりやすい「恐れ」と分かりにくい「恐れ」があるということです。前者は、湖の上を歩くイエス様を幽霊と間違えた時などです(マタイ14:26)。恐怖映画を見たり、怖い話しを好んでいないでしょうか。サタンや悪霊は、私たちを恐れの虜にすることを楽しみます。その結果、神様に寄り頼めなくなるのです。後者は、表面上は恐れと関連してるようには見えないもので、人への配慮だったりします。「サタンでさえ光の天使を装うのです。」(Ⅱコリント11:14)。人への配慮などは、日常生活の中でとても大切なことです。しかし、配慮という仮面をかぶった「恐れ」が潜んでいる場合もあります。気を付けて、だまされないようにしなければなりません。

2018年08月27日

2018年8月19日

2018年8月19日               「クリスチャンの自由Ⅰ」               コロサイの信徒への手紙2章16~19節

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。
」(口語訳ガラテヤ5:1)
 2回にわたって、日常生活のなかでの「クリスチャンの自由Ⅰ」について考えてみたいと思います。1回目の今日は物理的な事柄からの解放です。つまり食べ物や祭り、暦(こよみ)、礼拝日(主日)などです。旧約において礼拝日は安息日として金曜日の日没から土曜日の日没までと決まっていました。この日は特別な日として聖別し働いてはいけない日です。イエス様の頃には、労働はもちろん、遠出も料理も人を助けることもしてはいけない日でした。しかし、新約においては「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハ4:24)とイエス様が言われたように、十字架の贖いによって神殿の垂れ幕が裂け(マタ27:51)、原則としていつでも、どこでも、誰とでも神様を礼拝できるのです。ですから私たちが日曜日に教会で礼拝するのは義務からでもなく、強いられてでもなく、復活したイエスさまを喜ぶためなのです。また暦には、中国から渡って来た「六曜」という考え方があります。つまり「先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口」の事です。これは元々固有の吉凶が定められていて「縁起を担ぐ」ことから賭場の遊び人や勝負師の間で用いられていたと言われています。これが意外にわたしたちの生活にかかわってきています。「?日は仏滅だから、結婚式は避けよう」とか「友引だから火葬場が開いていない」などです。つまり、同じ日なのに、縁起の良い日と悪い日があるのです・・本当でしょうか???すべての日や方角や食物は、私たち人のために主が作って下さったのです。吉凶や縁起の良し悪しはありません(詩篇118:24)。

2018年08月24日

2018年8月12日

2018年8月12日           「主と共に葬られ復活させられる」                コロサイの信徒への手紙2章6~15節

「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」(6)

「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(12)
「受け入れたのですから、そのように彼との一致の中に(にならって)歩きなさい(生活を規制しなさい・ふるまいなさい。)(詳訳聖書)と書いてあります。言葉を変えて言えば、日々の生活のレベルまでイエス様のようになりなさいと言っているのです。可能でしょうか?「・・私たちはただの人間だから、神の子であるイエス様のようにはとてもとても・・」と思うかもしれません。しかし聖書的には可能なのです。イエス様は「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」(ヨハ14:12)と言われました。ここの聖書では自分の力ではなく祈ることにより、神様の力によって可能になると言っているのです。ここで頼るのも、「キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて・・」と書いてあるように自分の力ではなく神の力なのです。祈りましょう。求めましょう。そして信じましょう。

2018年08月24日

2018年8月5日

2018年8月5日                「祈りによる苦闘」                   コロサイの信徒への手紙2章1~5節

「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」(ルカ22:46
 私たちは、人が苦しんでいても何の手助けをしてあげられないことがあります。コロサイの信徒に危機が迫った時、パウロはローマの獄中におり、何もできないどころか自分のいのちも危ない状況でした。しかし、パウロは会ったことのない彼らのために祈り、ストレートにその思いを手紙に書いたのです。祈りとは単なる言葉の綾ではありません。祈りは私たちの心を神様に向け、実際に神様の御手を動かすことであり私たちの信仰の告白でもあります。では、パウロは子の祈りによって何をしたかったのでしょうか?第一は励ましです。先日宣教に来てくれた香港チームは、日本の教会は小さくてお年寄りが多いと言っていました。政府から疎んじられている中国であっても教会が大きく若者が多いのです(人口13億人中1億人越え)。世界的に見れば3割以上がクリスチャンです。しかしこの時代は少数派です。価値観が違います。人を愛し(自分含む)仕えて行こうという生き方が、神様の御心であると励まし、困難だけどこの生き方が可能であると示していく必要があったのです。なぜならこの生き方こそキリストの生き方であり、知恵も知識もそれらを用いる力もすべてキリストの内にあるからです。

2018年08月24日

2018年7月22日

2018年7月22日             「聖霊に助けられた祈り」                   使徒言行録2章1~4、17,18節

「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(使徒2:17)

先々週、芦屋福音教会に行ってから、主人や由美子師と同じく、朝4時くらいから祈る者にされています。今までも、時間や場所はその日によってまちまちでしたが、多少祈ってはいました。しかし、あれからは、祈ることが楽しい!祈ることが嬉しい!のです。今は、聖書的に終末の時代です。神様は、この時に、すべての人に聖霊を注いでくださるのです。聖霊を注がれると、どうなのでしょうか?私たちは、誰かを通して、神様にお願い事をするということはなくなりました。イエス様のお名前を通せば、直通で神様にお願いすれば良いことになりました(ヨハネ16:24)。また、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ8:26)のです。このような素晴らしい助け手を与えられているのですから、もっともっと祈って、喜びに満たされましょう。

2018年07月22日

2018年7月15日

2018年7月15日                   「栄光の望みキリスト」            コロサイの信徒への手紙1章24~29節

「この奥義は、あなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みである。」(コロサイ1:27新改訳)
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証をするものだ。」(ヨハネ5:39)
 「秘められた計画」とは、選民イスラエルだけでなく、すべての人類を救う計画の事です。そしてこの計画の中心が・・上手に聞いてください・・聖書ではなくキリストなのです。方法ではなく御方なのです。この御方は人を愛する愛ゆえに、創造主であられたのに、人として生まれてくださり、罪なき御方として私たちべての罪の身代わりとして十字架にかかって下さったのです。それによって私たち罪ゆえに滅びる者が、永遠の命に移され、神と離れることによって失った「神の・・かたち」(創世1:27)を再創造されているのです。私たちは聖書を学びます。それは最高に素晴らしいことです。しかしそれだけでは「完全な者」(28)となれないのです。私たちは御言葉を深く知り、それを正しく行うことによって完全なものとなれるのです。そして、聖書のお言葉はキリストによらなければ行えないのです。

2018年07月16日

2018年7月1日

2018年7月1日                  「体である教会に仕える」              コロサイの信徒への手紙1章24~29節

「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、全ての人がキリストに結ばれて完全なものとなるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。」(コロサイ1:27b~28)
前回は「福音に仕える」という題でメッセージしました。パウロにとって福音に仕えることも、教会に仕えることも同じなのです。なぜならともにイエス様に仕えることだからです。そしてイエス様に仕えるとはイエス様と同じ視点を持ち、願わくばイエス様のようになりたいと思うようになることです。ではイエス様の御目はどこに向けられているでしょうか?教会です。そして教会の生長(完成に向けて)のために苦しんでいるとパウロは言っています。もちろんここで言う「教会」とは見える各個教会のことではありません。ですから建物や人数のことに触れられていないのです。では見えない教会の成長とはどういう事でしょうか。それは一人のキリストによって生まれた人の生長なのです。もちろん最初は人のお世話や導き必要でしょう。しかし成長するにつけて、自分の計画ではなく主からの計画(自分に与えられた使命)を求めるようになり、霊的指導者ではなく直接主に結びついて、キリストにある成人となるのです。そしてはじめて私たちは「互いに愛し合いなさい。」(ヨハ13:34)の命令を実行することができるのです。

2018年07月02日

2018年6月24日

2018年6月24日                「神の国の王様」                  マタイによる福音書21章1~11節

「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

                                                           (マタイ21:5)
平成の世も、今年度で終わりです。来年には天皇が代わり、新しい元号になります。日本のロイヤルファミリーも色々と大変みたいですが、今の天皇が自ら退位を希望されたそうです。今、祈祷会(一)では、イスラエルの初代王様のサウルの所を学んでいます(サムエル記上)が、最初が良かっただけに、神様からその任を外されたのに、どこまでも権威にしがみつこうとする姿は、つらいものです。ゼカリヤ書には、王としてエルサレムに来られる方、王なるキリスト、神に従って、勝利を得られた方、ろばの子に乗って来られる方のことが預言されています(9:9)。イエス様は、神様から選ばれた神の国の王様として、エルサレムに入られたのです。そしてイエス様は、旧約時代の3つの大きな役割(王、祭司、預言者)を持っておられます。今日もイエス様が王となられるところに神の国が、神の主権と支配が表されるのです。主イエス様が私たちの生活と人生において王となられるとするなら、どうでしょうか。イエス様が王であるとするなら、神の国に生きる私たちのすることは何でしょうか。ろばの子のようにへりくだり、2人の弟子たちのように主によく聞き、従う者とされましょう。

2018年06月25日

2018年6月17日

2018年6月17日               「福音に仕える」                   コロサイの信徒への手紙1章21~24節

「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。」(23)
 福音とは、神様から人への良き知らせであり、「闇から光に」「滅びから永遠に」「サタンの支配から神の御許に」「死から命に」に移された事です。ですがこの福音は大きすぎて理解しにくいところがあります。そこでパウロはコロサイの人々に「以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」これが福音だと言ったのです。そしてパウロはこの福音がなたがたの生活に、希望に、生き方になるように仕える者とされたと言ったのです。私もそうです。以前は教団・教会に仕えていました。しかし「教会の7つの本質」という概念に触れてから、パウロのように福音に仕えたいと思い牧師から牧仕に変えたのです。私の名刺に家のようなマークがありますが、土台は「教会の7つの本質」(聖書)であり、屋根は大宣教命令(マタ28:18~20)であり、新しい戒め(ヨハ13:34・35)です。2本の柱は、自分を愛することと人を育てること。家の形は(カップケーキではありません)、まさに福音は少人数や家・・夫婦や家庭の中で実践されるべきものであり、優先ではなくそのすべてにおいてイエス様に聞く(イエス中心)ことを現したものです。私はこのような生き方をしたい。そして皆様方にもこの様な生き方をお勧めします。

2018年06月20日

2018年6月10日

2018年6月10日             「生者と死者の主である御方」               コロサイの信徒への手紙1章15~23節

「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ロマ14:9)
私たちは、人であって人以外になれない者です。私たちは被造物であって、無から有を創り出すことのできない者です。私たちは生きている者であって死んだこ
とのない者です。ですからここに記されてるイエス様像は理解できないのです。では記者であるパウロはどうなのか?彼は神からの啓示を受け入れたのです。パ
ウロによればキリストは、全ての物の創り主であり、全ての物を支えておられる御方・・すなわち神御自身であり、御父に対して御子なのです。そしてこの御方が人として人の世に来て下さり、人の罪を背負って死なれ、死を打ち破ってよみがえられたのです。この御方が「頭」であり、「初めの者」であるなら、後に続く私たちも同じようによみがえることができるのです。私たちは以前「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」ではなく「神の怒りを受けるべき者」(エペ2:3)だったのです。しかし御子の十字架の死の和解によって私たちは神の祝福を受け続ける者・・生きている間も死んだ後も・・とされたのです。これが神からの福音であり私たちの希望なのです。パウロはその福音に仕える者とされたと言いました。私もそうなりたいです。そして、私たちもこの福音によって神との平和、人との平和、自分との平和に生きる者とされたいです。

2018年06月12日

2018年6月3日

2018年6月3日                 「何故祈らなければならないのか」            コロサイの信徒への手紙1章9~14節

「わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。」(Ⅰサム12:23)
今日は改めて「祈り」について考えてみたいと思います。と言っても定義や方法ではなくて、どうすれば的を得た、長い祈りが出来るかを考えたいのです。こんなことを言うと牧仕として非常に恥ずかしいのですが、祈れないのです。私は6時に起きて、1時間半祈りそれから散歩に行って・・と決めているのですが、なかなかできないのです。本当はもう少し早く起きて3時間半は祈りたいのです。それが文字通り夢の中になってしまうのです。どうすればいいでしょうか?ここでパウロも聖徒のために祈っています。一つは主の御心を知って、御心に従って歩んでいけるようにとの祈りです。なぜこのような祈りが必要なのでしょうか?それは「霊によるあらゆる知恵と理解によって」と書いてあるように、私たちクリスチャンはこの世の価値観ではなく、神の価値観で生きているのです。この世の価値観なら聞かなくとも分かります。この世で生まれ育ったからです。しかし、神の価値観は聞かなくては分かりません。そして御声は細く小さいのです。つぎに「どんなことも根気強く耐え忍ぶように」と祈っています。なぜなら主の御心に従えば主が助けてくださるからです。主の御心は一人では行えません。だから必ず主の助けと仲間が与えられるのです。それまで希望をもって主がこの問題に介入して下さるまで、耐え(ヒュポモネー境遇に対して)忍ぶ(マクロトゥミアー人々に対して)ことが大切なのです。このことによって主が私たちに逆転の人生を与え、また決して変わることのない赦しの喜びを知ることになるのです。

2018年06月04日

2018年5月27日

2018年5月27日                    「祈る喜び」                  ヨハネによる福音書16章16~24節

「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:24)
皆さんは、神様というお方を知られる前に、祈った経験をお持ちでしょうか。私は願い事があると、家の仏壇の前でお願いしていました。後に、お願いしていた相手は、先祖ではなく、聖書の神様だと分かりました。困った事があると、一人で抱え込むのはつらいものです。話せる相手や相談出来る人がいると、楽だし心強いですよね。旧約時代は、一般人は直接神様に近づくことさえ出来ず、選ばれた特別な人しか神様と話す事が出来ませんでした。しかしイエス様によって、私たちは自由に近づけるし、話すことが出来るようにされたのです。それだけではなく、イエス様の方から「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(15:7)とさえ言ってくださっているのです。勿論、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」(15:7)との但し書き付きですが。こんなにも素晴らしい恵みを頂いているのに、遠慮したり、始めから諦めてしまって、試そうともしないことが余りにも多いのではないでしょうか。もう一度、祈り始めませんか。どうせダメ、もう駄目だと思える中にも、祈りと希望が与えられますように。「そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

2018年05月29日

2018年5月20日

2018年5月20日                  「教会??の誕生」                    使徒言行録2章37~42節

「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心で あった。」(使徒2:41・42)
 今日はペンテコステ(五旬節―過ぎ越し祭りから50日目)、すなわち教会の誕生日なのです。では教会とは、教える会?いいえギリシャ語(原語)でエクレーシア「呼び出された者たち」という意味で、「民の集会・共同体・教会」と訳されています。これを私流に定義すると「キリストの十字架と復活によってこの世から選び分かたれ、聖霊の内住によって一つとされ、父なる神の御心を行うために集められた人々の群れ」となります。つまり教会とは、建物でも組織でもなく、神さまから特別な使命を与えられたチームであり、チームとつながった個人なのです。では、教会はどのように誕生したのでしょうか。第一は、主の御心・ビジョンです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(1:8) イスラエルの復興を願っていた弟子たちには理解しがたいことだったかも知れませんが、彼らは従いエルサレムにとどまったのです。次に祈りです。少なくとも3種類の一緒に祈ることの難しい人々です。しかし、彼らは心を一つにして求めたのです。アーメン

2018年05月20日

2018年5月13日

2018年5月13日           「闇の支配から、御子の御国に」                 コロサイの信徒への手紙1章9~14節

「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:13・14)
「こういうわけで、」と前節を受けてのこの箇所(9~)は、祈りから始まっています。なぜなら成長して実を結ぶためには太い根のような、しっかりとした土台が必要だからです。その土台から外れることなくしっかりと根差すことができるようにと、パウロが祈ったのです。「あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように」(11)と書いてあるように、主の御心を行うからと言ってすべてが、順風満帆行けるわけではありません。いえ、むしろ従おうとすればするほど御心に反する力が妨害するのです。それらの妨害に抵抗し、従ってゆくためには何が必要ですか?それは神様への信頼です。父なる神様は何をしてくださいましたか?御子であるイエス様は何をしてくださいましたか?「『このみ父』は、私たちを暗黒の支配『統治』から救い出して『ご自分のみもとに引き寄せて』、彼の愛のみ子の王国の中に私たちを移されました。」(詳訳聖書)これから「王国」に移そうではなく、こういう条件を満たしたら‥でもありません。私たちはもう罪あるものが決して入ることがない永遠の王国に移された者なのです。そのために主が何をしてくださったのか、その恵みを思い返しましょう。

2018年05月12日

2018年5月6日

2018年5月6日                「信仰・愛・そして結実」                コロサイの信徒への手紙1章3~8節

「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それを本当に理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。」(6節―新改訳)
 著者パウロは、コロサイに行ったことがありません。しかしエパフラスからローマの獄中で報告を受けていました。彼は、実際は愛弟子だったのでしょうが、エパフラスを独立させながらも同労者として関係を持ち続けていたのでしょう。そして、彼からの報告はおおむね良好でした。パウロは、彼が伝えた福音によって、コロサイの人々がイエス様への信仰と顔も知らないすべての聖徒への愛を持つようになったことを、神様に感謝しています。今日はこの「伝えられた福音」について考えてみたいと思います。ポイントは「聞いて真に悟った日」です。彼らは何を悟ったのでしょうか?①福音とは、天に蓄えられたいる希望に基づくものです。・・これは単に「天国に行ける」言うだけでなく、聖書で約束されている様々な祝福を待ち望むことを意味します。②福音とは、世界中の人々に必要なものです。・・老若男女、他の神様を信じていようが、いまいがです。なぜなら
イエス様は特定の人々のために死に、よみがえって下さったのではなく、文字通りすべての人のためだからです。信じれば生き方が変わります。私たち聖徒はその証人なのです。③福音とは、実を結ばせるものです。生き方が変わるとは、悔い改めて(メタノイヤー方向転換)、イエス様のように生きることです。一言であらわせば争うのではなく、イエス様のように人を愛せるようになるのです。

2018年05月07日

2018年4月29日

2018年4月29日                 「神様と永遠」                      コヘレトの言葉3章1~11節

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」 (口語訳 伝道の書3:11)
皆さんは、トレンド(時代の潮流や流行)に乗るのは好きでしょうか?私は、最先端の服や物を身に付けたいとは思わないのですが、あまりに大昔の服とかを着るのは、周りの人のためにやめておこうと思うくらいです。流行りは時の経過と共に変化していきます。しかし、私たちが生かされている「時の流れ」は、変えることは出来ません。流行のようにもう一度やり直すことも出来ないのです。そしてその「時」を支配しておられるのは神様です。日野原先生は、命は目に見えないが私たちが持っている時間だからだと言われました。神様はまた私たちに永遠を思う思いを与えてくださいました。永遠という概念は、分かっているようで本当は分からないものではないでしょうか。神様にとっては「一日は千年のようで、千年は一日のよう」(Ⅱペトロ3:8)。私たちは人生80年ほどを一日のようだとはとても言えません。でも、何かを思い出す時はまるで昨日の事のように思えることがあります。永遠を思う思いが与えられているということは、神様の憐みだと言う他はありません。永遠という観点から見ると、時の流れは止まったようかも知れませんが、刹那に生きる人間には、ものすごく速い流れに思えます。その中で、神様は「永遠の腕」(申命記33:27)をもって私たちを支え、イエス様の恵みによって、永遠の中に組み入れてくださるのです。

2018年04月29日

2018年4月22日

2018年4月22日                「せいと?生徒?聖徒?」                コロサイの信徒への手紙1章1、2節

「コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」 コロサイ1:2
 今日から「コロサイの信徒への手紙」を共に学んでいきたいと思います。この手紙は紀元60年頃ローマの幽囚時代(幽囚書簡)にコロサイに行ったことのないパウロが書いたと言われています。その目的は、入ってきた危険極まりない異端に対して、正しい福音を土台とした信仰生活について説くためでした。
 さてパウロはこの手紙の「挨拶」において「聖なる者たち(聖徒たち―新改訳)」と呼びかけています。「聖なる者」とはカトリックの言う「聖人」のような特別な人の事なのでしょうか?いいえ。使われている原語「ハギオス」は「分離」という根源的意味があり、「神様の御用のために選び分かたれた人」と言う立場的な意味があります。同時に「神様に対して忠実に生きることができる人」と言う質的な意味もあるのです。繰り返します。私たちは「キリストに結ばれている」から聖なる者であり、「キリストに結ばれている」から従うことができ、「キリストに結ばれている」から、創造主であり至高な御方が父であり、「キリストに結ばれている」から私たちは兄弟姉妹・・神の家族なのです。そして「聖なる者」の特徴は、イエス様のように人を愛することができ、問題ある人が変えられるように祈るのではなく、その人を愛し受け入れることができるように、祈れることです。 

