2017年11月26日
2017年11月26日 「十字架の死、葬り」 ヨハネによる福音書19章31~42節
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」(Ⅰコリント15:3)
ジョン・ウェスレーは「義認は新生に先立つ」と言いました。信仰生活の中で「自分は本当に救われているのだろうか?新しく生まれ変わったのだろうか?」と自問することがあるかもしれません。もちろんそれらは御言葉の確信によるものですが、義認はイエス様の十字架の事実によるものです。そして、最高法院(サンヘドリン)の議員のアリマタヤのヨセフの墓にイエス様が葬られたという事実は、イエス様の死が確実であることを証するものです。「罪を犯されなかった」(ヘブ4:15)と聖書が証しする御方が、私たちを愛するゆえに私たちの罪の身代わりとして・・こんな言い方は変かもしれませんが、わき腹から血と水を流しながら確実に死んで下さったのです。神様は私たちを愛してくださったから罪を赦してくださったのではありません。神様は聖なる御方であって決して汚れや罪を見過ごしになさる御方ではないのです(イザ6:3)。ですから私たちの身代わりとなってイエス様が神様から裁かれたのです。聖書は言います。「自分の罪を公に言い表すなら・・罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(Ⅰヨハ1:9)」現在も未来も過去もです。現在の私たちは過去の出来事で傷だらけです。十字架はその過去も癒してくださるのです。