2017年10月8日

2017年10月8日                  「消極的な裏切り」                 ヨハネによる福音書18章12~18節

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ヨハネ22:31,32)
「わざとじゃない!」と言い訳を聞くことがありますが、少なくとも物理的には、被害者にとっては同じです。しかし、イエス様は同じ裏切り行為でもユダとペトロ達11人をはっきり区別されました。意識と無意識、計画的と偶発的・・「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく・・」(ヘブライ4:15)と書いてあるようにペトロ達11人の行為を「弱さ」と捉えられ、そのために祈られたのです。先日「沈黙―サイエンス」というDVDを観ました。その中でキリシタンである「キチジロー」が何度も何度も悔い改めては裏切るのです。そしてとうとう最後のポルトガル宣教師「セバスチャン・ロドリゴ神父」(シュゼッペ・キアラ神父がモデル)も俗に言う「転びバテレン」になってしまうのです。「人は目に映ることを見るが、主は心によってみる。」(サム上16:7)と書いてあるように神様はその人の生き方を見られます。弱くて従えなくても、能力が足りなくて失敗しても責められません。それどころか、執り成し、支え、私たちの弱さを背負ってくださるのです。

2017年10月20日