2018年04月25日

2018年4月8日

2018年4月8日                  「教会(公同)の目的」                 エフェソの信徒への手紙4章7~16節

「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を作り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:12・13)
今日は公同の教会、すなわち「キリストの体」について考えてみたいと思います。まず前提は、「聖なる者」であるという事です。単なる罪を赦された罪人ではなく、「神の子となる資格」(ヨハ1:12)を与えられました。それだけでなく「わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」(ヨハ14:12)と言われたのです。つまり私たちは、神の子としての身分だけでなく、神の子としての働きをすることができるということです。さてそこには2つの方向性があります。1つは成熟・成長すること・・イエス様に聞き、イエス様に従い、イエス様と共に行動する大人のクリスチャンとなることです。2つ目は、「あらゆる節々が補い合うことによって」(16)と書いてあるように、助け合うことです。つまりチームになっていくことです。それはプロのスポーツチームがそうであるように、自分の弱みではなく強みを活かしていくことです。出来ないことではなく出来ることでチームに仕えていくことです。そして、主は「わたしたち一人一人に」(7)賜物を恵みとして与えられています。これらの事を現実化していくために最も大切なことは自分の賜物は何か?また、賜物を活かすポジションー役割は何かを知っていくことです。

2018年04月08日

2018年4月1日

2018年4月1日                  「永遠の希望」               コリントの信徒への手紙一 15章20~28節

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」(Ⅰコリント15:20・21)
イースターおめでとうございます!キリスト教の行事の中でクリスマスと並ぶ大切な日です。クリスマスは、神である御方が私たちを救うために来て下さった日であり、イースターは人類の最大の敵である「死」に打ち勝って復活した日だからです。では「死」とは何でしょうか?人は霊・魂・体(Ⅰテサロニケ5:23)でできていると聖書は言っています。そしてそれぞれに「死」があるのです。「霊」の死は霊なるお方から切り離されることであり、「魂」の死は差別や憎しみや自分の事しか考えない自己中心の心の事であり(聖書的罪)、「体」の死は「塵は元の大地に帰り」(コヘレト12:7)に書いてあるとおりです。しかし、キリストはこれらの「死」を打ち破って復活してくださいました。霊は神様と再び結びつき、魂は愛で満たされ、体は決して塵に帰ることのない、復活したイエス様のような「霊の体(Ⅰコリント15:44)が与えられるのです。理屈が分かっても「死」は現実的な悲しみと恐怖を与えるのも事実です。イエス様を失った弟子たちがそうでした。しかし復活したイエス様は悲しみの真ん中に立って「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19新改訳)と言ってくださるのです。

2018年04月03日

2018年3月25日

2018年3月25日              「和解の十字架」                 エフェソの信徒への手紙2章11~22節

「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:16)
十字架は、クリスチャンにとって最大のシンボルです。神なる御方が罪なき人としてこの地上に生まれて下さり、全ての人の罪を背負って十字架の上で罰を受けられました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)・・私たちの身代わりとなってイエス様が神様から見捨てられたことにより、私たちは決して見捨てられない者、祝福を受ける者、すなわち救われたのです。ハレルヤ!しかしそれだけではありません。神と人を結ぶ(和解)十字架は人と人を和解させることもできます。パウロは十字架には、2つのものの間にある「敵意と言う隔ての壁」を取り壊し1つにする力があると言いました。ここではいわゆる「異邦人」と「選民」と言う2つのものを、一人の新しい人に造り上げると言っています。事実私たち異邦人は「約束を含む契約と関係なく・・」つまり、聖書にも創造主なる神にも関係がなかったのです。しかし今や全ての人のために流してくださった御血潮によって「あなたの神はわたしの神」(ルツ2:16)と言うことができるのです。そして私たちは多くの人との間に「敵意」を持っています。

2018年03月28日

2018年3月18日

2018年3月18日                 「失望に終わらない希望」              ローマの信徒への手紙5章1~11節   

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)
人生は思い通りにならないことばかりだと、子育てや様々なことを通して、改めて思わされます。思い通りにならないだけでなく、困難や試練の中にあると、希望も失われ、絶望の淵に立たされ、生きる気力も失われてしまうこともあります。
しかし、聖書は「希望は失望に終わることはありません」と宣言します。神様は私たちを愛してくださり、幸せな人生を歩んで欲しいと願われています。イエス様によって神様が私たちを愛していてくださること(ロマ5:8)と神様の私たちへのご計画(ロマ8:28)を知る時、患難をも喜ぶ者に変えられ、消えることのない希望を持つ者にされるのです。今、失望の中にあって、希望なんかとても無理と言われる方がいらっしゃるでしょうか。その不安・心配、苦しみや不満、失望を、
神様に有りのまま吐き出し、それをそのまま差し出してましょう。本当にそれらを神様に手渡すなら、平安が与えられ、暗闇の中に希望の光が灯されるのです。

2018年03月18日

2018年3月11日

2018年3月11日                「主の証人ヨハネ」                ヨハネによる福音書21章20~25節

「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」(21:24)

この福音書の著者はヨハネです。彼は「愛の使徒ヨハネ」とも呼ばれ、人からもイエス様からも愛され、使徒たちの中では唯一殉教しなかった人物です。ヨハネにはエフェソで杯に毒を入れられても何の害も受けなかったとか、ローマ帝国の迫害で煮えたぎる油壷に投げ込まれても火傷ひとつしなかったという伝説もありますが、以下の2つはヨハネの事をよく表していると言われて居ます。①かつて導いた青年が主から離れ、ついに山賊までになってしまったのを、老齢になったヨハネが「わが子よ、わが子よ」と叫びながら追いかけついに改心させた事。②晩年ヨハネが「子どもたちよ、互いに相愛しなさい」と繰り返し言い、弟子たちがそのことで不平を漏らすと、「これは主が命じられた使信である。もしこのことが守られるなら、それで充分である」と答えた事。
 しかし、ヨハネは始めから愛に満たされた人物ではありませんでした。ボアネルゲス(雷の子ら)と呼ばれ(マルコ3:17)、かなり激しい気性の持ち主だったようです(参照ルカ9:49~56)。彼はなぜ「雷の子」から「愛の使徒」に変えられたのでしょうか?ヨハネは「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」(Ⅰヨハ1:1)と書いているように彼はいつもイエス様のすぐそばにいて見ていたのです。正確にはイエス様が絶えず側にいて下さることを求めたのです。

2018年03月16日

2018年3月4日

2018年3月4日                「愛さなければ、従えない」              ヨハネによる福音書21章15~19節

「『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた。」(15)
先日「阪神セルコーチング」と言う集会に参加しました。テーマは「イエス中心」です。結果的に神様の臨在あふれる素晴らしい集会になりました。そこには特別な講師もいず、良い方策が語られたのでもありません。それぞれがそれぞれの立場から、イエス様を中心として生きることの難しさを吐露したにすぎません。しかしそこに真実があったと私は思います。21章はおまけのような章です。手紙で言えば追伸のようなものでしょうか?目的は3度もイエス様を否定し、従おうとしても従いきれないペトロの回復と、ヨハネに対するイエス様の言葉の誤解を解くためです。以前ペトロは、「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)と言いました。彼は本気でしたが、結果はイエス様を知らないと言ってしまったのです。ペトロにとって痛恨の極みだったでしょう。そんなペトロにイエス様は優しく、従うか?ではなく愛するか(アガペー)?と問われたのです。彼はは、正直に好きです(フィレオ)。としか答えられませんでしたが、イエス様はそれで十分だと言われました。なぜならイエス様こそアガペーそのものの御方だからです

2018年03月03日

2018年2月25日

2018年2月25日                    「臨在の喜び」                 出エジプト記33章12~15節

「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう。」(出エジプト33:14口語訳)
日本勢が素晴らしい記録を残した平昌五輪も、今日閉会式を迎えます。偉業を成し遂げた多くの方が、沢山の人々の支えがあったからだと感謝しています。誰かが一緒にいてくれるって、心強いし嬉しいですよね。私たちには何と言っても、神様が一緒にいてくださいます。それも期間限定ではなく永遠にです。そして主がご一緒だという事は、同時に安息、休みが与えると約束されています。それは、何物にも勝る、どんな挫折や苦境、悲しみや痛みの中でも、変わらない平安と大きな喜びなのです。神様は私たちに一人じゃない喜びを与えたいと願っていてくださるのです。それなのに、主のご臨在の喜びを覚えることが出来ないとしたら、何故でしょうか?自分は不十分だ、無力だ、もう絶望的だと思い込んでいたり、恐れ、憎しみや呪い、魔術、オカルト、また性的な罪やそのほかの罪が邪魔をして、活ける神様のご臨在を分からなくするのです。今日、神様の前にこれらをお献げし、主のご臨在の喜びを味わせて頂きましょう。そして「わたしは常に主をわたしの前に置く」(詩篇16:8)と告白したダビデ王のごとく、主のご臨在がいつの間にかなくなっていたということにならないように、日々、意識して主の前を歩む者とされましょう。 

2018年02月27日

2018年2月11日

2018年2月11日               「疑う者トマス」                 ヨハネによる福音書20章24~29節

「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』」(ヨハネ20:29)
1週間前、戸に鍵をかけた部屋にイエス様が姿を現し、12弟子に「平和があるように」と言われました。しかしそこにトマスはいませんでした。そしてトマスは10人の弟子たちが「主を見た」と言っても信じなかったのです。この出来事から「疑い深いトマス」と疑うことが彼の性格のように言われていますが、本当にそうなのでしょうか?トマスは「ディディモ」と呼ばれていました。「双子」と言う意味だそうですが、彼の場合は外見より心の2面性・・信じる面と疑る面があったようです。性格からいえば現実的な悲観主義者だったようで、ペトロと対照的ですね。トマスは他の弟子の説得にも屈せず、復活したイエス様を自分の目で見、触れなければ信じないと言ったのです。トマスの言ったことは間違ってはいません。トマスの言った言葉を聞いたイエス様は1週間後トマスのために現れて下さり、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われたのです。それは①自分の心に正直になりなさいと言う意味です。トマスはイエス様を否定したのではありません。イエス様を愛しており、出来れば信じたかったのでしょう。しかし彼の理性が邪魔をするのです。復活を頭で理解できないのです。だからイエス様は頭ではなく、心の働きで受け入れなさいと言われたのです。②見ないのに信じる人になりなさいと言う意味です。現実的な人は見えないものには関心が行きにくいと言います。だから見える御言葉に従うのです。

2018年02月11日

2018年2月4日

2018年2月4日                  「与えられた平安」                ヨハネによる福音書20章19~23節

「イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』」

                                                       (ヨハネ20:21 新改訳聖書)
復活されたイエス様が、最初にお会いされたのは最後まで愛し通された弟子たちではなく、最後まで気にかけていた母マリアでもありません。7つの悪霊を追い出して頂いたマグダラ出身のマリアと言うイエス様に仕えていた1女性です。何故かはよくわかりませんが、彼女は命の危険も顧みず自分がイエス様の弟子であることを行いと言葉で表していたのです。さてその日の夕方、エマオの途上で2人での弟子に同行されたイエス様が、時間と空間を超えて、恐れに縛られて隠れるように集まっていた12弟子たちの所に、突然お姿を現されました。それは弟子たちを遣わすためでした。遣わすために3つの必要を与えるためでした。それは①平安を受ける必要・・事実弟子たちに危険が迫っていました。だからこそイエス様はこの世の平安ではなく、わたしの平安(14:27)すなわち御自身が約束の通り、共にいて下さると言う平安を与えると言われたのです。②聖霊様を受ける必要・・イエス様は100%の人としてこの地上に生まれて下さいました。しかし、伝道を始められるとき聖霊様を受けられたのです(マタ3:16)。聖霊様は助け主であり神の力です。この方によらなければ神様の働きをすることはできません。③権威を受ける必要・・罪を赦す権威は、私たち罪人を罪から解放し、本来の人として生かす力です。私たちは子の権威ゆえに、罪の赦しを高らかに宣言し、罪ゆえに人を縛ろうとするサタンに命じることができるのです。

2018年02月04日

2018年1月28日

2018年1月28日                 「主のみ心」                        イザヤ書55章8~13節 

「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:21)
「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識を超えるこの愛を知るようになり、・・・」(エフェソ3:18、19)
新しい年も早1ヶ月過ぎようとしています。今年こそ、こうしよう!ああしよう!と多くの願いや計画をお持ちの事と思います。去年の始めに計画したことが全部成就したという方は、殆どいらっしゃらないでしょう。しかし、主のご計画だけは、着々と確実に成し遂げられています。去年も今年も来年も・・・残念ながら、主の思いは私たちが及ばないほど高い所にあります。それは、幼い子どもと成熟した大人の考えの違いに例えられるでしょう(神様と人間とではレベルが違い過ぎますが)。人間の小さな頭では自分やその周りの狭い範囲のことぐらいしか考えられませんが、神様はもっともっと高い所から、全てを見ることがお出来になります。今年の計画が成就する秘訣は、何と言っても、神様のお心を知り、み心を行うことなのです。

2018年01月28日

2018年1月21日

2018年1月21日             「復活の主との出会い」              ヨハネによる福音書20章11~18節

「動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(Ⅰコリ15:58)
 イエス様が最初に会われたのは弟子たちではなく一人の女性でした。・・墓の外で泣いているマグダラのマリア(ルカ8:2)に2人の天使が「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言い、復活されたイエス様御自身が同じ言葉で声をかけられました。この「なぜ・・」は問うたのではなく、「もう泣く必要はないんだよ」との意味だと言われており、聖書中最も感動的な出会いの一つです。マリアは只々イエス様に会いたかったのです。生死も関係ないほどに・・。私たちにこのような純粋な愛があるでしょうか?それがイエス様といつも一緒におり、直接愛された弟子たちとの違いではないでしょうか?彼らに必要だったのは御言葉の理解ではなくこのような愛だったのではないでしょうか?さて、先週は「キリストが復活しなかったのなら・・宣教は無駄であるし・・信仰も無駄です。」(Ⅰコリ15:14)とメッセージしました。しかし、事実キリストは復活されたのです。私たちの信じたイエス様は、私たちの罪の身代わりとなって死なれただけではなく、私たちと同じ死すべき肉体を取られ、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(Ⅰコリ15:56)と書いてあるように、律法を完全に守られ罪のないお方が死なれることによって死を打ち破って復活された御方なのです。ですからイエス様の約束も、無駄だと思えるような働きも、無駄ではないのです。

2018年01月20日

2018年1月14日

2018年1月14日                  「復活の事実」                  ヨハネによる福音書20章1~10節

「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(Ⅰコリ15:14)
 世の中には、自分の頭では理解できないことがあります。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(9)と書いてあるように、イエス様を神の子(マタ16:16)と信じているペテロであっても受け止めることができなかったのです。
しかし、事実は「見て、信じた。」(8)と書いてあるようにそのまま受け入れることができるものです。マグダラのマリアは、墓の石が取り除かれ空っぽになった墓を見て、イエス様がおられないという事実を受け入れ、何者かに取られたと思い弟子たちに助けを求めました。弟子たちの内ペテロとヨハネだけは恐れずに確かめに行き、亜麻布を見てイエス様がここにはもうおられないことを確信したのです。私たちもどう解釈してよいか分からないことがあります。そのようなときは無理して解釈したりせず、事が動くのを「待つ」ことか大切ではないでしょうか?私たちの主は、私たちの罪過を背負って十字架にかかって死なれただけではなく、罪過の結果である死を打ち破って復活されたのです。どんな状態の中でも復活の主は必ず私たちを導いてくださいます。信じて待ち望みましょう。

2018年01月14日

2018年1月7日

2018年1月7日               「キリストの心を心とせよ」              フィリピの信徒への手紙2章1~5節

「おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ。汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。」(ピリピ2:4・5文語訳)            
相生めぐみキリスト教会に着任してしたことは、教会の弟子からキリストの弟子への移行でした。教会の弟子になるためには、洗礼を受けて教会員となり、
礼拝をはじめとした集会に参加し、聖書を読み、祈り、献金し、教会行事の奉仕をする・・。しかし、キリストの弟子になるには、キリストの御心を知り、御心を行うことです。すなわち、イエス様の心を心としていくことです。ではどうすればイエス様の心を自分の心としていくことができるでしょうか?1段階目は降伏することです。すなわち自分より神様の方が正しいと認めることです。これは私も経験したことですが、社会に対して不満を持っていた私は、悪いのは環境・・もし神様がおられるなら、神さまも含めた周りだと思っていました。だから社会を変えたいと思っていたのです。しかし、「あなたはどうなのか?」と心を探られたとき、問題があるのは自分の外にあるのではなく内にあるのだと気が付き神様の御前に無条件降伏したのです。2段階目は、明け渡すことです。すなわち自分の思いを行うのではなく、神様の御心・・御言葉を行うことです。そのことにより「喜びが満たされ」(ヨは15:11)満足し、「あなたは善にして善を行われます。」(詩篇119:68 口語訳)神様は最善以外にされないと確信し、すべてに感謝できるようになるのです。しかし、これで終わりではありません。明け渡し満たされたあとは、神様の御計画、すなわち神の国拡大に参加できるのです。これが第3段階です。そしてこれが重荷(十字架)を負う事なのです。

2018年01月07日

2017年12月31日

2017年12月31日             「何ひとつ忘れてはならない」                  詩編103編1~5節

「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」   詩篇103:2             

「主はわたしたちを 罪に応じてあしらわれることなく・・」もし、神様が私たちを裁かれたなら、御前に立てる人は一人もいないでしょう。しかし
主は 罪をことごとく赦し
主は 病をすべて癒し
主は 命を墓から贖いだし
主は 慈しみと憐みの冠を授け
主は 長らえる限り良いものに満ち足らせ
主は 鷲のような若さを新たにしてくださる。
いつ、どんな時でも共に居て下さる主の恵みを一つ一つ思い起こして、主に感謝をささげましょう。

2018年01月07日

2017年12月24日

2017年12月24日            「ヨセフの選択」                 マタイによる福音書2章1~12節

「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」 

                                                            (マタイ2:11)    
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。・・」占星術の学者たち(マギ)が問いました。彼らはおそらくバビロンかペルシャあたりから来たと思われます。「ユダヤ人の王」と言うのは単に1国の王と言う意味ではなく、王の中の王、メシヤ(救い主)を現しています。彼らは星の観察をしていて異常な星の運航と(例えば魚座で土星と木星が接近して強烈な光を放ったとか‥2星相合現象)旧約聖書の予言を結び付けて、神から遣わされ世界を救う王がお生まれになったと思ったのかもしれません。大切なのはこのような中で神様が導かれているということです。彼らはメシヤを求めて都に行き、ヘロデ王に会いました。しかしここにはおられなかったのです。しかし聖書の預言によってベツレヘムに向かい、不思議な星に導かれてついにメシヤに出会ったのです。そこは王宮でもなく、特別な赤子でもなかったでしょう。しかし彼らは御言葉を信じ、神様を信じたのです。そして「別な道」を通って帰りました。彼らもまた以前とは違う、神を信じメシヤに出会った別な人になったのです。

2018年01月07日

2017年12月17日

2017年12月17日                「御子の誕生の意味」                 ルカによる福音書2章1~14節

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。

 この方こそ主メシアである。」     (ルカ2:10、11)
西暦は、イエス様の誕生が基準となり、誕生以前(BC)と以後(AD)に分かれています。ですから、今から2017年前のことです(正確には多少ずれはあるそうですが)。1、処女による誕生:生理学上はあり得ないことです。しかし、天地万物を創造・維持・支配しておられる神様にとっては、いとも簡単なことなのです。そして、この方法以外にはメシアとはなれないのです。2、皇帝の勅令:結婚後6か月で子どもを産むのは、あまりにも早く、詮索好きな村人たちから怪しまれることがないために、絶妙のタイミングだったと言う他はありません。同時に、預言の通り、ベツレヘム生まれることになります。3、民全体のための誕生:住民登録をするための人々でごった返していたため、普通の宿はありませんでした。結局、産まれた子どもを飼い葉桶で寝かせるしかない家畜小屋で、出産することになります。この致し方無い状況が、実は、重大な意味があったのです。仮に普通の宿屋であったなら、仕事の性質上、律法や人々が付加した規則を守れないために社会的に冷遇されていた羊飼いたちは、駆け付けることは出来なかったでしょう。御子の誕生の様は、この世でどんなに低く貧しい境遇に置かれた人も含め、まさに全ての人のために生まれてくださったことを意味するのです。御子の誕生に、関係ない人は、誰一人いないのです

