2016年9月4日
2016年9月4日 「安息日は誰のため?」 ヨハネによる福音書5章10~18節
「そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。』」(マルコ2:27)
「・・その日は安息日であった。」ベトサダの池での出来事は、ヨハネだけが記しました。他の福音書は、麦の穂を摘むことと、手の萎えた人のいやしの出来事を記し安息日論争に入っていきます。共通しているのは「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」(マタイ12:14)「ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」(ルカ6:11)「このため、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。」(ヨハネ5:18)と書いてあるように、ユダヤ人指導者たちは、律法違反者としてイエス様を排除することに決めたのです。そのくらいこの「安息日」は、ユダヤ人たちにとって大きな位置を占めていました。なぜでしょうか?その始まりが、「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創世記2:3)と言う言葉であり、第四戒にも「安息日を心に留め・・」(出エジ20:8)と記してあるからです。そしてその日には一切の仕事を生死をかけて止めたのです。しかし、それはあくまでも旧約の話、では新約ではどうなるのか?戒めはなくなりました。しかし、その精神は残ったのです。では、私たちにとって安息日はいつなのか?誰のためにあるのか?何のためにあるのか?どう過ごすのか?一緒に考えてみましょう。そしてこの日?を喜びと感謝をもって過ごし、神と人の交わりを楽しみましょう。