主日礼拝メッセージ

2016年4月27日     「失われた者を見出される神様」        ルカによる福音書19章1~10節

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:10)
最近、よく捜し物をします。でも、携帯だけは助かります。サイレントにしていない限り、電話をかければ見つかるからです。例え見つからなかったとしても、最終的にはまた新しく契約し直せばいいか・・・とか、気楽に考えています。しかし、先の熊本地震では、行方不明の方が2人もいらっしゃるようです。ご家族はどんなにおつらい日々をお過ごしのことでしょうか。今日の聖書の箇所にあるザアカイという徴税人に出会われた後、イエス様は、彼を失われた者だったと言われました。ちょっと不正はしてたかも知れませんが、ちゃんとした生活をしていた人が、なぜ失われた者なのでしょうか。もともと私たちは神様によって造られた大切な存在だからなのです。自分勝手に造り主を離れ、自分の欲望の満足の中に罪を犯し、罪の泥沼に足をすくわれ、罪による裁きである滅びの中に定められた失われた者であったのです。イエス様はそんな失われた者を見出して、救ってくださる方なのです。


2016年5月1日      「イエス様の目的」           ヨハネによる福音書3章1~15節

「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」(ヨハネ3:3)
 あなたは、イエス様をどんな方だと思いますか?ニコデモは「神のもとから来られた教師」(3)であると思いました。彼自身が「イスラエルの教師」(10)であるからです。ある人は「パンと魚の人」(6:1~14)と言いました。もしかしたら、人は自分の共感や必要という視点でイエス様を求めるのかもしれません。でもそうなったらイエス様は、この人には必要だけどこの人には必要なくなり、キリスト・・すべての人の救い主にはなりえません。では、イエス様は御自身のことを何と言われてるでしょうか?「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(15)・・すなわち、すべての人が、死や滅びから解放され、神様が御自身の形に創造された本来の人(自分)となり、この世でもあの世(神の国)でも、感謝と喜びと命に満たされて生きるためなのだと言われたのです。ではそのためにはどうすればよいのでしょうか?イエス様は、「水と霊とによって生まれなければ・・」(5)と言われました。「水」とはバプテスマのことであり、「霊」とは聖霊様のことです。すなわちイエス様を信じて心の中心に受け入れることであり、聖霊様の導きに従って生活することです(良心とは決して相反することはありません)。

 

2016年5月8日       「神様の心」             ヨハネによる福音書3章16~21節4

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

先週は、神様の目的について語りました。それは、すべての人が(たとえ経済力があり、権力を持ち、名声や人格的にも優れ、老人であったとしても・・)、死や滅びから解放されて、神様が御自身の形に創造された本来の自分となり、永遠に感謝と喜びと命に満たされて、生き生きと生きるためでした。今日は、その神様の心の内に触れさせていただきましよう。上記の御言葉は、最も知られた聖句の一つで、小聖書と呼ぶ人もいるほどです。なぜなら、もし聖書の全巻が失われても、このお言葉があれば神様の御心が分かると言われているからです。そして、ここに表されているのは、神様の御心・・愛・・本来母親が自分の産んだ子どもを愛するような、無条件の愛です。神様は、この無条件の愛で私たち一人一人を愛し、この世を愛してくださったのです(神様にとって、一人の人を愛することも、すべての人を愛することも同じだからです。)。そして「愛」とは行いに表れるものです。三位一体の神様にとって(父・子・御霊)、「独り子」は、神様御自身のことです。すなわち神様は、御自身をお与えになったほどに、滅びに向かっている人類を、私たち一人一人を愛して下さったのです。この愛を信じますか?信じる者は幸いです。なぜなら光に中を歩むことができ、神様も「独り子」を通して、私たち一人一人を見て下さるからです。


2016年05月10日