2018年8月19日

2018年8月19日               「クリスチャンの自由Ⅰ」               コロサイの信徒への手紙2章16~19節

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。
」(口語訳ガラテヤ5:1)
 2回にわたって、日常生活のなかでの「クリスチャンの自由Ⅰ」について考えてみたいと思います。1回目の今日は物理的な事柄からの解放です。つまり食べ物や祭り、暦(こよみ)、礼拝日(主日)などです。旧約において礼拝日は安息日として金曜日の日没から土曜日の日没までと決まっていました。この日は特別な日として聖別し働いてはいけない日です。イエス様の頃には、労働はもちろん、遠出も料理も人を助けることもしてはいけない日でした。しかし、新約においては「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハ4:24)とイエス様が言われたように、十字架の贖いによって神殿の垂れ幕が裂け(マタ27:51)、原則としていつでも、どこでも、誰とでも神様を礼拝できるのです。ですから私たちが日曜日に教会で礼拝するのは義務からでもなく、強いられてでもなく、復活したイエスさまを喜ぶためなのです。また暦には、中国から渡って来た「六曜」という考え方があります。つまり「先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口」の事です。これは元々固有の吉凶が定められていて「縁起を担ぐ」ことから賭場の遊び人や勝負師の間で用いられていたと言われています。これが意外にわたしたちの生活にかかわってきています。「?日は仏滅だから、結婚式は避けよう」とか「友引だから火葬場が開いていない」などです。つまり、同じ日なのに、縁起の良い日と悪い日があるのです・・本当でしょうか???すべての日や方角や食物は、私たち人のために主が作って下さったのです。吉凶や縁起の良し悪しはありません(詩篇118:24)。

2018年08月24日