2018年01月07日

2017年12月10日

2017年12月10日              「ヨセフの選択」                  マタイによる福音書1章18~25節

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』この名は、『神は我々と共におられる』と言う意味である。」      
                                                              (マタイ1:23)
 昨日「第13回相生市民クリスマス」が、相生カトリック教会で行われました。そこで石原牧師が、神様は痛むために・・十字架にかかって苦しむために人の世に来て下さった。それがクリスマスの出来事だと言われました。その通りだと思います。そしてその十字架によって人類の歴史が変革しました。聖書は神様によって変革した人がたくさん出てきます。クリスマス物語に出てくるヨセフもその一人です。イエス様の名義上の父であるヨセフは、マリアと婚約していました。2人にとって幸せな時だったでしょう。にもかかわらずマリアのお腹大きくなり、妊娠していることがはっきりしてきました。「ヨセフは正しい人であった。」(19)と書いてあります。本来なら聖書に書いてあるようにマリアを姦淫した女として石打にしなければならなかったでしょう(申命22:24)。しかしマリアを愛していたヨセフにはできなかったのです。そこで散々苦しんだ挙句離縁することを選択したのです。そしてここから本当のクリスマスの物語が始まるのです。その夜天使が夢に現れて事の次第を明らかにしたのです。ヨセフはマリアを妻に迎え入れました。彼も変革を経験したのです。主は正と愛で苦しんだ彼に「インマヌエル」の預言を明らかにされたのです。

2018年01月07日

2017年12月3日

2017年12月3日            「闇の中の大いなる光」                       イザヤ書9章1~6節

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと 大きな楽しみをお与えになり 人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように 戦利品を分け合って楽しむように。」(イザヤ9:1、2)
2017年待降節(アドベント)一周目が始まりました。イエス様の誕生によってBC(ビフォアクライスト・・キリスト以前)とAD(アンノドミニ‥主の年)に分かれるように、聖書は闇から光に分けられたと言っているのです。先週のメッセージで話したように、神である御方が人となってこの地上に来てくださったのは、私たち人類の罪を背負って罰を受けるためでした。それが十字架です。この十字架によって人類は、闇から光に(Ⅰペト2:9)、死から命に(ヨハ5:24)方向転換したのです。そしてそれは私たち一人一人の人生でも同じことです。イエス様の十字架を受け入れれば、私たちも「神の子」として神の祝福に満たされた人生へと変えられるのです。では私が「神の子」として祝福されるために何をすればよいのでしょうか?どんな代償を払えばよいのでしょうか?何もしなくてよいのです。必要なことは神様の方が全部してくださいました。聖書に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハ3:16)と書いてあるように、このことは神様から私たちへの賜わりもの・・プレゼントなのです。そして感謝して受け取ることが送り主を喜ばせることになるのです。

2017年12月03日

2017年11月26日

2017年11月26日           「十字架の死、葬り」                   ヨハネによる福音書19章31~42節

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(Ⅰコリント15:3)
ジョン・ウェスレーは「義認は新生に先立つ」と言いました。信仰生活の中で「自分は本当に救われているのだろうか?新しく生まれ変わったのだろうか?」と自問することがあるかもしれません。もちろんそれらは御言葉の確信によるものですが、義認はイエス様の十字架の事実によるものです。そして、最高法院(サンヘドリン)の議員のアリマタヤのヨセフの墓にイエス様が葬られたという事実は、イエス様の死が確実であることを証するものです。「罪を犯されなかった」(ヘブ4:15)と聖書が証しする御方が、私たちを愛するゆえに私たちの罪の身代わりとして・・こんな言い方は変かもしれませんが、わき腹から血と水を流しながら確実に死んで下さったのです。神様は私たちを愛してくださったから罪を赦してくださったのではありません。神様は聖なる御方であって決して汚れや罪を見過ごしになさる御方ではないのです(イザ6:3)。ですから私たちの身代わりとなってイエス様が神様から裁かれたのです。聖書は言います。「自分の罪を公に言い表すなら・・罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(Ⅰヨハ1:9)」現在も未来も過去もです。現在の私たちは過去の出来事で傷だらけです。十字架はその過去も癒してくださるのです。

2017年12月03日

2017年11月12日

2017年11月12日                 「十字架による完了」             ヨハネによる福音書19章28~30節

「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」(ヨハネ19:30)
 イエス様は神の国について教えられ、奇蹟をおこし、多くの人を病や悪霊から解放されました。まさにイザヤ61章1節のメシア(ヘブル語で油注がれた者の意)預言の成就です(ルカ4:21)。では、神であられた御方が、人となってこの地上に来られた目的は何でしょうか?イエス様が伝道を始められたとき「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マル1:15)と言われました。イエス様の生涯はある面、神の国とはどういう所かを示し続けられたのかもしれません。そして「成し遂げられた」とは、人が神の国に入ることができるようになったということです。そのためにイエス様は「十字架刑」と言う重くつらい罰を受けられたのです。なぜなら、神の御前に罪人である私たちは罪を償わなければ、「第二の死」(黙示20:14)永遠の死、永遠の滅びに至るしかなくなるからです。もし神様がおられなかったら人の生涯は、この地上の死で終わります。とは何もありません。しかし、事実、神様は・・私たちを創造し私たちを愛しておられる御方・・おられます。聖書に「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」(ヘブ9:27)と書いてあるとおりです。神様は決して罪を償いなくして赦される御方ではありません。
イエス様が私たちの罪を償って下さったからこそ私たちは赦され、神の国(天国)に入ることができるようになったのです。では、私たち人類ではなく私と言う人が神の国に入るにはどうすれば良いでしょうか?罪が赦されているという信仰ですか?いいえ。自分が罪人であると知ることです。私もそうでした。主は罪を憎まれますが、罪人である私を愛されたのです。

2017年11月12日

2017年11月5日

2017年11月5日           「指導者の苦悩」                ヨハネによる福音書18章38~40節

「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは真理を知り、真理はあなたを自由にする。』」

                                                      (ヨハネ8:31,32)

ここで私たちが問い、また知らなければならないのは3つの事です。 ①あなたは、ピラトのように選択の自由があることを知っていますか? ②あなたは、何を恐れていますか? ③あなたは、真理を知って自由になっていますか?イエス様は夜中に不当に逮捕され、元大祭司であるアンナス、現大祭司カイアファ、最高法院のもとで非公式の宗教裁判を受け、明け方になってからローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督ピラトのもとに連れていかれました。理由は簡単ユダヤ人には「人を死刑にする権限」がないからです。言葉を変えて言えばピラトこそ人の生死を選択できる唯一の権限が与えられていた者なのです。しかし、彼はイエス様が無実であることを確信し、彼らがイエス様を引き渡したのが妬みであることを知っていながら(マル15:10)、その権限を行使することをせずとうとう反逆者バラバ(今流ではテロ)を釈放し、イエス様を死刑に処せざる得なくなったのです。彼は何を恐れていたのでしょうか?彼はローマ帝国から与えられた自分の権力の座を失う事でした。彼は「真理だと?真理とは何だ。」(リビングバイブル)・・ピラトは自分の経験上かもしれませんが真理なんてこの世にあるものか、と言ったのです。あなたはどう思いますか?聖書はイエス様こそ真の神であり、真の人であり、この御方に従うなら私たちも真の自分を取り戻し、どんなことにも揺るがず、自分の意志で決定できる自由な者となるのです。

2017年11月05日

2017年10月29日

2017年10月29日                 「権力者の傲慢」                ヨハネによる福音書18章19~24節

「一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20:26~28)
 イエス様が最初に裁判を受けるために連れていかれたアンナスは、大祭司ではありません。しかし、彼の息子の内4人が大祭司になり、カイアファは彼の婿だと言われています。大祭司になるためにはローマ帝国に従わなくてはなりませんでした。つまりアンナスこそローマに媚びへつらうことによって、ユダヤ人の最高権力者となった人物なのです。アンナスはこの権力によって無実(マルコ15:10)のイエス様を捕らえ、大祭司でもない自分が、違法である夜の裁判を開き、イエス様の頬を打たせたのです。なんという横暴傲慢でしょうか?では、真の権力者であり、権力の源である主はなんと言われたでしょうか?何をして下さったでしょうか?7重のへりくだりといわれているフィリピ2章6~8節の中には「固執しようとは思わず・・」と書いてあります。西播聖会の講師であった笠見滋先生は、人の罪は傲慢さにあると言われました。つまり私たちは固執するのです。親であったり、教師であったり、地位であったり、過去であったりです。先日子どもセンターで「発達障碍児の理解と対応」と言う研修会がありました。そこでも自分と言う職員や親に固着せず、子ども一人一人を理解し、一人一人の必要な支援をすることが大切だと教わりました。イエス様に倣いましょう。

2017年10月31日

2017年10月22日

2017年10月22日                「聖書の知識とその実行」            ルカによる福音書10章25~37節  

「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:37)
先の聖会の講師の笠見先生は、聖書を100回以上通読されていらっしゃるとのこと。すごいですね!!また、色んな所に出掛けて、様々な学びをすることも、素晴らしいことですよね。私も、洗礼を受けて今年で43年になりました。まっ、最初の頃の知識よりは、少しは増えたように思います。律法学者というのは、ある意味正しい聖書の知識を持っていたし、実際聖書をよく知っていました。そのような知識があるということは、それを実行している人だと一般に見られていましたし、自分たちもそのような人物だと思い込んでいたようです。しかし、イエス様は、律法を守っていると思っていても、実は守れていない、本当の姿を知らせられ、自分の理解がいかに狭いものかを、見事なたとえを通して教えられたのです。それは、ある人が旅の途中で追いはぎに襲われ、半殺しされるところから始まります。そこに3人の人物が時間差で通りかかり、3人三様の対応をします。祭司とレビ人とサマリア人です。隣人という捉え方も狭く、ユダヤ人の同胞に限定していた彼らにとって、サマリア人は混血の外国人で、ユダヤ人の隣人規定に含まれないのに、ユダヤ人の隣人になってくれたというのです。詰まる所、律法の行き着く所は裁きでしかありません。その律法を超えた所にある律法自体を定められた御方の御心を知り、実行することが重要なのです。

2017年10月24日

2017年10月8日

2017年10月8日                  「消極的な裏切り」                 ヨハネによる福音書18章12~18節

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ヨハネ22:31,32)
「わざとじゃない!」と言い訳を聞くことがありますが、少なくとも物理的には、被害者にとっては同じです。しかし、イエス様は同じ裏切り行為でもユダとペトロ達11人をはっきり区別されました。意識と無意識、計画的と偶発的・・「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく・・」(ヘブライ4:15)と書いてあるようにペトロ達11人の行為を「弱さ」と捉えられ、そのために祈られたのです。先日「沈黙―サイエンス」というDVDを観ました。その中でキリシタンである「キチジロー」が何度も何度も悔い改めては裏切るのです。そしてとうとう最後のポルトガル宣教師「セバスチャン・ロドリゴ神父」(シュゼッペ・キアラ神父がモデル)も俗に言う「転びバテレン」になってしまうのです。「人は目に映ることを見るが、主は心によってみる。」(サム上16:7)と書いてあるように神様はその人の生き方を見られます。弱くて従えなくても、能力が足りなくて失敗しても責められません。それどころか、執り成し、支え、私たちの弱さを背負ってくださるのです。

2017年10月20日

2017年10月1日

2017年10月1日               「苦難に対処する法」             ヨハネによる福音書18章1~11節

「苦しみにあったことは、わたしには良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩篇119:71口語訳)
祈りを終えられ、立ち上がられたイエス様のところに、苦難と「この上なく愛し抜かれた」(13:1)弟子ユダがやってきました。最悪の組み合わせです。愛する者が裏切り者となって、イエス様を捕らえるために下役や兵士を大勢引き連れてやってきたのです。しかも過ぎ越しの祭りは、満月に行われるので、月夜で明るい夜なのにわざわざ松明と武器を携えてやってきたのです。おそらく彼らはイエス様を守ろうとする弟子たちや群衆の抵抗やイエス様が逃げ隠れすることを想定していたのでしょう。結果的には2つとも外れました。イエス様は逃げも隠れもしませんでしたし、イエス様を捕らえようとするときほとんど抵抗を受けませんでした。なぜなら、イエス様は「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」(11)とこの苦難を試練ととらえて、積極的に受け入れられたからです。「苦難」と「試練」は似て非なるものです。弟子が裏切り兵士が自分を捕らえに来た事実を、イエス様は自分の責任だと、自分を責めることをせず、祭司長たちの陰謀だと相手を恐れず、ただ自分が成長するためのステップとして受け取られたのです。私たちクリスチャンに偶然はありません。父なる神様が知らないことが私たちに起こるはずがないからです。だから恐れないで、イエス様のように知恵と勇気をもって対処してゆきましょう。

2017年10月02日

2017年9月24日

2017年9月24日             「最後の祈り―未来の信者のため」            ヨハネによる福音書17章20~26節

「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らを愛しておられたことを、世が知るようになります。」(ヨハネ17:23)
未来の信者とは、エクレシア・・私流に解釈すると、「この世から十字架によって選び分かたれ、父なる神の御心を行うために、聖霊によって一つとされた家族的集団」のことです。イエス様はこの集団に対して願われました。それは一つになることです。一つになることによって「その時、世間は、あなたがわたしをお遣わしになったことを知り、わたしだけでなく彼らをも愛しておられることを、認めざるをえなくなるのです。」(リビングバイブル)と書いてあるように、
神様が生きておられることと、神様が私たちを愛しておられることを認めざるをえなくなるのです。これが伝道です。信仰の継承と言う次世代への伝道も基本的には同じです。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」(マタイ19:5)と書いてありますが、性も違えば、育った環境も、経験も性格も違う二人が、一体となるなんて考えられません。もしあるとすれば、神様の御業です。子どもたちがそれを見て神様の存在とその愛を信じるのです。教会も基本的には同じです。愛のないところには、神様も栄光を表せないのです

2017年10月01日

2017年9月17日

2017年9月17日           「最後の祈り―弟子たちのため」           ヨハネによる福音書17章6~19節

「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えて下さった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つになるためです。」(ヨハネ17:11)
イエス様は、100%神様です。しかし、同時に100%の人でもあるのです。ここでイエス様は弟子たちの師匠として、神様に祈られました。ここに弟子たちの先輩として、模範としてのイエス様のお姿があるのです。イエス様は3つのことを祈られました。①わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。(11)・・・1つになるとは、単に自分を抑えて相手に合わせることではありません。「わたしたちのように」書いてあるように、イエス様と父なる神様の関係のように愛と敬いによる一致なのです。それはまた神様に従うことによって与えられる一致でもあるのです。②彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守って下さることです。(15)・・・イエス様はかつて「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」(マタ10:16)と言われました。確かにこの世では戦いがあります。しかしイエス様は戦いから解放されるのではなく、悪い者から守られることによって勝利することを願われたのです。③真理によって、彼らを聖なる者としてください。(17) ・・・「聖」は、聖別と言う意味と、聖に満たされるという意味があります。私たちの心も、霊も、体も真理の御霊様(14:17)に満たされて、世や悪しき者たちに勝利し、一致を保っていきたいと思います。

2017年10月01日

2017年9月10日

2017年9月10日            「今の時代の中の備え」               テサロニケの信徒への手紙第一4章1~12節 

「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」(Ⅰテサロニケ4:3)
1年はアッと言う間ですね。もう今年も3ケ月と半月ほどになってしまいました。今年の始めから、芸能人の不倫のことが話題となり、次から次へと出てきました。挙句の果てには芸能人だけでなく、公務員まで次々とです。人間の欲望を全面肯定することが、活力と魅力溢れた生であると考える人たちもいますが、不倫、不品行は罪です。そして自分たちの欲情のために、沢山の人たちを悲しませ、自分を含めて不幸にするのです。一昨日には、太陽で50年ぶりに大規模爆発が起き、地球もその電磁波を受けて、ただでは済まないと言われていました。隣国では、原爆の脅威が高まっています。頻発する天災。終わりの時は、刻一刻と近づいているのです。
今の時代の中にあって、全宇宙を支配し、永遠から永遠の存在者であられ、人間を愛しておられる、神様の御心を知り、御心に添える者となれるよう自らを整えておくことが大切な備えとなるのです。
何故なら、
1、神様の裁きが必ず行われるから(6)
2、聖めへの召しがあるから(7)
3、聖霊の聖めのわざの約束があるから(8)
改めて、自らを探り、整えられ、主の用に間に合う者とされましょう。

2017年10月01日

2017年9月3日

2017年9月3日            「最後の祈りー御自身のため」          ヨハネによる福音書17章1~5節  

  「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、

  子に栄光を与えてください。』」(ヨハネ17:1)
 イエス様は最後のお言葉で、メッセージの目的、これから起こること、そして励ましの約束をされました。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16:33)しかし、これで終えられたのではありません。最後に祈られました。御自身のために(1~5)、弟子たちのために(6~19)、信じる人々のために(20^26)です。何故祈られたのでしょうか?それはどんなに真理を正しく理解したとしても、自分の力だけでは実行することが出来ないからです。
 私は昨日、親戚の結婚式に行ってきました。式場は、日本基督教団 神戸教会で、菅根牧師が司式をしてくださいました。その中で牧師は、「結婚は、その制度の中だけで維持されるものではない。神様の祝福と皆さんの祈りがなければ、本人たちの決心だけでは難しい。」などと言われました。私たちのクリスチャン生活も同じです。「祈り」がなければどんなに聖書(真理)を理解し、それを実行しようと決心しても難しいのです。イエス様はまず御自身のために祈られました。 ①「あなたの栄光を現すようになるために」(1)」。・・イエス様にとって栄光とは「十字架」のことです。避けようと思えば避けれますし、イエス様には必要のないことでした。しかし、「十字架」こそ御自分の使命、神様の御心と信じて担われたのです。あなたの天命は何ですか? ②「永遠の命を与えることが出来るのです。」(2)・・永遠の命とは神様の命を共有することです。私たちにも共有すべき賜物が与えられているのです。 ③「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。」(5)・・ここでの栄光は、「復活」抜きでは考えられません。私たちにも復活(11:25・26)永遠の住まい(14:2・3)の約束が与えられているのです。

2017年09月08日

2017年8月27日

2017年8月27日           「闇の支配から、光の御許へ」             コロサイの信徒への手紙1章9~23節

「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:13,14)
神様を親に例え、私たち人を幼子に例えると、一番危険なことは親の目から離れフラフラと遊びに行くことではないでしょうか?先日、正木先生がそのような体験を交えたメッセージをしてくださいました。幼子にとっては冒険の時であり、楽しいことでしょう。しかし、親にとっては必死で探し回り、電話をかけ、警察に捜索願を出し、あとはどうしてよいかわからず不安で不安で…。これが神様の心なんだと言われました。だから神様は私たちをもう一度取り戻すために、人となってこの地上に来て下さり、十字架にかかって下さったのです。ですから神様のしてくださった最大のことは「罪の赦し」なのです。福音とは、私たちが何をして欲しいか?ではなく、神様が私たちに何をしてくださったか、なのです。もう一度言います。神様は罪に対して寛容なお方ではありません。旧約聖書で示されているように厳しい御方であり、「真実で正しい方」(Ⅰヨハ1:9)であるので、罪を裁かれないで放置されることは決してないのです。だから十字架なのです。十字架があるからこそ、光である神様の御許に帰れるのです。

2017年08月28日

2017年8月20日

2017年8月20日               「世に勝ったお方」               ヨハネによる福音書16章25~33節

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
イエス様が十字架につけられたとき、それはまさにこの世の勝利であるかのように見えました。十字架は祭司長たちの妬みに起因したからです。しかし、その前日にイエス様は弟子たちに「わたしは既に世に勝っている」と言われたのです。「世に勝つ」とはどういう事でしょうか?何によって世に勝たれたのでしょうか?イエス様は宣教の始めに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:14)と言われました。また「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:21)ともいわれました。戦いは「神の国VSこの世」です。ではこの2つの違いは何ですか?神の国は復活であり、この世は肉体の死で終わります。神の国は存在そのものを価値と認めますが、この世は社会の役に立たないと認めません。神の国は、与え、散らし、充足し、協力し、動機を大切にし、影響を与えます。それに対しこの世は、受けることを求め、自分に集め、不足を感じ、自分が特別であることを求め、結果を第一とし、支配したがります。
私たちクリスチャンは、この世から選び分かたれ、神の国を拡大するために遣わされたのです。そこには当然戦いがありますが、主は勝利者なのです。

2017年08月21日

2017年8月13日

2017年8月13日            「イエス様の御名の権威」              ヨハネによる福音書16章16~24

「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:24)
14章から17章までが、イエス様の最後のメッセージです。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる.」(16) これはイエス様が十字架の死を経験され、3日後によみがえられることを指します。そしてこれは当たり前のことですが、十字架の死は人でも経験できますが、死を打ち破ってよみがえられることは命を創られた神様にしかできません。弟子たちが復活されたイエス様に出会ったとき(復活の意味が本当に理解できたとき)その喜びがいかに大きく、どのような状況の中でも変わらず永遠に続いたことでしょう。弟子たちの記録である「使徒言行録」は迫害の歴史であると同時に、この喜びが抑えきれずに爆発した記録でもあると思います。そして聖書の理屈で言えば現代に生きる私たちにも、同じ永遠の喜びが与えられているのです。私たちが信じ受け入れたのは、私たちすべての「罪(神様の法律違反)」を背負って十字架で死なれたイエス様だけではなく、死に勝利された(Ⅰコリン15:54)復活のイエス様なのです。私たちは本当にそのことを理解しているでしょうか?イエス様は「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)と言われました。この御方が「わたしの名によって願いなさい」と言われたのです。もちろん「イエス様の御名」ですから、イエス様が望まれないこと・・自分の欲望や人を傷つけること・・以外はどのような問題も解決しないはずはないのです。本気で「御名の権威」に頼ってみませんか?

