主日礼拝メッセージ
2016年4月10日 「イエス様の怒り」 ヨハネによる福音書2章13~22節
「そして、人々に教えて言われた。『こう書いてあるではないか。[わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきである。]
ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしてしまった。」(マルコ611:17)
「神殿の境内」(14)とは、「異邦人の庭」のことで、そこでは神殿に納めるためにイスラエル貨幣への両替と、犠牲をささげるための動物が売られています。ここでイエス様は本気になって怒られました。「縄で鞭を作り・・すべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し・・」(15)
しかし、決して感情的になられたわけではないようです。イエス様は鳩を売る者たちに言われ、ユダヤ人たちに答えられているからです。いわばイエス様は、義憤に駆られてこのような行動をされたのです。ではその理由は何でしょうか?神殿は神様を礼拝する場所です。これは自己流の定義ですが、礼拝とは「神を神として認め、その御方を拝し、感謝をささげ、霊的に交流すること」ではないでしょうか。それなのに①すべての国の人・・礼拝はすべての人に開かれるべきです。それなのにユダヤ人たちは異邦人が礼拝するために開かれた場所を占領し、礼拝できないようにしていたのです。しかし、主は十字架での贖いの後神殿の隔ての幕を切り裂いてすべての人に解放されたのです(マタイ27:51)。②祈りの家・・これは神殿の在り方を問われたのです。神殿が完成してから、否、幕屋の時代から多くの動物の命がささげられてきました。しかし神様が本当に求められたのは「打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)なのです。③強盗の巣・・確かに彼らによって神殿は維持されていましたが、主は彼らを追い出されました。礼拝は場所ではないからです(19)。
2016年4月17日 「イエス様の心・人の心」 ヨハネによる福音書2章23~25節
「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」(エフェソ4:10,11)
「多くの人がイエスの名を信じた。しかし・・」このお言葉にドキッとしました。ここに私たち人の、目的のためには何でも利用するという自己中心性が
あらわれているような気がしたからです。しかし、私たちはイエス様の弟子です。弟子とは、イエス様を中心に生きている人たちのことです(少なくともそうしたいと願っています)。そして、イエス様中心とは、そこが「神の国」になると言うことなのです。「神の国」は願うだけではできません。イエス様に聞いて、その使命を果たすことなしにはあり得ないのです。先日、病気と闘っている私の友人が、仕事もできなければ外出もできない自分を嘆いて、生きている意味があるんだろうかと電話してきました。勿論あります。私たちは病気では決して死にません。この地上での使命を果たすまで死ぬことはないのです。ですから、生きている以上は、イエス様の仕事があるのです。今回はそのことを考えてみましよう。私たちがイエス様を通して何かをするのではなく、イエス様が私たちに何をしてほしいか聞くのです。なぜなら作り主であらせられるイエス様は、私たち以上に私たちのことを知っておられ、このお方に聞くことは、最高に自分を生かすことになるからです。