2018年1月21日

2018年1月21日             「復活の主との出会い」              ヨハネによる福音書20章11~18節

「動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(Ⅰコリ15:58)
 イエス様が最初に会われたのは弟子たちではなく一人の女性でした。・・墓の外で泣いているマグダラのマリア(ルカ8:2)に2人の天使が「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言い、復活されたイエス様御自身が同じ言葉で声をかけられました。この「なぜ・・」は問うたのではなく、「もう泣く必要はないんだよ」との意味だと言われており、聖書中最も感動的な出会いの一つです。マリアは只々イエス様に会いたかったのです。生死も関係ないほどに・・。私たちにこのような純粋な愛があるでしょうか?それがイエス様といつも一緒におり、直接愛された弟子たちとの違いではないでしょうか?彼らに必要だったのは御言葉の理解ではなくこのような愛だったのではないでしょうか?さて、先週は「キリストが復活しなかったのなら・・宣教は無駄であるし・・信仰も無駄です。」(Ⅰコリ15:14)とメッセージしました。しかし、事実キリストは復活されたのです。私たちの信じたイエス様は、私たちの罪の身代わりとなって死なれただけではなく、私たちと同じ死すべき肉体を取られ、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(Ⅰコリ15:56)と書いてあるように、律法を完全に守られ罪のないお方が死なれることによって死を打ち破って復活された御方なのです。ですからイエス様の約束も、無駄だと思えるような働きも、無駄ではないのです。

2018年01月20日