2017年08月13日

2017年8月6日

2017年8月6日               「愛の実践」                   マタイによる福音書25章31~46節

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの小さい一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)
私は、天国に行くことができます!なぜなら、のどが渇いている人に麦茶をあげたからです。岐阜県での時は、とても感謝されました。たいていのお母さんは、
これにあずかれるんじゃないでしょうか。
天国に迎え入れられるためには、人に何十億と寄付しなさいよとか、人生を平凡ではなく歴史に名を刻まれるようになりなさいとか、大変なことを求められているのではないんです。毎日出会う小さい者の一人でいいから小さなことをするだけでいいんです。
先日、最後まで現役の医師だった日野原重明先生が召天されました。人生というものを時間として捉えられ、それを、自分のためだけに使うのではなく、人のために使いなさいと言われました。自分のことしか考えれないとしたら、他の人が何を必要としているのか分からないんですよね。先生は、「なんと言っても、人が人に与える最高のものは心である。他者のための【思い】と【行動】に費やした時間、人と共にどれだけの時間を分け合ったかによって、真の人間としての証がなされる。」とおっしゃいました。
勿論、私たちはイエス様を救い主として信じる信仰によってすでに救われています。しかし、その信仰が日常生活の中で実践されないといけないのです。クリスマスキャロルやああ無常にもそれらが表されています。

2017年08月08日

2017年7月30日

2017年7月30日           「その方が来られるとき」                ヨハネによる福音書16章4b~15節

「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。・・しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」

                                                    (ヨハネ16:8,13) 
「ただわが霊によって」(ゼカ4:6)と書いてあるように、キリスト教は自分の力ではなく、その方・・すなわち神様によって事を成すのです。この時弟子たちの
心は悲しみで満ちていました(6)。イエス様と別れるだけでなく、世から憎まれると予告されたのですから・・。確かにイエス様は言われました。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、オオカミの群れに羊を送り込むようなものだ。」(マタ10:16)と。しかし、その羊がオオカミの群れを制してきたのがキリスト教の歴史なのです。なぜなら羊と共に羊飼いなるお方がおられるからです。このお方はまず私たちクリスチャンの目を開いてくださいます。今まで罪だと思わないことを「罪」だと気づき、自分が正しいと思っていたことがイエス様以外に「義」なるお方はいないと悟らせ、恐れや憎しみではなく、ただ愛によって家庭や社会を形成してゆく・・この愛こそが、世の支配者や、「この世を支配する者」(エフェソ2:2)すなわちサタンを裁くことを確信させるのです。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8:32)と書いてあるように私たちは聖霊様によって、自らを由とする解放と自信が与えられるのです。

2017年08月02日

2017年7月23日

2017年7月23日        「分離+ささげる=神の力」                 Ⅰテサロニケの信徒への手紙5章16~24節

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なるものとして下さいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエスキリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたのお招きになった方は、真実で、必ずその通りにしてくださいます。」(Ⅰテサロニケ5:23,24)
神様は「天国」という希望を与えられただけではなく、「いつも喜んで居なさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい.」(16)と言われました。それはイエス様に与えられた永遠の命によって(ヨハネ5:24)、どのような状況にもかかわらず喜びが沸き上がってき、不断の臨在の中でいつもイエス様に聞き、どんなことがあっても主は最善以外のことはされないとの信仰に立って(詩篇119:68)、感謝をささげることが出来る・・これが私たちクリスチャンの聖書に書いてある姿なのです。しかし神の言葉VS人の現・・どんなに違和感を感じても信ずべきは「神の言葉」です。ではなぜ「神の言葉」が現実にならないのでしょうか?それは私たちの霊も魂も体も聖められていないからです。聖めとは詳訳聖書では「すなわち、あなたがたを卑俗なものから分離させ、純粋な、神に全くささげられたものとしてくださるように」と書いてあります。分離してささげる。私は今回山口福音教会でそのような祈りを学んできました。神様のお力を体験しましょう。

2017年08月02日

2017年7月16日

2017年7月16日              「救いの道」                ローマの信徒への手紙3章23,24節

「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」ローマ6:23()
私は半額が好きです。よく半額を買って来ては、家族に要らない物ばかり買って来ると咎められます。自分では、要らない物を買ったことは一度たりともないつもりです。でも無償というと大好きです。しかし、「ただ」ほど怖いものもありません。けれども、神様というお方がくださる「ただ」は、安心安全なのです。何をくださった(過去形です!)のでしょうか。独り子であるイエス様を私たちのためにくださり、救いの道を与えてくださったのです。どうしてその必要があるの?と思われる方もいらっしゃるかも知れません。それを説明するには、私たち人間がどういう状況に置かれていたのかを知る必要があります。3章10節に「正しい者はいない。一人もいない。」また、12節には「善を行うものはいない。」とあります。このままでは、その道は破壊と悲惨しかない(16節)。そして、「罪の支払う報酬は死です。」(6:23)。四面楚歌の状況から、満を持して登場してくださったのが神様の独り子であるイエス様なのです。この罪のないお方が、罪ある人間のために身代わりとなって十字架上で死んでくださり、人の罪を赦し、神様との関係を回復させ、ただ信じるだけで永遠の命をただで頂き、永遠の希望も与えられたのです。

2017年07月19日

2017年7月9日

2017年7月9日            「世に遣わされた者」         ヨハネによる福音書15章18~27節

「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハネ15:19)
「あなたがたは地の塩である。・・あなたがたは世の光である。」(マタイ5:13,14) 
イエス様は私たちに使命を与え(実を結ぶ)、この罪に満ちた滅びゆく世に、遣わされます。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」(エフェソ2:1)と書いてあるように、私たちはもともとこの世のものでした。しかし、イエス様は御自身の死によって私たちに「命」を与え、この世から贖いだして下さったのです。そして再び今度は友として(15:11~15)この世に遣わそうとしおられます。その結果何が起こるでしょうか?
①憎まれ、迫害が起こります。・・これだけ真面目にやっているのに・・親切にしてあげたのに何故?原因がわかれば対処の方法もあるでしょう。しかし、聖書に「人々は理由もなく、わたしを憎んだ。」(15:15)と書いてあるように、私たちの存在そのものが憎しみの、迫害の対象になるのです。なぜなら私たちはこの世のものではなくイエス様と同じようにこの世に変化をもたらす者・・地の腐敗をとどめる塩であり、世の闇を照らす愛といのちの光だからです。先週紹介したユスト(正義の人)高山右近もその一人でした。彼は殉教者として認められ「福者」になったのです。
②勝利します・・聖霊様が私たちを助け、キリストの証人として下さるからです。

2017年07月10日

2017年7月2日

2017年7月2日                「いつまでも残る良い実」          ヨハネによる福音書15章11~17節

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)
 前回(18日)は、どうすれば実を結べるかについてメッセージしました。今回はどのような実を結べばよいのかを考えてみたいと思います。ここで大切なことは私たちが実を結ぶために、イエス様が選んでくださったということです。もし私たちがイエス様を選んだのであれば自分が師匠であるイエス様のようにならねばなりません。しかし、イエス様が選んでくださったのであれば‥こんな言い方は変かもしれませんが・・自分の失敗や間違いもイエス様の責任になるのです。ではイエス様は何のために私たちを選んでくださったのでしょうか?
①喜びが溢れるために・・イエス様を信じれば困難がなくなるわけではありません。むしろ増える場合があります。今話題になっている「高山右近」と言う戦国大名もそうでした。彼は信じたがゆえに領地を失い、罪人になり、最後は国からも追放されました。しかし、この喜びが消えることはなかったのです。②愛の中の生きるために・・「愛されるより愛したい」(kinki kids)という歌があります。イエス様は真剣(マジ)で私たちを愛してくださいました。今度は私たちが真剣(マジ)に人を愛せるのです。③友として・・奴隷ではなく友人として支えてくれる。

2017年07月10日

2017年6月18日

2017年6月18日              「イエス様に、つながる」              ヨハネによる福音書15章1~10節

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)
イエス様は、弟子である私たちをぶどうの枝に譬えられました。創造主が私たちに求められるのは、大きくなることでも、堅くなる事でもなく、「実」を結ぶことだからです。「永遠の命に至る実」(ヨハ4:36)「霊の結ぶ実」(ガラ5:22)「義の実」(フィリピ1:11)「唇の実」(ヘブ13:15)良い実(ヤコ3:17)・・また成果や献金(ロマ1:13、15:28)も「実」と訳することがあります。様々な「実」がありますが、それは私たちの生きる目的に関係しているのかもしれません。ただ言えることは、「実」は結ぼうと意識しなければ決して結ぶことが出来ないし、意識すればイエス様が助けて下さるということです。今週はそれぞれの「実」を結ぶためにイエス様につながるとはどのようなことなのか考えてみましょう。つながるとは、①自分の弱さ・罪を自覚する人・・イエス様が地上に来て下さったのは、私たち罪人から、罪を切り離すためでした(Ⅰテモ1:15)。十字架こそ主と私たちをつなげるものです。②イエス様の言葉が内にある人・・単に御言葉を覚えることではありません。これは大切なことですが神様はどのような御方かを知ることはもっと大切です。神は私たちを愛し(ヨハ15:9)、命をお与えになる方です(Ⅰテモ6:13)。③実を結ぶことにより、神に栄光をきせれる人・・難しいことではありません。「実」は他を喜ばせるためにあります。ですから神に助けられて結んだ実は、人だけでなく神様も喜ばせるのです。

2017年06月24日

2017年6月11日

2017年6月11日             「聖霊様は、私たちの助け主」         ヨハネによる福音書14章15~24節

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。」(新改訳聖書ヨハネ14:15,16)
驚くべきことに、この御言葉によればイエス様や聖霊様はリーダーではなく、私たちを助けて下さる方なのです。詳訳聖書では「もうひとりの慰め主<助言者、助け主、とりなす者、弁護者、激励者、援助者>を与えられる。」と書いてあります。では私たちの何を助けられるのでしょうか?それはイエス様の戒め・・御言葉に従うことです。これは簡単そうで大変難しいことです。なぜなら自分の価値観が変わらなければ、本当の意味で御言葉に従うことが出来ないからです。ですからある牧師は、「クリスチャンの完成は、この世の価値観を捨て、神の価値観で生きるようになることだ。」と言ったのです。ではどうすれば価値観を変えることができるのでしょうか?それは、神の価値観で生きておられるイエス様を愛することです。これは情的な意味で言っているのではありません。人は、正しいから、必要だからと言って従うわけではありません。その人が好きで、憧れあの人のようになりたいと思うから従えるのです。

2017年06月24日

2017年6月4日

2017年6月4日               「変えられた弟子たち」             使徒言行録2章14~21節

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)
今日は、ペンテコステ礼拝です。2千年ほど前のこの奇跡的な出来事(使徒2:1~4)によって教会(目に見えない、聖なる公同の教会)が、誕生しました。勿論これは聖霊様の御働きですが、弟子たち‥特に中心となった12弟子たちの働きを無視することはできません。聖霊様の御働きで弟子たちが変えられたのではなく、弟子たちが自分たちを変えたために聖霊様が助けられたのです(参照ヨハ14:16「助け主」新改訳聖書)。3年半イエス様と共に生活し、語られた御国のメッセージ、しるし(ヨハ2:11)として現された奇跡を目の当たりにし、さらに最後の敵である死を滅ぼして(Ⅰコリ15:26)復活された主に御出会いしても、「イスラエルの国を建て直してくださるのは、この時ですか」(使徒1:6)と考えているのは自分の国・・自分たちのことだけでした。しかし彼らは・・
①イエス様の御言葉を受け入れました。御言葉は、神様の御心です。この世の概念とは違います。御言葉に従うとはこの世の概念、常識、今まで生きてきた糧に死に、神様の概念・御心に生きることです。弟子たちはイエス様の証人になるためにそのように決心したのです。②祈りました。・・彼らがしたことは心を合わせ、ひたすら求める祈りではありませんでした。もしそうならもっと多くの人が参加したでしょう。彼らがしたのは、苦手な人と心を合わせる悔い改めであり和解の祈りだったのです(1:14)。③一致による宣教。・・宣教は聖霊様の働きです。弟子たちは、利己心からではなく言葉を与えられた一人の人を立てたのです。

2017年06月08日

2017年5月28日

2017年5月28日            「ゆるし」              マタイによる福音書18章21~35節

「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソ4:32)
借金をされたことがあるでしょうか。私共も笠岡時代、色んな所から借金をして大変苦しい所を通らされました。今なお、妹夫婦からの借金を毎月返済しているところです。少しずつ返していける額だから、何とか続いていますが、それがあまりにも莫大なものだとしたらどうでしょうか?大体そんな大金、返せる力がない人に貸すなよ!と言いたくなりますよね。しかし、よく聖書を見ると、私たち人間はみんな、神様からとてつもない借金をしているのだと言っているのです。そんな大金どうするんだと心配されるでしょう。安心してください。その借金はとても返せるものではないし、返す必要がなく、有難く感謝して、頂戴するだけでいいのです。この借金とは、人間一人一人が持っている罪が、神の御子キリストによって、赦されたことを意味します。これは、最も重要な福音の核心です。この故に、様々な人間関係がある中、互いに赦し合いなさいと求められているのです。赦すということは、消し去る(イザヤ44:22),忘れる・思い出さない(エレ31:34),遠ざける(詩篇103:12),海の深みに投げ入れる(ミカ7:19),無限に(詩篇103:12),全く(コロ2:13),即座に(イザヤ6:7)赦されるのです。イザヤ43:25,エペ4:31,32

2017年05月29日

2017年5月21日

2017年5月21日           「天の故郷に行く道」               ヨハネによる福音書14章1~6節

「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。・・』」(ヨハネ14:6)
私たちはどこから来て、どこへ行くのか?もちろん私たちには生まれ育った場所があります。しかし、そこが「ふるさと」とは限りません。私たち一人一の存在が認められ、安心して過ごせる「居場所」・・そこには童謡「ふるさと」の歌詞にあるように自然が象徴する豊かさと、父母幼なじみに代表されるように自分を受け入れてくれる場が必要なのかもしれません。では私たちの「霊」のふるさとは?「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」(コヘレト12:7)「しかし、私たちは天にある国<社会、故郷>の市民であって・・」(詳訳聖書フィリピ3:20)と聖書に書いてあるように、天にあるのです。イエス様が「場所を用意しに行く」と言われたのは実にこのことなのです。そしてこのお言葉通りであれば、それまで「天」に私たちの場所がなかったことになります。だからイエス様は十字架の上で「贖い」を成し遂げられたのです。では「天であるふるさと」にどうにすれば行くことが出来るのでしょうか?ここに使徒トマスが引き出した素晴らしいイエス様の御言葉があります。①わたしは道であり・・イエス様は御自分のことを「地図」であると言われませんでした。つまりイエス様がその道案内をしてくださるということです。②真理であり・・イエス様は完全な真理なるお方です。そしてこのお方が道案内されるのも真理なる者であって、偽り者ではないのです。「しかし、真理を行うものは光の方に来る」(ヨハ3:21)のです(参照Ⅰヨハ1:5~10)。③命である。・・「命」とはエネルギーのことであり、主と共に歩む者にはこの命が与えられているのです(Ⅰヨハ5:11・12)。

2017年05月22日

2017年5月14日

2017年5月14日           「ペトロの関心事」          ヨハネによる福音書13章36~38節

「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましよう。・・なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:9,10)
愛する谷口厚子姉を、イエス様の元にお返ししました。悲しい事です・・特に遺族の方々には耐えられないくらい悲しいことですが、決して不幸ではありません。なぜならここから永遠が始まるからです。厚子姉は華やかな生涯を送られたわけではないようです。聞くところによるとむしろ「弱さ」を感じておられたのではないでしょうか?それでも笑顔と「ありがとう」を忘れないお方でした。ここに登場するペトロも別な「弱さ」を持った人物でした。イエス様は11弟子たちに(ユダは出ていきました)「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。・・」と言われましたが、ペトロの関心事は「主よ、どこへいかれるのですか。」でした。「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない」(シーザー)と言いますが、まさにその典型でしょう。「あなたのためなら命を捨てます」ペトロはここで何を言いたかったのでしょうか?もしかしたら彼は自分の強さと、ほかの弟子たちとは違う(自分の方が優れている・偉い)ことを示したかったのかもしれません。しかし、イエス様が彼に求めたのは自分の弱さを知ることでした。「弱さ」を知らなければ、他人を愛そうと思わないし(相手を思いやること)、他人を自分より優れたものと考えなければ(フィリピ2:3)実際に愛することが出来ないのです。

2017年05月22日

2017年5月7日

2017年5月7日             「本当に新しい掟」            ヨハネによる福音書13章31~35節

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ20:13、35)
「愛」が大切なことは、律法の専門家が「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」との問いに、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』・・『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:35~40)と申命記6章5節とレビ記19章18節を引用して答えられたことで明らかです。さらにイエス様は旧約聖書の中心にあるのは「愛」だと言われたのです。ではイエス様が言われた「新しい掟」とは質的に決して古くならない掟のことなのでしょうか?もちろんそのことも含むかもしれませんが、ここで言う「新しい」とは本当に新しいのです。なぜなら三位一体の神であらせられる
イエス様御自身が「わたしがあなたがたを愛したように」と言われたからです。では何が新しいのでしょうか?①同じ目的に向かって助け合う愛・・この戒めはユダが出て行ったあと語られました。人の善悪は別にして、ユダは他の十一弟子と違う目的を持っていたのだと思います。同じ方向に向かわなければ進むことが出来ません。教会も同じです。②互いを敬う愛・・イエス様は、人の罪の身代わりの十字架こそ栄光だと言われたのです。それは神様が人を大切に・・畏れ多いことですが尊んでくださったのです。③相手の最善を願う愛・・上手に聞いてください。十字架は犠牲ではなく、私たち罪人を生かす,最善の方法だったのです。

2017年05月22日

2017年4月30日

2017年4月30日             「イエス様のお苦しみ」                 ヨハネによる福音書13章21~30節

「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような健闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかもしれない。」(Ⅰコリント9:26,27口語訳)
 詳訳聖書には「イエスはこう言われたあとで、心に苦しみを覚えて〈心を乱して、いらだたせて〉言われた・・」(21)と書いてあります。イエス様は何に対して「苦しみ」を覚えられたのでしょうか?もちろんユダが裏切ったからでしょう。イエス様はたびたびユダに愛を表現されました。「イエスの愛しておられた者」(23)が右隣にいたのであれば、ユダは左隣にいたはずです。そうでないと会話をしにくいし、「パンきれを浸して与える」(26)という愛情表現もしにくいからです。しかし、皮肉なことにこの愛情表現がユダに裏切りを実行させるきっかけになったのです。どんなに愛情を注いでも裏切ってしまう・・イエス様のお心が痛まないはずはありません。しかし、考えてみれば、イエス様の愛に答えられなかったのはユダだけではありません。言わば12弟子全員です。ではユダは何が特別だったのでしょうか?彼は「使徒」にイエス様によって選ばれた者です。しかし、彼はその使命(目標)を裏切ってしまったのです。それは自分自身も裏切ってしまう事と同じでした。それともう一つ。彼はイエス様の「赦し」も裏切ってしまつたのです。

