2018年12月9日
2018年12月9日 「主が求めておられる義」 マタイによる福音書1章18~25節
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
(マタイ1:23)
「夫ヨセフは正しい人であった」(19)・・正しいとは規範や基準を乱さず、ルールに対して違反していないことです。ここでは「主の戒めに聞き従うならば・・」(申命6:27)と書いてあるように、また、「2人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」(ルカ1:6)と書いてあるように律法を守ることでした。しかし、ヨセフのしたことは神様の正しさ・・「義」に適いませんでした。だから主の天使が夢に現れたのです。では何が足りなかったのでしょうか?それこそ律法が「その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。」(申命22:24)と命じるように、マリアを訴えてそのようにしなければならなかったのでしょうか?とんでもありません。そんなことをすれば愛を忘れて義務だけを押し付けるパリサイ人の自己満足の義と同じになってしまいます。主が私たちに求められる「義」とは関係の義です。相手を愛し相手を満足させようとする義です。ヨセフはそれが分かったので、マリアを受け入れ不義の汚名を共に被ったのです。そして聖なる神様も、私たちを罪人として切り捨てずに、インマヌエルの神として私たちの内に来て下さいました。「罪人のひとりに数えられたからだ。」(イザ53:12、ルカ22:37)と書いてある通りです。これがクリスマスなのです!!余談になるかもしれませんが、先日夫婦の関係についてメッセージしました(コロ3:18)。「夫に仕えなさい」とは主従の関係ではなく、愛の表現であり、神の義に適う事なのです。