2019年7月21日
2019年7月21日 「美しの門の出来事」 使徒言行録3章1~10節
「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(6)
「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行なわれていたのである.」(2:43)と記されている一つの事例が、以下の生まれつき足の不自由な男の人の癒しです。この癒しは即座であり完全でした。「歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」(8)と書いてあるとおりです。体に欠陥のある人は境内に入ってはいけないと律法に定められていたからです(レビ21:16~23)。さて癒しには大きく分けて3つの考え方があります。①癒しは、過去のもの。②癒しは、現代も起こりうるが特定の賜物がある人だけ。③癒しは、御名の権威によって誰でも起こすことができる。私は③を支持します。御名の権威とはイエスさまが弟子たちに与えられた権威です(参照ルカ10:19、マル16:18)。願わくば多くの人たちが御名の権威に
よって、癒しや解放を経験できますように。ただ間違ってはいけないのは、「癒し」が目的ではなく「不思議な業としるし」は、神の国が近づいたことの証拠であり、人々の心を活ける神様に向けさせる手段?なのです。では「無学な普通の人」(4:13)であるペトロやヨハネがこのような業を行えたのは何故でしょうか? ①「私には銀や金はないが」・・彼らは金銭ではなく、物によって生きていたのです。もっと言えば神を愛し互いを愛する関係を基盤とし、そこから生み出される心のこもった物によって生きていたのです。そしてこの関係を保つためには,前回のメッセージではありませんが赦し合うことかもしれません。②「立ち上がり歩きなさい」・・神の子としての特権によって願うのではなく、権威によって命じるのです。