2017年05月05日

2017年4月16日

2017年4月16日              「弟子たちの派遣」                 ヨハネによる福音書20章19~23節

「そう言って、手とわき腹をお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」(ヨハネ20:20,21)
弟子たちは恐れと不安で絶望で家の中に閉じこもっていました。そこに復活されたイエス様が彼らの真ん中に来て下さったのです。物理的な「真ん中」だけでなく心の「中心」にまで来て下さったのです。弟子たちにとってどれほどの喜びだったでしょうか。その喜びが「イースター」と言う、キリスト教の最初のお祭りになったのです。ところでイエス様は何のために来て下さったのでしょうか?もちろん私たちの罪が赦され、神の御前に「義」とされたことを証明し(ロマ4:25)、アダム以来続いた「死」に勝利するためです(Ⅰコリント15:54~57)。それどころか、私たちにはキリストの命によって愛と平和が与えられているのです・・すでに「福音」は完成しています。そしてその福音を自ら体験し、他の人に伝えるのが弟子の役割なのです。だからイエス様は「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われたのです。理屈から言えば人類は「愛と平和」に満ちているのです。しかし現実はあってはならないような悲しいことが多々起こります。ですから私たちも、助け主である聖霊様に助けて頂いて遣わされていきましよう。

2017年04月17日

2017年4月9日

2017年4月9日          「見捨てられた方」               マタイによる福音書27章45~56節

「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイ27:46)
パーム・サンデー(棕櫚の主日)からの1週間を、特に「受難週」と言います。そう聞くだけでイエス様に申し訳なくなり、何か自分たちも楽しい事をガマンしてそのお苦しみの何百万分の1でも経験しなければならないと思いがちですが、そうではありません。確かに罪のないお方が、私たちの罪ゆえに十字架につけられた痛みや苦しみは想像を絶するものがあるでしょう。しかし、イエス様はそのために地上に来られたのです。十字架は大祭司たちの妬みの結果ではなく(マルコ15:10)、群衆たちの声に負けたピラトのせいでもなく(マタイ27:24)、イエス様の御意志なのです。だからユダの裏切りが確定した時点において「今や、人の子は栄光を受けた。」(ヨハネ13:31)と言われたのです。罪のない御方が、私たちの身代わりとなって罰を受け、神様から呪われ見捨てられなければ、私たち人類に救いの道は開かれなかったのです。そのことを言い表したのが、上記の御言葉であり、詩編22:2・3の成就でもあると言われています。「昼の12時に、全地は暗くなり」・・神様が呪われた象徴であり、この闇の中で、イエス様はお父さんではなく「わが神」ともはや一体ではなくなった御方に叫ばざる得なかったのです。キリスト教は恵であり、逆転の宗教です。イエス様が見捨てられたことにより、私たちは決して見捨てられることはなくなったのです。

2017年04月17日

2017年4月2日

2017年4月2日         「神の国を受け継ぐ者たち」         コリントの信徒への手紙 一 15章50~58節

「ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」(Ⅰコリント15:52,53)
今日は、「召天者合同礼拝」です。その目的は①その方の生き方を学ぶ。②自分の生き方・死について考える。③死後の世界に思いを巡らす。・・などでしょうか?
 私は昨日、相生キリスト教会で「天国は、本当にある。」という映画を見てきました。牧師の息子が天国へ行ってイエス様に会ったという実話が基になりました。ここで牧師が悩むのです。日頃「天国」(神の国)のことを語っているのに何故?と思いましたが、確かに概念としての「天国」と実際の場所としての「天国」は違うのでしょう。そして私たちが神様と共に永遠に生きる場所こそ「天国」なのです。永遠ということを考える時「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず・・」というお言葉はその通りだと思います。しかし私も、この肉体以外の体を想像することができないし、天におられる方々が与えられるであろう復活の体もなんとなくしかわかりません。しかし、1つだけ確かなことがあります。それは
神様は愛であるということです。神様は私たちを愛して下さり、私たちと共に居たいと願っておられる・・私が理解できなくても信じる理由がここにあるのです。

2017年04月01日

2017年3月26日

2017年3月26日              「マイナスからの再生」            ルカによる福音書22章31~34節

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31,32)
祈祷会(一)では、先週26章を終えました。ペテロがイエス様を三度知らないと言ってしまう箇所です。ここに至るまでの、律法学者や祭司長たちの見事なまでの傲慢さ・・・彼らの妬みと陰謀によって、神の御子は十字架刑にされます。自分のことを神様の子だという人に出会ったとしたら、皆さんはいかかですか?私なら、こんな奴が一番危ないわ!と思って、相手にしないと思います。段々変なことを言い出したと、多くの人がイエス様のもとから去っていきます。弟子たちだけは最後まで従いました。と思いたいところですが、イエス様が捕まえられると、全員逃げてしまったのです。だれ一人としてです。私たちは、大きな失敗をすると、自分でもうダメだと思って諦めてしまいます。失敗が大きければ大きいほど取り返しのつかないことになってしまうのです。しかし、クリスチャンには、どんなに積み上げたことがゼロどころではなくマイナスになってしまったとしても、再生できる味方がおられるのです。

2017年04月01日

2017年3月19日

2017年3月19日              「愛し抜く愛」                 ヨハネによる福音書13章1~11節

「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネ13:1)
受難週に、「洗足木曜日」としてよく開かれる個所です。イエス様が十字架につけられる前日に、御自身のことを記念するようにと、パンを裂かれぶどう酒を飲まれました。「最後の晩餐」と言われる出来事です。その直前に席につかれていた
イエス様がおもむろに立ち上がって、弟子たちの足を洗われたのです。彼らは直前まで自分たちの内で誰が一番偉いかと議論していました(ルカ22:24)。もしかしたら彼らの足が汚れたままであったのはそのことに関係があったのかもしれません。それはともかくとして、イエス様の行為に彼らは驚き、軽いパニックを起こしたようです。その弟子の中にイスカリオテのユダがいました。
イエス様は「皆が清いわけではない」と言われ、ユダの裏切りを知りながらも足を洗われました。彼はいったいどんな気持ちだったのでしょうか?
今日、皆さんと一緒に考えたいのは、ユダの気持ちではなく、イエス様が見せて下さった「愛して、この上なく愛し抜かれた」愛のことです。「愛」と訳されるギリシャ語の原語は4つあり、アガペー(無条件の愛)、エロース(愛する価値のあるものを愛する愛)、フィリア(友愛)、ストルゲー(親子の情などの自然な愛)です。そしてイエス様が見せられ、「あなたがたもするようにと、模範を示」されたのは、アガペーの愛なのです。この愛は自然に湧き上がってくるものでも、相手に左右されるものでもなく、強い自分の意志による愛なのです。

2017年04月01日

2017年3月12日

2017年3月12日               「信用vs信頼」                 ヨハネによる福音書12章35~43節

「イエスは言われた。『光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。』」(ヨハネ12:35、36a)
イエス様は、上記の御言葉を語った後「立ち去って彼らから身を隠された。」と書いてあります。それは彼らがイエス様を信じなかったからです。しかし正確には「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。」(42)と書いてあるように、彼らは信じてはいたのです。では「光を信じなさい」の信じなさいとどこが違うのでしようか?「あなたたちは、光を持っているうちに光を信じなさい<光に対して信仰を持ちなさい、光に堅くついていなさい。≪より頼みなさい≫>。(詳訳聖書)・・ここでは、同じ「信じる」でも「信用する」と「信頼する」の違いがあるのではないか思います。さて「信用」とは経歴や実績・評判など過去の出来事をベースにします。関係としては「ギブ&テイク(与えて受け取る)」で資本主義はこの考え方で成り立っています。それに対して「信頼」は過去も大事ですが、それ以上に今から後、将来においてその人を頼って身をまかせて行く強い決心が必要になります。考え方としては「ギブ&ギブ(与えて与える)」で友人や恋愛の関係になります。つまり文脈から言えば、イエス様は「信用」に値しない私たちに、ご自身の身をゆだね「信頼」しなさいと言って下さったのです。

2017年03月17日

2017年3月5日

2017年3月5日         「一粒の麦となられたお方」               ヨハネによる福音書12章20~26

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12:24,25)
これはイエス様が、ギリシア人改宗者に向かって語られたお言葉です。「人の子が栄光を受ける時が来た」とは、多くの人が期待したように、ローマ帝国を倒してユダヤを開放する救世主になることではありません。アダム以来、すべての人の罪のために十字架で命を捨てられ、人類を死と呪いから解放することでした。このことをイエス様は「一粒の麦」と表現されたのです。身代わりの死によって、人類は真の命・・永遠の命を得ることができたからです。そしてイエス様は、この「永遠の命」を自分のモノとするために「自分の命を憎む」ことが必要だと言われたのです。どういう事でしょうか?この世は、競争社会であり、人より少しでも多く得ることが成功への道なのです。ここで言う「自分の命」とはこの世の価値観を受け入れ、利己的に利益を追求することです。それを憎むとはその反対のことをすることです。すなわち協力し合い、利他的(自分の損失になっても他人の益を求めること)になって少しでも多く与得ることで、喜びを得ることです。  
しかし、果たしてそのようなことができるのでしょうか?イエス様はその模範を示されました。そして父なる神様はその様な人を大切にすると約束されたのです

2017年03月17日

2017年2月26日

2017年2月26日            「メタノイア」                    ルカによる福音書10章1~3節

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(ルカ10:2)

この冬もなかなか寒いですね。春が恋しいです!さて、何で秋でもないのに「収穫」なの?と変に思われていらっしゃる方もおられるかも知れません。イエス様がおっしゃったのは、秋だけでいいよっていうことでしょうか。勿論、野菜は冬にも収穫できます。日本は今だにキリスト教の信者が1%で、ある意味、奇跡だと言われています。それなのに、収穫が多いとはどういうことでしょうか?ユダヤだからでしょうか?日本はもっともっと種まきが必要でしょうか。種まきであれ、収穫であれ、私たちがそのために用いられるには、やはり条件があるのではないでしょうか。イエス様は、マタイ4:17で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われて、宣べ伝え始められました。バプテスマのヨハネも、同じことを言って伝えています。本当に心の底から悔い改める(メタノイアする)ことです。口先だけではありません。決心して、二度と振り返らないことなのです。それは、以前悔い改めたし、というものでもありません。自分の心の奥底からの意志をもって、神様の方に方向転換することなのです。メタノイアして、主にますます用いて頂きましょう。

2017年03月04日

2017年2月19日

2017年2月19日         「十字架こそ勝利」             ヨハネによる福音書12章12~19節

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(新改訳)(ヘブル12:2)
 この日を特に「棕櫚の主日」と言い、ここから受難週が始まり、イースター(復活祭)へと続くのです。この出来事は単にイエス様が命の危険を顧みず、エルサレム入場され、大勢の群衆がそれを歓喜を持って迎えた・・だけではありません。イエス様はエルサレムにイスラエルの真の王・平和の王として、また真の戦いに勝利した凱旋将軍としてエルサレムに入城し、群衆も「ホサナ(ヘブル語で「どうぞ、救ってください」との意味)と叫び、なつめやしの枝を持って、イスラエルの真の王としてお迎えしたのです。では、イエス様は何に勝利されたのでしょうか?十字架です。もちろんイエス様はまだ十字架についておられませんが、この過ぎ越し祭りの中で、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(1:29)とバブテスマのヨハネが言ったように、十字架にかかって血を流すためにエルサレムに入られたのです。私たちにも負うべき十字架があります。イエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタ16:24)と言われました。イエス様に従うとは、イエス様のようになってゆくことです。自分を変えてゆくことです。しかし、それは簡単なことではありません。自分に死ななければできないことかもしれません。しかし、その先にあるものは・・輝かしい勝利の喜びなのです。

2017年03月04日

2017年2月12日

2017年2月12日          「間違った行為と正しい動機」           ヨハネによる福音書12章1~8節 

「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから。」(ヨハネ12:7)
ここだけを見るとうるわしい絵のようですが、その前後の小題が「イエスを殺す計画」「ラザロに対する陰謀」と銘打っているようにかなり緊迫した中での出来事でした。現にこの後、「ラザロ」と「マルタ」の名が出てこないのは身を隠したからではないかと言われています。さてこの出来事は、生き返ったラザロとそうして下さったイエス様に対する感謝の食事会の最中に起こりました。ラザロのもう一人の姉妹「マリア」が三百デナリオン(1デナリオンは1日の賃金に当たる)もするような高価なナルドの香油を持って来て、イエス様の足に塗り、それを自分の髪の毛で拭ったのです。マリアは只々感謝‥それ以上の気持ちで一杯だったのでしょう。しかし、弟子を代弁したユダが言ったように、行為としては間違っていたのです(ユダは、ヨハネが指摘したように動機が間違っていました。)。しかし、イエス様は彼女を庇われたのです。「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、・・」(ヘブ7:25)と書いてあるように、たとえ行為が間違っていても私たちの味方になってくださるのです。「レ・ミゼラブル(ああ無常)」のジャン・バルジャンのように、決して見捨てられないのです。

2017年02月15日

2017年2月5日

2017年2月5日          「真理である、命である方」             ヨハネによる福音書11章17~27節

「『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(ヨハネ11:25,26)
 イエス様は命の危険を感じて、「ヨルダンの向こう側」(10:40)ペレアに行かれました。ここにバブテスマのヨハネのことが出てきますが、彼は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)とイエス様の本来の御姿を証ししました。そしてこの地でラザロの病のことを聞いたのです。それは死に至る病でした。しかし、イエス様はさらにここに2日間滞在され、その死を確実にされたのです。後にイエス様はトマスの問いに答えて「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と言われました。イエス様は「真理」であるからこそ、生まれつき盲人の目を開けられた・・真理は本来の姿を明らかにする・・からです。今また「愛しておられる者」(11:3)の「死」を通して御自身が「命」であることを証ししようとされたのです。イエス様は本来何にも束縛されず、何も必要としない自存存在なる神様です(出エジ3:14.ヨハネ18:6)。
この御方が完全なる人(誕生から死まで)としてこの地上に来て下さったのは、私たち人に歩むべき道(人生の目的・目標)があることを示し、人は本来土の塵だけでなく、神に似せて造られた 愛すべき存在であるという真理を明らかにし、死・滅びではなく、命・永遠に向かうように選択する為ではないかと思います。物は壊れます。命は失われます。だから今、永遠なる御方を見上げて、この永遠なる命を受け取りましょう。ここに主の御心があるのです。

2017年02月04日

2017年1月29日

2017年1月29日         「神のみわざが現れるために」               ヨハネによる福音書9章1~12節

「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(エゼキエル36:26)
 弟子たちはイエス様に問いました。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」・・目が見えないこと自体辛いことなのに、その原因まで「あなたにある」と言われたら本人はたまったものではないでしょう。科学が発展した現代であっても、上記のような否定的な考え方がいたるところで見られます。いや現代だからこそ、ネットなどに誹謗・中傷などが書かれていると聞きます。しかし、イエス様は「神の業がこの人に現れるためである。」と生まれつき目が見えないという事実を、肯定的に捉えられたのです。確かに事実は事実です。自分の中でどんなにこね回しても変わりません。しかし、どのように捉えるかは、本人の選択によるのです。そして彼はこの事実を肯定的に捉えました。イエス様の言葉に耳を傾け、それに従ったのです。「クロスローズ」というマニュアルの中に、同じ太陽の光を受けながら硬くなってゆく粘土と柔らかくなってゆくロウの例話がありました。彼はロウのように頑なだったかもしれませんが、イエス様に信頼して従ったのです。そして大きな変化が訪れました。この変化は好ましいことばかりではありませんでしたが、「わたしがそうなのです」と自分を取り戻しました。これが神の業なのです

2017年02月04日

2017年1月22日

2017年1月22日            「真理は、私たちを自由にする」            ヨハネによる福音書8章31~38節」

「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』」(ヨハネ8:31,32)
 先週は「姦通の女」の場面で律法学者たちやファリサイ派の人々は、この女の人を罪に定め、イエス様をもハイかイイエの質問で、コントロールし支配しようとしたのです。それに対してイエス様は、ここにいるすべての人に自分を顧みる問をし、考えさせ、選択と責任を与えたのです。そして、「コントロール」の背後にあるのは「自分が正しい」と言う考えであり、「選択」の背後にあるのは「相手を信用する」と言う考えであると言われています。
イエス様は神なる御方であらせられるのに、事実、土でつくられ(創世2:7)、実際に「塵あくたにすぎない」(創世18:27)、不完全で取るに足りない「人」を信じ続けて下さっています。今日の聖書の箇所も「わたしの言葉にとどまるならば」と考える時と選択を与えて下さっています。そして
イエス様は御自身の言葉によって真理を知り、「真理はあなたたちを自由にする。」と言われたのです。それに対してイエス様を信じたばかりであろう彼らは「わたしたちはアブラハム子孫です。」(33)と答えたのです。すなわち私たちは、義人の子孫であり、その契約を守り律法を守ってきた。だから霊的には「自由」なんだと答えたのです。では「真理」とは何でしょうか?一言でいえば「決して変わる事のない、人として行うべき正しい道」のことです。彼らは、ルールを一生懸命に守ることが自由だと言い、イエス様はルールを自分のものにすることが、まことの自由だと言われたのです。そしてそれこそが、イエス様の弟子としての生き方なのです。 

2017年01月26日

2017年1月

2017年1月15日             「罪からの解放」          ヨハネによる福音書8章1~12節 

「イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」(ヨハネ8:11)
 使徒ヨハネは、福音書の中で「光」と言う語をよく用いています。光は闇の中で輝くからです(1:5)。そしてイエス様の「命の光」は人の内にある「死の闇」を照らし出します。「姦通の女」の出来事はまさにそのような場面でした。律法学者やファリサイ派の人々は、自称義人であり律法を盾に人々を罪に定めました。定めてどうするかと言えば、自分たちのコントロール・支配の内に置くためです。その魔の手は、この女の人だけでなくイエス様にも及びました。彼らは「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」とハイかイイエの答えを迫ったのです。それに対し主は、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と問うことにより「影響・選択」を与えられたのです。人が成長するのを助ける。と言う視点においては、コントロールは、支配であり、影響は自由です。なぜならコントロールは・今すぐの結果を求める。・1時的な変化・変化をもたらすのに最も非効率的・相手を尊重しないwww.findyourday2.com(クロスローズテキストから引用)。影響・選択はその反対です。結果的に自称義人であった彼らを始め、この場にいたすべての人が、イエス様の光に照らされて(影響されて)闇であることを悟ったのです。しかし、実際罪から解放されたのは、止まったこの女の人だけでした

2017年01月26日

2017年1月8日

2017年1月8日           「生ける水の川」           ヨハネによる福音書7章37~39節

「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」(ヨハネ7:37,38)


 「祭り」とは「仮庵祭り」のことです。出エジプト後の荒野での40年間を記念した祭りで、7日間行われその最後の日に大切な水汲みの儀式があるのです。イエス様はそれを見て、上記の御言葉を言われたのでしょう。意味も明解です。求めている人は聖霊様によって満たされるだけでなく、満たされた人は、他の人も満たすことができるようになるということです。そしてそれは、ペンテコステの日に実現し、現在に至るまで続いています。では、人は何に渇くのでしょうか?マーク・トウェインという作家は、「あなたの人生で最も大切な2つの日は、あなたが生まれた日と、その理由を発見した日である。」www.findyourday2.com(クロスローズテキストから引用)と言いました。それは、すべての人は目的をもって生まれ、その目的を達成するために能力や才能が与えられているということです。それが、イエス様に心を向けるとき賜物と認識され、聖霊様の助けによって用いることができるようになるのです。私たちは自分と他者を満たすために生まれてきました。ですから、自分の人生の目的を発見し、具体的な目標に生きるときまさに上記の御言葉を体験するのではないでしょうか?私たちクリスチャンの目的は、イエス様の弟子として生きることです。では、あなたの具体的な目標は何でしょうか?

2017年01月26日

2016年1月7日

2016年12月25日        「世の中心に来られた方」             ルカによる福音書2章8~14節

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。‥』」ルカ2:10,11()
 メリークリスマス!イエス様の御降誕を心から、お祝い致します。私は17~23日(土~金)まで、クロスローズトレーナーの訓練会に行ってきました。それは私にとって素晴らしい恵みの時でした。確実に自分が変えられて行っているのを感じることができたからです。今日はこの訓練会の中から
www.findyourday2.com「変化の波紋」と言う考え方を引用したいと思います。これは、小石を水面に落とす時、時間の経過とともに次第に輪が広がり、しかも大きくなっているという自然の法則から、自分が変わることによって、身近な人からそうでない人に変化の輪が広がっていくということです。そのような視点でクリスマスを見るとき、神様がされたことはまさにこの事だと思いました。神様の視点ではこの世は・・人類は、暗闇に滅びに向かって行っているように見えられました。そこでこの世を変えたいと思われたのです。しかし、神様がまず変えられたのは、御自身でした。神であることを止められて人となられたのです(フィリピ2:6~8)。そしてこの御方が、「愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制」をもたらしたのです。

2017年01月07日

2016年12月18日

2016年12月18日        「マリアの信仰」           ルカによる福音書1章26~38節

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)

キリストは①イスラエルの中から出る(民24:17,19,創12:3,マタ1:1~17,ガラ3:8,14)②ダビデの家系から出る(イザ11:1,ルカ1:31~33)③ユダの部族から出る(創49:10,ヘブ7:14)④ベツレヘムで生まれる(ミカ5:2,マタ2:5,6,ルカ2:4,6,7)⑤一人の処女から生まれる(イザ7:14,マタ1:18,22,23)⑥来臨はバプテスマのヨハネという先駆者によって告知される(イザ40:3,マタ3:3)⑦メシヤは神である(イザ9:6,ヨ1:14)と、様々に預言されています。 しかしこうした預言も、一人の女の人の信仰と献身によって成就されたのです。イエス様の母マリアさんのことです。神様はどうしてこのマリアさんを選ばれたのでしょうか。人間にははっきりとは分かりませんが、貧しい婚約者のヨセフと愛し愛され、平凡な中にも、幸せな生活を送っていたようです。そんな彼女がお祈りをしていると、突然天使が現れ、とんでもないことを伝えます。性関係なく妊娠し、男の子を産むというのです。それもその子は神
の子だと・・・。皆さんは、突発的な出来事に対し、どんな態度を取ると思れますか。また、自分の願うことと神様の思いが違っていたなら、どうされますか。マリアは人を恐れないで、神様にすべてを委ね、御心に従うことを選びました。この一人女の人の信仰の決断により、神様のご計画が大きく動き、人類には解決出来なかった素晴らしい救いが与えられました。

2016年12月20日

2016年12月11日

2016年12月11日      「インマヌエルと呼ばれるために」          マタイによる福音書1章18~25節

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』 この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

                                                             (マタイ1:23)
 イエス様(救い主)誕生においては、母マリアが注目されることが多いですが、父ヨセフも同じように大きな役割を果たしています。確かにマリアは 、聖霊によって身ごもったのでヨセフは関わっていませんが、そのマリアとお腹の子を受け入れ・守り、「イエス」と名付けたのはヨセフなのです。彼は正しい人でした。「正しい人(19)」とは、自分の正しさに立つことではなく、 「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」(ルカ1:6)人のことです。ヨセフは単に主の掟と定めを守るだけでなく、婚約者マリアとの関係においても、神の御前に正しく生きようとした・・つまり、マリアへの愛に溢れていたので苦しんだのです。それで「ひそかに縁を切ろうと」(19)祈らずに間違った決心をしたのです。しかし、
神様は、御前に正しく生きようとした人を見捨てられません。「夢」を通して語られ、この御方こそ「インマヌエル」だと明かされたのです。この地に誕生された御方は、「インマヌエル」となるために、神の位を捨てて人となり(フィリピ2:6・7)、人と同じ試練を受けられ(ヘブ4:15)、御自身の命によって私たちの罪を贖われたのです(ヘブ9:14)。だからこそ、私たちを執り成すために天に帰られた御方は(ヘブ7:21)、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28:20)と言われたのです。

2016年12月20日

2016年12月4日

2016年12月4日        「不思議な助言者」                イザヤ書9章1~6節  

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 権威が彼の肩にある。 その名は、『驚くべき指導者、 力ある神、 永遠の父、 平和の君』と唱えられる。」(イザヤ9:5)
 アドベント(待降節)2週目です。街中では華やかなクリスマスムードも高まり、昨日は、市民クリスマスのイベントもありました。しかし、イザヤがメシヤ(救い主)誕生の預言をしたBC700年ごろの南王国ユダは、クリスマスの華やかさの一かけらも無い暗い戦いの時代でした。アッシリア帝国の脅威に対抗するため、アラム(シリヤ)と北イスラエルが同盟を結びました。そして、同盟を拒否した南王国ユダを攻めてきたのです。そこでなんとユダの王アハズはアッシリアに助けを求めたのです。霊肉共にまさに暗闇の時代でした。その最中にイザヤは、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(1)と預言をしたのです。その中心は神の権威を持ち、人として生まれた救い主メシアだったのです。その勝利を約束された御方は具体的には、①驚くべき指導者・・不思議な助言者(新改訳)とも訳されています。
それは私たちを助け導くために、不思議をされる御方だということです。②力ある神・・力があるからこそ「神」なのです。③永遠の父・・世に「父」と呼ばれる存在は数限りなくありますが、この御方こそ「真の父」なのです。④平和の君・・戦う目的は平和です。そして神との平和こそ全ての関係の基礎です。

2016年12月20日

2016年11月27日

2016年11月27日        「インマヌエル」         イザヤ書7章14節

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」(イザヤ7:4)
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)
昼食後の聖書の学びでも学びましたが、3:15に原初福音が記されています。この女とはエバのことで、彼女から生まれる子孫の中から、やがて悪魔を砕くお方が現れるということを神様ご自身が予告されています。女の子孫がどのように誕生するのかを、初めて預言したのがイザヤです。その成就が、マタイ1:20~23となります。イザヤは、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤまで4代に亘って預言者として活躍しました。7章はアハズ王の時代です(1)。この時、国家存亡の危機の只中にあったのです(2)。かつてイスラエル人が主に導かれてエジプトを脱出した時、前には海、後には襲いかかるエジプト軍という危機的状況に置
かれた時にも、モーセを通して言われましたが、イザヤを通しても、「恐れてはならない」と語られたのです。アダムに始まり、人は本当に根深い不信仰を持っていますが、そのような者たちのために、インマヌエルの救い主を準備してくださいました。それも具体的に「おとめ(処女)」から男の子が生まれると予告されました。実に、イエス様がお生まれになる734年も前のことだったのです。

2016年12月20日

2016年11月

2016年11月20日            「世に憎まれる方」          ヨハネによる福音書7章1~10節

「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」

                                                        (ヨハネ15:18,19)
 「仮庵祭」とは、刈り入れを祝うとともに、エジプト脱出の後、40年の荒野での放浪を主が守ってくださったことを記念して行われるものです。「5つのパンと2匹の魚」の奇蹟を体験し、イエスのもとを去って行った人々もこの祭りに参加する途中だったと思われます。ここでイエス様は、実の兄弟たちから意地の悪い言葉を投げつけられ、次のように答えられました。「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。」(7)と・・どういう意味でしょうか?憎むの対義語は愛するです。兄弟たちはイエス様と一緒に育っても世を愛し、世に従って生きてきたのです。ですから、世人の称賛を得るために祭りに行ったらと勧めたのです。しかし、イエス様は、バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(1:29)と言ったように、世を変えるために来られたのです。その恩恵に与るためには、まず私たちが何者かを知らなければなりません。私たちは神様も御目から見ると、罪人であり、その罪のために死すべき者・滅ぶべき者となったのです。しかし、救いの主が・・

2016年12月20日

2016年11月

2016年11月13日        「誰に(何に)従うのか?」              ヨハネによる福音書6章60~71節      

「シモン・ペテロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」(ヨハネ6:68,69)
 今週は、お葬式続きでした。6日(日)に元上郡キリスト教会教会員だった
北野千波姉(74歳)が召されて、キリスト教式で葬儀が持たれ、9日(水)には隣保の山本初美さん(92歳)が亡くなられ、仏式で葬儀が持たれました。お坊さんの「阿弥陀如来の本願によって、極楽浄土に行けます。」という話を聞いて、やはり教えには似たところもあるなと思いました。確かに良い教えをする団体や宗教は多くあると思います。しかし、キリスト教は単なる教えではなく、人と神とのかかわりの歴史であり、同時に神が一方的に人を贖った贖いが土台なのです。そして、神御自身であるイエス様に従うか否かが問われるのです。では、イエス様の言葉を聞いて何に従ったのでしょうか?
①欲得に従う人(66節)・・悲しいことに多くの弟子たちがそうでした。彼らは「もはやイエスと共に歩まなくなった。」のです。彼らは自分に益がなさそうだと思うと去っていったのです。②自分の願いに従う人(70節)・・「ユダ」がそうでした。彼は裏切りました。なぜなら従うより、願望を叶えたかったからです。③イエス様に従う人(68・69節)・・「あなたこそ神の聖者である」とペトロが言いました。神こそ最善であると知っていたのです。

2016年11月19日

2016年10月

2016年10月30日         「自分を変える」            ローマの信徒への手紙12章1、2節

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)
 小6の娘のおかげで?私は今「学校」というものについて考えさせられています。道は3つありました。①、再び小学校に通えるように励ます。②、フリースクールに通わせる。③、ホームスクールを始める。その選択する中で、小学校での保健室登校をし、フリースクールに体験入学し、ホームスクールを見学させていただきました。はじめは娘のため・・もちろん全部が娘のためなのですが、この出来事を神様が導いているような気がして、静まって祈りました。その中で与えられたのが上記の御言葉です。「この世に倣ってはならない」・・今まで当たり前だと思っていた学校が当たり前でないかも知れません。聖書には子弟教育について、信仰の継承、弟子を育てるにはどうすればいいと書いてありますか?私は、そのことについてイエス様から問われたのです。まず主は、礼拝を求められました。方向転換し(自分の価値観から、神の価値観に変換すること・・この価値観を知るために聖書を学ぶのです)、祈りの祭壇を築いて自分をささげ、上からの御声を聴くのです。そこで私は、神様が喜ばれること、娘を活かすことではなく、世に倣い世を喜ばすことをしていたことに気がついたのです。子どもたちに聖書の知識を与えるだけではなく、祈りと共に過ごす時間が必要だと示されました。

2016年11月01日

2016年10月23日

2016年10月23日         「癒し主」              ルカによる福音書5章12~16節

「そうしてあげよう、きよくなれ」(ルカ5:13口語訳)

著名人の中にも、たくさんの方々が、がんという病気と闘っておられます。私の家族や友人、知人もがんで召されました。今や、2人に1人ががんになり、3人に1人ががんで死ぬ時代だそうです。医学的にも、長年がんの研究は行われてきているのに、なかなか特効薬が出来ません。
イエス様の時代にも、大変な病いと闘っておられる方の記事があります。ここに出てくる方は、「全身重い皮膚病にかかっ」ていたとあります(12)。肉体的にも苦しいものですが、それ以上に、この病気の方々は、社会な苦痛も伴っていました。それは、社会から追放され、人々から隔離されてひっそりと暮らさなければならなかったのです。愛する肉親から引き離され、友人を失い、社会生活も失うことを指します。
汚れた人に触れる人もまた汚れることになります。誰もが近づくことを好まない人間に、イエス様は手を伸ばし触れてくださいました。そして、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」との願いに、「そうしてあげよう、きよくなれ」と癒してくださったのです。それは、肉体的回復だけでなく、社会的な回復も与えられました。

2016年10月24日

2016nen

2016年10月16日         「わたしが命のパンである」            ヨハネによる福音書6章34~40節

「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。‥』」

                                                       (ヨハネ6:35)
下の娘を連れて、クリエイト(フリースクール)の体験入学に行ってきました。そこでは、先生が前に立って生徒を教えるのではなく・・もちろん一切教えないというのではありませんが、生徒が分らないことや質問したことに答えていました。つまり、生徒を中心にして、生徒の考え方を伸ばし、自主性を重んじる方式をとっているようでした。教会も、信徒の生活や仕事場が「神の国」になるように助ける組織になれたらいいなと思いました。さて今日の聖書の箇所ですが、4:13~15とよく似た箇所があります。この女性はイエス様を救い主として受け入れ、サマリアにリバイバルが起こりました。しかし、ここでは彼らはイエス様を拒否し、去っていったのです。イエス様は同じようにアプローチされたのになぜ結果がこんなにも違うのでしょうか?彼女もガリラヤの人々も同じように求めたのです(4:15、6:34)。ですから動機ではありません。では何でしょうか?彼らは「わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どんなことをしてくださいますか。」と問うたのです。彼らは自分が変わることを拒否し、食べれば、自分の血となり肉になって自分に変化をもたらせるものを、アクセサリーのようにぶら下げることを望んだのです。

2016年10月22日

2016

2016年10月9日      「わたしだ。恐れることはない」            ヨハネによる福音書6章16~21節

「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」

                                                           (ヨハネ16:20,21)

「五つのパンと二匹の魚」の奇蹟の後、イエス様は群衆に身をゆだねず
一人山へ戻られました。おそらく御自分の心を静め祈るためだったのでしょう。その間に弟子たちは自分たちの使命を果たすために、舟で向こう岸に渡ろうとしていました。向こう岸と言っても北端は7㎞程しかありません。通常は問題なく渡れたでしょう。事実25~30スタディオン(4625~5550m)まで進んでいたのです。ところがそこに「嵐」という邪魔が入り、進めなくなりました。そこにイエス様が湖を歩いてこられ、舟に乗り込まれると、嵐が止み舟が目的地に着いたという5つ目の奇蹟物語です。著者ヨハネは、奇蹟を「しるし」として後で解説したり、意味を説明したりていますが、ここでは事実のみです。なぜでしょうか?必要ないからです。人が目的を達成しようとして行動すると必ずと言っていいほど困難や壁にぶつかります。クリスチャンも例外ではありません。しかしイエス様は、祈りすら忘れてパニくっている私たちのところに来て、「わたしだ。恐れることはない。」(20)と言って励まして下さり、さらに共にいて、目的を達成するまで御力を注いで下さるのです。

2016年10月10日

2016年10月2日

2016年10月2日       コリントの信徒への手紙二 12章1~10節

「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:10)

私たちは、実に様々な“弱さ”をもっています。身体の弱さや何かの欲に対して弱いとか・・・。こんな弱さはあってはならないとか考え、時に鎧をつけたりします。
使徒パウロはどうなのでしょうか。彼はかつて、第3の天にまで引き上げられた経験を持っていました(12:2)。そんな彼にも、高ぶらないために一つの肉体のとげが与えられたというのです。それが何であったのかは、はっきりしませんが、それを取り去って頂くように三回も主に願ったとあります。それによって、相当苦しめられているようです。しかし、主の答えは、苦痛を取り去ることではなく、むしろその苦しみの中で働いてくださるというものでした。パウロはそれを受け入れ、喜んで弱さを誇るまで言いました。笹尾鉄三郎師は「我らの戦闘力は第一に我らの無能、第二に主の大能である」といいました。私たちも、弱いからとあきらめる必要はないのです。ありのままの弱さを恥じることなく、そこに働いてくださる主の強さを期待しつつ、進ませていただきましょう。

2016年10月08日

2016年9月25日

2016年9月25日        「五つのパンと二匹の魚の奇跡」           ヨハネによる福音書6章1~15節

「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」
 (ヨハネ6:11)

 4福音書の中で唯一共通して記されているのがこの奇跡です。この「五つのパンと二匹の魚」の奇跡の出来事はよく知られていて、わざわざ説明しなくてもよいほどです。しかし、大切なのはこの奇跡物語やその解釈を知っていることではなく。ここから何を受け取るかです。①主は私たちを満たして下さる御方(フィリピ4:19)。この御方についていきさえすれば、たとえ御心は違っても(事実イエス様は群衆とではなく、弟子と過ごしたかったのです。)、憐れみ深い御方ですから私たちの必要を満たし、溢れさせて下さるのです。②主は信仰の完成者なる御方(ヘブライ12:2)。フィリポの「二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」という信仰も、「アンデレの「ここに大麦のパン五つと魚二匹・・何の役にも立たないでしょう。」と言う信仰も主は完成へと導いて下さる。③主は献げることを求められる御方(ルカ21:1~4)。大麦のパン五つと二匹の魚は、貧しい者の食事であり、少年とは大人にとって量的に足りない物でした。つまり、人前に質的にも量的にも足らないものであっても、100%献げるならば、主は祝福して下さり、男だけで5千人もの人々をあなたによって満たして下さるのです。

2016年10月08日

2016年9月18日

2016年9月18日           「聖書とは?」                ヨハネによる福音書5章39~40節

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を 得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ5:39~4)
「行き見れば 栄の奥にも 栄にて 限り知らぬも 永久の春」これが先週のメッセージの要約であり、「死から命へと」(24)移された人の歩みです。私たちは人生様々、人それぞれ、良い事も悪い事もあると何か悟ったような言い方をします。しかし神様からから見れば、人は神にかたどった(創世記1:26)愛と命に溢れる本来の姿ではなく、死を背負い死に向かって歩んでいるのです。そこでもう一度、命に満たされ命に向かう生き方をしてもらいたくて聖書を与えられたのです。確かに人類の代表として選ばれた選民イスラエルは、聖書を学び聖書を研究するようになりました。しかし、形を作って命を入れないというか、「仏作って魂入れず」?というか、最も肝心なことをしていないと言われたのです。私たちはどうでしょうか?確かに私たちも選ばれてクリスチャンになりました。そして一生懸命礼拝に出席し、聖書を学んでいます。しかし、イエス様が言われたような「業」(36)があるでしょうか?この「業」は、神様の御力です。奇跡の業です。死に向かっていた私が変えられ、花を咲かせ実を結ぶ生き方です。その過程で経験する様々なことです。では、この命はどこにありますか?イエス様は聖書にないと言われました。聖書ではなく、イエス様ご自身が、神様の御業であり、奇跡の業であり、命だと言われたのです。

2016年10月08日

2016年9月11日

2016年9月11日     「御父・・即ち御子の願い」            ヨハネによる福音書5章19~30節

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)
 あなたは、父なる神様と子なる神様・・イエス様のことをどのように
思っていますか?イエス様は優しそうだけど、父なる神様は厳しそうで、おっかなくて・・などと思っていませんか?この箇所では父なる神様と子なる神様の御心は同じであると書いてあり、しかもそれは力による主従の関係ではなく、愛と信頼の関係であると書いてあるのです。父なる神様・子なる神様・それに聖霊なる神様で、三位一体という言い方をします。これは神学用語で真理ですが、言葉で正確に表現することはできません。この真理の一部を表現するのに「水の3様態」の例えや「太陽」の例え、「会話」の例えを用いたりします。それはともかくとして愛に満ちたこの御方が、神であるゆえに人を裁くのです(申命1:6、32:39、サム上2:6)。裁くと言っても、悪いところを見つけて罰を与えると言うのではなく、「捌(さば)く」とも書くように善を行った者と、悪を行った者に分けそれぞれに報いを与えるのです。では、何が善で何が悪なのでしょうか?分りません。神様だけが御存知です。しかし、イエス様は「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は・・」と言われました。また「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモ2:4)と書いてあります。「私は、大丈夫だ。」ではなく、「私は、救われる必要がある」と頼ることが大切です。神様はそのような人に「永遠の命」を与えられること、これこそが本当の願いであられるのです。

2016年09月15日

2016年9月4日

2016年9月4日       「安息日は誰のため?」              ヨハネによる福音書5章10~18節

「そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。』」(マルコ2:27)
 「・・その日は安息日であった。」ベトサダの池での出来事は、ヨハネだけが記しました。他の福音書は、麦の穂を摘むことと、手の萎えた人のいやしの出来事を記し安息日論争に入っていきます。共通しているのは「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」(マタイ12:14)「ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」(ルカ6:11)「このため、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。」(ヨハネ5:18)と書いてあるように、ユダヤ人指導者たちは、律法違反者としてイエス様を排除することに決めたのです。そのくらいこの「安息日」は、ユダヤ人たちにとって大きな位置を占めていました。なぜでしょうか?その始まりが、「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創世記2:3)と言う言葉であり、第四戒にも「安息日を心に留め・・」(出エジ20:8)と記してあるからです。そしてその日には一切の仕事を生死をかけて止めたのです。しかし、それはあくまでも旧約の話、では新約ではどうなるのか?戒めはなくなりました。しかし、その精神は残ったのです。では、私たちにとって安息日はいつなのか?誰のためにあるのか?何のためにあるのか?どう過ごすのか?一緒に考えてみましょう。そしてこの日?を喜びと感謝をもって過ごし、神と人の交わりを楽しみましょう。

2016年09月06日

2016年8月28日

2016年8月28日     「なぜ?彼は良くなったのか?」          ヨハネによる福音書5章1~9節

「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。」(ヨハネ5:8,9)
 大勢の病人や障碍を持っている人たちが集まっている場所がありました。今の日本のように福祉が発達しているわけではありません。しかし、さすがに神様を信じている国です。彼らを支える人たちがいたのでしょう。そしてここに38年も病気の治らない人がいました。もしかしたらここで一番苦しんでいる人かもしれません。そこにイエス様が来られて、当たり前すぎて不自然にすら感じる質問をされました。「良くなりたいのか」と。あなただったらこのような方になんて声をかけますか? どのように接しますか?
 そして、この質問がキッカケとなって彼との関係ができたのです。何が彼の心を動かしたのでしょうか? しかし彼はイエス様の質問には答えず、自分を正当化し、悪いのは自分を支え、親切にしてくれている周りの人だと言いました。すなわち彼は、変わらないことを望んだのです。今のままでも何とか生きて来れたからです。しかし、イエス様はガマンできませんでした。
イエス様は造り主です。この彼も自分の足で立ち、互いに支え合い愛し合う存在として創造して下さったのです。そこでイエス様は、「起き上がりなさい。」と言われたのです。私はあなたもあなたの人生も大切だと思っている。今からでも遅くはない。立ちなさい。そして自分の足で歩きだしなさい。これがイエス様のメッセージではないでしょうか。

2016年09月06日

2016年8月21日

2016年8月21日      「宣教」          マタイによる福音書28章18~20節

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じていたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19,20)
一般に、日本では福音を伝えるのが難しいと言います。本当にそうでしょうか?私は8月7日(日)・8日(月)紀の川キリスト教会でトレーニングキャンプ。9日(水)~18日(木)まで、初めて海外に短期宣教に行ってきました。移動に時間がかかったので、タイにいたのは1週間余りでしたが、幼稚園や小学校?の子どもたちや青年たち、いろんな村も訪問させていただきました。振り返ってみて大変楽しかったです。「楽しかった」と言うのは単に、たくさんの人と知り合えたとか、良い交わりが出来たとか、食べ物がおいしかったとか、珍しい景色を見たとかだけではなく・・確かに楽しくなる体験をたくさんさせていただきました。感謝!・・御言葉を行っているという確信があったからです。「すべての民」の中には、当然言葉も通じず、
イエス様のことも伝えてはいけないという人々もいます。もしかしたらそのような人たちへの「宣教」は一番単純に「御言葉」を行っているのではないかと思いました。私がこの期間中考えていたことは、①宣教の主体は誰か? ②何を伝えるのか?です。 皆さんはどう思いますか?

2016年08月25日

2016年8月14日

2016年8月14日        「実を結び続ける者」            エレミヤ17章7,8節

「彼は水路のほとりに植えられた木。・・・実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ17:8)
本当に暑い日が続いています。このところ雨が降らないので、植木や畑に水をやるのは大変です!どんなに雨が降らなくても、水をやらなくていいなんて夢のようですね。でも聖書には、そんな木があると書かれています。地下の水源にまで根を張っている木です。これはまた、霊的な意味にも捉えることが出来ます。
1、水路のほとりに植えられているのです。すぐそばに尽きることのない水源があります。
2、その水源まで根を張るのです。イエス様は渇いている者は来なさいと言われています(ヨハネ7:37,38)。
3、実を結び続けるのです。葉っぱだけでは悲しいし、1回実をつけたから終わりではないのです。結ばれた実は、多くの人を慰め、励まし、助けます。私たちはどんな実を結んでいるでしょうか。自然界は実がなるとやがて枯れます。でも、主に信頼し続ける者は実を実らせ続けることができます。
やがて主は、それぞれの道、わざの実に従って報いられます(エレミヤ17:10)。

2016年08月15日

2016年8月7日

2016年8月7日       「小さな大冒険をしよう」       ヤコブの手紙3章1~12節

「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩篇1:3)
皆さんの中に、一日誰とも話さず過ごされる方はいらっしゃるでしょうか。辛いですよね。大抵の人は、色んな人としゃべって失敗をやらかします。あんなこと言わなきゃ良かったのにと後悔しても、元には戻れません。小さな器官なのに、それを制御出来ないと、大変な事態を引き起こします。ヤコブは「舌を制御出来る人は一人もいない」と言い切ります。みんなも人の悪口言ってるし、仕方がないとかと、自分を正当化しようとしても、やはりコントロールされなければならないのです。一方では神様を賛美し、もう一方では人の噂話や悪口を言っている。これは異常なことなのです。しっかりと認識しなければなりません。聖霊様に委ねていく練習をすることで、流れのほとりに植えられた木のように、葉もしおれることがなく、繁栄をもたらす者とされるのです。先のキャンプのテーマは、「小さな大冒険 自分を変えることができる人が、本当の意味で世界を変えることができる」でしたが、真剣に主と対峙し、本気で変えて頂きましょう。

2016年08月08日

2016年7月31日

2016年7月31日      「言葉に対する信仰」           ヨハネによる福音書4章46~54節

「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」(ヨハネ4:50)
 ヘロデ王の役人である彼にとって、イエス様は一介のユダヤ人にしか過ぎませんでした。しかし、彼はイエス様に会いに、32㎞もの道を歩いてきました。息子が危篤状態だったからです。しかし、イエス様はそんな彼に「帰りなさい」と言われたのです。たった一言「あなたの息子は生きる」と言う言葉だけを与えて・・。私だったらガッカリし、怒ったかもしれません。しかし、彼はその言葉を信じたのです。私たちも日頃「信仰、信仰」と言います。確かに聖書にも「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」(Ⅰコリ13:13)と書いてあります。では信仰とは何でしょうか?①自分の意思や強さではありません。時々「虚仮(こけ)の一念岩をも通す」的な、信じて祈れば何でもかなうと思っている方がいるようです。②神様の言葉を信じることです。まず、祈ることです。そこですることは要求ではなく、聴くことです。主はいろいろな方法で語ってくださいます。アンテナを立てましょう。③主の御心だと確信が持てたら、今度はどうすればそれが実現するか、主と相談しながら進めます。御心がなるためには、神様と人と両方に役割があるのです。

2016年08月01日

2016年7月24日

2016年7月24日      「ぶれない御方」        ヨハネによる福音書4章43~45節

「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:15)
 イエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15:24)と言われました。その言葉の通りに、あんなに歓迎され、リバイブしたサマリアの町からたった2日で離れたのです。そしてイエス様は、あまりうまくいっていない?御自分の使命に戻られました。では、イエス様の使命とは何でしょうか?いろいろな表現の仕方があるでしょうが、一言で言えば福音を完成されることです。命の源なる神から離れ、死に・滅びに向かっていた人類を、再び命に向かわせる福音です。
イエス様はそれを、十字架と復活によって完成されました(Ⅰコリント15:3~6)。では、クリスチャン・・イエス様の弟子としての私たちの使命は何でしょうか?完成された福音を伝えることです。伝えると言ってもただ情報として言い広めるだけでは伝わりません。私たちが福音にふさわしい生活をしていなければ誰も耳を傾けないでしょう。福音にふさわしい生活・・それは、神の命に満たされ、内に播かれた「神の種」(Ⅰヨハネ3:9)が発芽し、子葉となり、本葉となり、やがて花を咲かせ実を結び成長することです。

2016年08月01日

2016年7月17日

2016年7月17日      「あなたがたの知らない食べ物」           ヨハネによる福音書4章31~38節

「イエスは言われた。『私の食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。』」(ヨハネ4:34)
 日頃仲たがいをしていたサマリア人の町に、食べ物を買いに行ったのは必要だったからでしょう。しかし弟子たちが食べ物を差し出すと、イエス様はいらないと言われたのです。「せっかく買ってきたのに・・」と弟子たちはガックリ来たかもしれませんね。ここだけ読むと、イエス様は少しワガママ・・と思えるかもしれません。しかし「食べ物」とは何でしょう。飢えた者に満足を与える物です。イエス様は以前「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と言われました。文字通りイエス様は、肉の命ではなく、霊の命が満たされて満足されたのです。それが「御心を行い、その業を成し遂げること」だったのです。では、「御心・その業」とは何のことでしょうか。イエス様が時間をかけて関わられたのは、イスラエル人が嫌ったサマリア人の、そのまた嫌われ者のたった一人の女性です。でもそれで十分でした。イエス様にとって、否イエス様をお遣わしになった父なる神様にとっても、一人の人の命・・滅びから永遠に、死から命に(ヨハネ3:16、5:24)が、救われたのは、それで十分だったのです。

2016年08月01日

2016年7月10日

2016年7月10日      「もしかしたらメシア?」            ヨハネによる福音書4章39~42節

「彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわか ったからです。』」(ヨハネ4:42)
 「サマリアの女パートⅢ」では「共有する」することから学びます。彼女は、生ける水の源であるイエス様を、キリストとして受け入れ満たされました。その後の女性の行動は驚くべきもので、自分の命を支える水がめをそこに置き、避けていた人たちに会いに行き、知られたくなかった自分の秘密を暴露したのです。そして「もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(29)と言ったのです。彼女はイエス様に出会って大きく変わりました。そして彼女は、自分が救い主と直接出会ったように、彼女の秘密を聞いて心を開いた人々に、自分を通してではなく、直接出会えるように導いたのです。現代では、祈り求めるように導いたということになるのでしょうか?ここが大切です。私たちは自分の弟子を作ろうとします。しかし、神に孫はいないのです。

2016年07月10日

2016年7月3日

2016年7月3日       「神が求められた礼拝者」          ヨハネによる福音書4章16~26節

「しかし、まことの礼拝する者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:23,24)
「サマリアの女パートⅡ」では、「満たされる」ことから学びます。彼女はイエス様の言葉で渇き求めました。しかし、彼女が求めた「生きた水」(10)とはイエス様御自身の事であり(参照 黙示録22:1)、それを受けるためには彼女は自分自身の悪を認めなければなりませんでした。なぜなら、偽りと真理は相反するものだからです。ここでおもむろに、どこで礼拝をすればよいかを問いました。彼女にとって礼拝とは、神がおられる正しい場所で、神の赦しを得るために、神にいけにえを献げることだったのです。しかし、イエス様は「神は霊である。」と言われましをた。霊であるとは、場所に限定されないということです。霊であるとは、動物のいけにえではなく、人の霊のいけにえを求められるのです。いけにえとは真心を献げる事です。神様の真理に対して、私たちは真心で答える・・これが礼拝であり、交わりであり、ここに畏敬の念と共に、感謝と喜びが湧いてくるのです。

2016年07月03日

2016年6月26日

2016年6月26日       「み翼の陰に」            ルツ記1章1~18節

「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。」(申命記32:10,11)
神様は、ひとみのように私たちを守り、私たちをみ翼の陰に隠してくださるお方です(詩篇17:8)。出エジプト19:4で神様は、鷲の翼に載せて運んできたようにイスラエルの民をエジプトから導いたとありますが、神様のくすしき摂理が「鷲の翼に載せて」と記されています。神様の臨在の中にあって導かれていくことは、私たちが神様の翼の中にあるということです。ルツ記において、主の翼の下に身を寄せようとしたルツが(ルツ2:12)、母に尽くすため、はからずもボアズの畑に落ち穂を拾いに入り、ダビデの家柄の中にその名が加えられました。本当にどうしてよいか分らず、やり場のない時に、どこが一番安らぐことができるでしょか。それはみ翼の陰です。そこにこそ平安と憩いと慰めと新しい生命の注ぎがあります。神様の偉大な御業により、信仰の翼を与えられて、永遠の世界に導かれたことを神様に感謝しましょう。

2016年06月26日

2016年6月19日

2016年6月19日       「与えられた渇き」               ヨハネ4章1~15節

「女は言った。『主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。』」(4:15)
 金・土と津田キリスト教会で行われた「教会主体の社会貢献を考える会」に参加しました。そこで「私たちが、必要のある人々に寄り添うには・・」というテーマで話し合いました。今日の聖書の個所である、サマリアの女の物語は、一人の問題のある女性・・助けの必要な人が、「求め」「満たされ」「共有していく」過程が描かれています。今回は「求め」について聖書から見ていきましょう。ここに問題のある女性がいました。しかし、救い主が現れたからといってすぐに助けを求めるわけではありません。実際に、声をかけられたのはイエス様の方であり、しかも「水を飲ませてください」とお願いする形でした。さすがにこの女性もイエス様を無視できなくて「・・どうして・・」と返してきたのです。ここに関係が始まりました。私たちも、この人を助けたいと思い、また、助けるだけの能力を持っていたとしても、例えば「助けてあげるから」など上から目線では、「関係」ができないし、「関係」ができなければ、その人の、「必要」を満たすことはできません。私たちは、とかく福音は良いものだから、相手も必要だからと押し付けてしまうことがあります。しかし、善意からであっても、押し付けは相手を傷つけてしまうことがあるのです。大切なことは、相手に寄り添い「助けて」と言うまで待つことです。

2016年06月20日

2016年6月5日

2016年6月5日    「天からの言葉」        ヨハネによる福音書3章31~36節

「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」(Ⅰヨハネ5:20)
バプテスマのヨハネは、偉大な人物でした(マタ11:11)。しかし、地に属する者だったのです。地に属するとは、その言葉に真理が含まれていても、真理全体ではないし、真理について語っても、真理そのものではないということです。少し難しい言い方をしましたが、地に属する人の言葉は、どんなにその思いが強く、正しくても実現には至らない・・むなしいのです。しかし、
  「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
   むなしくは、わたしのもとに戻らない。
   それは私の望むことを成し遂げ
   わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55:11)
と書いてあるように、天から来られた方・・すなわち、イエス様の言葉はそのまま100%信じることができるのです。ではイエス様は何のためにこの地上に来てくださったのでしょうか?それは、「御子を信じる人は永遠の命を得ているが」(36)と書いてあるように、この地上でのやがて消え去ってゆく仮の命ではなく、どんな状況の中でも・・たとえ「死」という状況の中でも変わることなく、喜びと感謝に満ち溢れたポジティブの塊のような真の命を与えるためなのです。本気で信じていますか?信じているならその命はすでに私たちの内にあるのです。そしてこの命を活かすための約束の言葉が聖書に満ちています。この命と約束に注目して日々の生活を営んでいきましょう。

2016年06月06日

2016年5月29日

2016年5月29日    「赦し」           ルカによる福音書23章32~34節

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)
 26、27日(木、金)と、主要7カ国首脳会議(伊勢志摩サミット)が三重県で開催されました。それを終え27日(金)の午後には、現職のアメリカ大統領として初めて、オバマ氏が広島を訪れ、平和記念公園の原爆慰霊碑に献花しました。被爆された方々と話し、ハグする姿を見て、涙が溢れて仕方がありませんでした。あるTVで、被爆された女の方が、謝罪とか恨みとかを超えて、大統領には核廃絶をお願いしたいと言われていたのが心に残りました。この女性はこの言葉を発言されるまでに、どれだけの肉体的、精神的な苦しみを経て来られたのだろうかと思うと、胸が詰まります。人が、人を赦すことが出来ないで恨み続けるということは、その感情に支配されていると言えます。ある人は、それによって、その人に危害を加えたり、殺したりすることもあります。イエス様は、犯罪者として刑を受けるに相当する方ではありませんでしたが、十字架によって処刑された時、上のお言葉を発せられました。長い時を経てではなく、即座のことでした。自分たちが犯した罪の当然の報いを神から受けるであろう彼らのために、彼らの赦しを神に乞われるとは!私たちは聖霊の助けによって、キリストと同じ愛を頂けるのです。

2016年05月29日

2016年5月22日

2016年5月22日      「イエス様は栄え、私は衰える」       ヨハネによる福音書3章22~30節

「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)
 
ペンテコステの日、120人の人たちは天から注がれた力を、自分や関係を変えることに使い、キリストの証人として世界に出てゆきました。自分を変えることのできる人が、本当の意味で世界を変えることができるからです。さて、今日の聖書の箇所は栄える方と衰える者とが対比されています。イエス様はヨハネのことを「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」(マタイ11:11)と言われました。それは、キリストを預言しただけでなく見て、指し示したからです。しかしイエス様は更に言われました。「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」と。それは、イエス様をキリストとして受け入れた人は、その内にイエス様が住んでくださるからです。私たちの内におられるイエス様が栄え、私(自己中心)が衰えていくことが、私たちの成長なのです。それはバプテスマのヨハネのように意識しないとできません。具体的には、イエス様にどんなことでも聞いて、行うことです。

2016年05月26日

2016年5月15日メッセージ

2016年5月15日      「弟子たちが見ていたもの」      使徒言行録1章12~15節

「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリヤ、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(使徒1:14)
今日はペンテコステ(7週の祭り、五旬祭の日・・シャブオット)で、キリスト教のイースター、クリスマスと並ぶ3大祭りの一つです。ペンテコステとは聖霊降臨(ラテン語)という意味で、教会の誕生日として祝われています。さて、今回注目したいのは、この日まで10日間行われた祈り会についてです。集まった人数は120人ほど。その中心メンバーはイスカリオテのユダを除く、逃げ出した「12使徒」、軽んじられていた「婦人たち」、そして、決して好意的でなかったイエス様の肉親(マタ12:46)でした。彼らは、何に心を合わせ、何を求めて熱心に祈っていたのでしょうか?もちろん、実際のことはご本人たちに聞かないとわかりませんが、推測することができます。何せ、彼らの祈りに答えて、神であらせられる聖霊様が降臨してくださり、この御方の力を受けて、御言葉通り(1:8)、イエス様の証人(弟子)として、出て行ったのです。彼らは、以前と全く違う人になっていました(Ⅱコリ5:17)。その関係において、その性格において、そしておそらく「ボアゲルゲ(雷の子)」が、「愛の使徒」と呼ばれるようになったヨハネのように、感情もコントロールできるようになったのでしょう。彼らは、イエス様を復活と昇天を通して神であると知り、その御言葉が実現可能な真理であると知ったのです。

2016年05月16日

主日礼拝メッセージ

2016年4月27日     「失われた者を見出される神様」        ルカによる福音書19章1~10節

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:10)
最近、よく捜し物をします。でも、携帯だけは助かります。サイレントにしていない限り、電話をかければ見つかるからです。例え見つからなかったとしても、最終的にはまた新しく契約し直せばいいか・・・とか、気楽に考えています。しかし、先の熊本地震では、行方不明の方が2人もいらっしゃるようです。ご家族はどんなにおつらい日々をお過ごしのことでしょうか。今日の聖書の箇所にあるザアカイという徴税人に出会われた後、イエス様は、彼を失われた者だったと言われました。ちょっと不正はしてたかも知れませんが、ちゃんとした生活をしていた人が、なぜ失われた者なのでしょうか。もともと私たちは神様によって造られた大切な存在だからなのです。自分勝手に造り主を離れ、自分の欲望の満足の中に罪を犯し、罪の泥沼に足をすくわれ、罪による裁きである滅びの中に定められた失われた者であったのです。イエス様はそんな失われた者を見出して、救ってくださる方なのです。


2016年5月1日      「イエス様の目的」           ヨハネによる福音書3章1~15節

「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」(ヨハネ3:3)
 あなたは、イエス様をどんな方だと思いますか?ニコデモは「神のもとから来られた教師」(3)であると思いました。彼自身が「イスラエルの教師」(10)であるからです。ある人は「パンと魚の人」(6:1~14)と言いました。もしかしたら、人は自分の共感や必要という視点でイエス様を求めるのかもしれません。でもそうなったらイエス様は、この人には必要だけどこの人には必要なくなり、キリスト・・すべての人の救い主にはなりえません。では、イエス様は御自身のことを何と言われてるでしょうか?「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(15)・・すなわち、すべての人が、死や滅びから解放され、神様が御自身の形に創造された本来の人(自分)となり、この世でもあの世(神の国)でも、感謝と喜びと命に満たされて生きるためなのだと言われたのです。ではそのためにはどうすればよいのでしょうか?イエス様は、「水と霊とによって生まれなければ・・」(5)と言われました。「水」とはバプテスマのことであり、「霊」とは聖霊様のことです。すなわちイエス様を信じて心の中心に受け入れることであり、聖霊様の導きに従って生活することです(良心とは決して相反することはありません)。

 

2016年5月8日       「神様の心」             ヨハネによる福音書3章16~21節4

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

先週は、神様の目的について語りました。それは、すべての人が(たとえ経済力があり、権力を持ち、名声や人格的にも優れ、老人であったとしても・・)、死や滅びから解放されて、神様が御自身の形に創造された本来の自分となり、永遠に感謝と喜びと命に満たされて、生き生きと生きるためでした。今日は、その神様の心の内に触れさせていただきましよう。上記の御言葉は、最も知られた聖句の一つで、小聖書と呼ぶ人もいるほどです。なぜなら、もし聖書の全巻が失われても、このお言葉があれば神様の御心が分かると言われているからです。そして、ここに表されているのは、神様の御心・・愛・・本来母親が自分の産んだ子どもを愛するような、無条件の愛です。神様は、この無条件の愛で私たち一人一人を愛し、この世を愛してくださったのです(神様にとって、一人の人を愛することも、すべての人を愛することも同じだからです。)。そして「愛」とは行いに表れるものです。三位一体の神様にとって(父・子・御霊)、「独り子」は、神様御自身のことです。すなわち神様は、御自身をお与えになったほどに、滅びに向かっている人類を、私たち一人一人を愛して下さったのです。この愛を信じますか?信じる者は幸いです。なぜなら光に中を歩むことができ、神様も「独り子」を通して、私たち一人一人を見て下さるからです。


2016年05月10日

主日礼拝メッセージ

2016年4月10日     「イエス様の怒り」       ヨハネによる福音書2章13~22節

「そして、人々に教えて言われた。『こう書いてあるではないか。[わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきである。]
ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしてしまった。」(マルコ611:17)
「神殿の境内」(14)とは、「異邦人の庭」のことで、そこでは神殿に納めるためにイスラエル貨幣への両替と、犠牲をささげるための動物が売られています。ここでイエス様は本気になって怒られました。「縄で鞭を作り・・すべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し・・」(15) しかし、決して感情的になられたわけではないようです。イエス様は鳩を売る者たちに言われ、ユダヤ人たちに答えられているからです。いわばイエス様は、義憤に駆られてこのような行動をされたのです。ではその理由は何でしょうか?神殿は神様を礼拝する場所です。これは自己流の定義ですが、礼拝とは「神を神として認め、その御方を拝し、感謝をささげ、霊的に交流すること」ではないでしょうか。それなのに①すべての国の人・・礼拝はすべての人に開かれるべきです。それなのにユダヤ人たちは異邦人が礼拝するために開かれた場所を占領し、礼拝できないようにしていたのです。しかし、主は十字架での贖いの後神殿の隔ての幕を切り裂いてすべての人に解放されたのです(マタイ27:51)。②祈りの家・・これは神殿の在り方を問われたのです。神殿が完成してから、否、幕屋の時代から多くの動物の命がささげられてきました。しかし神様が本当に求められたのは「打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)なのです。③強盗の巣・・確かに彼らによって神殿は維持されていましたが、主は彼らを追い出されました。礼拝は場所ではないからです(19)。

 

2016年4月17日    「イエス様の心・人の心」     ヨハネによる福音書2章23~25節

「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」(エフェソ4:10,11)
「多くの人がイエスの名を信じた。しかし・・」このお言葉にドキッとしました。ここに私たち人の、目的のためには何でも利用するという自己中心性が
あらわれているような気がしたからです。しかし、私たちはイエス様の弟子です。弟子とは、イエス様を中心に生きている人たちのことです(少なくともそうしたいと願っています)。そして、イエス様中心とは、そこが「神の国」になると言うことなのです。「神の国」は願うだけではできません。イエス様に聞いて、その使命を果たすことなしにはあり得ないのです。先日、病気と闘っている私の友人が、仕事もできなければ外出もできない自分を嘆いて、生きている意味があるんだろうかと電話してきました。勿論あります。私たちは病気では決して死にません。この地上での使命を果たすまで死ぬことはないのです。ですから、生きている以上は、イエス様の仕事があるのです。今回はそのことを考えてみましよう。私たちがイエス様を通して何かをするのではなく、イエス様が私たちに何をしてほしいか聞くのです。なぜなら作り主であらせられるイエス様は、私たち以上に私たちのことを知っておられ、このお方に聞くことは、最高に自分を生かすことになるからです。


2016年04月23日

主日礼拝メッセージ

2016年4月3日   「神の国を受け継ぐ者」       コリントの信徒への手紙一  15:50~58」

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よお前のとげはどこにあるのか。』」(Ⅰコリント15:54,55)
 今日は、天にいる方々と共に礼拝する日です。正確には先に天に召された方々と地上で礼拝している私たちが、生者の主であり死者の主である御方の御前に(ロマ14:9)、共に礼拝しているのを確認する日です。
「あさが来た」(NHK連続テレビ小説)も、4月2日(土)でついに終ってしまいました。非常に面白く、感動させられるドラマでしたが、主人公をはじめそれぞれの生き方は死に方と無関係ではなく、「死」をしっかりと見つめていないと、筋の通った良い生き方ができないのではないかと感じさせられました。それでもやはり「死」は悲しく、愛する者と死別する苦しみは、見ているだけで心が刺されるような痛みに襲われました。しかし、聖書は人の「生」は「死」で終わるものではないと言います(ヨハネ3:1,11:25・26)。特に最終話の亡くなった白岡新次郎さんとあささんが、共に若くなって再会するシーンは、聖書の死生観そのものだと思いました(モデルとなった広岡浅子さんは62歳頃受洗されました)。私たちには死ぬことがなく、愛する者と相まみえることのできる希望があるのです。

2016年04月06日

主日礼拝メッセージ

2016年3月27日    「復活の主はいずこに・・・」     ルカ24:13~27

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25,26)
 イースター(復活祭)おめでとうございます!私たちは時として、夢想だにしないような出来事を経験する時があります。弟子たちにとってはイエス様の十字架と復活がまさにそれだったでしょう。もしかしたらこの2人の弟子たちは、パニクッテしまって自分を見失っていたのかもしれませんが、兎にも角にも彼らはイエス様にもエルサレムにも見切りをつけて、自分の家に向かって歩いて行ったのです。しかしイエス様は、彼らを見捨てず共に歩まれました。「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」(15)と書いてある通りです。では、具体的に共に歩んでくださるとはどういうことでしょうか?①聞いて下さる・・すなわち傾聴してくださるのです。近づき、問いかけ、私たちの内にあるものを引き出してくださる・・祈りは決して一方的なものではありません。②目を開いて下さる・・自分の常識や人の言葉に囚われている者を解放するのは、神の言葉・聖書です。イエス様は聖書全体を通して語ってくださいます。③使命を与えて下さる・・「パンを裂いて渡す」と言う行為は十字架を表し、今日の聖餐式にもつながります。イエス様は私たちを愛し、贖い、復活の証人として、このメッセージをゆだねられたのです。

2016年04月04日

主日礼拝メッセージ

2016年3月20日     「あなたを愛される方」     ルカによる福音書22章54~62節

「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。」(エレミヤ31:3)
昨日、県下の公立高校の一般入試の合格発表がありました。推薦も含めて、願っている所に全員入れるわけではありません。ふるい分けられます。イエス様が十字架にかけられる前夜、ペテロに「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った・・・」(22:31,32)と言われました。その時ペテロは、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と本気で強がります。しかしイエス様は、あらかじめ「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と予告されました。翌日、予告されたことが現実となります。その時ペテロは、激しく後悔の涙を流しました。しかし、そこには主の愛の眼差しがありました。人は多くの弱さがあり、失敗を重ねます。一番悲しいことに、私たちは自分自身の姿がよく分かりません。神様は、たとい自分が分からず、どうしようもない失敗をした者も見捨てず、愛し、回復してくださいます。その愛は、ペテロのように口先だけや気持ちだけでなく、十字架を通して、愛するとはどういうものかを現実に表してくださったのです。

2016年04月04日

主日礼拝メッセージ

2016年3月13日  「母マリヤの信頼」   ヨハネ2:1~11

「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」(ヨハネ2:3^5)
 ちぐはぐな会話です。母マリアはイエス様に事実を伝え、イエス様は事実に含まれた要望を断り、母マリアはそれでもイエス様が何とかしてくれると信頼して、召使たちに手伝うように命じたのです。結果、イエス様は驚くべき方法でぶどう酒を用意され、母マリアを、ひいては婚礼の2人や主催者側の人々を助けられたのです。「驚くべき方法」とは奇蹟のことであり、水がめ(78~117ℓ×6つ)の水を「良いぶどう酒」(10)に変えられたのです。いったい母マリアは、イエス様が奇蹟を起こせる方だと知っていましたか?「いいえ」イエス様が生まれて30年、これが最初の奇蹟なのです。母マリアは、ぶどう酒を用意する方法を指示しましたか?「いいえ」事実と、必要を求めただけです。では、母マリアは、イエス様がどんな方だと知っていましたか?「はい」おそらく夫ヨセフは早く召されたのでしょう。弟や妹たちが路頭に迷わないように大工として家や母を支えてきたのがイエス様なのです(マタ13:55・56)。そこにあったのは「信頼」です。この「信頼」こそがイエス様の御手を動かすのです。

2016年04月04日

主日礼拝メッセージ

2016年3月6日 「弟子の選び」 ヨハネ1:43~51

「更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。』」(ヨハネ1:51)
 イエス様は、伝道の始めより弟子たちを選ばれました。おそらくガリラヤのカナに行く途中で、フィリポに出会い、「わたしに従いなさい」と言われたのです。フィリポはナタナエル(バルトロマイーマタ10:3)に出会って、彼に「来て、見なさい」と言いました。私たちも、友人にどうしたらイエス様を出会せることができるでしょうか?トラクトや本をプレゼントする。泣き落としや説得をする。賛美集会や特伝、クリスマスの行事などで教会に連れてくる。どれも有効でしょうが、私たち自身がイエス様に出会っていなければ、友人をイエス様に出会わすことはできません。私たちは、自分を指して「来て、見なさい」ここにイエス様がおられるよ。この御方によって私は変えられたのだよ。イエス様は今も共にいて、私の心の真ん中に居てくださるんだよ。ある人はこう思うかもしれません。「いいえ、とんでもない。私はイエス様をいつも悲しませ、人を傷つけ、つまずかせてばかりいます。私を見ないでください。」・・忘れないでください。私たちがイエス様を「師」と選んだのではありません。イエス様が「弟子」と選んでくださったのです(15:16)。私たちは間違えますが、イエス様は決して間違われません。そして自分では「ダメだ」』と思っている弟子を通して、上記の御言葉のように、人が神様につながるのです。

2016年04月04日

主日礼拝メッセージ

2016 年1月17日   「与えられた資格」      ヨハネによる福音書1章6~13節

「しかし、言は、自分を受入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えられた。」(ヨハネ1章12節)
 今週から、「ヨハネによる福音書」を学んでいきたいと思います。著者は、イエス様の12弟子であるヨハネです。職業は、漁師です(マタ1:21)。執筆年代は85~90年頃で、本書が書かれた目的はイエス様こそ神の独り子であり、信じて永遠の命を受けることです(20:31)。さて、「言」は、神様の御意志であり、神様そのものであり、そしてこの御方は創造主であると書いてあります(1~3)。聖書は、被造物である私たちが、この御方を認めず、この御方から離れたのが死(滅び)の始まりであり、原因であると書いてあります。しかし、素晴らしい「しかし」です。「その名」とは、「イエス・キリスト」のことです。「イエス」とは、神様が付けられた名前で(ルカ1:31)、神は救うと言う意味です。「キリスト」は、ヘブライ語のメシア(神様から油注がれた者の意味)のギリシャ語読みで、救い主と言う意味があり、いうなれば職名です。「神は救う」と言うお方は、世を救うために神様から遣わされてきた「救い主」だということです。このことを信じますか?と神様は問われるのです。以前は「神の民」となるために「律法」を与えられました。しかし、自分の能力に頼って守ろうとするかぎり、決して守れないのです(るか18:9~14)。しかし、信じる時初めて、律法の要求に答えることが出来るのです。

2016年1月24日  「人として来られた神」    ヨハネ1章14~18節

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1章18節)
 私たちは、神に祈ります。特に正月にはにわか信者になってビックリするほどたくさんの人が神社やお寺に行きます。なぜ私たちは祈るのでしょうか?神は人より強い存在なので、この御方を怒らせないように(罰が当たらないように)、感謝をささげたり、また、神は人より豊かな御方なのでその豊かさを少し恵んでもらおうと(御利益)しているのではないでしょうか?では、聖書の神様はどんな御方ですか?聖書によれば、天と地・・宇宙と地球を造られ、人をはじめすべての生き物を造られ、支配(管理)されている創造主なる御方です。これほど強く豊かな御方はおられないでしょう。しかし、この御方は、「罰が当たらないように」と微妙な関係では満足せず、御自ら人の世の真っ只中に来られ、また、わたしたちが求める「わずかの御利益」ではなく、御自身が持っておられるすべてのものを与えようとしておられるのです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリ8:9)これは時代劇の「水戸黄門」や、「遠山の金さん」より遥かにすごいことだと思いませんか。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。」(Ⅰヨハ4:10)

2016年1月31日   「主のみ業の前に」     使徒言行録1章12~15節

「120人ほどの人々が一つになっていた。」(使徒1章15節)
皆さんは、何かをやろうとする時、いきなり突然始めるのではなく、あらかじめ下準備をされるでしょう。イエス様がお生まれになる前には、バプテスマのヨハネを送られ、人々を備えられました。イエス様が昇天されたあと、弟子たちが神様のお心を行うのに一番重要な、助け手なる聖霊様をお与えになるための備えは、何といっても心を合わせた一致と秩序だったのです。ご周知のように、イエス様が十字架にかかられる直前の弟子たちは、われわれの中で誰が一番偉いかと争っていました(ルカ22:24)。しかし、1:14では、男ばかりではない、数にさえられ入らなかった婦人たちも含めて、弟子たちが心を合わせて、熱心に祈っています。聖霊降臨後の2:14では、「すると、ペトロは11人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。」メッセージを与えられた一人を尊重し、共に立つことにより、チームであることを表したのです。
この年、実を結ぶ年として、神様のみ業を待ち望んでいます。そのみ業を見させて頂くための、最も重要な備えは、相生めぐみキリスト教会だけに限らず、すべてのキリストの生きた宮(教会)である私たち一人一人が、互いに愛し合い、心を一つにして、主の御心を知り、御心を行う一人一人にさせて頂きましょう。

2016年2月7日  「荒れ野で叫ぶ声」       ヨハネによる福音書1章19~28説

「ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。【主の道をまっすぐにせよ】と。』」(ヨハネ1章23節)
 「後藤健二さん、追悼記念礼拝」に行ってきました。「昨年1月30日、フリー・ジャーナリストの後藤健二兄が、イスラミック・ステート(IS)によって、殺害されました。後藤さんは、長年、アフガニスタンやシリアの紛争を、そこで犠牲となっていく力のない人たちの視点から、世界に発信し続けてきました。・・開式責任者:石原等(日本キリスト教団相生教会牧師)」(案内チラシから引用)そこで生前の働きを紹介する動画を見せてもらい、静かに叫ぶ「声」であったのだと思わされました。改めて、遺族の方々のために、天父のお慰めをお祈り致します。さて、バプテスマのヨハネも、「荒れ野で叫ぶ声」でした。ヨハネは、「エリヤ」にも(マラキ3:23)「モーセ」にも(申命18:15)、あるいは、メシア(キリスト)にもなれたかもしれません。しかし、私は民に、主の到来に備えるように告げる声、だと言ったのです(イザ40:3~5)。「主」とは、救い主(キリスト)のことであり、当時無名であったイエス様のことです。ある面、イエス様は今も無名なのです。私たちは、イエス様を個人的な救い主として知っていますが、多くの方は名前ぐらいしか知らず、自分と何の関係もないと思っています。誰かが紹介しなければなりません。「もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」)4:29)とあの、サマリアの女のように、喜びと確信をもって伝える者とさせていただきましょう。

2016年2月21日   「メシアとの出会い」     ヨハネによる福音書1章35~42節

「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシアー〔油を注がれた者〕と言う意味―に出会った』と言った。(ヨハネ1章41節)


 「見よ、神の小羊だ」(36)とバプテスマのヨハネが言ったのは、弟子たちにイエス様を紹介するためでした。そこで、2人の弟子たち・・アンデレとおそらく著者であるヨハネは、イエス様について行き、一緒に泊まり、そして「メシアに出会った」と言ったのです。私たちにも様々な出会いがあります。しかし、駅や街で大勢の人に出会っても、「出会った」と感じないように、私たちにも偶然に出会うことはないのです。紹介されたから・・そういうこともあるかも知れません。しかし、ここに記されていませんが、バプテスマのヨハネが紹介したのは、たった2人の弟子だけではないはずです。ではなぜ彼らはメシアに出会うことが出来たのでしょうか?それは、イエス様がついてきた彼らに「何を求めているのか」(38)と問われたように、私たちの動機が出会いを産むのです。それでは、どのような求めがメシアに出会わせたのでしょうか。パゼット・ウイルクス著「救霊の動力」には人々の5つの求めが記されています。①安息に対する願い(マタ11:18)②喜びに対する願い(ヨハ4:14)③力に対する願い(ヨハ8:32・36)④光と確信に対する願い(ヨハ8:12)⑤永遠の命に対する願い(ヨハ3:16)
 私たちも、どのような求めによってイエス様に出会ったのかを思い出し、他の人の願いを聞いて、メシアを紹介するものとさせていただきましょう。

2016年2月28日     「平和を実現する者として」   コリントの信徒への手紙二 5章16~19節
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5章9節)
今は終末の時代です。聖書の預言によれば、やがてこの地球は、宇宙もろとも焼けてなくなり、神の造られる新しい天と地が現れるとあります。確かに、管理を託された人間によって汚されたこの地球は、滅びてしまうでしょう。しかし、その様な先のこと(ではないかも知れませんが・・・)ではなく、今の日本はどうなっていくのでしょうか。不穏な動きがどんどん進んでいっているのを、止めることが出来ないのです。これから、世界はどうなってしまうのでしょうか。20世紀で十分学んだはずなのに。いつか来た道を歩んで行ってないでしょうか。
 何らかの事故で尊い人命が奪われて初めて、問題のある制度などを変えることが出来たりします。それもすぐにではなく、何年もの歳月をかけたのちのことです。ましてや小さな私たちが、それらが間違っていると、日本や世界の社会の構造や仕組み、構造などを変えようとしても、ほとんど不可能に近いのではないでしょうか。けれども、私たちには、神様によって、変えることの出来ることがあるのです。
人を変えていくことを通してです。
 平和とは、ヘブル語では「シャローム」と言って、単に争いがないということではなく、人間の最高の幸福をつくり出すすべてのものを意味しています。この至福の教えの意味の一つに人間が果たす最高の役割は、人と人との間に正しい関係を作り出すという意味もあったようです。周りの方々と、正しい関係にあるでしょうか。キリストにあって、私たちは新しく創造されているのです(Ⅱコリント5:17)。他の人が新創造されるために、新創造された私たちを用いて頂き、平和を実現する者とされましょう。そのために、まず友だちとなって、良い人間関係の構築から始めていきましょう。

2016年03月05日

2月1日主の声

2016年1月10日 「死から命への回復」 ローマ人への手紙8章1~11節

「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。」(ロ-マ8章2節)
 今、持箸兄の労によって教会のホームページを作成しています。私も一部原稿を書いていますが、そこであらためて「キリスト教とは何か?」と考えさせられました。キリスト教は旧新約聖書66巻を土台にしたもので、「初めに、神は天地を創造された。」(創世1:1)と書いてあるように、天地とその中心である人の創造で始まり、新天新地とそこで神と人が共に永遠に生きることが完成であると書かれています(黙示録21章)。そしてその内容は、「見よ、それは極めて良かった。」(創世1:31)と言われた人が、食べたら死ぬと戒められていた「善悪の知識の木」(創世2:17)の実を取って食べたことから、死すべき者となり、神様の目から見ると「どこにいるのか。」(創世3:9)失われた者となってしまったのです。そんな人を神様は見捨てず、一人の人を選び(アブラハム)、イスラエル国に育て、律法と預言者を与えられました。この国を通してすべての氏族を祝福するためです(創世12:3)。しかし、出来ませんでした。そこで、神様は最後に独り子であるイエス様を遣わし、信じることによって祝福を得る道を開かれたのです。聖書の中心はイエス様です(ヨハ5:39)。この御方のみが私たちを死から命に移させて下さるのです。

2016年02月11日

3月某日主日礼拝

2016年1月3日 「実を結ぶ年」  ルカによる福音書10章25~37節

「『・・さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」(ルカ10章36,37節)
 着任して3年目。1年目は、意識を変え―根を張り(教会の弟子から主の弟子に)、2年目は、行動し―成長し(御言葉の実践)、今年は、花を咲かせ、実を結ぶ年にしたいと思います。これで教会の(一人一人の)体質改善は完了です。去年は素晴らしい年になったと思います。一人一人が
イエス様の生き生きとした命に満たされ、一人一人から愛が溢れてきたように思いました。それがバザーや結婚式、クリスマスの諸行事などに表れていたのではないでしょうか。今年はこの「命」を特定の人に向けてほしいのです。聖書的にはあなたが、助けを必要としている人の「隣人」になってほしいのです。しかもこの律法学者のように「わたしの隣人とはだれですか」(29)と、自分を中心として家族・親戚・友人・知人・仲間と円を広げるように、愛すべき人を探すのではありません。そうではなく、例えに出てくる、祭司やレビ人のように見て見ぬ振りをして「道の向こう側を通って行」くのではなく(31・32)、「旅をしていたあるサマリヤ人」のように(33)恐れないで、「そばに」行き、「その人を見て」「近寄って」「自分のロバに乗せ」て・・(33・34)、ーイエス様が言われたように「行って・・」(37)その人の隣人になってほしいのです。

2016年02月11日